波紋の行方
暫く、そうして昂ぶった気持ちを落ち着けた。
互いの抱擁を解いた二人は、少し照れ臭さが眦に残るものの、どちらも穏やかな表情をしていた。そして、そこには、以前よりも少し踏み込んだ信頼関係が構築され始めているように思えた。
「そう言えば、話が途中でしたね」
リョウは、停滞した流れを再び元の位置に戻すように、言葉を継いだ。
「ああ。そうだったな」
いつもの冷静さを取り戻したユルスナールも同意するように小さく笑った。
話はちょうど、リョウが身の上を語った所で終わっていた。その内容が想像を遥かに超えることであった為、少し脱線をしてしまったが、元々の話題は、ガルーシャという男のこの国での立場の話だった。ガルーシャに拾われて、共に暮らしたということが、今後、リョウの日常に及ぼしてしまうであろう影響を伝えることだった。
そんな時、ちょうど測ったかのようなタイミングで、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
そして、この部屋の主であるユルスナールが返事をする前に、重厚な木の扉が開くとリョウにとっても馴染み深いブコバルの顔がひょっこりと覗いた。
礼儀のなっていない粗野な男の振る舞いに眉を顰めたユルスナールだったが、それに構わず、ブコバルは、ずかずかと室内に入って来た。
「話は済んだのか?」
「いや、まだだ。これから入るところだ」
「お、なら、ちょうどぴったりだな」
そう言って、両手に抱えた茶色の紙袋をテーブルの上に置くと、二人が座っていた対面のソファにどっかりと腰を下ろした。
「それは何だ?」
ユルスナールは、テーブルに置かれた大きな紙袋に胡乱な視線を投げた。
「あ? 腹が減ったんでな。途中で買ってきた」
そう言って、ごそごそと袋を漁ると中から果物とパイのようなものを取り出した。
「お前も食うか?」
「いらん」
それを見て、リョウは立ち上がった。
「お茶を淹れましょうか」
「お、わりいな」
「茶ぐらい、自分で用意しろ」
嫌そうな顔をしたユルスナールをリョウは笑って制した。
「いいですよ。ワタシもちょうど喉が渇きましたし。ルスランも飲むでしょう?」
「じゃぁ頼むわ」
「すまないな」
そうして、濃い灰色のワンピースに白い前掛けの紐を翻して、使用人風の格好をしたリョウは、隣の部屋に据え付けられた簡易的な台所へと向かった。
人数分のお茶を淹れて、再び部屋に戻るとテーブルの上に茶器を置いた。
案の定、パイを食べて油でベタベタになったブコバルの手を見て、リョウは若干、呆れたような顔をしながらも濡らした布巾を手渡した。
「ブコバル、これで拭ってください」
「お、気が利くな」
お茶を飲んでから、再び、もう一つのパイに伸びた大きな男の手をリョウは可笑しそうに見遣った。
大きなパイが瞬く間の内に男の胃袋の中に消えて行った。
それにしても、いい食べっぷりだ。
「お昼を食べそびれたんですか?」
「んにゃ? ちゃんと食ったぜ。ドーリンの奴と。これは別腹」
そう言って白い歯を見せた。
そのどこか子供っぽい仕草に、リョウは堪え切れないように忍び笑いを漏らした。
「そちらの果物、【グルーシャ】ですか、皮を剥きましょうか?」
「ああ、じゃぁ、こっちの【ヤーブラカ】の方を頼む」
小さい青色の小振りな林檎のような丸い形をした果物は、【ヤーブラカ】という名前で、この国では割と一般的なものだった。シャキシャキとした歯ごたえと酸味の強いのが特徴で、肉などの脂っこいものを食べた後に食すと口の中がすっきりした。街の通りに並ぶ露天でも沢山、山積みになっているのを見掛けた。
「ちょっと失礼しますね」
リョウは、ソファに座った身体を少しずらすと、少しはしたないとは思ったが、スカートの裾を控え目に捲って、太ももにある短剣に手を伸ばした。
それまで優雅にカップを傾けてお茶を飲んでいたユルスナールが、それを目の端で捉えて噴出した。
お茶を吹き零したユルスナールにリョウは慌てて布巾を当てた。
布巾を手にした男が何とも言えない複雑な顔をしてこちらを見下ろした。
「リョウ、何をしている?」
「【ヤーブラカ】の皮を剥こうと思いまして。短剣をナイフ代わりに」
そして取り敢えず、序でなのでベルトごと外してしまおうかと思い手を動かすが、中々上手くいかない。
「なんかアレだな。女の柔肌で温められたナイフで剥かれるかと思うと、ゾクゾクするな」
「妙なことを言わないでください」
変態染みた発言をしたブコバルにリョウは白い目を向けるが、ブコバルは同意を求めるように目の前の男を見た。
「なぁ、ルスラン、お前だってそう思うだろ?」
「お前と一緒にするな」
ユルスナールはあからさまに嫌そうな顔をする。
ベルトが上手く外れなくて、もたもたしていた所に隣からユルスナールの手が伸びた。
「ほら、貸してみろ」
躊躇いも無くスカートを捲り上げられて右側の太ももが晒される。リョウは慌ててスカートの裾を手で押さえた。
「わわ、ちょっと、待って」
「待たん。いいから足を上げろ」
「ほら、そういうとこ。お前だって一緒じゃねぇか」
ニヤニヤとしたブコバルの前で、ユルスナールは何食わぬ顔をしたまま、手を器用に動かしてベルトを外す。そして、肌を保護する為に巻いていた布も取り去った。
「ほら、取れたぞ」
ベルトごと短剣を手渡されて、リョウは恐縮した。
「ありがとうございます。ご面倒をお掛けいたしました」
「あ? 面倒なもんかよ。寧ろ、嬉々としてやってたじゃねぇか」
ブコバルの合いの手に、ユルスナールから鋭い視線が飛んだ。
「おうおう、おっかないねぇ。ホントのことなのに」
何やら水面下で遣り取りを始めた二人の男たちは放っておいて、リョウは短剣を取りだすと、鞘から抜いた。そして、そこの刃に薄らと残る光の膜を認めて、小さな呪いの言葉を口にした。
――――――パプラーヴィチ。
イリーナを盾にした時に、間違いが起こってはいけないので、刃が触れても傷が付かないように小さな呪いを唱えていたのだ。といっても少し切れ味を鈍くする位で、恐らく気休め程度にしかならないだろうが、それを施したことで精神的には大分楽になった。レントから譲り受けた短剣は恐ろしい程の切れ味だったからだ。
「リョウ、今のは何だ?」
こちらへ目敏く気が付いたブコバルが不意に真面目な顔をして訊いてきた。それに簡単に説明をする。
「お前は、そっちの方もイケるんだな」
そんな感想を漏らしたブコバルの言っている意味が分からなくて目を白黒させるが、
「それがガルーシャの使っていた短剣と対になっているものだな?」
間を置かすにユルスナールに訊かれて、リョウは頷いた。
「はい」
「見せてもらえるか」
「どうぞ」
ユルスナールは慣れた手付きでざっと短剣の刃を改めた。
そして、感嘆の息を吐く。
「流石、レントだ。小振りながらもいい出来だ」
リョウはユルスナールから短剣を受け取ると、刃の部分をさっと布巾で拭ってから、テーブルの上に転がる【ヤーブラカ】に手を伸ばした。
そして、器用に皮を剥き始めた。
「なんつうか、複雑だよなぁ」
休みなく動く小さな手を見ながら、ブコバルがぼやいた。
「あのレントの造ったもんだぜ? まさか、こんな風に果物の皮を剥かれてるなんざぁ、思わねぇだろ。普通」
それはブコバルらしい武人ならではの感想だった。
「別にいいじゃないですか。ワタシが何に使おうとも」
果物の皮を剥いたりするのに長さもちょうどいい按配だった。
ガルーシャだって、日常生活に於いて、あの短剣を実に色々なことに使っていたのだ。木の枝を切ったり、薬草を切ったり、肉や野菜や獣の皮などを切ったり。それこそ万能に使っていた。軍人ではない一般庶民の利用法など高が知れているだろう。
そして、果物を三つ程剥き終えて、濡れた布巾で刃を拭い、短剣を鞘にしまった所で、漸くと言った感じで、ユルスナールが息を吐いた。
「大分、脱線したが、話を戻すぞ」
「おお、わりぃ、わりぃ。そうだったな」
皿の上に乗った小さく切り分けられた【ヤーブラカ】を美味そうに摘みながら、呑気な声を出したブコバルをユルスナールは窘めるように見遣った。
ブコバルは、直ぐに相棒の醸し出す空気に同調するように、身に纏う空気を真面目なものに変えた。
それから、表情を改めた二人の男たちが語ったことは、リョウの想像を遥かに超える事態だった。
この国に於けるガルーシャの立ち位置。そして、国の上層部との関係。世界的に見て、術師の数が減少傾向にある事実。二十数年前の隣国との戦争とその背景。能力、詰まり、術師としての素養を持つ人間に対する扱い。国の方針。
そして、何よりもリョウを驚かせたのは、ガルーシャが、かなり高度な能力を持ったこの国有数の術師であったということだ。
それと、もう一つ。この国で術師として生計を立てるには、国の中央機関からの免状とも言うべき認可が必要であるということだった。術師は国に登録され、中央機関の下に管理されるのだ。
次々と明らかになる思いがけない事情に、目眩がしそうだった。
そして、極めつけは、今現在、スタルゴラド国内に於いて、軍部や王都の一部の人間の間で流れているというガルーシャに関する噂だった。
ガルーシャには最後の弟子がいて、持てる全てをその人物に伝えたというものだ。
再び、ガルーシャを王都に呼び戻そうとしていた国の上層部は、別口で流れていたガルーシャ旅立ちの噂の真偽と、その弟子に関する噂の真偽の程を確かめようと躍起になっているらしい。この街でリョウの追尾をしていたというのは、恐らく、その辺りの事情を確かめる為に、王都から派遣されて調査をしている人間だろうということだった。
幸いなことに、その弟子に関しての具体的な情報(名前や外見といった具体的な人物像を含めて)は、まだ上がってきてはいないが、この分だと自分のことが表に出るのも時間の問題だろうとのことだった。
「ちょっと待って下さい。ワタシが、どうしてガルーシャの弟子になるんです?」
―――――――まだ術師ですらないのに?
寝耳に水の出来事に吃驚仰天して思わず大きな声を上げたリョウに、
「そういう風に捉える輩がいるということだ」
ユルスナールは苦り切った表情をしながらも、簡潔に言い放った。
「都合がいいことにお前には術師としての素養がある」
「そもそも、どうしてそんな噂が立ったのですか?」
弟子であるならば、なにも自分で無くてもいい筈だ。それこそ、昔、ガルーシャを師として仰いだ人物は多いのではないか。それに、北の辺境の森にひっそりと暮らしていた男のことをどうやって知るというのだろう。
様々な疑問が溢れるようにして湧いて出てくる。
「そいつは分からねぇな。裏で糸を引いてやがる奴がいるのかもしれねぇが。だが、まぁ直接的な契機は、あの爺さんがこの世を去ったからだろうな」
そう言ってブコバルは腕を組んだ。
「元々、ガルーシャ・マライは謎を秘めた男だった。何人たりとも許可なしにあの男の下に近づくことは叶わなかった。北の森に隠居を決め込んでからは、尚更、それが顕著になった。ガルーシャはその能力故に、王都の連中とは決別したが、それを面白く思わない奴らもまだいるということだ」
「ガルーシャが持つ力が欲しいということですか?」
「それだけではない。ガルーシャは膨大な知識を残しているだろう?」
ユルスナールのその言葉に、リョウの脳裏には、森の小屋の中でも特別な部屋、詰まり、ガルーシャの書斎の様子が浮かんでいた。天井から床までびっしりと埋まる膨大な量を誇る蔵書たち。ガルーシャの興味と研究の足跡だ。
「………書斎の沢山の書物」
「ああ。王都の連中にしてみれば喉から手が出るほど欲しい代物だろう」
「その辺りのことも含めて、この国にはあの爺さんのことを追ってる奴らがいるってことだな。そんな時にあの爺さんの傍に何やら変わった子供がいるってことが聞こえてきた。偏屈で人嫌いで、ずっと独り身を通して来た男と一緒に暮らしている人間がいる。それだけでも知ってる奴からみれば仰天ものだろうさ」
ブコバルの口から聞かされるガルーシャの人物像は、自分が知るそれとは重なりそうで重ならなかった。
そこでふと、リョウの中に一つの疑問が浮かんだ。
「ですが、これまで森の小屋を訪ねて来た人は一人もいませんでしたよ?」
王都の人間がガルーシャを探していたとは言うが、二年近くあの場所で暮らしていたが、直接、訪ねてくる人物はおろか、術師たちが使う伝令すらも飛んではこなかった。
そのことを不思議に思って口にすれば、
「ああ。それはガルーシャが森の入口に結界を張っているからだ」
「結界?」
リョウは、聞き慣れない言葉を耳に留めた。
「ガルーシャは基本的に面倒なことが嫌いだからな。意に沿わない連中からの介入を排除する為に結界を張って接触を遮断していた」
「早い話が、目くらましみてぇなもんだ。知ってる奴。詰まり、あの爺さんが認めた奴じゃねぇ限り、お前の住んでる小屋は探しても見つからねぇんだよ。けったいな話だろ?」
リョウは余りのことに言葉を失った。
そんな魔法みたいなことが出来るのだろうか。
これまで術師の編み出す術が起こす不可思議な現象を自分でも体験したり、色々見てきた積りだったが、どれも皆、自分の手が届く小さな範囲の出来事で、そんな風に広範囲に影響力を及ぼすことが出来るとは思ってもみなかった。それだけ、ガルーシャが特別であったのだろうか。
「あ、でもアッカは?」
怪我を負ったアッカを見つけたのは、その森の辺縁の部分だった。負傷したアッカを拾い、手当てをしたことが切っ掛けで、リョウは北の砦の存在を知り、この二人の男たちにも出会ったのだ。
「あれは、偶々、運が良かったのかもしれないな」
「ああ。アイツは根っからの真面目人間だから、爺さんの罠に上手い具合に引っかから無かったんじゃねぇか。お目零しをもらったってぇとこだろ」
「………そうですか」
術師の掛ける呪いといっても万能なものではない。二人の男たちの言い分にリョウは言葉少なに頷いただけだった。
「あの、その噂というのは訂正することは出来ないんですか?」
ふとした思いつきを口にしたリョウに、ユルスナールはそっと頭を振った。
「噂は所詮、噂で、憶測にしか過ぎない。それを否定して回れば、余計にその裏を勘繰りたくなるものだろう?」
それは分からなくもなかった。
「そうですよね。却って怪しくなってしまいます」
だから、今後、そういう類の接触があることを想定しなければならない。今後、どう転ぶにしても、状況を把握しておくのとそうでないのとでは、心の持ちようが違ってくる。
二人は、そう結論付けてから話を終えた。
男たちの言葉に、リョウの背中に冷やりとしたものが伝ったのだった。漠然とした不安が湧いて出てくるのを慌てて押し留める。
自分の身の上を語ったことで一つ肩の荷が下りたのも束の間、眼前に提示された事実の数々は、この短時間の間に理解して消化するには、余りにも衝撃なことだった。