縁は奇なもの
寝間着からいつもの服に着替えたリョウは、上着のポケットに入っている封書を、その感触を確かめるように服の上から撫でた。
ヨルグが言った【例のもの】とはこの手紙のことだ。
そして、この呼び出しは、この宛名に繋がる人物の情報が得られると言うことを意味しているのだろう。
五日前、ここに来た当初、まだ時期ではないといったサラトフの言葉が思い出された。
リョウの脇には、ぴったりとセレブロが控えていた。堂々と廊下を歩く姿に苦笑が漏れる。
食堂が一番の賑わいを見せる時間帯なのか、幸いにして道中、他の兵士達とは全く顔を合せなかった。 そのことに安堵の息を漏らす。
見つかったら絶対に大騒ぎになる。
今まで長い間、滅多に人に交わらず、深い森の片隅で暮らしていたリョウであったが、このセレブロが、色々と規格外な存在であるということには、森に居た他の動物達の反応から気が付いていた。
ましてや人の目には滅多に触れることのない幻のような存在なのだと。
そんなセレブロが敢えて、付いてくると言うのであれば、それは何がしかの意味のあることなのだろう。
人知の及ばぬ領域で何かが働いている。
今日、この時間に、このタイミングでこの白き森の王が訪れてきたことには、やはり、何か目的があるのだ。リョウには、そう思えて仕方がなかった。
必然の中の偶然。偶然の中の必然。そう言うことだ。
目的のドアの前でノックをする。
「入れ」
直ぐにくぐもった了承の返事が聞こえてきた。
「失礼します」
頭を下げて中に入ると、そこには四人の男達がいた。
「休んでいたところを済まなかったね」
相手を気遣う言葉を真っ先に掛けてきたのは、副団長のシーリスだ。
その隣には、先程、伝令を伝えに来た右腕補佐官ヨルグが立っていた。
「いいえ。こちらこそ、お待たせして申し訳ありません」
ヨルグに軽く目礼をしてから、リョウはシーリスに向き直った。
この砦の中枢を預かる彼らは普段から忙しい人達なのだ。
そんな人達が、態々、自分の為に時間を取ってくれている。それを感謝こそすれ、迷惑に思うなどあるはずがなかった。
リョウは視界の隅で、部屋の中に居るもう二人の存在を認めた。
それに目敏く気がついたのか、
「まだきちんとした挨拶をしていませんでしたね」
先程は、色々と忙しなかったですから。
そう言ってシーリスがおっとりと微笑んだ。
シーリスが促した先には、先程、厩舎へ向かう途中で見かけた顔があった。
漆黒の外套に身を包んでいた銀色の髪をした男。黒毛馬キッシャーの主だ。
後ろ姿だけであったその男の顔が明らかになる。
男は、大きな執務机に座り、手にしていた書類の束へペンを走らせていた。
無造作に撫でつけられた銀色の髪。かつてならば、二次元の世界でしか御目にかかれないような色合いであったろう。
切れ長の目に薄い唇。瞳の色は、青みの強い瑠璃とも濃紺とも取れる色。
全体的に酷薄そうな造形だ。
「こちらは団長のルスラン。まぁ、謂わば、私の上司ですね」
「リョウです。初めてお目にかかります。この度は無事の御帰還、おめでとうございます」
何やら含みのありそうなシーリスの紹介だが、そこには敢えて触れないで、リョウは簡単に名乗るとその頭を軽く下げた。
「この砦を預かるルスランだ。キッシャーが世話になったな」
書類から顔を上げたユルスナールは、口の端を微かに吊り上げた。
それは、きっと微笑みのようなものであったのだろう。
鉄仮面と揶揄されることの多いヨルグの無表情にも慣れた頃合いだったが、ひょっとしたら、この人物も同じぐらい、いや、それ以上に余り感情が顔に出ない性質なのかもしれないとリョウは密かに思った。
だが、別段、悪い印象を受けた訳ではない。
思い出すのは、つい数刻前の厩舎での出来事だ。
キッシャーは、自分の主のことを誇りに思っていた。互いを信頼し合い、良好な関係を築いているとその世話をしながら感じた。
動物達には嘘や誤魔化しがない。その所為か、リョウはキッシャーの主を評価していた。
目の前の人物からキッシャーと同じような匂いを感じ取り、リョウは内心微笑んだ。
「ああ、それから。アッカの件も礼を言う」
「いいえ。こちらこそ、滞在許可を下さりありがとうございます」
団長の節度を弁えた態度にリョウも姿勢を正した。
そして、その執務机の端に寄りかかるようにして、もう一人の男が立っている。
この部屋に入った時から、その観察するような視線を感じていた。
先刻、漆黒の外套の隣に立っていた濃紺の外套を纏っていた男だ。
荒削りの武人然りとした雰囲気の大柄な男。袖を捲りあげたシャツからは、筋肉質な日に焼けた浅黒い肌が覗いていた。
兵士というよりも山賊の親玉みたいな印象を受ける。
「ブコバルだ」
目が合うと、男は少し独特とも言える癖のありそうな笑みを浮かべつつ、手を差し出してきた。
差しだされたのは右手。ふと視界を掠めた先、男の腰には右側に長剣をぶら下げる為のベルトが付いたままだった。
男は、左利きのようだ。利き手とは逆の手を差しだされたことの意味が頭を過る。
警戒されている。それは深読みが過ぎるだろうか。
だが、男が根っからの武人であることは軽く想像出来た。
「ヨロシクな。坊主」
唯でさえ怪力に見えるその逞しい手を取ることをリョウは、ほんの少し躊躇った。
その戸惑いを見越したのか、向こうが先に俊敏な動きでリョウの手を握り込こんだ。
思った以上に強い握力の衝撃に引き攣りそうな顔を何とか笑みらしい形に持って行って、
「こちらこそ」
漸くそれだけを口にした。
それにしても、手が痛い。
鍛えられた武人の握力は一般人とは違うのだ。向こうはこちらを少年だと思ってからかっている積りなのだろうが、これはきつい。正直、早く、開放して欲しかった。
「にしても、細っせぇ腕だな。鍛え方が足りんぞ」
遠目で見たときも細い体つきだとは思ったが。
そんなことを言いながら、握られたままの右手から反対の手で手首を辿られて、どうしたものかと途方に暮れる。
これは試されているのだろうか。本当に害があるかないかを確かめる為に。
それとも新人兵士への洗礼のようなものなのか。
逞しい体つきの兵士達に囲まれる生活にも慣れては来たが、初対面の相手から受ける過剰とも思われる接触には、身体が緊張した。
がっちりと掴まれたままの腕は、容易に抜けそうにはなかった。ここで無理に振り払うことも物理的には不可能だし、第一、相手に不信感を植え付けてしまうだろう。
さて、どうしたものか。
顔には出さないように心の中で焦っていると、意外な所から助け舟がやって来た。
『おい、いい加減、その手を離さんか。小童め。リョウが痛がっておるだろう』
音もなく開いたドアの隙間から、立派な純白の毛並みを光らせながら、セレブロがその巨体を滑り込ませてきた。
びりりとした緊張が室内に流れ込んできた。
その瞬間、意識の空白が出来る。
突然のことに力が緩んだ隙に、なるべくさり気なさを装って、リョウは捕らわれていた右手を抜いた。 手首にはうっすらと大きな手の跡が付いている。
恐ろしい握力だ。
そんなことを思いながら、安全のため無意識に、一歩、身体を後ろへ引いた隙に、セレブロがリョウを庇うようにその身を前に乗り出した。
大きな巨体からは考えられないような軽く、音のない身のこなしだ。まるで、そこだけ重力が削られてしまったような。
「なんだ、手前ぇ」
突然の闖入者故か、それとも静かに醸し出される敵意に似た負の威圧感を感じ取ったのか、瞬時に反応を返したブコバルが威嚇する。
ブコバルの身に纏う空気が一瞬にして変わった。
だが、対するセレブロは、そんな殺気など歯牙にも掛けないように鼻で嗤った。
『ふん、寄るな、ザパドニークの小倅め。リョウが穢れる』
「なんだと」
『無類の誑しが何を言う。この色好みめが』
セレブロがそう言った瞬間、室内に微妙な空気が流れた。
図星を指されたのか、ブコバルが一瞬、喉を詰まらせる。
それは、その発言内容の信憑性を裏付けるようなものだった。
視界の隅でシーリスが笑いを堪えているのが見えた。
その隣ではヨルグが小さく溜息を吐く。
そして、ユルスナールが心底呆れたというようにブコバルへ冷やかな視線を投げていた。
どうやら、セレブロはこの男を知っているらしい。しかも、この男の下半身事情を。
一体、どこからそんな情報を得たのか。意外にセレブロはこの辺りの事情に詳しいのだろうか。
突っ込み所は沢山だ。
だが、いきなり始まった、妙に人間臭い低次元の応酬に噴き出しそうになりながらも、何故か険悪になる空気を、取り敢えず、どうにかしなくてはとリョウは顔を引き締めると慌てて間に入った。
「ごめん、セレブロ、呼ぶのが遅くて痺れを切らしたんだな。オレは大丈夫だから。落ち着いてくれ」
リョウの言葉にセレブロがゆっくりと首をもたげた。
『無体なことはされておらぬか、リョウ。おお、可哀想に、赤くなっておるではないか』
目の前にあったリョウの手首に目敏く気が付いて、セレブロがその痕をそっと舐めた。
なんだか【初孫とそれを溺愛する祖父】のような遣り取りにリョウは、脱力するような気分を味わった。
「……それが、ヨルグの言う客人か」
そんな中、場の空気を引き締めるような冷静な声が室内に響いた。
ユルスナールは、椅子から立ちあがると長靴を響かせ、ブコバルの隣に並んだ。
そして、リョウの前まで来ると、そっとその手を取り、まだ赤みの残る手首へ優しく指を滑らせた。
「済まなかったな。こいつは昔から莫迦力で加減を知らん」
「あ?」
貶されたことを不満に思ったのか、脇から抗議の声が上がるが、ユルスナールは綺麗にそれを無視した。
「いえ、この位、大事ありません」
リョウはユルスナールの意外な行動に面食らった。
労わるように静かに言葉を紡がれて、急に変化を見せた空気に妙な気恥ずかしさというか居たたまれなさを感じた。
この空気をどうにかして欲しい。
助けを求めるように視線を彷徨わせた先にシーリスが居た。
リョウの信号を確かに感知したシーリスは、苦笑をして見せながらも、的確な対処をしてくれた。
「リョウ、その方を紹介しては下さいませんか?」
『ほう、おぬしは、レステナントか。ならば、尋ねるまでもなかろう』
だが、リョウが口を開くより早く、セレブロ自身が反応を返していた。
「我らレステナントは古より東の神殿を預かる一族に名を連ねてはおりますが、この時代、知識の継承は驚く程に頼りないものとなっています」
誠にお恥ずかしい話ですが――――そう切り出すとシーリスは僅かに目を伏せた。
「不躾を承知でお尋ねいたしますが、貴方は、ヴォルグの一族ですか?」
その問いかけにヨルグとブコバルが息を飲んだ。
『如何にも』
重々しく頷いたセレブロに、
「ヴォルグの長、セレブロ殿だ」
確固たる答えを導く様にユルスナールが言った。
紹介をされて、セレブロの目がユルスナールを捕らえると、その目が懐かしそうに細められた。
『シビリークスの小倅か。見てくれは随分と成長したようだが、その愛想の無さは相変わらずだのう』
「大変、ご無沙汰いたしております」
セレブロ流の皮肉を無表情で受け流すと、ユルスナールは徐に騎士の敬礼を取った。
「それでは、本題に入ることにしましょうか」
場が収まりを見せたことで、シーリスが話の流れを元の位置に戻すように提案した。
確認するように向けられた視線にリョウは表情を改めると、静かに頷いて見せた。
ここまで拙い作品を読んで下さってありがとうございます。
感の鋭い方は、作者が付けている固有名詞から、その参考にしている言語学的系統に心当たりがあるかもしれません。個人的な趣味全開です。
まだまだ続く予定ですので、お付き合いください。