名残の刻
【エリセーエフスカヤ】での翌日から、リョウは旅立ちの準備を整えながら、この街、【プラミィーシュレ】滞在中にお世話になった人たちへの挨拶回りを開始した。その途中、街中を回る序でに当座の食料等も買う積もりでもあった。
元より荷物は最低限の少なさだ。ここに来て増えたものと言えば、カマールの師匠レントから貰った短剣だけ。それも右の太ももに巻いたベルトに付けているから荷物の内には入らないだろう。
ユルスナールから贈られた形になった夜会用のドレス一式と娼館の女主イリーナから譲り受けた使用人風の服一式は、悪いかとは思ったが、ユルスナールに託すことにした。
森の小屋では、そもそも必要の無いものであったし、なるべく身軽なまま帰りの旅路に着きたかったので、迷惑を掛けるとは思ったが、馬で来ているユルスナールたちに、それらを北の砦まで運んで貰えるように頼んだのだ。後日、取りに行くからと約束をして。
ユルスナールとブコバルの二人は、まだもう暫く、こちらに滞在するようだった。
ユルスナールの方は、カマールに預けている長剣の調整がまだ掛かるとのことだ。それに別件でも用事が残っているらしかった。ブコバルの方も似たようなものらしい。
二人の今後の予定を聞いた後、先に出立する心積り伝えたリョウをユルスナールとブコバルは当然のことながら、引き止めた。どうせなら、共に帰路に着いた方が安全面から見てもいいだろうと。
リョウの移動手段が徒歩であることを考えれば、馬を使う男たちの方が格段に早く着く。それに、ユルスナールとブコバルにしてみれば、この国では幼い少年に見えるリョウが一人旅をするのは、非常に危険に思えたからだ。
大きな戦が終わり、疲弊した国内も漸くここ十年で上向いて来た頃合いだった。治安も人心も一時に比べて格段に良くはなったが、物盗りや盗賊の輩がいなくなった訳ではないのだ。リョウのような如何にもなか弱い輩は、格好の餌食にされるだろう。恙無くここまで辿りついた行きの行程は、単に運が良かっただけかもしれないのだ。
ユルスナールは、心底心配をして、リョウに自分たちの用事が済むまでここで待ち、共に帰路に着くことを勧めたのだが、リョウは首を縦に振らなかったのだ。
リョウに万が一のことがあったらと考えるだけで、ユルスナールは異様な程に肝を冷やしたのだが、そんな男の心配を余所に、当の本人であるリョウは実に呑気なものだった。
余りに言い募るユルスナールを見て、仕舞には『大袈裟だ』と笑いだす始末。そして、自分にはヴォルグの長であるセレブロがいるから大丈夫だとまで笑顔で言ってのけたのだ。
リョウにしてみれば、ただでさえ、ユルスナールに迷惑を掛けているという自覚が多いにあったので遠慮をした積もりだったのだ。
だが、男の方にしてみれば、それは思いも寄らない展開であったようだ。
身体も心も通わせて、ユルスナールはリョウのなにがしかを理解出来たと思っていた矢先のことだった。通常であれば、そして、女であるならば、自分を頼り、その申し出を受けるであろう。基本的に女性はか弱い存在で守るべきもの。そういう常識を前提としたこの国の、とりわけ貴族階級の中で育ってきたユルスナールは、そう信じて疑わなかった。
だが、 元より独立心の強いリョウは、たとえ、男と以前よりも親密な関係を築くことに至ったとしても。いや、違う。それよりも、逆に親密な関係になったからこそ、必要以上の馴れ合いを良しとしなかったのだ。
親しき仲にも礼儀あり。今後、この場所で地に足をしっかりと着いて生きて行く為にも、自分で出来ることは自分で行わなければならない。それは、この国とは異なる環境に生まれ、育ったリョウの信条でもあった。
過度の依存は互いに悪い影響を及ぼす。最初の内はいいかもしれないが、長い目で見れば、それは両者を疲弊させる綻びになり得た。
束の間の関係であれば、それでいいのかもしれない。だが、リョウとしては、ユルスナールとの関係をそのような浅いもので終わりにしたくはなかったのだ。
それが、環境は異なれども、それなりに長い時間を自立して暮らしていたリョウの導き出した相手との距離感だった。
その辺りのリョウの下した線引きをユルスナールは当然のことながら理解出来なかったのだ。
一人、帰路に着く。そう告げられた時のユルスナールの衝撃は、いかばかりであったろうか。
表情は余り変わらないながらも、余りの落胆ぶりに、あのブコバルでさえ、軽口を叩くのを忘れた位だった。悄然とした幼馴染の姿を見て、ブコバルはなんとも言えない顔をして慰めるように相棒の肩を叩いたのだった。
その後も、ユルスナールはリョウに考えを改めるようにと説得を試みていたのだが、その努力を裏切るかのような出来事が出現してしまったのだ。
というのも、リョウが頼りにしていると言い放ったヴォルグの長であるセレブロが、この街に現れたからだ。
しかも、驚くべきことに、人の形を取って。
ユルスナールは、宿屋の敷地内の奥まった所にある厩の前で、リョウの隣に仲睦まじそうに寄り添う長身の男の姿を認めて、愕然とした。
セレブロは、白い光輝く長髪を緩く靡かせ、ゆったりとした長衣を腰に巻いた帯で留めていた。その上からガルーシャが身に着けていたような長い外套を羽織っていた。
要するに術師のような格好だった。
話には聞いていたが、実際にその姿を目にするのでは衝撃の度合いが違ったのだ。
リョウにとっては元より予定などない旅であったが、余りにも長い逗留にセレブロの方がどうも痺れを切らしたらしかった。それに、ここ数日のキナ臭い動きを感じたのだろうか、用心棒よろしく自らが迎えを買って出たということだった。
セレブロの隣にいるリョウはいつになく嬉しそうで、ユルスナールとしては、仕方がないと分かってはいても、内心、面白くはなかった。
だが、そんな心の内の葛藤を顔に出すことはしなかった。男の意地をかけたやせ我慢ではある。
そうして、ユルスナールは複雑な心の内を胸内に隠しながら、渋々とリョウの出立を認めたのだった。
無茶なことは絶対にするなときつく約束をさせて。
そのような訳で、ユルスナールは方向転換をせざるを得なかった。そして、出された結論が、残り少ない時間を共に過ごすということだった。
そういう具合で、往来に出たリョウの傍には、銀色の髪をした長身の男が寄り添うように連れ立っていたのだ。
リョウは、まず、鍛冶職人の寄り合いにいるレントの元を訪れた。
帰郷の旨を告げれば、レントはただ一言、そうかと笑っただけだった。
「達者でな」
「はい、レントさんもお元気で」
「ああ」
「また顔を出しますから」
リョウは、滲み出そうになる涙を堪えて、穏やかな笑顔を浮かべた。
恐らく、レントとは、これが最後の別れになるだろう。
互いに口に上せる言葉とは裏腹に、リョウにはそんな予感がしていた。
だが、そんなことを払拭するように明るい笑みを浮かべた。
「帰ったら、薬湯用の薬を送りますね。知り合いの鷹を伝令にしますから、レントさんの朝のお友達にも伝えて置いて下さい。いきなりだと、きっと吃驚するでしょうから」
恒例の朝のお喋りの時間に大きな鷹が現れたら、小さな鳥たちは飛び上がって腰を抜かすだろう。
「ちげぇねぇ」
レントは、小さな姦しい小鳥たちのことを思い出してか、可笑しそうに笑った。
そして、ふと、何を思ったのか、部屋の戸口の前に控えていたユルスナールの方を見遣った。
「おめぇも、もう立つのか?」
その問い掛けに、ユルスナールは静かに首を横に振った。
「いえ。もう少し此方に。まだ調整が必要なので」
「何でぇ、坊主の方が先にけえっちまうのかよ。むさ苦しいったらありゃぁしねぇなぁ」
片方の眉をくいと跳ね上げて、相変わらずの憎まれ口を叩いた男に、ユルスナールは飄々と肩を竦めて見せるだけに留めた。
そしてレントは再び、寝台の傍に座ったリョウへ視線を向けた。
「おめぇは、ガルーシャのおんぼろ小屋までけぇるんだろ? 確か、スフミのずぅっと先にある」
「はい」
「まさか、一人じゃねぇだろうな?」
心なしか心配そうに目を眇たレントに、リョウは案ずることはないと微笑んだ。
「大丈夫です。迎えが来ましたから」
その言葉にレントは目を丸くした。
「ああ? 迎えって、あんなとっからか? まさかぁ森の狼とかじゃぁねぇだろうなぁ? んな、辺鄙など田舎から出てくるなんざぁ、余程のこったぁ。豪気なことだせ」
当たらずとも遠からず。セレブロは似たようなものだろう。
そんなことを言ったレントに、リョウは可笑しそうに笑った。
「似たようなものですかね」
「ハハ、そうかい。まぁ、一人でねぇならいいか。ハッ、てぇと、おめぇはお役御免か、え?」
部屋の壁際に腕を組んで寄り掛かっていたユルスナールをレントはからかうように仰ぎ見た。
レントが、この両者の関係に関して、何を何処まで知っているのかは分からなかったが、ユルスナールが、レントの目から見ても、いつもとは違う行動に出ていることは、相当、滑稽に映っていたようだった。
屈強で強面の兵士然りとした男が、線の細い少年の傍に張り付いている姿は、やはり端から見れば異様なもので、柄にもないことをしていると思われているであろうとはユルスナールも分かっていた。
この男にとってみれば、そのような世間的な評価など取るに足らないことだったが、それを正面から指摘されるとなると少し違う。しかも相手は男の幼いころからの知り合いだ。
図星を突かれてか、押し黙ったユルスナールをレントはからかうように流し見た。
「まぁ、いいさ。おめぇの陰険なぁ面も、大概、見慣れてきた頃合いだしな。今更ってぇとこだろうがよ」
そう言うとからりと笑った。
それは、晴れ渡った冬空のように澄んだ笑みだった。
最後に、【パラ フェルメ ス リュークス(リュークスの加護がありますように)】――――――合言葉のような決まり文句を交わして、リョウは寝台に体を起こしたレントと抱擁を交わすとその両頬にキスを送った。
それから、ラリーサ、コースチャ姉弟の父親を訪ねた。
二人の子供たちの父親の踝の腫れは、事前に鷹のイーサンに聞いていた通り、思いの外、引いていて、リョウは安堵の息を吐いた。
手当てを施された父親の方も半信半疑のようだったが、翌朝、包帯を代えた時に物凄い量の膿が出て驚いたと言っていた。
人にとっては毒であった成分が薬の効き目によって不要なものとして排出されたのだ。人間に本来備わっている治癒機能、内部均衡を保とうとする力が、上手い具合に働いたようだった。
ガルーシャの呪いが思った以上に効いたのか、その結果は、リョウとしても驚く位だった。
今後は、同じように薬を塗って、暫く様子を見る外ないだろう。
完治には程遠いが、症状が少しでも改善したことを嬉しく思った。
何よりも、父親を始めとする家族の表情が明るくなったことが一番の収穫だった。
今回は偶々かもしれない。それでも、少しでも状況が好転したことは、今後、治療を続けて行く上でも励みになるだろう。それを思うと今回のことが家族にもたらしたことは大きかった。
リョウは、彼らにも帰郷の後、薬草を届けるとの約束をした。
直接送るよりも、レントの分と合わせて、鍛冶職人の寄り合に託した方がいいだろうか。
その辺りのことは、帰ってからきちんと考えることにした。
そして次に、カマールのところに行った。
「いつ立つんだ?」
工房の入り口から中を窺うようにそっと入ってきた黒い頭髪の影を捕らえるなり、中で作業をしていたカマールは、手を止めると顔を上げた。
リョウは一瞬、虚を突かれた顔をした後、『こんにちは』と挨拶をしながら、ゆっくりと微笑んだ。
「そろそろ、頃合いかと思ってよ」
中に入って来たリョウを促すように、カマールは立ち上がった。
「それに今朝方、スフミから催促の伝令がやって来た。そん中にお前が街を出たら知らせろって書いてあったさ」
リューバの手紙に何が書かれてあったのかは知らないが、ほんの少しだけ嫌そうな顔をして見せたカマールに、リョウは小さく笑った。
その昔、リューバには先読みの力があるということを聞いた。虫の報せのようになんとなくという感覚的なものだが、その辺りのことを何がしか感じたのだろう。
「明日にでも出立しようと思っています」
「そうか。寂しくなるな」
そう言って、無精髭の伸びた頬をつるりと撫でたカマールを見て、リョウは擽ったい気分になった。
心の中がほんのりと温かくて、むず痒くなるようだった。
「カマールさんにはお世話になりました」
深々と頭を下げたリョウにカマールは『よしてくれ』と言わんばかりにごつごつとした大きな片手を一振りした。
「何言ってんだ。改まって。世話んなったのはこっちの方じゃねぇか」
カマールにしてみれば寝床を提供しただけで、その間、家事の一切合切をリョウにやってもらったという自覚があったのだ。それに自分の仕事の不手際にリョウを巻き込んでしまったという反省もしていた。
だが、リョウは、そのようなことはまるでなかったかのように、にこやかな笑顔を浮かべていた。
「リューバに何か言伝はありますか?」
「ああ。そうだなぁ」
暫く、考える風にした後、
「ちょっと待ってろよ?」
そう言って、工房から母屋の方へ行ったカマールは、その手に小さな封書のようなものを持って戻って来た。
「こいつをおふくろに渡してくれ」
「はい。しかと承りました」
リョウは差し出されたモノを両手で押し戴くようにすると、その手紙を上着の内ポケットの中に入れた。
それから、カマールはゆっくりとリョウの傍に歩み寄ると、大きな手でその頬を包むようにした。
そして、不意に両頬の肉をくいと摘んだ。
「またこっちに顔を出せ。そうだな、遅くとも、次の冬ぐらいには。そろそろ、お前の短剣も手入れをしなくちゃなんねぇ頃だろうからよ。ちょうどいい。【シービリ】の旦那が来るのに合わせて一緒に来たら良いだろう。なぁ、旦那?」
そう言ってリョウの頬を摘んだまま、カマールは戸口付近に立っていたユルスナールの方を見た。
「そうだな。俺は毎年、この時期にここを訪ねるから、次回はリョウも連れて来よう」
対するユルスナールも鷹揚に頷いた。
そして、暫く頬の柔らかい肉の感触を楽しんだ後、鍛冶職人の太い指は離れて行った。
「ソーニャさんにもよろしくお伝え下さい」
「ん? あ、ああ。分かった。あいつの事だから直接見送りが出来ねぇって喚くんだろうがよ」
ソーニャの名前を出した途端、何故か微妙な反応をしたカマールは、動揺を取り繕うように諾と頷いた。
いつにないカマールの様子に、リョウは内心、首を傾げた。
あの後、二人の間で何がしかの遣り取りがあったのだろうか。それは分からない。ソーニャのことであるから、カマールには結局、何も告げていないのかも知れない。
リョウとしては、数日前、朝の中庭で洗濯を一緒にした時に、今度お見合いをすることになったと言っていたソーニャのその後が気に掛からないでもなかったが、それは自分が首を突っ込むことではないだろうと思い直した。
ソーニャが取った選択はソーニャのもので。カマールが下した決断はカマールのものだ。
だが、その軌道が少しでも掠ればいい。そう願わずにはいられなかった。
そうやってカマールの工房を辞した後、黒い頭髪と銀色の頭髪の傍目にはちぐはぐな印象を与える二人の姿は、今度は、露店が立ち並ぶ賑やかな界隈の中にあった。
リョウは、平台の上に山積みにされた様々な品物を見ながら、目を輝かせていた。
こういう市場はワクワクする。ここに暮らす人々が普段、何を食べているのかが分かるし、どういう生活を送っているのかが、垣間見えるからだ。人混みの中を歩くのは中々にコツが必要で大変だったが、物売りの威勢の良い掛け声や客との値引き交渉などの遣り取りを聞くのは、実に面白かった。
こうして見てみると、この街が豊かであることが良く分かる。物流も人の交流も盛んだ。
「リョウ。そっちじゃない」
ふらふらと彷徨いそうになる華奢な背中を時折、男の長い腕が繋ぎとめた。
ここで逸れたら、絶対に迷子になるであろう事は間違いなかった。人の多い場所では客の財布を掏るような輩もいる。リョウなど体のいいカモだろう。
窘めるように腕を引かれて、リョウは我に返るとばつが悪そうな顔をした。
「……スミマセン」
子供のようにはしゃいでいたことが急に恥ずかしくなって目を逸らせば、ユルスナールは仕方がないというように苦笑をして見せた。
だが、注がれる男の眼差しは、実に優しいものだった。
「ほら、手を貸せ」
ユルスナールは、そう言うと、有無を言わせずにリョウの左手を取った。
小さな手が、大きな手に包まれる。
このような人出の多い往来で手を繋いだ男を、リョウは不思議そうに仰ぎ見た。
ユルスナールが、そういうことをする人物には思えなかったからだ。少なくとも、人前では、だ。
「この方が逸れなくて済む」
それは実用的且つ、少しでも身体的接触を目論む男の欲求を満たすささやかな行為だった。
当然のように真顔で淡々と返した男の言い草に、リョウは可笑しそうに笑った。
そして、人目が気にならないではなかったが、男の提案に乗ることにした。
手を繋いだまま、二人して露店の間を巡って、携帯用に固く焼かれた【フレープ】、【シィール】、それから、干し肉と果物を少し購入した。
後は、リューバへのお土産になりそうなものがあれば探す積りだった。
露店を見て回っている最中に、リョウはふと、とある店先で足を止めた。
突然のことに繋がれた腕が引かれて、ユルスナールも動きを止め、振り返った。
「どうした?」
立ち止まったリョウの視線の先を追う。
そこに並んでいたのは、繊細なレース編みの布地を扱う露店だった。女ものの【プラトーク】や【シャーリィ】の類いが並んでいる。柔らかそうな毛織物らしきものもある。色は、生成りのような少しくすんだ白が主流だった。
「さぁさぁ、見ていって頂戴な。お手にとってどうぞ! 綺麗なレース編み。奥さんやお嬢さん。恋人への贈り物にはぴったり。これはみんな手編みですよ!」
恰幅のよい艶やかな頬をした女性が、ずらりと並んだ繊細な編み物を前に張りのある声を上げていた。
「おうや、坊や。どう? 綺麗なものでしょう?」
店先に立ち止まった線の細い少年の姿を見て、露店の女主は相好を崩した。
「………すごいですね」
細かな糸が緻密な文様を描き出す生地を見て、リョウは思わず感歎の声を上げていた。
「そうでしょう? さぁ、よかったら、お手にとってご覧なさいな」
「いいんですか?」
リョウは差し出された布地にそっと手を伸ばした。
それは、とても柔らかな肌触りだった。羽のように軽い。その昔、セレブロに教えてもらった【シフル】という獣の毛で編み込まれたものだろうか。冬場、ショールのように巻いたら暖かいのではないだろうかと思った。
「どう? 軽くて暖かいでしょう? 今の季節、お母さんへのお土産にちょうど良いわよ?」
女主はリョウのことを見て、里帰りをする子供と思ったようだった。
「これは、みな手編みで作られたものなんですよね?」
―――――――【ルーチナヤ・ラボータ】――――手仕事。
先程の女主の言葉を反芻してみる。
「ええ、そうよ」
女主は誇らしげに微笑んだ。その首元には、並んでいる商品と同じ白い【シャーリィ】が巻かれていた。
それは、素朴だけれども、どこか華がある繊細な代物だった。
リョウはそっと溜め息を吐いた。指先で複雑に編まれた模様を辿る。
こういう綺麗なものは基本的に好きだった。抑えていたはずの女心のようなものを刺激される。
「それが気になるのか?」
不意に影が差して、リョウはユルスナールを放ってしまったことに気が付いた。繋いでいた手もいつの間にか放してしまっていた。
――――――いけない。つい、ふらふらと。興味のままにうろついてしまった。
「ちょっと素敵だなと思いまして」
ばつの悪さと照れ臭さを隠すように、リョウは自分を見下ろす瑠璃色の瞳を仰ぎ見ると微笑んだ。
「これは、この辺りの名産だな」
リョウの手の中にあるものを見てユルスナールが言った。
「そうなんですか?」
「まぁ、旦那、よくご存知なんですね!」
艶やかな銀色の髪を靡かせた美丈夫であるユルスナールの登場に、露店の女主は俄然目を輝かせて、俄かに色めきだった。
「旦那、いかがですか? お一つ。奥様へのお土産にぴったりですよ!」
やはり、ユルスナール位の男であれば、既婚者、もしくは、決まった相手がいると思われるのが普通のようだ。
隣にいるリョウは、傍目には、小姓か見習いの使用人といったところだろうか。
店の主が狙いをより確実な方(要するにユルスナールだ)へと変えた。
「ぴったりだそうですよ? 旦那さま。奥様へのお土産に」
リョウは、からかうように店主の口振りを真似て、未だ独身者であるユルスナールを流し見たのだが、
「そうか。じゃぁ、お前が好きなものを選べばいい。店主、幾らだ?」
そう言って、女主にショールの値段を尋ねたものだから、今度は逆にリョウの方が慌ててしまった。
気になったのは確かだが、それをユルスナールに買わせる積もりなど全くなかった。欲しければ、自分で買う。その分のお金は持ち合わせていた。
「一つ、【パルトラー・メーディ】です」
銅貨が一枚と半分。物価から見ても、決して安い買い物ではない。
旅の途中で、銅貨【メーディ】の下に【メーラチィ】という単位の小銭があることを知った。【メーラチィ】が50で銅貨一枚になった。日常的な食べ物の類は、大抵、この【メーラチィ】の範囲で収まってしまうのだ。
「いいですよ、そんな」
懐から財布を出そうとする手をリョウは制した。
ユルスナールにはドレスのことといい、宿屋のことといい金銭的にも迷惑を掛け通しであったので、これ以上、甘える訳にはいかなかった。
「これから寒くなる。襟巻きの一つくらいは必要だ。ちょうどいいだろう?」
「ですが、これは女性ものですよね?」
そう言って、リョウはちらりと露店の女主の方を見た。
その言葉にユルスナールは『今更何を言うのだ』という顔をした。
ユルスナールの中では、リョウは女にしか見えないが、対外的には違うのだ。
これは可憐な少女が使うならいざ知らず、野暮ったい少年が身に付けるものではないだろう。自分のような者が手にするのは滑稽に映る筈だ。
そう思って店主の方を見たのだが、
「あら、坊やくらいの子だったら、大丈夫よ。とても似合うと思うわ」
興味を持った客を逃すまいとしてか店主がおべっかを使う。
そんな言葉など慰めにもならないだろう。
「これなんか、どうだ?」
ユルスナールは暖かそうな毛織物のものを手に取ると、リョウの首にあてがってみた。
「ああ。よく似合うな」
そして、一人、満足そうに頷く。
「暖かいですね」
リョウは首元に回されたふわりとした柔らかな感触に息を吐いてうっとりとした。
それがいけなかったのだろうか。
その隙に、
「これを一つ貰おう」
そう言って、ユルスナールが手早く会計を済ませてしまったのだ。
「まいど、有り難うございます!」
「ルスラン、ワタシが払います」
リョウは代金を払うと主張したのだが、ユルスナールは頑として値を受け取らなかった。
そのまま店先で揉める訳にもいかず、結局、折れたのはリョウの方で、
「ありがとうございます」
嬉しそうにはにかみながらも、礼を述べると、首元のショールをそっと撫でた。
そんな二人の遣り取りを女主は微笑ましそうに眺めていた。
その顔には、始終にこやかな笑みが浮かんでいた。
それもそうだろう。ユルスナール効果だろうか。店先で足を止めた目を引く男の登場に周囲にいた買い物客が物珍しそうに集まってきたのだ。女たちが店先に立つ銀色の髪の長身の姿を横目に入れながら、品物を手に取り始めたのだ。
思わぬ客寄せ効果にびっくり。急に密度を増して賑やかになった店先に女主の滑らかな口上が歌のように響き始めた。
リョウは密かにユルスナールと顔を見交わせて目を丸くした後、可笑しそうに笑った。
そして、そっとその場所を後にした。
それから、二、三の店を冷かして、リョウはリューバとアクサーナに土産を買った。