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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
幕間~北の砦にて~
118/232

副団長のかくも優雅な一日

ここから暫くは、第四章への繋ぎの幕間として、北の砦での模様をお届けします。第一弾は、副団長のシーリスのお話です。少し長くなりますが、お付き合いください。それでは、どうぞ。

 スタルゴラド第七師団の駐屯する北の砦は、この国の最北端に位置する軍事拠点である。

 周囲を広大な森林と草原、そして、自然の要害が織りなす岩場に囲まれた辺境だ。

 要するに、早い話が、雄大な大自然以外は、何もない辺鄙な場所である。


 その砦を守る副団長シーリス・レステナントの一日は、一杯の熱いお茶から始まった。

 目覚めの一杯は、欠かすことの出来ない習慣になっていた。この砦に赴任してから、早三年。それは今でも変わらなかった。


 湯気の立つカップを片手に窓辺に立ち、遠く、なだらかに傾斜する草原の向こうに昇る朝日を眺めながら、シーリスは、ふと、今現在この砦を留守にしている己が上役である男の顔を思い浮かべた。

 くすんだ白銀の髪は、この一日の始まりを縁取る朝日の切れ端のようだった。そして、最後の夜の名残のように深い青さを湛えた瑠璃色の双眸は、ひっそりと夜明けを待つ束の間の一時を閉じ込めたようだった。

 ―――――――そろそろでしょうかねぇ。あの男が帰ってくるのも。

 虫の報せとでもいうのだろうか。こういう時、シーリスの勘は、かなりの確率で当たった。

 シーリスには、術師として身を立てるだけの素養はなかったが、こういう時、自分が腐ってもレステナントの血族であることを思い知らされる気がした。


 【レステナント】は、代々、東の神殿に仕える神官の家系だった。

 この国、【スタルゴラド】には、古くから続く名家と目される家系が幾つか存在するが、中でも、(ヴォストーク)の【ボストークニ】、西(ザーパド)の【ザパドニーク】、(ユーグ)の【ナユーグ】、(シービリ)の【シビリークス】といった【東西南北】の方位をその家名に入れた四家を筆頭として、【レステナント】もその上位の中に名を連ねていた。その内実はともかく、歴史的な古さだけを見れば、かなりのものだった。

 歴史ある由緒正しきレステナント家の中でも、シーリスは異端だった。それは、【術師】を多く輩出する特別な家系の中で、唯一、これといった能力の開花を見せなかったからだ。最低限の素養はあるにはあったが、それはごく普通の一般家庭と比べたらとの事で、神官の家系ではあるまじき低さであったのだ。 そのような理由から、幼き頃はまだしも、長じるにつれて、段々と能力の具現が覚束ないと分かってくると、シーリスは一族の中で疎んじられ、蔑まされるようにな存在になってしまったのだ。

 シーリスの父と母は、共に穏やかな気性で優しい人たちだった。アクの強い一族の中では、却って優し過ぎる程に。

 父と母は、他の兄弟たちと同様にシーリスに変わらぬ愛情を注いでくれたが、一族の中で唯一と言っていいほど能力の開花を見せなかった息子を内心、心苦しく思っていたことは、幼いながらにも感じ取れていた。父と母が時折、垣間見せた諦観に似た表情は、幼いシーリスの心に見えない楔となって突き刺さったのだ。そして、何の皮肉か、心優しい両親とは違い、良くも悪くも一族由来の強かな精神を持ったシーリスは、中々に屈折した幼少期を過ごしたのだった。


 幸運なことにシーリスには姉がいた。

 姉はいつでもシーリスの味方だった。年が七つも離れていたということもあるのだろうが、姉は非常に弟を可愛がった。親戚連中の、時には不躾で無遠慮な視線や口さがない悪口から、盾となるようにシーリスを守ってくれたのだ。からかい混じりに揶揄をする他の子供たちに対しては毅然とした態度を見せ、一歩も引かなかった。そんな時、自分の前に立つ、華奢な筈の小さな背中は、とても大きく見えたものだった。

 やがて、長じてから、シーリスは家を出た。そして、入隊の資格が認められる十五の歳を待ちに待って、騎士団に入隊を志願したのだ。

 実家とは元より縁を切る覚悟だった。

 当時、レステナント家の中から兵士になるものは、古い家系を何代遡っても一人もいなかった。親族の中には、末代までの恥だと罵声を浴びせる者も中には居たが、シーリスは全く気に留めなかった。素養のない人間が神官の職に拘ることの方が、余程、笑止千万に思えたからだ。それよりも、自分には何が出来るのか。別の道を探した方がよっぽど建設的、且つ有意義であった。そうして、シーリスは、兼ねてから鍛錬を積んでいた剣の道で己が身を立てて行くことを選んだのだ。

 幸い、騎士団の中では多くの仲間たちに恵まれた。それが、今、自分の周りで苦楽を共にしているユルスナール、ブコバル、ヨルグを始めとする砦の兵士たちであった。皆、誰もが、大小程度の違いこそあれ、人には言えない傷をその心に負っていた。

 だが、傷の舐め合いのようなことは一度もしたことはなかった。皆が其々に自尊心(プライド)の高い男たちである。そういった仲間たちは、自分たちの傷を決して表には出さないが、その事実を裏返すように、他人を労われる優しい心を持っていた。


 家を出る決意を固めたシーリスが、唯一、心残りであったのは姉のことであったが、元より気丈な性質の姉は、弟の旅立ちを笑顔で送り出してくれたのだ。

 だが、後で読むようにと渡された手紙の文字は、所々、堪え切れない涙の跡が滲んでいて、面と向かっては口にされなかった姉の懊悩と悔恨の気持ちが、激励の中に隠れるようにして覗いていた。

 それを独り、騎士団の官舎の中で読んだシーリスは不覚にも涙した。それが、思い返せば、これまでの人生の中で、最初で最後の涙だった。今でもその時の手紙は、引き出しの中に大事にしまってある。



 ―――――――そう言えば。

 段々と昇りゆく朝日に、急激に明るさを増してゆく明け方の美しい空を見ながら、シーリスは、ふと、七日ほど前にもたらされた一通の伝令を思い出していた。

 伝令は、ここより遥か北西に位置する森の辺縁からもらたされたものだった。送り主は、シーリスも良く知る人物である。

 真っ直ぐな癖の無い黒髪に同じく黒い色彩の瞳を持つ少年のような人。年端の行かぬ少年に見えたその人が、実は女性であったことを知らされたのは、束の間の客人がこの場所を去った後でのことだった。

 あの時の衝撃は、今でも心の内に残っていた。心地よい春風のような爽やかな記憶と共に。

 滅多に動じることのない面々が、それこそ大声を上げて笑い転げたのだ。思い込みから生まれた激しい勘違いを昇華するように。

 最初は騙されたと思った。まぁ、向こうにはそのような積りなど無かったのかもしれないが。

 だが、それも愉快な結末だった。

 柔和な面を持った線の細いあの人物が、見かけによらず強かであったことを強く思い知らされた一件だった。


 伝令の内容は、『無事、帰還した』というものだった。それを団長のユルスナールに伝えて欲しいと。

 その短い文章から察するに、旅の途中、若しくは、滞在先で、リョウと遭遇したということなのだろう。

 留守の間、ユルスナールとはいつもの如く、伝令で遣り取りを行っていた。その中には、シーリスが興味を引かれる事柄も触り程度だが仄めかされていたのだ。

 ―――――――さてさて、一体、どんな土産話が聞けるのやら。

 シーリスは、窓ガラスに反射する菫色の瞳に好奇の灯火をちらつかせると、その口元に薄らと笑みを刷いたのだった。




 シーリスの予感通り、その日、団長のユルスナールがブコバルと共に帰還した。

 ちょうど昼を少し回った辺りの頃だった。

 隊長の帰還は、砦内のどこにいても分かった。まず、先触れとして伝令が飛ぶということもあるが、その後、砦内がざわざわとした独特な空気に包まれるからだ。

 兵士たちが到着の準備を始め、良い意味での緊張感が辺りに漂い始める。今までまどろみの中にあった場所が、改めて覚醒をするような感じだった。

 主の留守を預かるシーリスとて、決して手綱を緩めている訳ではないのだが、砦の兵士たちにとっては、やはり隊長の存在は別格だったのだ。


 隊長は、規律を重んじ、自他共に厳しいことで有名だが、砦内の兵士たちには慕われていた。

 初めは、生来男に備わる威圧感に気圧され、にこりともしない冷たいきらいのある表情とそれを増長させる鋭い目つきを前に委縮するものが多いのだが、それが、単に不器用な所のある男の標準装備(デフォルト)だと分かれば、余り、気にならなくなる。要は、慣れの問題なのだ。余り、多くを語る訳ではないが、要所要所を押さえた抑制された話振りは、自然と周囲の耳目を集めた。元より、上に立つものとしての天性のものが備わっていいるのだろう。

 一見、酷薄そうな面は取り付き難い印象を与えるが、その内面はかなり違った。第一印象では損をするきらいがあるが、少しでも言葉を交わせば、初めの印象は直ぐに書き直される。意外な程に仲間思いで世話焼きでもあった。一度、懐に入れた人間に対して、それは遺憾なく発揮された。

 体格にも恵まれ、剣の腕も今では国内で上位に位置する位だ。

 だが、それは易々と成されたものではない。

 ユルスナールが人一倍負けず嫌いで、努力家であることをシーリスは知っていた。元々の天賦の才もあるのだろうが、それ以上にユルスナール自身が、自己研鑽を怠らなかった。

 他人の評価には辛口なシーリスの目から見ても責任感の強い真面目な男だった。

 貴族の出身で、この国でも名家の部類に入る【シビリークス】の一族だ。

 しかしながら、ユルスナールには王都の貴族にありがちな自分の出自を鼻に掛けた所が無く、同じ仲間であってもそうでなくとも平等に分け隔てなく接した。それも、ある程度の基準を上回れば、一般庶民からも多く人員を募る騎士団の兵士たちに慕われる理由の一つだと言えた。



「お帰りなさい、ルスラン。御苦労さまでした」

「ああ」

 凡そ半月ぶりに見た男の顔は、出立の時と比べて、格段に機嫌よく見えた。

 周囲の大人たちの顔色を窺いながら過ごしたという幼少期の境遇の所為もあるが、シーリスは他人の感情の機微に敏かった。表情の変化には人一倍敏感である。

「こちらは問題ないか?」

「ええ、勿論」

 問題などあってたまるものか。その為に自分がいるのだ。

 今、シーリスの存在意義は、この男の片腕として留守を恙無く守ることにあった。この男が常に前を向いていられるように、その背中を支え、共に立つことにあった。

 標準装備の穏やかな笑顔で自信満々に言い切ったシーリスに、ユルスナールも男らしい笑みを浮かべた。

 多くの言葉は要らなかった。

 そして、シーリスはユルスナールから差し出された手に己が手を添えると互いにきつく握った。空いたもう片方の手で、互いの職務を労うように腰の辺りを軽く叩く。

 それは、初めて出会った頃から変わらない二人の挨拶の構図だった。


「ああ、そう言えば。リョウから無事帰宅したとの報せがありましたよ。かれこれ、七日前になりますか」

「そうか」

 シーリスの報告にユルスナールは満足そうに頷いた。

「七日前だって! えらく早ぇーじゃねぇか!」

 ユルスナールの後から続いて砦の玄関口に現れたもう一人の相棒にシーリスもにこやかに言葉を返そうとして、形の良い細い眉をしんなりと寄せた。

「………ブコバル。なんですか。その普段にも増して、一段と輪を掛けたようなむさ苦しさは。いつからここは山賊のアジトになったんですか?」

 挨拶やら労いの言葉やらはそっちのけで、そう言わずにはいられない程、ブコバルの格好は酷いものだった。

「いきなり説教かよ」

 ブコバルは嫌そうに顔を顰めて指で片方の耳を塞いだ。

「かてぇこと言うなって、シーリス。俺だって、好きでここまで落としてるんじゃねぇぞ?」

 ブコバル自身、自分の身なりの酷さにはそれなりに自覚があり、それでもこの格好で暫く過ごしているうちにこの方が楽でいいかなどと思い始めていたのだが、それはシーリスには口が裂けても言えなかった。

「まぁ、大目に見てやれ、シーリス。ブコバルには傭兵のギルドに潜り込んで貰ったんだ」

「そういうこと」

 ユルスナールが取り成すように間に入り、尤もらしい理由の一端を告げれば、ブコバルも腰に手を当ててふんぞり返った。

 成程。髭はいつ当たったんだかという位に伸び放題であるし、身に着けている衣服も草臥れて薄汚れている。そして所々、解れ掛かっていた。見るからに、如何にもな稼ぎの悪い傭兵のようだ。しかも、稼いだ分は、全て女と酒に消えてしまうような性質の悪い輩だ。

 同じ名門の貴族の出身であるのに、自分やユルスナールと比べて、こうまで違うブコバルの存在は、ある意味、不思議で仕方がなかった。人間とは面白いものだと思わずにはいられない。

 シーリスは諦めたように緩く息を吐き出した。

「任務の一環ならば仕方がないですか。でもこちらに戻って来たからには、きちんとしてもらいますよ?」

 何も言わなければそのままで過ごしてしまいそうな男に釘を刺すことは忘れない。

「わぁーってるよ!」

 ブコバルもシーリスの厳しさは長年の付き合いから十分、分かっているので、面倒臭そうにしながらも渋々と頷いたのだった。




「隊長、こちらは団長室でよろしいですか?」

 荷物の荷解きを手伝っていた厩舎番の兵士が、大きな茶色の包みを抱えてやって来た。

「ああ、ヤルタ。すまないな」

 ユルスナールは、頬にまだ真新しい擦り傷の残る兵士に鷹揚に頷いた。

「いえ」

 そして、それを契機に三人は、一先ず団長室に向かうことになった。

 シーリスは扉を開けると、ユルスナールとブコバルを先に通し、続くヤルタを中に促した。

「ありがとうございます」

 荷物を抱えた自分の為に開けたままの扉を支えてくれているシーリスに、ヤルタは恐縮して目礼した。

 ヤルタは、この砦にいる兵士たちの中でも比較的体格のよい部類に入るのだが、ふとした仕草が、何故か小動物のように見えて、周囲の仲間たちにささやかなおかしみと癒しを与える不思議な存在だった。

 男らしい太い眉毛のすぐ下には、くりっとした円らな瞳が行儀よく並ぶ。瞳の色は薄らと赤みを帯びた茶色だった。全体を見れば厳つい筈なのに、どことなく愛嬌のある顔立ちだ。シーリスはヤルタの顔を見る度に、何故か、森に住まう獣の【メェドヴェージ()】を思い出した。


 シーリスは、通り様、ヤルタが抱えた荷物の口が少しだけ開いているのに気が付き、そこから覗いて見えるものに興味を惹かれた。

「ルスラン、それはなんです?」

 開いた口から覗いた布地らしきものにシーリスは手を伸ばした。

「ん?」

 ユルスナールの顔が少し焦ったように見えたのをシーリスは見逃さなかった。

 シーリスが引っ張り出したものは、薄い灰色の女物の服だった。使用人風の地味なものだが、よくよく見れば、細部の作りが凝っていて生地も随分と肌触りの良いものを使っている。

 服飾に関しては少し煩い所のあるシーリスは、そのちぐはぐな感じを不思議な面持ちで改めていた。

 両肩の辺りを摘んで全体を眺めて見る。それは、この国の女たちの標準的な体型から考えても随分と小さな作りをしていた。

 シーリスは、小さな服を手にしたまま、それを持ち込んだ男の顔を透かし見た。

「こんなもの、どうしたんです?」

 しかも、態々、砦に持ち帰ってくるなんて。

 次にシーリスは袋の中から、お対になっていると思われる白い前掛けと【プラトーク(スカーフ)】を取り出した。ご丁寧に編み上げの【バチンキ(短靴)】までもが揃っていた。

 何かの記念だろうか。

 これらの類は、どう見ても普通のものではなかった。そう、まるで、金持ちが道楽の為に作らせたみたいなものだ。例えば、娼館で気に入った女に着せて遊ぶといった。

 だが、これは通常の娼婦が着られるような大きさではない。そう、まだ、年端の行かぬ少女のような細い身体を包むものだ。

 そこまで考えて出た一つの仮定を前に、シーリスは胡乱な視線を、これらを持ち込んだ男に投げた。

「ルスラン、………まさか」

 この男に限ってそのようなことがあるだろうか。

 その思い付きは、この男をそれなりに知っていると自負する自分ですら俄かに信じられないものであったが、目の前の証拠が、何よりも雄弁に物語っていた。


 男たちが滞在していた【プラミィーシュレ】は、この国の中でもやや特殊な意味合いを持つ街だ。そこには、大きな色街があることでも有名だった。そして、そこで取り揃えられる娼妓もよりどりみどり、実に広範囲に客の様々な好みに合わせられるようになっているのだとか、いないのだとか。

 まさか、いたいけな幼い少女を買ったのだろうか。そういう専門の店で。

 そして、別れ際、一夜を共にした相手に(もしかしたら一夜だけでは済まなかったのかもしれないが)この服を餞別として貰ったとか。私を忘れないで。そのような意味合いを込めて。


 灰色の女物の服を手にしたまま、痛ましさに顔を歪めたシーリスに、

「おい、シーリス。お前、碌でもないことを考えてるんじゃないだろうな?」

 ユルスナールが、若干、表情を強張らせながらも、部下の水面下で暴走する思考を否定した。

 だが、それは却って、一連の想像を完結させた相手を刺激することになった。

「碌でもないこととは、どういうことですか? 私も貴方の個人的な性癖に口を出す積りは更々ありませんが、でも、これは、あんまりじゃないですか。日頃から清廉潔白を謳い、ここに暮らす数多くの兵士たちを統率する立場にある者が、こんな、……こんな、幼い少女に手を出すなんて………」

 そのまま絶句したように固まったシーリスの脇で、今度はブコバルが、腹を抱えて大声で笑い出した。

「ガァハハハ、アハハハ……こいつは……ハハハハ、ウィヒヒヒ、止めろって、シーリス。アハハハ………ウケるったら、………ありゃしねぇ、アハハハ」

 獣の咆哮のような野太い声を上げ、腹を捩って、終いには涙を浮かべる有様だ。

 それにシーリスは虚を突かれたような顔をした。

 ユルスナールは、額際を片手で覆って、大きく息を吐いていた。

 いつもの冷静さはどこにいったのか。とんでもない誤解だった。

 その脇で、荷物を運んだはいいものの、団長室を辞する時期(タイミング)を逸してしまった不幸な兵士、ヤルタが、硬直したようにぎょろっとした目を見開いて顔を引き攣らせながら、じっと事の成り行きを見守るように息を潜めて立っていた。


 そこで、妙な流れを打ち破るかのように、団長室の扉をノックする男が聞こえた。

「入れ」

 これ幸いとしたユルスナールの了承の言葉に続いて、

「失礼します」

 扉の向こうから現れたのは、真面目で実直なシーリスの右腕である補佐官のヨルグだった。

 ヨルグは、相変わらず鉄仮面のごとき無表情のまま、きびきびとした動作で中に入ると、室内に漂っている不可解な空気を前に僅かに眉を寄せた。

 だが、その事には敢えて触れず、帰還したユルスナールとブコバルに長旅を労う言葉を掛けた。

「無事の御帰還、おめでとうございます」

「ああ、留守中、済まなかったな」

「いえ」

 徐々にいつもの空気を取り戻し始めた室内に、戸口で控えていたヤルタがいち早く反応した。

「それでは、私はこれで失礼いたします」

「ああ、ありがとう。もう戻っていいぞ」 

 敬礼をしたヤルタに、ユルスナールは幾ばくかの目配せをした。

 恐らく、ここでの顛末を他言無用にということだろう。

 信号を的確に受け取ったヤルタは、少々口元を引き攣らせながらも、無言で一つ頷き返した。そして、驚くほどの速さで脱兎の如く、団長室を後にしたのだった。


 ヨルグは、まだ若いヤルタのやや挙動不審な後ろ姿を目の端に認めながらも、ゆっくりと室内を見渡した。そして、まだ、そこかしこに残る不協和音的な淀んだ気の滞留を尋ねるべく、慎重に口を開いた。

「何か問題でもありましたか?」

「いや、そういう訳ではない」

 否定の言葉を吐いたものの、どこか歯切れ悪く答えたユルスナールに、ヨルグはその原因を探るべく、残りの二人を見た。

 ブコバルは未だ笑いの余韻と戦うように、ひぃひぃと妙な呼気を出しながら、目の端に滲んだ生理的な涙を指先で拭っていた。

 そして、もう一人のシーリスは、何故かその手に女物と思われる地味な服を広げながら、菫色の瞳を瞬かせていた。

 ヨルグにしてみれば、全く訳が分からない。最早、混沌(カオス)である。


 ユルスナールは、シーリスの傍に歩み寄るとその手にある灰色の服を指で摘んだ。

「それは、リョウが着たものだ」

 端的に告げられた台詞に、シーリスは目を見開いた。そうして、手にした服をもう一度、まじまじと見た。

「リョウ………ですか」

 ということは、【プラミィーシュレ】でユルスナールたちはリョウに会ったということなのだろう。

 確かに、リョウぐらいの体格であれば、この位の服が妥当だろう。

 シーリスは記憶の中にある小柄な人物を目の前に思い浮かべてみた。

 だが、シーリスの目裏に浮かんでくるのは、線は細いものの、この砦に居た時の少年のような颯爽とした姿ばかりで、女物の服を着た少女らしい姿というのは、上手く想像が付かなかった。

 重なりそうで重ならない。

 ユルスナールが結論を先に述べたお陰で、妙な誤解は解けたが、シーリスの中には逆に沢山の疑問が浮かび始めていた。

 それが顔に出ていたのだろう。ユルスナールは、小さく苦笑に似た笑みをその口元に刷くと若干の補足説明を行った。

「ちょっとした事情があってな。それはイリーナの所で譲り受けた」

 イリーナというのは、【プラミィーシュレ】の色街の中でも傑物と有名な娼館の女主の名前だった。

 そう言うと、今度は、袋の中に入っていたもう一つの服を取りだして、机の上に並べた。

「それはお仕着せだが、こっちは、【エリセーエフスカヤ】用に誂えたものだ」

「【シーニェイェ・マルタ】の生地ですね」

 艶やかな光沢を放つ濃紺色の夜会用のドレスを見た。

「ああ。後でリョウが取りに来ることになっている」

 早い話が、ユルスナールは、リョウの荷物を代わりに持って帰って来たということらしかった。

 まだまだ謎な部分は残るが、漸く自分の勘違いが飲み込めて、シーリスは安堵の息を漏らしていた。


「リョウに会ったのですね。プラミィーシュレで」

「ああ。偶々な。スフミ村の術師の使いで、その息子に用事があったらしい」

 そして、ユルスナールは、その息子が、自分が訪ねた鍛冶職人の男であったことを告げた。

「凄い偶然ですね」

「ああ、俺もそう思った」

 ユルスナールは、何かを思い出すように目を細めた後、徐にシーリスとヨルグに向き直った。

「そのことも含めて、お前たちにはきちんと報告をする。それにリョウの事で少し話して置くことがある。ブコバル、お前もだ」

「あ? 俺もか?」

 突然に名前を呼ばれて、【プラミィーシュレ】でも共に行動をしていたブコバルは、今更、なんの話があるのだろうかと訝しげな顔をしたが、ユルスナールのいつにない真面目な顔付きに、取り敢えず頷きを返した。

「だが、まぁ、先に腹ごしらえでもするか」

「お、賛成。さっきから腹が減って仕方がなかったんだよ」

「お前たちは?」

 振り返ったユルスナールに、シーリスも穏やかに微笑んだ。その隣で、ヨルグも静かに頷いた。

「そうですね。御一緒しましょうか」

「はい」

 腹が減っては戦が出来ぬということで、そうして揃った北の砦の主要人員(メンバー)である四人は、ユルスナールとブコバルに取っては久し振りの食堂で、少し遅めの昼食を取ることになったのだ。




 そうして、昼食を挟んだ仕切り直しの後に、シーリスとヨルグは、【プラミィーシュレ】で起きた事情を事細かに知らされることとなった。

 そして、常にない緊張感の中、ユルスナールが静かに語ったリョウの身の上話は、三人の男たちの度肝を抜くことになった。

 本来ならば、当人を交えた形で本人の口より話をした方がいいのだろうとも思ったのだが、シーリスに教師役を頼む手前、その理由の最たるものを明らかにする必要があると考えたユルスナールが取った苦肉の策でもあった。当然のことながら、この三人の男たちに真実を告げる旨は、リョウ本人に確認済みだった。

 ユルスナールが、掻い摘んで全てを話し終えた後、暫くは、誰も口を開かなかった。

 それだけ語られた内容の途方も無さに衝撃が大きかったということだろう。

 俄かには信じられないことだった。だが、作り話として一笑に付するには、余りにも事例が具体的且つ克明であった。

「ルスラン、貴方は…………」

 ――――――――信じているのですか。

 喉元まで出掛かった言葉は、真摯な男の眼差しの前に掻き消えてしまった。

 そのような問いを態々聞くのも莫迦げたことだろう。

 第一、シーリスが知る限り、リョウは嘘が付けるような性格ではなかった。万事、控え目で、落ち着きのある聡明な人物だ。そういうものは長年、様々な人間を見て来た自分たちには良く分かった。

 人の良さが表れている柔らかな微笑みをシーリスは思い浮かべた。

 朗らかであるのに何処となく影の付き纏う空気とこの辺りでは見受けられない色彩に顔立ち。随分と小柄で華奢な骨格。あの小さな体の中になんという深淵な謎を秘めていたことだろうか。

 拠って立つ前提状況が変われば次々と一致する符牒に、途方もないものを感じ取った。


「………なぁーるほどなぁ」

 両手を頭の上に掲げて、ブコバルが天井を仰いだ。

 ブコバルは、ああ見えて野性的感の人一倍働く男だ。リョウが無害であることは、この砦に来た時早々に感じ取ったが、これまで遣り取りから感じていた違和感の正体を漸く探し当てた気分であったのかもしれなかった。

「ガルーシャ殿はとんだ置き土産を残して下さったものですね」

 思わず出た本音に、ユルスナールは口元を緩めると小さく頭を振った。

「いや、寧ろ、ガルーシャに拾われて良かったと思う」

 それもそうだ。

「これも何かのお導きなのかもしれませんね」

 シーリスは別段、信心深い方ではなかったが、こうして人知の及ばない現実を突き付けられると、そう口にせざるを得ない気持ちにさせられた。


「シーリス、引き受けてくれるか?」

 何をというのは、問われなくとも分かっていた。

「ええ。合間、合間に時間を見てという形になるでしょうが。ヨルグに応援を頼むかもしれません」

 そう言って、シーリスは隣に座る己が部下を見た。

「ああ。それで構わない。無理を言っているのは承知だからな」

「出来る限りのことはしましょう」

 ヨルグも承諾をするように頷いた。

「それよりも、ルスラン、貴方が見てあげた方が早いんじゃないんですか?」

 別段、自分が講師役をすることになんら不満はなかったのだが、ふと湧いた疑問に、ユルスナールは形の良い眉を顰めた。

「俺は歴史や神話の辺りは、からっきしだからな。多分、無理だ。それに育った世界が違うということもあるのだろうが、リョウはかなり博識な部類に入るだろう。ガルーシャの影響もあるのだろうが、時折、酷く難解な言葉を使う。お前の方が、馬が合うと思うぞ」

 ――――――――それに、お前はそういうことに興味があるだろう?

 ユルスナールから尤もな事を言われて、シーリスも苦笑を浮かべた。

 昔から知識の吸収は好きな方だった。拠って立つ環境が異なれば、その思考も、世界の仕組みも、人の在りようも、全く違う。生来、学者肌で探究心の強いシーリスにとって未知の塊であるリョウは、その好奇心を刺激する以外のものではなかった。

 何だか上手く乗せられている気がしないでもなかったが、それでもいいかと思えた。

「ブコバルは……………言わずもがなですけど」

 第一、この男に関しては、まともに椅子に座っている姿が想像できなかった。頭脳派というよりも断然肉体派だ。

「あ?」

 勉強の方はまるっきり不得手な男を横目に見遣れば、

「俺だって教えられることはあるぜ?」

 何を思ったのか、ブコバルはニヤリと下卑た笑みを浮かべた。

 シーリスは嫌な予感がしたが、余り無下にするのも可哀想な気がしたので、取り敢えず聞いてみることにした。

「それはそれは。因みに、参考までにどのあたりかお聞きしても?」

「そりゃぁ、勿論、決まってるだろうがよ。男女の仲の繊細な機微についてだろうが」

 予想に違わず、妙な事を口走ったむさ苦しい髭面の男をシーリスは半眼に見た。

 最早、呆れてモノも言えない。いや、この場合、聞いた自分が馬鹿だった。

「閨の中の作法も大事だぜ? なぁ、ルスラン?」

 そう言って意味深な目配せをした後、どっかりと背凭れに背中を預けたブコバルに、隣に座るユルスナールから長い脚が繰り出された。

「余計なお世話だ」

 が、寸でのことでひょいとかわされてしまう。

「避けるな」

「冗談!」

 何故か、目の前で始まってしまった幼馴染同士の子供染みた遣り取りに、シーリスは何やら引っかかるものを感じた。

 そして、まじまじと目の前に座る男を見た。

 その視線が横にずれて、大きな執務机の上に置かれた女物の衣服で留まる。

「まさか……………」

「ん?」

「どうした、シーリス?」

「いえ、何でもありません」

 シーリスはにっこり笑顔を浮かべるとユルスナールを見据えた。

「まさかとは思いますが、我らが隊長殿に限って、幾ら相手が可愛いからと言っても年端の行かぬ幼子相手に無体な事はしでかしていないですよね、勿論。念の為に確認しておきますが」

 そう言って白々しいまでに迫力のある笑みを浮かべたシーリスに、ユルスナールは何と言ったものかと答えに詰まった。

「ルスラン?」

「ああとだな」

「いや、もう遅いって」

 ―――――――食っちまってるから。

 ニヤニヤとしながらひらりと片手を振ったブコバルに、

「何ですって!」

 シーリスは、眦を吊り上げたのだが、

「リョウは、ああ見えて、とっくに成人しているぞ? いや、寧ろ、俺たちと大して変わらん。厳密に言えば、暦が違うらしいからどうとも言えんが。恐らく、俺たちとヨルグの間くらいだろう」

 だから、年齢に関しては、なんの問題もないと言い放った男を今度は、呆気に取られたように見る羽目になったのだった。

「……要するに、十分、大人の女性だと?」

「ああ」

 本日、二度目の衝撃にシーリスはそっと隣に座る己が部下と顔を見交わした。

「まぁ、どうせなら本人に直接、確かめて聞いた方が早い。勿論、繊細な問題だから、それとなく話を振るくらいが精々だろうが」

 シーリスはこめかみを揉むように、男にしては細長い指を当てると、暫し、瞑目した。

 この短期間に与えられた情報の法外さに、目が眩みそうだった。

 だが、暫くして、気を取り直したように小さく息を吐き出した。

「まぁ、その辺りのことは追々にでも」

「他に聞きたいことは?」

 そう言って、足を組み替えたユルスナールに、シーリスもヨルグも取り敢えずは大丈夫だと首を横に振った。

「ならば、シーリスの都合を見ながらリョウを呼ぶ日を決めるか。伝令も飛ばさないといけないからな」

 そう言って密かに笑みを浮かべたユルスナールは、やけに嬉しそうな色をその瑠璃色の双眸に滲ませていたのだった。

 それが恋する男特有の甘ったるい表情になるまであと数日。

 それを目の当たりにしたシーリスは、初めて目にする男の表情の変化に、まるで天変地異の前触れではないかと危惧するくらいの衝撃(三度目だ)を受けるのことになるのだった。


 シーリスは、件の人物の再登場で、途端に賑やかになるであろうこの砦内の空気を思い浮かべ、笑みを零した。

 ―――――――さてさて、一体、どんなことになるやら。

 それは、ほんの少しの高揚感をシーリスの中にも植えつけていたのだった。


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