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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第三章:工業都市プラミィーシュレ
114/232

この国の兵士であるということ


 一通りの買い物を終えた後、【ファンタンカ(噴水広場)】の傍で一休みとなった。

 刻々と形を変える水の造形は、日の光を反射して眩しい飛沫を上げていた。

 リョウとユルスナールは、噴水脇のベンチに腰掛けていた。

 二人の手の中には黒い液体の入った飲み物が握られていた。

 それは【クヴァス】という黒パンを発酵させて作ったこの国特有の発酵清涼飲料で、独特な酸味が特徴的だった。

 【ファンタンカ(噴水広場)】の傍には【クヴァス】売りの屋台が立っていて、喉の渇きを癒そうと子供から大人まで、様々な人々が入れ代わり立ち代わり買い求めていた。

 リョウは初めてこれを口にした時は、おっかなびっくりだった。

 この街に来る途中に寄ったとある小さな町で周囲の男たちが旨そうに飲んでいるのを見て、興味を引かれて買い求めたのだが、真っ黒な見た目もそうだが、独特の酸味と苦味にほんのりと黒パンの匂いがして、度肝を抜かれたものだ。生温いので、すごく美味しいという訳ではないのだが、少し癖のある独特の酸味は、飲んでみれば喉の渇きを潤すにはもってこいだった。慣れると病みつきになる。そういった類いのものだと思った。


 【ファンタンカ(噴水広場)】は多くの人で賑わっていた。

 走り回る子供たち。中には、冬場だというのに噴水に手を入れて水を弾いて遊んでいる子供もいる。

 日向ぼっこをする老人や老婆。おしゃべりに興じる母親たち。腕を組んで歩く若い男女の姿。

 眼前に広がるのは、実に穏やかな昼下がりの情景だ。

 頬を撫でる冷たい風が、火照った身体には心地よかった。冬場といえども、まだまだ日中の日差しは暖かい。

「この国は、豊かなのですね」

 前を向いたまま、しみじみと口にしたリョウをユルスナールは横目に見た。

「お前にはそう見えるか?」

「はい」

 スフミから街道沿いに大小様々な町を見てきたが、すれ違う人々の表情は、皆、穏やかで明るいものだった。

「そうか」

 長い沈黙の後、ユルスナールは、ゆっくりと息を吐き出した。

「それも、ここ五年から十年のことだろうな」

 その目線は、風に揺れる噴水の水面を見つめていた。


 少し影のあるその横顔をリョウは黙って見詰めた。そして、次に語られるであろう男の言葉を待った。

「俺がまだ幼かった頃、そうだな、今からざっと二十年近く前になるか、この国は、隣国と大きな戦をした。この辺りでも戦闘があったと聞いている。戦闘が一番激しかったのは西の砦だった。当時、その前線で指揮を取っていた俺の叔父は、そこで命を落とした」

 淡々とした言葉の後に、ユルスナールは眩しいものを見るように目を細めた。

 当時の情景を思い出しているのかもしれない。

 噴水の水面は、きらきらと細かい光の欠片を反射していた。

 そこに踊るのは、一体、どんな景色なのだろうか。

「あれから二十年。今、あの時の影はこの辺りには見当たらない。この国の民は強い」

 戦争の爪痕が無い訳ではないのだろう。だが、表面上は、異邦人であるリョウの目から見ても、そのようなことがあったと想起させるものはなかった。

 街は取り敢えずの復興を果たしている。そこに住む人の心までは分からないが。


 戦争と聞いて、前から気になっていた事をリョウは思い切って尋ねてみた。

「この国には【徴兵制度】はないのですよね?」

「徴兵制度?」

 聞き慣れない言い回しだったのか、ユルスナールが眉を潜めた。

 概念や思想を言葉にするのは難しい。

 リョウは慎重に言葉を選びながら、かつての知識から知る事柄に一番近いであろう単語をこの国の言葉に直して当て嵌めてみた。

「はい。ある一定の年齢に達した男子を兵士として強制的に国が徴用する仕組みです」

 その説明でユルスナールはリョウの言いたいことを理解したようだった。

「ああ。それはない。従軍するのは自らの意志で軍に志願したものだけだ。殆どが職業軍人と傭兵の類いだ。それに兵士は必ずしも男である必要はない。俺の部隊には偶々いないが、王都の方では剣を握る女性兵士もいる」

 女性の兵士がいる。初めて耳にする事柄にリョウは内心、驚いた。この国で女性が軍に従事するとは思っても見なかったからだ。その辺りは保守的なのではないかと思っていたのだが、違ったらしい。予想を少し裏切られた形となった。

 すると、この国で戦争が起きた場合は、軍籍に身を置く彼らが真先に矢面に立つのだ。

 一般市民はそれに巻き込まれないようにするということだろう。

 この国での最後の戦争は、約二十年前の出来事。

 それは、まだ多くの人々の記憶には新しい出来事だろう。沢山の人々にとっては鮮やかな生きている記憶に違いない。忘れることの出来ない、いや、忘れてはいけない過去だ。

 そこから、この国の人々が導き出した結論とは、どのようなものなのだろうか。


「現時点で、戦争は終結しているのですよね?」

「ああ。一応な。当事国の間で休戦協定が結ばれている」

「終戦協定ではなくて?」

 リョウは耳を疑った。

 休戦協定。つまり、戦争は終わっていないのだ。政治的な観点から見れば。

 隣から出された鋭い指摘に、ユルスナールは、少しだけ苦い顔をした。

「だから、未だに各地で小さな小競り合いがある」

 軍事産業的意味合いの強いこの街の繁盛振りと街中を闊歩する傭兵たちの姿は、恐らく、その事実を如実に物語っているのだろう。

「ということは、水面下では、常に臨戦態勢にあるんですね」

「そういうことになるな」

 この国の人々にとって、戦は身近に、常に起こり得るものとして傍にあるのだ。

 主要な武器は、やはり剣や槍、弓矢なのだろうか。

 その辺りのことも含め、まだまだ知らないことが多いとリョウは今更ながらに痛感した。


「戦の経験は?」

 不意に出されたユルスナールの静かな問いに、リョウはゆっくりと首を振った。

「いいえ。ありません。ワタシの祖国で最後に戦争があったのは、もう七十年近く前のことでした。ワタシの祖父は若い頃、出兵をして帰ってきましたが、その祖父も、もうこの世にはいません。当時の記憶は、もう一握りの年老いた人々が持つだけで、失われつつあります。国民の大半は戦争を知らない。それがどういうものであるのかすら、想像がつかないでしょう」


 祖父は決して、戦争のことを話さなかった。自分がまだ幼いということも関係していたのかもしれないが、余程、辛い目にあったのだろう。言葉少なに思い出したくないと言っただけだった。

 唯一、教わったのは、祖父が時折、思い出したように口ずさんだ軍歌の一節だった。戦争についての記憶は断片的で、酷く遠い過去の出来事になっていた。

 そういう根幹的な芯の部分での心構えや危機感という点に於いて、この世界に身を置く人々から見たら、自分はかなり能天気に見えるのかもしれない。

 実際に経験をしていることとそうでないことには大きな隔たりがあるからだ。

「安穏とした国だったのだな」

 やはり当然のように出た感想に、リョウは苦笑して見せるしかなかった。

「そうかもしれませんね。ワタシの祖国に限って言えば」

 無論、もっと視野を広げれば、現在進行形で戦争をしている国は沢山あった。

 だが、それも、日常生活とは縁のない時点で、どこか遠い世界の出来事に過ぎなかった。そう言う意味で自分は戦争を知らない。遠く離れた所に身を置いていたのだ。

「呆れましたか?」

 思わず漏れた本音に、ユルスナールは片方の眉を訝しげに上げた。

「何故だ?」

「端から見たら、ワタシの危機感の無さや世間知らずなところは、きっと目に余るものでしょうから」

 自嘲気味に微笑めば、

「それは、仕方あるまい。お前はこの国の民ではなかったのだから。そんなことは、これから幾らでも知っていけばいいだろう」

「そうですね」

 励ましとも取れる男の心遣いに、リョウは小さく微笑んだ。


 そして、徐に話の流れを少し変えた。

「ルスランは、どうして兵士になったのですか?」

 ユルスナールはその問いに、一瞬だけ、虚を突かれた顔をした。

 そして、どこか困惑気味に笑った。

「そんなこと…………考えたこともなかったな」

 そう言うと、手にした【クヴァス】にゆっくりと口をつけた。

「俺の家は、代々軍籍に身を置く家で、そこに男として生まれたからには、小さい頃からそういうものだとして疑わなかったからな。それに、俺にはこの職が性に合っていた。すぐ上の二番目の兄は、別の道に進んだが、長兄は同じように軍部に籍を置いている。だが、兵士であろうが、無かろうが、この国を思う気持ちには変わりはないがな」

「先の戦の理由はなんだったのですか?」

「こちら側の観点から見れば、宣戦布告されて応戦したというところが正しいか。当時、攻め込んできた隣国の王は野心家として悪名高かった。だが、本当の所は分からない。当時、外交上の懸案事項で政治的に折り合いがつかなかったのか。その辺りの真実は闇に包まれたままだ。戦争は見返りも大きいが、それ以上に失うものの方が大きいからな。大博打もいい所だ。それをしない為にまず、外交がある筈なのだが……」

 そう言って苦渋に満ちた表情を作った。

 ユルスナールの口振りから類推するに、この国は、必ずしも積極的に武力に訴えるという気風ではないようだ。

「この国は、その対外政策の中で、軍事に重きを置いている訳ではないのですね?」

「ああ。喜んで戦に出かけるものなどいまい。軍部と兵士が動くのは最終手段だ。それでも、戦いの火蓋が切って落とされれば、俺たちはこの国を守る為に命を賭して戦う。大事なものを守る為にな。俺はこの国の兵士であることに誇りを持っている。軍部に籍を置く男たちは、皆、そう思っていることだろう」


 そう締めくくったユルスナールは、実に男らしい晴れやかな顔をしていた。

 瑠璃色の双眸には一点の曇りも迷いも見当たらなかった。

 それは、経験と日々の弛まない訓練から導き出される自信に満ちた、覚悟を決めている男の横顔だった。

 リョウはそれを眩しいもの見るように目を細めた。

 それが、この国の兵士として身を置く男たちの心構えなのだろう。

 いずれ、この国の男たちが国を挙げての闘いに巻き込まれることがあるのだろうか。

 今後のことは分からない。それでも兵士であるユルスナールには、その覚悟が当然のようにあるのだろう。

 この時、リョウは、改めてユルスナールのことを強靭な精神力を持つ真っ直ぐな男だと感じたのだった。

「そろそろ、行くか?」

「そうですね」

 ゆっくりと腰を上げたユルスナールにリョウも続いた。

 それまでの重苦しい空気を払拭するように男を取り巻く気が柔らかさを増した。

「この後は、どうするんだ?」

「【ツェントル】に顔を出そうと思っているんですが」

「ドーリンか?」

「はい。あと軍医のステパンさんとイリヤさん、ウテナさんがいれば一応、挨拶をしておこうと思いまして」

 最後に上げたウテナの名前にユルスナールは眉を潜めたが、それを敢えて口には出さなかった。

「ドーリンのやつは、忙しいから捕まるか分からんぞ?」

「ええ、その時は、ルスランの方から、宜しくお伝えください」

「ああ」

 【クヴァス】売りに飲み終えた【チャーシュカ(カップ)】を返して、リョウとユルスナールは噴水の周りをぐるりと回って、ツェントルの方へ足を進めた。




 【ツェントル】では、ユルスナールに続いて中に入った。

 なんだかんだ言って、この場所にもかなり世話になったのだ。ここに来なければ、リョウはユルスナールに会うこともなかっただろう。それを思うと不思議な縁があるような気がしてならなかった。


 真っ先に団長室を訪ねたが、生憎、ドーリンは留守だった。

 部屋の中は主の性格をよく表しているようで几帳面な程に片付いていた。

 但し、部屋の中心に据えられた大きな執務机の上を除いては、だ。

 その場所だけ、決済待ちの箱の中からはみ出るようにして、書類が積み上がっていた。それだけで、この部屋の主の日常が忙殺される程の忙しさだということが垣間見えた。

 神経質そうな眉はきっとこの激務から来ているに違いない。そんなことを思った。

 ドーリンへはユルスナールの方から簡単に出立の旨を伝えてもらうことにした。


 それから、次に医務室を訪れた。

 軍医のステパンは中に居て、怪我をした兵士の治療中だった。

 リョウは治療の邪魔をしてはならないと思い、すぐに廊下に出ようとしたのだが、

「ああ。直ぐに終わるから待っててくれ」

 のんびりとした軍医の声が掛かり、ユルスナールも引き留めるように腕を引いたので、リョウは恐る恐る中に入って待つことになった。


「イテ、イテテ。おやっさん、もっと優しく」

「馬鹿を言え、こんなのかすり傷だろう。十分優しくしてやってるだろうが」

 そっと中を覗き込めば、立派な口髭の軍医が兵士の腕の傷口を消毒している場面に出くわした。

 中に入って来たユルスナールとリョウに、ステパンはちょうど良いとばかりに声を掛けた。

「ああ、ルスラン、あの棚から油紙と包帯を取ってくれ」

 立っているものは容赦なく使う積もりなのだろう。軍医の牙城では、その主であるステパンがヒエラルキーの頂点だ。

 大人しく、依頼に従うユルスナールの顔を見て、中にいたツェントルの兵士はぎよっとした顔をした。

「シビリークス隊長!」

 所属する部隊は違えども、第五師団の団長と仲の良いユルスナールは、この場所では広く顔が知られていた。

 ばっと背筋を伸ばして、敬礼をしようとしたまだ若い兵士をユルスナールは目線で制した。

「動くな。傷口に障る」

 だが、その心遣いも虚しく、手当ての途中だった兵士は、反射的に無理な動きをした所為か、突如として走った痛みに盛大に顔を顰めた。

「グゥ………」

「ほら、言わんこっちゃない」

 それを見て軍医は呆れたような顔をした。

 飄々としたステパンの横でリョウは兵士の腕の傷をそっと見た。

 刃物による金創だろう。漸く塞がったと思しき長い傷口は、周辺に膿が出ていた。

 恐らく、包帯の交換を怠ったのだろう。膿を丁寧に拭った後、消毒をしてから、化膿止めを塗る必要があった。

 だが、軍医は、消毒の後、そのまま包帯を巻こうとしたので、リョウは驚いて、口を挟む積りはなかったのだが、思わず声を上げてしまった。

「化膿止めはいいんですか?」

 ステパンはリョウの方をちらりと見ると緩く頭を振った。

「ああ、仕方がない。ちょうど今日で切れてしまってな、明日にならないと薬が入らないんだ」

 間が悪そうな顔をした軍医に、リョウは慌てて鞄を漁った。

「あの、少しですけど、化膿止めを持っているので、よかったら使って下さい。ワタシが調合したものなので、ちゃんとした薬にはかなわないでしょうが、少しはマシでしょうから」

 その言葉に軍医は目を見開いた。

「いいのか?」

 ステパンは確認するようにユルスナールに視線を投げた。

「リョウ、お前の方には余裕があるのか?」

 これから長い旅路に着くのだ。万が一のことを考えて、自分用に残して置く必要があるだろう。

 ユルスナールがそのことを仄めかせば、

「はい。大丈夫です。代わりのものがありますから」

「そうか」

 ユルスナールはステパンに一つ頷いて見せた。

「済まないな」

「いいえ」

「コイツに施すには、勿体ない気がするが、背に腹はかえられまい」

「ヒデェ、愛が足りない」

「何を言ってる。お前には、十分注いでやっているだろう」

 兵士と軍医の軽妙な遣り取りは放って置いて、リョウは手当てを優先することにした。


「ルスラン、油紙を」

 軟膏を手に取ったリョウは、ユルスナールから油紙を受け取ると、そこに傷口に合わせる形で薬を塗りつけた。

「少ししみますよ」

 一応、釘を刺してから、剥き出しになった傷口に軟膏を塗った部分の油紙を張り付ける。

「……ツゥゥ…………」

 その瞬間、兵士の口から堪え切れない小さな呻き声が漏れた。

 やはり、しみたようだ。だが、これは効き目があるのだ。アッカの時にその有効性はある程度、実証済みだったので、ここは我慢してもらうほかないだろう。

 そして、次にリョウはユルスナールから包帯を受け取ると、小さな呪いの文言を口ずさみながら、包帯を巻き始めた。

【ゴースパジ パミィルーイ ゴースパジ(慈悲深き 神よ)、

 フショー ブゥージェット フ パリャートケ (すべてが元の流れに還り)、

 プレェヴラチィーチ ヴ ルーチィシェイェ、ウマリャーユゥ(快方に向かわんことを祈る)】


 そして、まだ若い兵士の筋肉質な腕に包帯を巻き終えると、傷口のある部分にそっと(てのひら)を当てた。

 少しでも、傷口が良くなるようにと祈りを込める。

「はい。終わりました」

 リョウが小さく微笑めば、怪我をした兵士は、脱力するようなふにゃりとした笑顔を浮かべた。

「ありがとう」

「いいえ。包帯は面倒でもきちんと毎日取り替えて下さい。そうしないと、またすぐに膿が出てきてしまいますから。治りかけだからと言っても油断は禁物です。傷口から黴菌が入ってしまったら、患部が壊死する可能性があります。そうなると、最悪の場合は腕を切断しなくてはならなくなるでしょう。それにそれだけでは済まない場合だってあるんですよ。傷口から黴菌が入って、それが血液に乗って身体全体に回ってしまったら、命を落としてしまう場合だってあるんです」

 つらつらと出た具体的な内容に兵士がぎくりと肩を揺らした。

 そして、顔色をさぁーと青ざめた。

 リョウとしては淡々と今後起こり得るであろう症例を挙げただけで、脅した積りはなかったのだが、その若い兵士には効果覿面だったようだ。

 怪我を軽く見ると大変なことになる場合だってあり得るのだ。ただそのことを知って置いて欲しかったのだ。

「ですから、患部の衛生状態を良くするためにも、包帯は替えて下さいね」

「う………了解です」

 図星を突かれたのか、途端にばっの悪そうな顔をした兵士を見て、軍医のステパンが声を立てて笑った。

「ハハハ、別に膿んだらまた消毒するだけだ。今度は、遠慮なく、たっぷりやってやるぞ?」

「ゲェェ………遠慮します」

 その処置が、相当痛かったのだろう。途端に口元を引きつらせた兵士にリョウはユルスナールと顔を見交わせると小さく笑った。

 それから、治療を終えた兵士は、きちんと敬礼をすると、ほうほうの体で医務室を後にしたのだった。

 あれだけ脅して置けば、今度はきちんとするだろう。


「で、今度はどうした?」

 盥の中で手を洗った後、それを布巾で拭いながら、ステパンがゆっくりとこちらを振り向いた。

 軍医は、二人の突然の訪問を意外に思ったようだ。

「明日、この街を出ることになりましたので、お暇のご挨拶に」

 そう口にしてから、先だっては世話になったとリョウが改めて礼を口にすれば、ステパンはそうかと納得した後に、穏やかに微笑んだ。

「丁寧に済まないな。もう身体の方は大丈夫か?」

「はい。お陰様ですっかり。肩の腫れも一晩で驚く程に回復しましたから。頂いた軟膏のお陰です」

「そうか。それはよかった。薬の成分が大分効いていたようだったから、少し気になってはいたんだが、症状が一過性のものであれば問題はないだろう」

 一時はどうなることかと思ったが、大事に至らなかったことに軍医も安堵したようだった。

「あの、それで、その時のお礼とするにはお粗末ですが、もしよろしければ、こちらをお使い頂けたらと思いまして…………」

 リョウは鞄の中から薬草を入れている袋を取り出すと、その中から小振りな葉っぱを数枚取り出した。

 それは、凝固処理を施した【ストレールカ】だった。

 何か恩返しをしたいと思ったが、自分の持ち物の中身を考えたら、この薬草の方が少しは役に立つのではないかと思ったからだ。

「これは……………まさか…………」

 提示されたものに軍医の目が驚きに見開かれた。

 ステパンは、リョウの手から小さなギザギザの葉っぱを一枚摘むと、返す返す改めた。

「ひょっとして……【ストレールカ】か?」

「はい」

「しかも生じゃないか!」

 通常、薬師の間では、乾燥させたものを利用するのが一般的だった。この辺りでは、中々に珍しかったのかもしれない。

「凝固処理を施したので、解除をしなければ長持ちします」

「どうしたんだ! こんな貴重なものを。一体どこで手に入れたんだ?」

 ステパンの言葉尻には抑えきれない興奮の色が滲んでいた。

 リョウは内心、その反応の方に驚いていた。

 もしかしたら、国の中心部に近いこの辺りでは、この薬草は余り流通してはいないのかもしれない。

「家で栽培をしたものです」

「まさか、そんなことが可能なのか?」

「以前、薬草採りをした際に、駄目元で根ごと持ち帰って植え替えたら、上手く根付いたので」

「それは……すごい」

「先程の軟膏にも入れてあるので、よく効くとは思います。患部が少し熱を持つとは思いますが心配いりませんので、もし、さっきの方がいらしたら、そうお伝えください」

「そうか。しかし、いいのか? こんなに貴重なものを」

「構いません。家に帰れば沢山ありますから。それよりもお役に立てて何よりです」

「ありがとう」

 軍医は押し頂くようにして、小さな葉っぱを手にした。

 思った以上に喜ばれた事をリョウとしても嬉しく思った。

「それにしても、生の葉に凝固処理をするとは考えたものだ」

 感嘆の言葉を吐いた軍医にリョウは擽ったそうに笑った。

「乾燥したモノよりも生の方が断然、効き目が違うとは聞いていましたので、そのまま保存が出来ないかと思いまして。その時にふと思ったんです。試してみたら、殊の外うまく行ったので」

「成程な。ということは、キミは、いずれは薬師を目指しているのか?」

 軍医の真剣な眼差しに、リョウはそっと頷き返した。

「そうですね。今、自分の興味がその方向にあるので、取り敢えず、その道で独り立ちできればと考えてはいます」

「そうか。すると、まず【術師】の登録申請をする所からだな」

 そう言うと少し考える風に手を組んだ。

「ご心配には及びません。その辺りのことはこちらでも考える予定ですから」

 ユルスナールが間に入るように口にしていた。

 それをステパンは、面白いものを見るような目つきで見遣った。

 そして、リョウの顔と男の顔を順繰りに見遣った後、何やら一人、納得するように頷いた。

 そうして優しい笑みを浮かべると口髭の端を指でちょいと摘んだ。

「そうか。まぁ、何か困ったことがあったらいつでも相談に乗ろう。【ツェントル】の軍医と言えば分かるから、伝令を寄こしてくれても構わない」

「ありがとうございます」

 鷹揚に提案をした軍医にリョウは感謝の意を込めて微笑んだ。


 そうして、形通りの挨拶を交わした後、黒い頭髪を靡かせた人物は颯爽と医務室の入り口から消えた。

 続いて同じように背を向けた屈強な逞しい背中に、

「ルスラン」

 軍医のステパンは、呼び止めるように小さく声を掛けていた。

 振り返った先、そこにある軍医の顔には、いつにない真剣な眼差しが浮かんでいた。

 そこにある言わんとする言葉をユルスナールは正確に読み取ると、無言のまま、一つ大きく頷きを返した。

 そして、去り際、その口元を不意に吊り上げた。

 自信に満ち溢れたそのふてぶてしいまでの男の横顔に、ステパンは一瞬だけ、虚を突かれたような顔をしたが、直ぐに相好を崩すと可笑しそうに喉を鳴らし始めた。

 そして、片手を軽く一振りすると、右足を引きずって、自分の椅子に腰を下ろしたのだった。


 ステパンは机の上に置かれた小さなキザキザの葉を一枚手に取ると、それを陽の光に翳してみた。

 【凝固処理】とあの子は簡単に口にしたが、それがどれ程の意味を持つものなのか、あの様子では、きっと分かってはいないのかもしれない。

 つくづく不思議な娘だ。そう思わずにはいられなかった。

 ―――――願わくば、あの子の道筋が照らし出されますように。

 黒い瞳を持つ娘の柔和な顔立ちを思い浮かべながら、柄にもなくそのようなことを祈ってみたのだった。

 そして、今後、あの男の周囲で、何やら面白そうなことが起きそうな予感に、一人ほくそ笑んだのだった。


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