紺碧に染まる
とうとうこの場面に来てしまいました。皆さま、心の準備はよろしいですか?
差し込む朝日に、リョウは唐突に覚醒した。ぼんやりとしたまま目を数回瞬かせて、そこに飛び込んできた景色に、まず違和感を覚えた。
見上げた天井は、カマールから宛がわれていた一室の大きな黒い染みの付いた板壁ではなかった。その代わりに目に入ってきたのは、繊細な文様の入った壁紙だ。品のある薄い水色の地に金色の唐草のような文様が絡み合っていた。
その文様を漫然と見遣って。
そこから、ゆっくりと視線を巡らすと、鈍く光を湛える銀色が映った。
そして、そこで、いつもとは違う感触に初めて気が付いた。
自分の身体に回されている太い男の腕。抱き込むようにして回る筋肉質な固い腕。適度な弾力と温かさが、剥き出しになった肌を通じて伝わる。
少し、目線を上にして、そこに見えた柔らかな枕の中に沈み込む、どこか作り物めいた造形に、リョウは再び目を閉じた。
緩く息を吐き出す。昨晩の記憶を掻き合わせて統合するように。
少し離れたソファの上には、簡素な男物のシャツが無造作に置かれていた。原形を留めていない唯の布地の塊が、差し込む朝の光に恥じらうように、立ち上る揺らぎを反射していた。
腕を動かそうとして、身体が酷くだるいことに気が付いた。喉がひりつく様に、渇きを覚えていた。
昨晩の記憶が、時を巻き戻すように湧き出て来る。
この身体を巡る熱の余韻が、燻るようにして熾き火の如くまだ残っていた。現と夢の間の限りなく薄い狭間で、身体がばらばらになりそうな程の疲労感の後に得られたのは、胸を締め付けられるような切なさと泣きたくなるような安心感だった。
相反する二つのキモチ。揺らぐ天秤に乗るように錘が弾む。
抱えきれない程の熱を与えられた。幾度となく。溢れんばかりの火傷しそうな位の熱を。半ば強制的に。それでも最終的に受け入れたのは自分の意志だった。
リョウは再び緩く息を吐き出した。シーツの下、素肌の胸が緩く上下する。
それから、ゆっくりと寝返りを打った。
直ぐ傍には正確な鼓動を刻む男の艶やかな胸部があった。鍛え上げられた肉体の衣を纏った命の源。それへ掌をそっと押しつける。
――――――トクン、トクン。トクン、トクン。
その緩やかで弛まない心音に自分の血流を合わせるように目を閉じた。
そうして暫く、そのリズムを堪能していると、ゆっくりと身体を上に引き寄せられた。
剥き出しの肌が重なるしっとりとした感触に小さな息が漏れる。解いていた髪が、突如としてその存在を主張するように簾のように垂れ下がった。その感触を楽しむように男の大きな手が、緩慢な動作で、その髪を後ろへ流すように梳いた。
至近距離で、閉じられていた男の瞼がゆっくりと上がる。
視線が合うと静寂を湛えた瑠璃色に光が灯った。
男の薄い唇が弧を描いた。
「おはよう」
「お…は…よう……ございます」
第一声は、酷く掠れていた。
確かめるように喉に手を当てたリョウに、ユルスナールは、隠微な微笑みを浮かべた。
「無理をさせたな」
男の長い腕が寝台の傍に置いてあった水差しに掛かる。そして、細い注ぎ口の部分に直に口を付けて喉を潤すと、そのままリョウの口を塞いだ。
少し温くなった水が、かさついた喉を通る。それを幾度か繰り返して。
不意に違う意味を持ち始めた舌先に、リョウは大人しく閉じていた目を開いた。
「ル……ス…ラ……ン」
切れ切れになった声は、いつもの音域を取り戻し始めていた。
だが、男の攻勢は止まる所を知らない。大きな骨ばった男の手が明確な意図をもって動きだす。
「もう、朝」
「気にするな」
小さく上がる抗議の声をいとも簡単に封じ込めて。
まだ覚醒途中の華奢で柔らかな肢体を、再び組み敷いた。
「いいだろう?」
耳元で囁かれた強請るような言葉に、リョウは自分を見下ろす男の顔を真正面から見た。
鼻先が触れる。その間も、男の手は、壊れ物を扱うかのような繊細さで這い回る。
「も……無…理」
昨晩と同じ色を持ち始めた瞳をもうまともには見てはいられなくて視線を逸らす。がら空きになった首筋を男の薄い唇が食んでいった。
「大丈夫だ」
身勝手な男の甘い声。この低い声が、昨夜は何度も脳髄を侵した。
この男が、冷酷で淡泊そうな仮面の下に、驚くほどの激情を隠していることを改めて思い知らされた。
だが、それに触発されるようにして再び鳴りを潜めていた筈の熱が引き摺り出される。自分でも意識していなかったその疼きを持て余すように、リョウは目を閉じた。
ユルスナールと一線を越えた。それは、リョウにしてみれば、半ば予想をしていたことには違いなかったが、その実、思わぬ方向で迎えた展開とも言えなくもなかった。
ブコバルが意味深な笑みを浮かべてから部屋に戻った後、リョウは、ユルスナールの言葉に甘えて、先に風呂を使った。
沢山の情報を一気に浴びて、頭が爆発しそうだった。混乱した思考を少しでも整理したかった。
気が付いたら、自分だけでは到底処理できない所にまで事態が進んでいて、それをいきなり知らされても困惑が募るばかりだった。
少し長湯をした所為か、のぼせそうになった身体を引き摺るようにして部屋に戻る。
「お先に頂きました」
端のテーブルの前で、何やら真剣な表情で、ブコバルが【ツェントル】のドーリンから持たされたという書類を繰っていたユルスナールが顔を上げた。
リョウは、ユルスナールが座っていた反対側のソファに、ぐったりと身体を凭せ掛けた。
「大分長かったな。湯当たりでもしたか?」
からかうような言葉と共に水の入ったコップを差し出されて、リョウは有り難く受け取るとそれを飲み干した。
「色々考えていたら、随分と長く浸かっていたみたいです」
「まぁ、無理も無い。今日は流石に色々あり過ぎたからな」
レントの見舞いに行ってから、ラリーサ・コースチャ姉弟の家に行って、それから、往来で拘束されて、イリーナの娼館に連れ込まれたのだ。
確かに、思い返すのも大変な程、濃過ぎる一日だった。今日一日で確実に寿命が縮んだ気がする。
ソファに沈み込んだリョウを見て、ユルスナールが密かに笑った。
その男らしい微笑みをリョウはぼんやりと眺めていた。
全てを聞き終えた後、途端に不安そうな顔をしたリョウに対して、ユルスナールとブコバルは心配することはないと言った。
――――――お前をこの国の政治に巻き込む積りはない。何としてでも阻止してやる。
――――――ああ。北の砦にいる俺たちがお前の盾になってやる。
だから、心配するな。
堂々と自信たっぷりに告げられた男たちの台詞は、眩しい程に頼もしかった。
「ありがとうございます」
二人の気持ちを受けて、リョウは気分を上昇させた。
そして、新しく気を引き締めたのだった。
ただ、守られている訳にはいかない。今後、この国で暮らして行く上でも、自分の身を守る為にも、状況を整理し把握することは必要だった。それに、もっと勉強をしなくてはならない。そして、この国のことを知らなくては。術師になるという目標もあった。
いつまでも気に病んでいても仕方がないのだ。漠然とした不安に怯えるだけでは意味が無い。いかにして今後、起こり得る面倒事を回避するか、不測の事態にどう対処するか。考えておくべきことは沢山あった。悩んでいるよりも、今、出来ることを探した方が、余程、建設的だ。今後のことは成るようにしかならない。生来の楽天的な性格がここでも幸いした。
それに今、自分が独りで無いことが何よりも心強かった。
「じゃぁ、俺も入って来るか」
そう言って、シャツ一枚で寛いだ表情を浮かべていた男の逞しい背中が、浴室へと消えゆく様をそっと目で追う。
――――――大丈夫だ。
呪いを口にするように心の内で唱えると、リョウはそっと目を閉じた。
ユルスナールが風呂から上がって来た時も、リョウはそのまま、ソファに凭れてぼんやりと座っていた。まだ、どこか心ここにあらずと言った具合だった。精神的にも肉体的にも思った以上に消耗したようだった。
濡れて張り付いた髪を男が掻き上げる。風呂上がり、シャツを軽く羽織っただけの姿。逞しく引き締まった肉体が、惜しげも無く眼前に晒されていた。
その時になって、リョウは、唐突にこの男とこの部屋で一夜を過ごすのだということを意識した。
北の砦で最後の夜を過ごした時は、酔っ払った末に寝てしまったし、この間、この部屋に泊った時は、薬の影響でふらふらだった。二回とも、朝目覚めたら、ユルスナールと同じ寝台の中にいた。それでも、こうして夜もまだ更けない内からまともに意識を保っているのは、初めてのことだった。
鼓動が不規則に跳ね上がるのが、自分でも分かった。
明るい日差しの下、日の光を浴びて銀色に輝く髪も、今はしっとりと濡れて深い艶を放っていた。
精悍な男の輪郭を張りついた髪から滴り落ちる水滴が伝う。その姿は、艶めかしく、何とも形容し難い【雄】としての色気を放っているように思えた。
人間が視覚と反射の生き物だと思い知らされるのはこういう時だ。無意識に視線が吸い寄せられている。意識が、目の前の男に釘付けになっていた。
ユルスナールは、首に下げたタオルで髪の毛を些かぞんざいに拭いながら、リョウの座るソファの傍に歩み寄った。
「どうした、リョウ? 疲れたか?」
自分が座っていた場所がぎしりと揺れて、ユルスナールがソファに腰を下ろしたのが分かった。
リョウは、どこか惚けたように男の動きを目で追っていた。
男が柔らかく微笑む。
濡れたままになっていた洗い髪をユルスナールがそっと手で梳いた。そのまま男の指が擽るように首から項を撫でる。
そして、その指が、肌蹴た襟元をぐいと押し下げた。
「前から気になっていたんだが、これは何だ?」
男の長い指が指し示す場所には、肌の上を紋様のような飾り文字が鈍い光を放っていた。
その視線の先にあるものを同じように辿って、
「ああ。これはセレブロの印封みたいなものです」
リョウは小さく微笑んでいた。
「セレブロ殿の?」
「はい。以前、セレブロがワタシに加護を授けてくれた時に現れたものです。これは、その証みたいなものなのだとか」
「加護とはなんだ?」
ユルスナールから静かに問われた。
詳しいことは良く分からないが。
そう前置きしてから、リョウは自分が理解している範囲のことを告げた。
「お守りみたいなものだとセレブロは笑っていました。これがあるとセレブロにはワタシの所在地が分かるのだそうです。そして、ワタシの身に万が一のことが起きた時にも分かるようになっていると言っていました」
リョウは懐かしむように、不可思議な紋様を指で辿った。
リョウの脳裏には、この街に入る二日前、街道沿いでひっそりと暫しの別れを告げた光り輝く白い毛並を持つ気高きヴォルグの長の姿が思い浮かんでいた。
「ここに刻まれているのは、セレブロの名前だそうです。ガルーシャを失って沈んでいたワタシのことをセレブロなりに気遣ってくれたのだと思います」
その説明を聞いて、ユルスナールは呆気に取られたようだった。
「………そんなことが出来るのか? しかし、どうやって?」
「ルスランは聞いたことがありませんか?」
「ああ。シーリスの奴なら知っているかもしれんが、俺には初耳だ」
そう言って、まじまじとリョウの肌の上にある紋様を眺めた。
「そうですか」
「しかし、加護とはどうやって授かるんだ?」
ふとしたユルスナールの問いに、リョウはそっと目を伏せた。
「………知りたいですか?」
「ああ」
言ってしまってもいいのだろうかとの思いが掠める。
はっきりとこの男の前で口にするには躊躇いの方が大きかった。
興味深そうに注がれている男の視線に、リョウは内心、狼狽えた。それをなるべく顔には出さないように気を付けながら、当たり障りのないような言葉を慎重に選んだ。
「あれは、…何と言うか……儀式のようなものでした。セレブロの精をこの身に受け入れて、同調させるんです」
「どういうことだ?」
不思議な色合いを帯びたリョウの瞳に、ユルスナールは怪訝そうに眉を寄せた。
やはり、事実を端的に述べた積りでも曖昧に濁した言葉では、相手には伝わらなかったらしい。
そして、不意に話の流れを変えた。
リョウにしてみれば話の糸口を繋げる積りだったのだが、ユルスナールにしてみれば、それは些か唐突に思えるものだった。
「セレブロが人の形を取れるのは、ご存知ですか?」
「……………なん…だ……と?」
目を見開いたユルスナールの反応にリョウは内心、しまったと思った。
どうやら、セレブロは人の世界にとっても規格外で謎の多い存在であるらしい。
「白く光輝く体毛はそのまま髪の毛に、そして虹色に変化する灰色の瞳も同じ。じつに綺麗な男の人です」
これまでにその姿を目にしたのは、二回だけであったが、その時の印象は強く残っていた。人の形を取っても、その姿はどこか神秘的で神々しさに溢れていた。
途端に、恍惚に似た表情を浮かべたリョウを見て、ユルスナールは面白くないと言わんばかりにその小振りな鼻を摘んだ。
「ほう?」
気に食わないというように、男が鼻先で、底冷えのする笑みを浮かべた。
「セレブロ殿の男振りは分かった。だが、何故、そんな顔をする?」
加護を貰った当時のことを思い出していたリョウは、気まずそうに視線を逸らした。
その目元が、ほんのりと赤く染まっていることをユルスナールは見逃さなかった。
そして、生来の勘が冴え渡り、唐突に先程の説明と目の前のリョウの反応に、男の中で閃くものがあった。
「…………まさか」
小さく呟かれた言葉に、華奢な肩がピクリと震えた。その反応は、男の導き出した仮説を肯定したようなものだった。
不意に頭をもたげてきた嫉妬に似た感情に男を取り巻く空気が冷えた。
「何を思い出していた?」
男の酷薄そうな面がずいと寄ってきた。
その迫力にリョウはたじろいだ。
「言っても……いいですけど………軽蔑しませんか?」
どこか決まり悪げに告げたリョウに、
「軽蔑するようなことなのか?」
意地が悪そうに男の口が弧を描く。
ああ。多分、気が付かれてしまった。感の鋭い男のことだ。きっとその方法については、見当が付いているに違いない。
内心、酷く狼狽しながらも、妙な誤解はされたくなくて、リョウはしどろもどろに口を開いた。
「どうでしょう。すごく潔癖な人は無理かもしれませんが、男の人ならば問題が無いと思います。でも、女の場合だと…………その………」
この国に於いての男女の貞操観念はどうなっているのだろうか。そんなどうしようもないことが頭に浮かんでくる。
「ん?」
「あの、ルスラン。どうか気を悪くしないで下さいね?」
何だか、リョウは浮気を咎められているような気分になっていた。いや、現実問題そこまでの関係性には至っていない訳だが、気持ち的には、男の方に全面的に傾いている所為である。第一、今、心惹かれている相手に対して口にできるような事柄ではないだろう。例えそれが儀式のような神聖な意味合いを持っていたとしても、行為としては変わらないのだから。
どうしたものか。
徐々に怪しくなって行く雲行きにリョウは途方に暮れた。
だが、幸いにしてユルスナールは怒っている訳ではなさそうだ。完全にこの状況を面白がっているような空気が、まだ救いだと言えた。
窺うようにそっと見上げた先、瑠璃色の瞳の奥に怪しい光が煌めいているように見えた。
それを目にした途端、リョウの身体は無意識に粟立った。
「それは、聞いてみないと分からないな」
「………じゃぁ、言えません」
リョウは居たたまれなさにフイと横を向いた。
「そうか」
少し、考えるような素振りを見せた後、ユルスナールは、どこか楽しそうに小さく喉の奥を鳴らした。
そして、長い腕を伸ばしてリョウの身体を抱き上げると、そのまま有無を言わせずに寝台へと向かった。
長い男の足で五歩。直ぐにその縁に辿りつく。
それから、そっと華奢な身体を柔らかな寝具の上に下ろした。
簡素な男物のシャツ一枚を寝間着代わりにしていたリョウの姿は、大きな寝台の上では酷く無防備にユルスナールの目に映った。
「ルスラン?」
「ん?」
男の只ならぬ気配を感じてか、無意識に後ずさった小さな体を、ユルスナールは隠微な色気溢れる笑みをその口元に刷いて見下ろしていた。
そして、殊更ゆっくりとその身体で寝台の上に乗り上げると、その耳元で囁いた。
「ならば、直接、聞いてみようか。お前の身体に。夜は長いからな」
そうして、男の強引な甘い責め苦が始まったのだ。
早々に根を上げたリョウが、本当のことを明かせば、それがまた男の行為に拍車を掛けることになってしまった。
そして、恐ろしいまでの甘美な時間は明け方まで続いたのだった。
お知らせ:この場面での続き、もう少し詳しい描写を入れたものを、同じ系列の”ムーンライトノベルズ”さんのほうで書いています。もしよろしければそちらの方も覗いてみてください。女性向けにR18の小説を集めたサイトさんです。大人向けの性描写を含む作品を扱っています。
タイトルは Insomnia ~Messenger short stories~
Messengerの本編に内容をリンクさせた少し大人向けの短編集になっています。