踊る影法師
「よぅ、大将。今夜もすっぽかされるかと思ったぜ?」
室内に入って来た人物の顔を見るなり、中に居た男の一人が、飄々とそんなことを口にした。
「済まなかったな。ルーク」
男としてはからかい混じりの厭味をぶつけた積りであったのだが、顔色を変えることなく淡々と返された相手からの反応に、男は、やってられないとばかりに天を仰いだ。
「かぁ~、この色男が。恐れ入ったぜ。旦那も隅には置けねぇな」
癖のない金茶色の髪がさらりと流れた。それに伴い長い髪で覆われていた筈の男の顔面の左半分、額際から眼の上を縦断するように斜めに走る引き攣れた古い刀傷が、ほんの一瞬だけ覗いた。
この部屋に来る前に簡単に汗を流したのだろう。まだ乾き切らない湿り気を帯びたくすんだ銀色の髪を手櫛で簡単に撫で付けただけの男からは、いつにない色気のようなものが憚らずに滲み出ていた。
浴室に備え付けられていたものだろう。石鹸の香りが仄かに男の方から漂って来る。
だが、そこに付随するように、心なしか気だるげな男の様子には、何処か退廃的な匂いが付加されていた。
要するに、早い話が、男が身に纏う空気は、如何にも束の間の情事の後と言わんばかりの風情だったのだ。
中に居た男たちは、良くも悪くも、皆、勘の良い者たちばかりだった。男から発せられる常とは異なる気配に、ここに来る前の男の行動の一部始終が手に取るように分かったのだろう。
だが、敢えて、そのことを面と向かって、この場で口にするような野暮な輩は居なかった。
――――――とある一名を除いては。
「中途半端に火ぃ点けとくと後が大変だぞ、ルスラン。今頃、悶々としてんじゃねぇか、おい」
――――――それはそれで美味そうだけど。
青灰色の瞳が何かを想像するようにうっそりと細められた。
無数の透明な糸のような緊張感が蜘蛛の巣のように周囲に張り巡らされた室内で、そんな惚けたことを口にすることが出来るのは、そう、皆さまの御想像の通りの男、ブコバル・ザパドニークである。
昼間に剃刀を当ててから、夜になって、もう薄らと濃さを増した無精髭の顎を摩りながら、何やら意味深な目配せをしたブコバルに、それを仄めかされた当人であるユルスナールは、無言のまま、若干の呆れを含んだ冷ややかな視線を投げた。
だが、次に何やら思い付いたというようにその口元に小さく笑みを刷いた。
「心配には及ばん。夜は長いからな」
そんな台詞を吐いて、額際に垂れ下がった髪をかき上げた。
幼馴染の容赦ないからかいもなんのその、余裕綽々の態度である。
「ぐはぁ~」
それを目の当たりにしたブコバルは、潰れたような声を上げると、あからさまに苦い顔をして顔を覆った。
だが、ブコバルが何かを言い返す前に、
「じゃれ合うのはその位にしておけ」
室内に冷静沈着な男の声が響いた。
中に居たもう一人の男、ドーリン・ナユーグが軌道修正をするように男たちの注意を引き付けたのだった。
「ああ。済まない」
ユルスナールは、そう言うと表情を引き締めた。
そして、同じようにブコバルも緩んでいた空気を改めた。
「【ラーパルト】」
再び、落ち着いた空気に、ユルスナールは、一人掛けのソファに片足を上げ、片膝を抱えるようにして座る男の方に向き直った。
あれから、【エリセーエフスカヤ】での食事会を終えた一行は、表玄関から外に出ると、入口付近の車止めに用意されていた二頭立ての馬車に乗り込み、ユルスナールとブコバルが滞在している定宿へと向かった。
その店から宿屋までの道のりは大した距離ではなく、十分徒歩圏内であったのだが、再び着替えるのが面倒だということで、そのまま正装で戻ることになったからだ。無論、男たちだけならば徒歩でも問題はなかったのだが、夜会用の服を着たリョウをそのまま連れて行く訳にはいかなかった為でもあった。
行きに身に着けていた服は、店に出入りする配達人に頼んで、後で纏めて送り届けてもらうように手配された。
そして、男たちは荷物の中から長剣だけを腰に佩く形になった。リョウも二本の短剣を手元に置いた。
リョウは【プラーティエ】の上から、ユルスナールが身に着けていた【シィネェーリ】を借りて羽織っていた。
上等な毛織物で出来たその外套は、肌触りも柔らかで温かく、仄かに馴染み深い男の匂いがした。
リョウは初めて目にする馬車に興味津々だった。
まずは御者台の方に回るとそこに繋がれている二頭の馬に世話になる旨の挨拶をした。
「よろしくお願いしますね」
『ああ』
『おやおや、お前さんは分かるのか。なぁに、任せておくがいい。わしらの仕事だ』
鷹揚に言葉を返した二頭の鼻面をリョウは微笑みを湛えながらそっと撫でた。
それから、リョウは男たちと共に中に乗り込んだのだ。
大きく見えた馬車も、大柄の男たちに囲まれれば、中はそれなりの圧迫感があった。
「ほら、リョウ。もう少し、こっちに寄れ」
リョウの隣にはユルスナールが座り、対面には向かい合う形でブコバルとドーリンが並んでいた。
三人の男たちの中で、一番体つきががっしりとしていて身幅があるのはブコバルであったので、その隣に収まったドーリンは些か窮屈そうであった。
「あの、代わりましょうか?」
縮こまったドーリンを気の毒に思ったリョウは、まだ小柄な自分がそちらに行った方が良いかと思い声を掛けたのだが、
「あ? なんだ。俺の膝の上に乗るか?」
頓珍漢な事を口走ったブコバルの言い草は放って置いて。
「その必要はない」
ユルスナールから低く否定の言葉を出されて、
「いや、………大丈夫だ。もうすぐだからな」
ドーリンは、ちらりとユルスナールの方を見た後、どこか居心地が悪そうに首を振った。
そうして、暫くガタガタと石畳の上を馬車は進み、宿屋の前で止まった。
道すがら【ツェントル】の前を通り、そこで官舎に戻るかと思われたドーリンは、その場所で降りることなく、一緒に宿屋まで来るとその中に入って来た。
男たちの口振りから、ドーリンは、このままブコバルが滞在している部屋に付いて行くらしかった。
「じゃぁ、またな」
「ごちそうさまでした。お休みなさい」
「ああ。お休み」
「ルスラン」
「ああ、分かった」
部屋の前で、形通りの挨拶を交わす。
そして、何がしかの遣り取りをした後、リョウはユルスナールに促されるようにして、再び、部屋に戻った。
その後、ブコバルの部屋へ集まる約束を交わしているらしいユルスナールは、簡単に汗と【エリセーエフスカヤ】で間接的に浴びた女たちの香水からの移り香を洗い流す為に浴室へ入ると、再び、部屋を後にしたのだった。
その時に、リョウは、何故かユルスナールに引っ張られる形で、半ば強引に浴室に連れ込まれてしまった。
この後直ぐに、ブコバルやドーリンたちと今宵の収穫について話し合いをするのだろう。こんなところで時間を無駄にしている訳にはいかないのではと、リョウにしてみれば至極もっともな提言をした積りであったのだが、対するユルスナールは何食わぬ顔をして、リョウのドレスに手を掛けると、驚くほどの速さで身ぐるみ剥いでしまったのだ。
そして、手早く自らも着ていたものを脱ぐと浴室に入り、浴槽の直ぐ上の箇所にあるお湯を注ぐ注水石ではなく、その遥か上にあるもう一つの注水石の方へ手を翳した。すると天井に設えられた細かく小さく穴が開いた場所から、温かいお湯が一気に降り注いできた。
それは、この国で初めて目にする『シャワー』とも言うべきものだった。
リョウは呆気に取られて、降り注ぐ温かい湯が出る場所を見上げた。ここにも同じようなものがあるとは思わなかった所為だ。
そうやって一瞬、天井に気を取られた隙に、リョウは身勝手な男の太い腕に捕らわれてしまったのだ。
それから、ユルスナールは、手早く身体に染みついた甘い移り香を洗い流した。そして、自分の身体だけでは飽き足らずに、ご丁寧にリョウの身体にまで手を伸ばしたのだった。
無論、健全な若さ溢れる男であるユルスナールが、幾ら紳士的で抑制の取れた男だとしても、好いた女を狭い浴室に引っ張り込んで、文字通り、単に汗を洗い流すだけで終わる筈はなく、リョウが食事前に恒例になっていた待合室での歓談で、集まった客の男たちから声を掛けられ、粉を掛けられていた場面を何度も目にして、内心穏やかではなかったことも拍車を掛けたのか、その時に疼いた嫉妬心を紛らわす為か、それなりの確認事項を含んだ身体的接触を試みたであろうことは、想像に難くなかった。
それから上機嫌さを隠すことなく、手早く身支度を整えた男は、ブコバルの待つ部屋に赴いたのだった。
一人、気だるげな様子のリョウを大きな寝台の中に残して。
そして、場面は、冒頭に戻る。
男たちが集うのは、同じ宿屋にあるブコバルが滞在する部屋だった。
「餌には食い付いたようだな」
静かに切り出したユルスナールに、一人掛けの椅子に座っていたルークは、愉快そうに目を細めた。
干からびた梢のような線の細い皺が、唯一顕わになった男の右側の目尻に表れた。
「ああ。すっかり話題はお前さんたちで持ちきりだ」
「お前の方は、ゲオルグとアファナーシエフの方だったな」
ゲオルグとはこの国の軍部、第三師団長の名前だった。そして、アファナーシエフは王都でも力を持つ名門貴族の一人である。両者とも軍部の諜報機関【チョールナヤ・テェニィ】の影であるルークが密かに追っていた相手だった。
「そう言えば、アファナーシエフの所の男がいただろう?」
ふと立ったまま窓辺に寄り掛かって腕を組んでいたドーリンが、思い出したように顔を上げた。
「ああ、ソルジェだ。あの男の懐刀の一本ってとこだろ」
打てば響く様にルークが答えた。
「取り敢えずの様子見か」
「そう考えるのが妥当だろうな」
「余り収穫はあるまい。それより、アシュケナージの傍に張り付いていた女がいただろう。どこかで見た気がするんだが……」
そう言えばと言うように、二人掛けの長椅子に腰を下ろしたユルスナールが長い脚を組みかえた。
アシュケナージとは、この街の有力者である男の名だった。
代々この街を拠点に発展してきた豪族の一人で、この街に集まる金属鉱石の取引に多大なる影響力を持つ一家だった。
「ああ。ありゃぁ、ゲオルグのコレだろうよ」
そう言って、ブコバルが右手の薬指を立てた。
それは、この国では情婦を表わす隠語的な符号だった。
「ああ。そうか」
ブコバルの指摘に、己が記憶を辿っていたユルスナールの中でも該当者がいたようだ。
そして、ぽつりと呟く。
「相変わらず趣味が悪い」
「ありゃぁ、昔っからだろうよ」
顔を顰めたユルスナールに、ブコバルが可笑しそうな視線を投げた。
「そういやぁ、ボストークニんところのイカレ坊主とも鉢合わせしたみてぇじゃねぇか」
ルークからのからかい混じりの言葉に、ユルスナールは途端に嫌そうな顔をした。
「珍しく鼻が利いたようだな。向こうの方から挨拶に来た」
まぁ、幾ら鈍い男だとしてもあれだけ周囲が騒いでいれば、嫌でも耳に入ることであろうことは明らかだった。
「アレは、誰と約束をしていたんだ?」
不意に気になった事を聞いてみれば、
「ああ。相手は、どうもアシュケナージらしいぜ。なぁ、旦那」
ルークが確認をするようにドーリンを見遣れば、【ツェントル】の所長として部下を内部に配置させていたドーリンは、その役を担っていたウテナから報告を受けたのか、その言葉を肯定するように頷いて見せた。
「ああ。間違いない」
「そうか」
王都からこの街【プラミィーシュレ】にやって来た貴族が、街の有力者であるアシュケナージに挨拶をするのは、ごくごく普通のことだった。
レオニード・ボストークニがこの街を訪れた目的は、長剣を誂える為の鍛冶屋を探しているとのことだった。恐らく、この街の鍛冶職人の寄り合いと武器商人たちにも顔が利くアシュケナージに、何がしかの口添えを頼む積りなのかもしれなかった。カマールとの一件を聞いた後は、余計にそう確信したのだ。
そして、レオニードが去り際に残した【来月、スタリーツァで会おう】という言葉。
今後、待ち受けているであろう事態にユルスナールは、内心、憂鬱になった。
それは、来月の末に王都【スタリーツァ】で開催される武芸大会のことを示していた。
毎年、この冬の一時期に、王都では国内軍部の各師団から選抜した腕に覚えのある兵士たちを集めて、その腕を競わせる武芸大会が開かれていた。
それは、国内兵士の士気と各師団の統率を高めるお祭りのようなものだった。
競技は、師団毎の団体戦の他、自由参加を募る個人戦の枠もあり、そちらは勝ち抜き戦で競われた。そこで技量を見込まれた傭兵などが、改めて国の軍部へ登用されることもあった。要するに寒さの厳しくなる冬に行われる王都での一大行事でもあった。
ユルスナールは、毎年、その大会に参加をする常連者であったのだ。そして、レオニードも同じだった。
積年の因縁を、剣を交えた場所で果たそうとでも言うのだろうか。
ユルスナールとしては、何故そこまでしてあの男が自分に拘っているのかが、全く理解できなかった。 だが、正々堂々真正面からぶつかってくる相手をひらりとかわそうとは思わなかった。
煩わしいことに違いなかったが。
それから、今後の方針を簡単に打ち合わせて、秘密裏に持たれた男たちの会合はひっそりと終わりを告げた。
発光石の明かりを極力落とした室内、いつも通り、慣れた闇の中に潜んだルークは、去り際、意味深な笑いを漏らしてユルスナールを見た。
「ご苦労だったな」
「ああ。かまやしねぇさ。それより、旦那、待たせてんだろう? 可愛い小鳥を。ありゃぁ良い声で啼く」
その言葉に、ユルスナールは一瞬、虚を突かれた顔をした。
そして、すぐさま男の真意を悟った。
詰まり、昨晩、ルークは自分の部屋を訪れていたということだった。恐らく、あの最中に、だ。
昨日の昼間、この男が自分の所に来るであろうことはブコバルから聞いていたのだ。忘れていた訳ではなかったが、あの時、すっかりその事が頭から抜け落ちていたことは確かだった。
内心、ばつが悪い思いをしながらも、ユルスナールはそれを面に出すことなく、
「済まなかったな」
もう一度、そんな謝罪の言葉を口にしていた。
それを見たルークは小さく可笑しそうに掠れた笑い声を漏らすと、再び、来た時と同様、深まる闇の中に消えたのだった。
お知らせ:本編の中で少し触れたリョウとユルスナールの浴室での顛末はムーンライトノベルズの方で連載しているMessenger の短編集、Insomnia の方に載せています。もしよろしければ、そちらもどうぞ。