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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第三章:工業都市プラミィーシュレ
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思いがけない提案


 頬をそっと撫でる柔らかな感触に、リョウの意識はゆっくりと浮上しした。薄らと閉じていた瞼を押し上げる。ぼんやりとした視界に現れたのは、銀色に瑠璃色という馴染みある色彩の対比(コントラスト)だった。

「ル…スラ…ン?」

 瞬きをして漏れた囁きに、ユルスナールが安堵の表情を浮かべたのが見て取れた。

「リョウ。大丈夫か?」

 ――――――何が、あった?

 靄が掛かったように霞む思考にきつく目を閉じる。そして、唐突に自分が置かれた状況を思いだして、リョウは跳ね起きた。

「ブコバルは? それにイリーナさんは?」

 周囲を見渡したリョウに近い所で、ブコバルが腕を組んで立っていた。

「お、起きたか?」

 ブコバルはこちらに気が付くと、歩み寄って来た。

 リョウが覚えている最後の記憶は、イリーナの首に短剣を突き付けたこととブコバルがあの部屋に乱入してきたことだった。

「…………助かった?」

 半ば放心気味に呟く。

「落ち着け、リョウ。イリーナも大丈夫だ」

 ユルスナールが宥めるように背中を撫でた。

 長椅子に身体を起こしたまま、リョウは片手で顔を覆った。

 大きく息を吐く。

 ――――――良かった。本当に。

 一時はどうなることかと思ったのだ。

 改めて押し寄せて来た恐怖と安堵に込上げてくるものがあった。そのまま顔を背けて、目尻に滲む涙を指で拭う。

「リョウ? 大丈夫か?」

「は……い」

 大丈夫だと微笑もうとした顔は、きっと不細工に歪んだことだろう。見っともない所を見せたくはなくて、慌てて表情を取り繕おうとするが、上手くいかなかった。昂ぶりそうになる気分を落ち着ける為に大きく深呼吸をする。それでも身体と精神の感覚(バランス)が少しズレを生じていて、感情の統制(コントロール)がままならなかった。

「大………丈夫……で…す」

 気が付けば、宥めるよな大きな手が頭の上に置かれていた。

 目線だけ上に動かせば、ブコバルが珍しく優しい顔をして目を細めていた。

「頑張ったな」

 それは、余りにも意表を突く言葉で。

 なけなしの理性で押し留めていた最後の一線が、一気に決壊する契機になった。

 リョウは溢れてくる涙をそのままに、泣き笑いに歪んだ顔を俯かせながら、何度も首を縦に振った。

 そんな様子を見ていられなかったのだろうか。リョウが起き上ったのを見て長椅子に腰を下ろしたユルスナールは、その震える身体を己が腕の中に抱き込んだ。意識とは別の所で流れ出す涙に濡れた顔を隠すように、リョウの顔は、男の逞しい胸板に押し付けられていた。

 大きな手が、頭や背中を宥めるように優しく撫で摩る。温かい(シェルター)に囲まれて、いつしか、リョウの身体の震えは収まっていた。




「気が付いたのね」

 控え目なノックの後に、一人の女性が茶器の乗ったワゴンを手に入って来た。

 聞き覚えのある声に、リョウは弾かれたように顔を扉の方へ向けた。

「イリーナさん! すみませんでした」

 慌てて表情を改めたリョウの目尻が薄らと赤みを帯びているのを見て取ってか、

「ふふふ。大丈夫よ」

 イリーナは、穏やかに首を横に振って見せた。

 滑らかな白い手が、慣れた手付きでお茶を用意する。

 それを見て立ち上がろうとしたリョウを手で軽く制して、

「さぁ、どうぞ。落ち着くわよ」

 湯気が立ち上るカップを差し出した。

「ありがとうございます」

 リョウはそっと手を伸ばした。

 中に入っている温かいお茶を一口啜る。微かな甘みが口の中に広がった。それで漸く、人心地ついた気になった。


 リョウは、改めて、ゆっくりと周囲を見渡した。

 そこは、落ち着いた中にも華やかさの覗く不思議な空間だった。柔らかなクリーム色の壁紙が周囲をぐるりと囲む。カウンターのような狭くて長い机が隅の方にはあって、その前には草花の文様が複雑に織り込まれた生地のソファと飴色に艶を帯びた木のテーブルが幾つか、行儀良く並んでいた。

「あの………ここは?」

「表の応接室よ」

 にっこりと笑みを見せたイリーナにリョウは目を瞬かせた。

「同じ館内だ」

 相手に話が通じていないことを見て取ったブコバルが、補足するように言葉を継いだ。

 ということは、まだイリーナの娼館に居るということなのだろう。

「ご迷惑をお掛け致します」

 リョウは取り敢えず、イリーナに頭を下げた。

 対するイリーナは、それを見て呆れたように目を見開いてから、小さく笑った。

「おかしな子ねぇ。あなたが気にすることじゃないのに」

「ですが、一歩間違えれば、イリーナさんを傷付ける所でしたから。すみませんでした」

「そりゃぁ、驚いたのは確かだけれど、あなたの方にも事情があったみたいだし、止むに止まれずというのが分かったから。別に何ともなかったわよ?」

 ――――――伊達にこの世界に身を置いていないわ。

 余裕たっぷりに微笑んだイリーナの言葉に、リョウは本当に良かったと胸を撫で下ろしながらも、釣られるように小さく微笑んでいた。




「それで、何があった?」

 和らいだ空気に、それまで沈黙を守っていたユルスナールが口を開いた。

 身体に回された腕に改めて力を入れられて、リョウは今更ながらに自分が置かれていた状況に思い至って赤面した。慌ててユルスナールの膝の上から退こうとする。

「ルスラン。すいませんでした。もう大丈夫ですから」

 だが、腰に回る男の太い腕はびくともしない。

 ――――――ヒュウ~。

 ブコバルからは茶化すような口笛が飛び出す。

「いいだろ。別に」

 あろうことか、ユルスナールは真面目な顔をしてそんなことを言い放った。

「いや、よくありませんから」

 拘束から逃れようとするが、ユルスナールは引こうとはしなかった。

「で、何があった?」

 再び、淡々と問われて、力では敵わないのは分かり切ったことだったので、無駄な抵抗は止めることにした。

 イリーナの視線が気になったが、リョウは諦めたように小さく溜息を吐くと、事の次第を語り始めた。


 顔見知りの大鷲のヴィーから、何者かに付けられているということを知らされたことが始まりだった。 追い掛けて来た男たちはかわすことが出来たが、気を抜いた途端、往来でいきなり拘束されてこの場所に連れ込まれたのだ。それから、カマールの弟子だと勘違いをされてカマールへの口利きを頼まれた。相手が強硬手段に出ようとした所にイリーナとブコバルが現れたということを時系列的に掻い摘んで語った。


 リョウが話を終えるとユルスナールもブコバルも一様に険しい顔付きをしていた。

「………そうか」

 ユルスナールは、そう言ったきり、難しい表情をして何かを考えるように黙り込んでしまった。

「そういやぁ、ルークのヤツが、話があるって言ってたぜ?」

 ブコバルの声にユルスナールは、顔を上げた。

「この街に来ているのか?」

「ああ。リョウが攫われたって知らせて来たのはアイツだ。まぁ、(やっこ)さんにしてみれば、俺がこの場にいたのは想定外だったみてぇだが」

「………ルーク?」

 突然、二人の口の端に上った名前のような固有名詞をリョウは聞き咎めていた。

「ああ。あちこちを放浪している男だ」

 ユルスナールは、そう言って少し考えた後、

「リョウ、お前も知っている筈だ。スフミでお前に会ったと言っていたからな」

「スフミ村で……ですか?」

 意外なことにリョウは吃驚してユルスナールを見上げた。

「ああ。恐らく、キリルかロッソ辺りと一緒に居た筈だ」

 その言葉に触発されるようにして、リョウの脳裏には、ある男の姿が浮かんできていた。

 癖の無い金茶色の髪が顔の左半分を覆っていた男。軽薄な飄々とした笑みを刷く口元。人を惑わせるような口調。人騒がせな【スカモーロフ(道化師)】だ。

 そして、

「キリルのお父さん?」

「そうだ」

 ユルスナールはリョウの推察を頷き一つで肯定した。


 あの男がこの街にいる。自分に連絡を寄こしたのはヴィーだった。そう言えば、ヴィーには、相棒がいると聞いたことがある。人間の男で腐れ縁のようなものなのだと。

 まさか、あの男がそうなのだろうか。

 ばらばらに位置していた点と点が、思わぬ所で繋がった気がした。


 その予想を裏付けるかのように、応接室の上部にある薄く開いた窓から一羽の大鷲が風のように滑り込んで来た。

「ヴィー!」

 そして、弾かれるようにして長椅子から立ち上がり駆け寄ったリョウの肩にストンと止まった。

『大事ないか。リョウ』

「うん、なんとかね。ヴィーもありがとう」

 馴染みある重みを肩に感じながら、喉元を擽ると、大鷲は満足げに息を吐いた。

 だが、直ぐに表情を改めると用件に入った。

『そこの男に文を預かってきておる。渡してくれ』

「ルスランに?」

『ああ。銀色の髪の男だ』

 ヴィーはそう簡潔に告げると、足元に括りつけられている小さな筒を指し示した。

 リョウは言われた通りにその中から丸まった紙を取り出すと、ユルスナールに渡した。

「ルスランにだそうです」

 ユルスナールは無言のまま、小さな紙片を取ると中を確認した。

 鋭い目付きが普段より三割増しで剣呑な光を帯びた。

 ユルスナールは、ブコバルを振り返るとその紙切れを手渡した。中を見たブコバルもあからさまに顔を顰めた。

 ――――――何か、良くない報せでも届いたのだろうか。

 リョウの心の内を言い知れぬ不安のようなものが襲った。

 ユルスナールとブコバルは小声で何やら相談のようなものを始めた。

 そして、何がしかの遣り取りの後、

「イリーナ」

 ユルスナールは、振り返るとこの部屋の片隅に控えていたこの館の主を見た。

「なぁに?」

「あの部屋の借用期限は?」

「今日の夜までよ」

「そうか」

 そこでユルスナールはブコバルと視線を交わすと小さく頷き合った。

「すまないが、一つ頼まれてくれ」

「何かしら?」

 ――――――場合によっては高くつくわよ?

 珍しい男からの頼み事に、女主の目が好奇に光る。

 だが、それを言った男の方は、実に淡々としていた。

「あの男がブコバルとリョウの事を尋ねたら、【ツェントル】に行ったと答えてくれ」

「その位、お安いご用よ」

「それから、もう一つ。地味なヤツでいい。そうだな、なるべく目立たないものがいい。女物の普段着を一着用意してくれ」

 ユルスナールの言葉に、イリーナは戸惑う様な声を上げた。

「別にいいけれど、そんなのどうするの?」

「リョウに着せる」

「はい?」

 唐突とも言える場所で出た自分の名前に、リョウは素っ頓狂な声を出していた。

 ユルスナールは小さく驚きの声を上げたリョウを振り返ると、

 「事情が変わった。このままお前を出す訳にはいかなくなった。だが、まぁ、心配はいらない。目くらまし位にはなるだろうからな」

 その男らしい口元に自信溢れる笑みを刷いた。

「そういうことね」

 そして、男のささやかな計画に悪乗りするかのように、イリーナは愉快気な微笑みを浮かべていた。



 それからの行動は実に素早かった。

 部屋から出たイリーナは、再び女物の普段着を手に戻って来た。そして、実にいい笑顔でリョウの目の前に突き出した。

 襟の詰まった濃い灰色のワンピースに簡素な白い前掛け(エプロン)、髪を隠す為の【プラトーク(スカーフ)】。体の良い掃除婦かどこかの家の召使のような格好だろうか。

 このような地味な服が、派手で煌びやかな娼館にあることの方が、リョウとしては意外だった。

「さ、善は急げよ」

 どうやら、自分がこのままの格好で外に出るのは拙いらしいということは理解出来た。なので、ここは大人しく二人の言うことを聞いておいた方がいいのだろう。ここに来る前のように、また知らない男達に追いかけられるのは御免だった。

 何故か嬉々として声を弾ませたイリーナには謎が深まるばかりだが、ぐずぐずしてはいられないということは分かったので、リョウは素直に着替えることにした。女物の服を着ても本来の姿に戻るだけなので別に抵抗などある訳も無い。

「では、お借りしますね」

 そう言って、手早く外套を脱ぎ、続いて革の肩当てと肘当てを外す(これらは腕や肩に止まるヴィーやイーサン、イサーク等の伝令たちの爪から身体を守る為である)。そのままの勢いで上着を脱ぎ、シャツのボタンに手を掛けたところで、ユルスナールから慌てた声が上がった。

「おい、リョウ!」

 首だけ振り返れば、ユルスナールがぎょっとした顔をしていた。

 その隣ではブコバルがニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている。

 それを見て、リョウは呆れたように息を吐いた。

 急げと言ったのはそっちなのだ。生憎、部屋はここしかないし、衝立のように身を隠すものもない。着替える為だけにイリーナに別室を案内してもらうのも気が引けた。

「二人ともあっちを向いていてください」

「………努力する」

「へいへい」

 何とも妙な答えが返って来たような気がしたが、リョウとしては気に留めている余裕がなかった。


 手早く灰色のワンピースを広げて着方を確認した後、その釦を外す。ワンピースは背中側を釦で止める形体(タイプ)のものだった。中々着るのに手間取りそうだ。

 何やら後ろから突き刺さるような視線が送られている気がしたが、シャツを手早く脱ぐとワンピースを頭から被った。腕を通してから、背中側に一列に並ぶ釦を止めるのに苦戦した。

 自分では無理そうなので、手伝って貰おうとイリーナの姿を探したが、妖艶な女主の姿は何処にも見当たらなかった。

「イリーナさんは?」

 振り返ると、こちらを見ていたユルスナールと視線が合った。その視線がついと横に逸れて、やや気まり悪げに咳払いをする。

 仕方がないと腹を括って、リョウはユルスナールを呼んだ。

「ルスラン」

「ん?」

「手伝って下さい。背中の釦が止まらないんです」

 恥を覚悟で窮状を訴えれば、

「俺がやってやろうか? 得意だぜ、こう見えても」

「ブコバルが得意なのは外す方でしょう?」

 すかさず割り込んできたブコバルの下卑た笑みをリョウはぴしゃりと一蹴した。

 冗談ではない。ブコバルに頼もうものなら、余計なことまで付いてきそうで、いつになったら着終わるか分かったものではない。これまでの経緯から、その位の学習能力はあった。

「ブコバル」

 ユルスナールの窘めるような声に、

「へいへい」

 ブコバルは大げさに肩を竦めて見せた。

 ユルスナールはリョウの傍に近寄るとその背後に立った。

 そして、目の前にある剥き出しになったリョウの背中を暫し眺めていたが、

「ルスラン?」

「ああ、すまない」

 促されるように声を掛けられて、慌てて指を動かし始めた。

 節くれ立った男の長い指が器用に背中の釦をはめて行く。

 それにしても、何でこんなに面倒な着方をする服なのだろうと、その間、リョウは不可解に首を傾げていた。一人で着られないのはなんとも不自由ではないか。

「ほら、出来たぞ」

「ありがとうございます」

 それから、長靴(ブーツ)を脱いで、長椅子に片足を掛けると、スカート部分の裾を捲り、ズボンの右足に付いている短剣を止める為のベルトを取った。

 その時になって、リョウは奪われた短剣のことを思い出した。


「あの、そう言えば、私の短剣はどうなったんでしょう?」

 手早くズボンを脱ぎ、再び、捲りあげた右の太もも部分にベルトを止めながら、リョウはブコバルの方を流し見た。

「ああ。大丈夫だ。お前の短剣は二本とも戻ってる。あそこにあるぞ」

 少し先のテーブルを目で示されて、リョウはほっと安堵の息を漏らした。

 二本の短剣は共にリョウに取っては大事なものだった。一本はガルーシャの形見になった。そして、もう一本は、恐らく、近い将来、レントの形見になるであろうものだ。

 リョウはテーブルの方へ行き、小さい方の短剣をそっと両手に抱いた。

 そして、再び長椅子の所に戻って、それをベルトに着けようとした所で、ユルスナールから『待った』の声が掛かった。

「リョウ。そのままでは駄目だ」

 手を止めて振り返る。

 ユルスナールは、外套の内ポケットから光沢を放つ長い布のようなものを取り出すと、長椅子の上に片足を上げたままのリョウの背後から、屈みこむようにしてその剥き出しになっている太ももを掴んだ。

 リョウが突然のことに呆気に取られる傍で、ユルスナールは器用な手付きでリョウが付けていたベルトを一旦、取り去ると、その布を太ももの部分に巻いた。

「こうしないとお前の柔肌など直ぐに擦れて赤くなる。後で痛くなっても知らんぞ?」

 耳元に囁く様に吹き込まれて、リョウの背中は無意識に粟立った。

「な……」

 そして、その布の上から、短剣を留めるベルトを巻き、小振りの一振りを然るべき場所に収めた。

「きつくはないか?」

 具合を確かめるようにベルトと肌の間に指を入れられて、

「大丈夫です。調整は自分で出来ますから」

 妙な動きを始めた男の手の甲を、リョウは微笑みを湛えながら抓った。

「そうか」

 小さな痛みに一瞬、顔を顰めたものの、ユルスナールはどこ吹く風で、最後に意味あり気な目配せと共にお返しとばかりに太ももの肉を摘まれた。

「ルスラン!」


「おーい、終わったかぁ?」

 ブコバルが欠伸を噛み殺しながら、長椅子に寄りかかっていた。

「もう終わります」

 リョウは行き過ぎた親切心を発揮したユルスナールを睨みつけると、慌てて残りの支度に取りかかった。白い前掛け(エプロン)を付けてから束ねていた髪を解く。その上から、髪色を目立たせない為の【プラトーク(スカーフ)】を巻いた。そのまま、長靴を履こうとした所で、漸く、何処かに行っていたイリーナが帰って来た。


「あらあら、ちょうど良かったみたいね。間に合ったわ。靴はこれを履いて頂戴」

 差し出されたのは、女物の短靴(ショートブーツ)【バチンキ】で編み上げになったものだった。

「ええと、もとのでも大丈夫ですよ?」

 リョウとしては今まで履いていた長靴で良いかと思ったのだが、

「あら、駄目よ。あんな男物の長靴を履いたんじゃおかしいわ。この際、完璧にしなくっちゃ。然るべき家の使用人には見えないじゃない? ねぇ旦那?」

 イリーナの言に、待っていた二人の男たちは頷いた。

 成程、こういう長靴を履くのは一般的に男であるということをリョウは改めて思い知ることになった。

 大人しく【バチンキ(ショートブーツ)】を履いて、着ていた服と長靴、もう一つの短剣を大きな布に包んで、準備は完了した。


「お待たせしました」

 何やらどっと疲労感が込上げて来たが、ここで気を抜く訳にはいかないのだ。リョウは改めて気を引き締めた。

「うふふふ。可愛らしい召使が出来上がったわね。これなら旦那たちと歩いていても使用人と主ぐらいにしか見えないわ」

 イリーナはリョウの姿形をざっと改めると満足そうに微笑んだ。

 きっとイリーナの事だ。この間の勘違いを引き摺っていれば、少年が女装をしたと面白がっているのかもしれない。

「………そうですか」

 酷く楽しそうなイリーナを前に、リョウは内心、微妙な気分だったが、それをおくびには出さずに、イリーナに軽く一礼して謝意を示した。

「イリーナさん、ありがとうございます。お借りしたものは、後で洗濯してお返ししますね」

 恐縮そうに告げたリョウに対して、イリーナはからからと笑い、仰天するような事実を明かした。

「あら、その必要はないわ。それ、あなたにあげるわ。前にここで働いていた子がね。お客と『主従ごっこ』をする為に特別に誂えて貰ったものなの。生地もいいものを使ってるし、少し凝ってるでしょう? それはそのお客の趣味。その子は、もう身受けされて幸せにやってるから必要ないのよ。もう要らないからってね、置いて行ったんだけど、今うちの子達の中には、それが着られる子が居なくて。あの子は随分小柄な方だったから。でも、ちょうど良かったわ。捨てようと思ってた所だったのよ。間一髪。取って置いて良かったわね。うふふふ」

 イリーナの形の良いぽってりとした唇が紡ぎ出す意外過ぎる程(といっても娼館の出来事として考えるならば、それはそれで余り驚くに値することではないのかもしれないが)の秘話に、リョウは垣間見てはいけない世界をうっかり覗いた気分になって、少し遠い目をしたのだった。



 そして、準備を終えたリョウを見て取って。

 ――――――詳しい話は宿屋に戻ってからになるが。

 そう前置きをしてから、

「リョウ。お前は、カマールの所から俺の所に移れ」

 ユルスナールから出された唐突とも思える提案に、リョウは驚いてその言葉を発した男を見上げた。

「ルスランの所に?」

「ああ。あの男がこのまま、むざむざと引き下がるとは思えん。それにお前には、話しておくことがある」

 ――――――大事な話だ。お前の今後とこの国に関する。


 いつになく真剣な顔をしたユルスナールの気迫に、リョウは呑まれたように押し黙った。

 自分の与り知らない所で何が起きているというのだろうか。何故、そこに自分が関わって来るのだろうか。何かに巻き込まれているのか。知らない内に。

 そう言えば、自分が追尾されていたという理由をまだ聞いていなかったことにリョウは思い至った。

 その辺りのことをユルスナールは知っていて、教えてくれるというのだろうか。

 途端に不安そうな表情を浮かべたリョウに、ユルスナールはそっと手を伸ばすとその頬に触れた。

 そして、安心させるように小さく微笑んだ。

「そんな顔をするな。お前にしてみれば、今の状況で心配するなというのは無理なことかもしれないが、決して悪いようにはしない。約束する。俺を信じろ」

 深い青さを湛えた瞳がリョウを静かに見下ろしていた。

 真摯で誠実ですらある男の表情に、

「分かりました」

 リョウは諾と一つ頷いた。


 ユルスナールが思慮深い男であることは十分承知していた。懐の深い男であるということも。

 その優しさに救われてきたのも確かだった。そして、ガルーシャ亡き今、この場所で窮地に陥った時、リョウが真っ先に思い浮かべたのは、この男の顔だった。無意識であれ、それを認めない訳にはいかなかった。

 リョウは、こちらを穏やかに見下ろす瑠璃色の瞳にそっと微笑み返した。

 その微笑みは、ややぎこちなかったかもしれない。だが、自分がちゃんと相手を信じていることを、信頼していることを伝えて置きたかった。

 それに取り敢えず、リョウとしても状況を把握しておきたかった。森の小屋から外の世界に出てまだ日も浅い。今回のことでこの国の事をもっと知らなくてはと痛感したのだ。自分の身を守る為にも。


 だが、ユルスナールの提案を素直に飲むには、気に掛かることがあった。

「カマールさんの方は?」

 カマールにはきちんと挨拶をして、これまでのお礼と事の次第を説明したかった。何も告げずに出て行くというような不義理だけはしたくはない。先程の勘違い男の剣幕を思えば、カマールの傍に居ることが、自分とカマールの立場を悪いものにするだろうことは理解出来た。向こうは、リョウがカマールの弟子であることを信じて疑わなかったのだ。幾ら違うと声を張り上げた所で聞く耳を全く持たなかった。

 リョウの気懸りを理解したユルスナールは、それを受け入れた。

「分かった。カマールの所に寄って、話を付けてからにしよう。序でにお前の荷物も纏められるしな」

 荷物自体は少なく、いつも一か所に纏めていたので問題はなかったが、カマールに面と向かって挨拶が出来るのは有り難かった。

「ありがとうございます」

 口元を緩めたリョウにユルスナールも微笑んだ。

 それから、もう一人の相棒を振り返った。

「ブコバル、お前はどうする?」

「俺は、……そうだな、カマールんとこまでは一緒に行くか。その後はドーリンのとこに顔を出してくるわ」

「分かった」

 それで男たちの話は付いたようだった。

「よし。準備はいいな?」

「はい。旦那さま」

「………………」

 主人と召使という設定らしいので、一応、使用人らしく答えてみたのだが、ユルスナールは一瞬、虚を突かれたような顔をした後、可笑しそうに喉の奥を鳴らした。

「可笑しかったですか?」

「いや、妙なものだな。だが、まぁ、お前に(かしず)かれるのも偶にはいいかもしれん」

「そうですか?」

 いまいち、ユルスナールが何に反応しているのかは良く分からなかったが、これ以上の詮索はしないことにした。

「リョウ。俺にも言ってみろ」

 そんなユルスナールの様子を見てか、ブコバルも面白がって悪乗りしてきた。

 リョウは打って変わって、あからさまに嫌そうな顔をした。

「ほれ」

「ブコバルが主だなんて、気苦労が絶えないのでしょうね」

「何だと? どういう意味だ?」

「そのままの意味ですよ」

「お前なぁ、ルスランとは随分態度が違うじゃねぇか」

 それはそうだろう。リョウにしてみれば当然という反応である。

 そして、子供染みたブコバルの言い草にリョウは手を口元に当てて、鈴が鳴るように声を立てて笑った。

「何笑ってやがる」

 ブコバルがムッとした。

「だって、ブコバルがあんまりなことを言うから」

 目尻に薄らと涙すら滲ませ始めたリョウの様子に、ブコバルは不服そうに眉を寄せたが、不意に穏やかな顔をして見せた。

「だが、まぁ、そうしてると本当に女だな。不思議なもんだ」

 しみじみと口にされて、リョウは何とも擽ったそうに肩を竦めた。

 そして気を取り直すと、表情を改めて、ブコバルに対して流れるような所作で一礼して見せた。

「失礼いたしました。それでは、旦那さま、参りましょうか」

 召使然りとしたリョウの態度に、ブコバルは虚を突かれたような顔をした。

 その横で、込上げてくる可笑しさを堪えるようにユルスナールが口元を押さえて横を向いたのだった。


 そして、この館の女主に挨拶をしてから、二人の男と両腕に荷物を抱えた召使風の女は、静かに、暫しの眠りに就く煌びやかな夢の館を後にしたのだった。


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