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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第三章:工業都市プラミィーシュレ
115/232

ダ・スヴィダーニィヤ ~また逢う日まで~


 その日、【プラミィーシュレ】の入り口に聳え立つ門番の詰所には、珍しい顔触れが揃っていた。

 短い金色の髪を跳ね上げさせた頬に傷のある兵士。緩い長めの薄茶色の髪を右端に寄せた優しい面立ちの兵士。濃い茶色の髪をきっちりと後ろに撫で付けた兵士の眉間には心なしか皺が寄っているが、これはいつものことである。

 そして、明るい柔らかそうな茶色の髪を無造作に掻き上げて無精髭を生やした体格のよい男が続く。その隣には同じくらい上背があるものの幾分細身な銀色の髪を緩く撫で付けた男が続いていた。


 然程、狭くはない筈のその部屋は、体格のよい男たちが集う所為か、妙な圧迫感で息苦しそうだった。

 ちょうど門番の人員交代の時刻で、通常の門番に任に就いていた【ツェントル】の兵士二人が、交代報告の為に詰所に顔を出した所、そこに居並ぶ錚々たる面子に度肝を抜かれて硬直したが、すぐさま持ち前の反射神経の良さできっちりと敬礼をしてみせたのは、流石、日々の訓練の賜物であると言えた。


「あ~あ、ほら、言わんこっちゃない」

 覇気のない声を上げながら緩く手をひらひらと振って、顔を引きつらせている交代の兵士を気の毒そうに見やったのは、同じ隊服に身を包んでいるものの、いかつい兵士たちの中ではやや毛色の変わった柔和な面立ちをした男、ウテナ・ザポロージェだった。

「お疲れ様」

「あ、ああ」

 仲間からの労いの言葉に交代の兵士は、ぎこちなく頷いて見せた。

 そして、互いに目配せをし合った。障らぬ神に祟りなし、と。


 その隣で壁際に寄り掛かって、腕を組んでいたイリヤ・ベールキンは、そんなことを言ってのけた相棒を胡乱気に見やった。

 ――――――お前もその一人だろうが。

 口には出さなくとも、その明るい浅葱色の瞳はその心の内を雄弁に語っていた。

 イリヤは、いつもより格段に狭く感じられる一室に集まる男たちをぐるりと見回した。

 北の砦から来た第七師団の双璧は、まぁ分からないではないが、イリヤとしては、自分たちの上司である第五師団の団長ドーリン・ナユーグがこの場所に顔を出したことを意外に思った。

 いつも沢山の仕事を抱えて神経質そうな顔を全面に押し出して憚らない団長が、どうやってこのような時間を取ったのやら、【ツェントル】に残された副団長を始めとする兵士たちのことを思うと、ほんの少しだけ、気の毒に思わないでもなかった。

 それよりも意外だったのは、第七師団の団長が、まだこの街に残るということだった。

 あれだけのことがあった後で、あの掌中の玉のような人物をむざむざと一人でこの長い道のりを帰すとは思えなかったからだ。



 だが、そう言えば。

 イリヤはあの黒髪の一見、少年のような人物が、初めてこの街にやってきた時のことを思い出していた。

 ルークから、事前に黒い髪と黒い瞳をした線の細い旅人が着いたら良く見ておけと密かに連絡を寄越されていたのだ。

 あのルークが、わざわざ繋ぎを取って知らせてきたということに、一体どんな兇状持ちがやってくるのだろうかと気を張っていたのだが、ひょっこりと現れたのは、ほんの子供のような幼い顔立ちの少年で、念の為、呼び止めて、被っていた帽子を脱がせてみれば、艶やかな黒髪が真っ直ぐに肩先に散らばった。

 呼び止めたのは、ちょっとした好奇心だった。

 実際に言葉を交わしてみれば、その人物が見かけよりもずっと大人びていることが分かった。受け答えも丁寧で落ち着いていた。その色彩と顔立ちがやや珍しいということを除けば、不審な点は見当たらない。

 ルークが何を思ってのことだったのかはあの時は分からなかったが、とりあえず、繋がりを作る為に自ら名乗ったのだ。

 その少年は、いきなりの展開にややぎこちない笑みを浮かべていたが、それは、いかつい兵士たちの中にいてはあまり拝めないようなほんわかとした優しい微笑みだった。

 あの時、一緒に門番の任に就いていた相方の兵士は、いつもの厳しい顔付きはどこへ行ったのやら、あからさまに眦を下げて、この辺りではあまり見かけないさらさらとした黒髪を撫で回していた。

 あれだ。可愛い犬っころを愛でる感じとでも言えばいいだろうか。

 むさ苦しい男連中の中にあっては、愛玩動物みたいなものに映ったのかもしれない。

 そして、件の人物は、厳つい兵士から解放されるとやや緊張した面立ちを残しながらも、この場所を潜って行ったのだ。

 その時の表情もまだ記憶に新しかった。

 あの時、リョウは確かに一人だった。遥か北のスフミの方からやってきたと言っていた。

 ということはあの長い道のりを遥々、独りで辿って来たということなのだろう。

 行きは、それで収まった。だが、帰りはどうなるのだ。独りきりであの長い旅路を行かせるのだろうか。

 しかも、蓋を開けてみれば、驚いたことにリョウは女だったのだ。

 この国では、訓練された兵士や腕に覚えのある者でない限り、女が独りで旅に出ることはまずなかった。あんなか細い腕で、いざという時に何かが出来るとは、とてもじゃないが考えられなかった。



「あの……第七のお二方は………まだ、こっちに残るんですよね」

 リョウはまさか独りで帰路に着くのだろうかと思い、イリヤがそう言葉を発した途端、室内の体感温度が一気に下がった気がした。

 ――――――え? 不味かった? まさか、やっちまったか?

 恐る恐るイリヤが戸口に近い所に立っていたユルスナールを見ると、明らかに機嫌を急降下させた男の顔があった。

 無表情なのは相変わらずなのだが、なんと言うか、そこに輪を掛けたように冷気が取り巻いているのだ。

 イリヤは自分の失言に冷や汗を垂らした。

 どうやら触れてはいけない部分を掠ってしまったらしい。

 冷気から凍気になりそうな気配に助けを求めるべく、ユルスナールの隣に立つブコバルを見やれば、いつもはなんやかんやと茶々を入れる筈の男は、関わりたくないとばかりに肩を竦めてみせたのだ。

 ――――――何、この空気。俺にどうしろと!

 凍てつきそうな気配に、内心、冷や冷やしていれば、助け船は意外な所からやってきた。


「気にするな。あれは拗ねているだけだ」

 ドーリンが男の様子をことも無げに看破した。

 ――――――拗ねているだって? んな、可愛いもんじゃねぇだろうがよ!

 イリヤは心の中で盛大な突っ込みを入れた。


 揶揄されたことが大層気に食わなかったようで、ユルスナールがギロリとそれこそ、知らない相手が見たら人を一人殺してしまいそうな勢いでその発言者を睨み付けたのだが、

「本当のことだ」

 対するドーリンは慣れているのか、全く気にした様子がなかった。

「あれは、リョウに共に帰るように勧めたのだが、首を縦に振って貰えなくてな。拗ねているだけだ」

「え、まさか。リョウは、ひょっとして一人で帰るんですか?」

 イリヤは、なにがしかの事情を知っていると思われる己が上司に矛先を変えることにした。

「いや、リョウは一人ではない。流石に物騒だからな。一人でスフミまで帰るなどと言ったら、俺でも思い止まるように言うだろう」

 ドーリンもイリヤと同じことを考えていたらしい。

 ということは、だ。リョウはユルスナールたちの誘いを断った。

 だが、帰路に着くのは一人ではない。

 ということは、誰と一緒に帰るというのだろうか。当然のように疑問はそこに行き着く。

 しかし、室内に漂う底冷えする空気にイリヤはそれを口にすることを躊躇ったのだが。


「えー? てことは、リョウは、一体、誰と一緒に帰るんですか?」

 ウテナから出された直球とも言える問いに、室内の空気にぴしりと亀裂が走った気がした。

 イリヤ自身も知りたかったことではあったが、若干一名、恐ろしいまでもの寒々しい空気を醸し出している人物の手前、口に出してよいものかと迷ったのだが、相棒のウテナは、かくも勇敢であったようだ。

 ―――――――ウテナ、夜道と背後に気を付けろよ。骨は拾ってやるからな。

 イリヤは心の中で静かに合掌した。

 只でさえ、リョウに関して言えば、ユルスナールの神経を逆撫でしていたであろうウテナのことだ。後で、何が待ち受けているか分からない。例え、ユルスナールが高潔で清廉潔白な男だとしても、だ。そこに入り込む感情が色ものであるから故に、その反応は未知数だった。


「それは、見てのお楽しみだ」

 だが、なにがしかを知っているかに思えたドーリンは勿体ぶったようにそう口にすると薄らとその口元に笑みを刷いたのだ。

 己が上司の珍しい表情に、今度は、ウテナの方が一瞬だけ固まった。が、すぐにうっそりと目を細めて特有の胡散臭そうな笑みを浮かべた。

 それを目の当たりにしたイリヤの背筋に悪寒が走った。

 ウテナだけならまだしも、上司であるドーリンまでもが凶悪すら見える意味ありげな表情を浮かべていた。何だかやたらと楽しそうである。

 対する第七師団の面々は、揃いも揃って、苦々しい顔をしていた。

 実に対象的な反応であった。

 ―――――――なんだ、なんだ? 一体、リョウの側には誰が居るんだ?

 イリヤは一人、恐々としながらも、内心の好奇心を抑え切れずに主役の登場を待つことにした。


 やがて、すっかり旅支度を終えたリョウが通用門に姿を現した。

 その隣に寄り添うようにしていた人物に、イリヤは暫し呆気に取られたのだった。




 門の所に集まっていた男たちを一瞥して、セレブロはさも愉快そうに目を細めた。

『ほほう。揃いも揃ってか』

 白く輝く長い髪が、日の光りを反射してきらきらとまばゆいばかりの煌めきを放っていた。

 ゆったりとした術師風の長衣の裾が風に翻る様は、それを身に付けた人物を取り巻く厳かな空気に似つかわしかった。静々と歩みを進める様は、どこか近寄り難い気を見に纏っているようにさえ思えた。


 セレブロの視線の先に並んだ男たちの顔触れを見て、リョウはひっそりと微笑んだ。

 ユルスナールとブコバルはともかく、【ツェントル】の三人がわざわざ見送りに来てくれているとは思わなかった。偶々なのかも知れないが、最後に言葉を交わすことが出来て良かったと思った。


 黒に近い深緑色の外套を来た小柄な人物は、重厚な門の内側にある詰所脇に立つ男たちの元にゆっくりと歩み寄った。その立てられた襟から覗く首元には、真新しいくすんだ乳白色の暖かそうな【シャールフ(襟巻)】が巻かれていた。

 その直ぐ後ろに長い衣を翻して、長身の男が続いた。

「セレブロ殿。リョウを宜しく頼みます」

 慇懃に兵士としての礼を取ったユルスナールに、セレブロは可笑しそうに口角を吊り上げた。

『無理をせずとも良い。気に食わぬと顔に書いておる』

「…………セレブロ」

 軽口を叩いたヴォルグの長をリョウは嗜めるように呼んだ。

『本当のことだろうに』

 リョウは案じるようにユルスナールの顔ちらりとを見た。

 そこにあるのは、いつにもまして色の無い表情で、その心の機微がよく見えなかった。

 だが、醸し出される空気は、若干の緊張を孕んでいた。


 昨日からユルスナールとセレブロはずっとこんな調子なのだ。間に入るリョウはなんとも言えない微妙な気分だった。

 ユルスナールはセレブロの手前、自制をしているようだが、内心は面白くないようで、セレブロの方も放っておけばよいのに、ちくちくとユルスナールをからかうものだから周囲の方が、気を揉んで仕方がなかった。

 人の街に降りるというのは随分と久し振りとのことで、セレブロ自身、浮かれているのかも知れなかった。そして高揚した気分のままにちょうど体よく傍にいる男を弄っているようだった。

 いやはや、ヴォルグの長はやけに人間臭い所がある。

 リョウがセレブロの着衣をくいと引けば、粗方気が済んだのか、表情を戻すと居並ぶ男たちに向き直った。

『まぁ、よいか。こたびはリョウが世話になった。手を掛けたな』

「いえ」

 短く答えたユルスナールに、セレブロは愉快そうな視線を投げた。

 そして、そのまま視線をついと横にずらして濃い茶色の髪を丁寧に撫で付けた男の方に向いた。

『うぬは、ナユーグの所か』

「ハ、お初にお目に掛かります。ドーリンと申します」

 丁寧なドーリンの所作にセレブロは鷹揚に頷いて見せた。

『そのほうにも、世話をかけたな』

「いえ」

『それに、うぬらも』

 そして、虹色に輝く瞳が、ドーリンの背後に控えていた二人の兵士に向けられた。

『改めて礼を言う』

 ウテナとイリヤは、始終目を白黒とさせていたが、只ならぬ気を発する相手に姿勢を正すと兵士としての礼を取った。


 何だか、思ったよりも大袈裟になっていはしまいか。

 セレブロが迎えに来て、ユルスナールに面倒を掛けなくて済むと喜んだのも束の間、却ってややこしいことになっている気がしてならなかった。

「何だか、セレブロはワタシの保護者みたい」

 思わず苦笑したリョウをセレブロはまじまじと見下ろした。

『何を言う。似たようなものではないか』

 当然とばかりに返されて、リョウとしては、それ以上、踏み込むことは慎んだ。


「まぁ、これならこっちとしても、安心してお前を送り出せるには違いないからな」

 周囲に流れていた微妙な空気を取り成すように言ったブコバルに、

『ザパドニークの小倅も偶には気の利くことを言う』

 セレブロが皮肉っぽく小さく笑った。

 ブコバルはあからさまに嫌そうな顔をしたが、それに何か言い返そうとすると事態は再び堂々巡りになるので、大人しく口を噤んだのだった。


「皆さん、お世話になりました」

 リョウは頃合いを見計らって小さく頭を下げた。

「ああ、達者でな」

「また、来いよ。今度は美味い飯が食えるとこに案内してやるから」

「はい、楽しみにしてますね」

 白い歯を見せて指を突き上げたイリヤに、リョウもにこやかに返した。

「ああ、ボクも、今度来た時は、取って置きの場所に連れていってあげるよ」

 そう言って、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ったウテナに、

「馬鹿野郎、お前の『取って置き』なんか信用できるかよ」

 イリヤは性懲りもなく下らないことを抜かした相棒の頭を拳で小突いた。

 ゴチンといい音がして、ウテナが盛大に顔を顰めた。

「痛いなぁ」

 それを見ていた周囲が笑いに包まれた。

「ボクの誠意ある行為にケチを付けないで欲しいものだよ」

「何が『誠意ある行為』だ。言ってろ」

 和やかな笑いに包まれながら、リョウは【ツェントル】の三人とこの国のしきたりに則り、別れの挨拶を交わした。

「リョウ、大丈夫だとは思うが、気を付けて帰れよ」

「はい」

「また、北の砦でだな」

「そうですね」

 ブコバルとも同じように頬に軽く唇を触れさせて、抱擁を交わした。

 それから、ブコバルは何を思ったのか、不意に鼻先でニヤニヤと下卑た笑みを刷いたかと思うと、

「リョウ、もっと肉を付けろ」

 唐突にリョウの尻を大きな手で鷲掴みにした。

「ルスランに飽きたら、いつでも俺が相手になってやる」

 やはり、最後まで唯で済まないのが、ブコバル・ザパドニークという男である。

「だが、俺としては、もう少し肉付きがいい方がいいからな」

「大きなお世話です!」

 リョウは勢いよく両手でパチンとブコバルの顔を挟むと、その無精髭の生えた薄い頬の肉を思い切り引っ張った。

 そして、すぐさまパッと飛び退くとブコバルの反撃をかわす為にセレブロの後ろに隠れた。

「………ブコバル」

 ドーリンとユルスナールの冷たい視線もなんのその、小気味良い音のした頬を擦りながら、

「なんでぇ、ちょっとした冗談じゃねぇかよ」

 飄々と嘯いた男に、

「お前の場合は、冗談に聞こえん」

『やれやれ、相変わらず、下世話な男よ』

 セレブロからも呆れた声が漏れたのだった。




「リョウ」

 そっと名前を呼ばれて、リョウは気を取り直すと、最後の一人の元に歩み寄った。

 リョウは、徐にそこに静かに立つ、銀色の髪を緩く後ろに撫で付けた男を見上げた。

 男らしい精悍な顔つきにある瑠璃色の双眸は優しさに満ちていた。

 こうして、この男と別れの挨拶をかわすのも二回目のことだった。

 一度目は春の終わり、北の砦でのことだった。

 そして、今、この【プラミィーシュレ】で、再び、暫しの別れを口にする。

 季節は巡って、冬の始めになっていた。


 あの時と違うのは、互いの気持ちの在り方だろう。あの時は、まだ分からなかったけれど、今ならば、はっきりと認識することが出来る。

 例え、遠く離れていようとも、この交わりはきっと切れないということだ。

 ここで終わりではない。これからも続いて行くであろう繋がりだ。目には見えないその強固で柔軟な糸は、自らの今後を支えてくれるであろう(しるべ)になり得た。

「気を付けて帰れ」

「はい」

 名残惜しそうに頬を辿る剣ダコのある掌に、リョウはそっと自分の手を重ねた。

「森の小屋に着いたら、北の砦に連絡を寄越せ」

「ルスランはまだ帰っていないのでしょう?」

 幾ら馬を使うと言っても互いの到着時期にかなりの時間差が出るだろうことは明白だ。リョウが無事着いたとの報せを出しても、それを知らせたい相手はまだそこにはいない筈だった。

 そのことを問えば、

「お前が無事着いたという確認が欲しい」

 何処までも過保護な男の言い種にぶつかった。

 恐らく、シーリス経由で聞くということなのだろう。砦に帰った時に、念の為、安否確認をしておきたいというところか。こういう細かなところまで気が回るのは、流石、北の砦を預かる師団長というところだと思った。

 リョウは了承するようにそっと微笑んだ。

「分かりました。ルスランも戻ったら、イサークあたりでいいので連絡を下さいね。お願いした荷物を取りに伺いますから」

「ああ。約束しよう。こちらもシーリスに話を通しておくから、暫く滞在する積もりで来い。いいな?」

 それは、この国の常識と事情をお浚いする為に、臨時に勉強会を開いてくれるという申し出のことだった。そして、その中には、リョウが今後、術師に成るための道筋と方策を具体的に相談しようということが含まれていた。

 リョウとしては願ってもみない申し出であったが、ユルスナールたちに迷惑を掛けると思うと心配で仕方がなかった。少なくともシーリスにはまだ話が行ってないのだ。唯でさえ忙しそうにしている相手を巻き込むのは忍びない。何から何まで申し訳ない程だ。

 だが、それと同時に、そうやって自分を気に掛けてくれる相手がいるということは、とても心強く、そして有り難かった。

「いいんですか?」

「ああ。構わん」

 躊躇いがちに尋ねたリョウにユルスナールは案ずることはないと穏やかに微笑んだ。

 こうやって、ユルスナールはいとも簡単に自分を甘やかし、手を差し伸べてくれるのだ。

 その恩を、今後、どうやって返して行ったらいいのだろうか。

 リョウは差し出された腕を掻い潜り、そっとユルスナールの首に自らの腕を巻き付けると名残を惜しむように頬を擦り寄せた。

 別れと言ってもほんの暫くのことだ。それなのに、男の首元から立ち上る馴染み深い匂いに、胸が締め付けられそうな堪らない気分になった。

 最後の三日日余り、この男と過ごした一時は余りにも濃密だった。全ては都合の良い夢の中の出来事だったのではと思える程に。

 満たされているはずなのに、胸内に渦巻く一抹の寂しさは何故なのだろう。

 それは、以前ならば考えもしなかった気持ちの変化だった。段々と欲張りになって行く自分が、少しだけ、怖かった。

 だが、表面上はそのようなことをおくびにも出さずに、感謝の気持ちを込めて、男の両頬に掠めるだけの唇を寄せた。


 束の間の抱擁を解いて、

「リョウ、辛抱出来るか?」

 鼻先で問われた言葉に、

「何がです?」

 リョウは怪訝そうな顔をした。

 男の薄い唇が、弧を描いた。

「あんなに濃い時間を過ごした後だからな」

 ―――――――独り寝が寂しくて仕方がないんじゃないか?

 仄めかされた事柄を敢えて流すようにリョウは小さく笑った。

「大丈夫ですよ」

 それは、ちょっとした見栄だったのかもしれない。

 また、穏やかな日常が戻って来るだけなのだ。燻る熾き火に焚きつけるものなどありはしまい。熱に浮かされた時間が異例のことだったのだ。


「まぁ、いいか。今度は北の砦だな」

 ユルスナールは目を細めるとリョウの耳元に、小さな囁きを吹き込んだ。

 ――――――次は、遅くとも印が消えない前にだな。余所見をするなよ?

 ねっとりとした隠微な低い声に、引き金のように昨晩の記憶が湧いて出て来て、リョウは知らず、ほんのりと目元を赤らめた。

 襟巻が回る首筋のとある部分には、今朝方、男が施した鬱血の跡が色濃く付いていた。

 その跡が消えない内に。

 仄めかされた符牒に身体の奥に漣が走る。余りにも単純に反応を返してしまう自分が、居た堪れなかった。

 見上げた先には余裕たっぷりのどこか尊大な感すらある男の顔があった。

「もう、こんな時に何を…」

 ――――――言うんですか。

 だが、恥ずかしさを誤魔化すように上げられた抗議の声は、男からの強引な口付けに途中で掻き消えてしまった。

 リョウは吃驚して慌てて身を捩ろうとしたのだが、その前にしっかり回された大きな手と腕に後頭部と身体を押さえ込まれてしまって、入り込む男の舌先を甘んじて受け入れるしかなかった。

 人前であるという恥ずかしさも、段々と深さを増してゆく口付けに霞んできてしまった。

 最後の口付けは、それ程、執拗で長いものだった。

 まるで、言葉にはならない気持ちを乗せるように。

 漸く放された時には、目に生理的な涙が滲んでいた。

 潤み始めた深い黒を湛えた瞳を見て、ユルスナールは名残惜しそうに、その縁に口付けた。

 


『リョウ、気が済んだか?』

 後方から、掛けられた声に正気に戻れば、少し離れたところで、セレブロが静かに立っていた。

 その作りものめいた表情からは感情が読み取れなかったが、さぞかし呆れているに違いないとリョウは思った。

 ―――――――さて、帰るとしますか。

 気持ちを入れ替えるように顔を上げた。


「【ヌゥ(それじゃぁ)パカー(また)】」

 別れの言葉は、いつもよりもずっと砕けたものになった。

 仲の良い友人が、【また明日】と気軽に見送るように。

 重苦しい空気は要らない。その代わりにあるのは、今後も続いて行く日常に繋がるであろう軽やかさだ。

 リョウはユルスナールに微笑んで、掠めるだけの口付けを送ると颯爽と踵を返した。

 そして、セレブロから差し出された手を取ると振り返り様、空いている方の片手を目一杯、振った。


 こうして、二人の束の間の旅人の姿は、瞬く間に街道の向こうへと消えていった。

 すっきりと晴れ渡ったとある冬の日の朝のことだった。


ここまで読んでくださってありがとうございました。

長かった第三章【プラミィーシュレ】編も漸く終了です。次回、小さな小話を挿んで、第三章を終りにしたいと考えています。

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