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終電の向こう側

作者: ごろーまる
掲載日:2026/09/20

本作は、寝過ごした一本の電車から始まる、ささやかな一夜の物語。


忙しさの中で、自分を見失いかけているすべての人へ。この物語が、ほんの少し息をつく時間になれば幸いです。


 瞼の裏が赤く滲んで、遠くで誰かが名前を呼んでいるような気がした。


 いや、違う。あれは車内アナウンスだ。


「まもなく、大月、大月です──」


 その声で目を開けたとき、すでに電車は次の駅への加速を始めていた。窓の外を流れる灯りの数がやけに少ない。腕時計を見ると、21時17分。19時24分発の河口湖行き最終に乗ったはずなのに、もうニ時間近くが経っている。


 新田悠介は、寝ぼけた頭でシートに深く沈み込んだまま、しばらく状況が飲み込めずにいた。


 三日間、まともに眠っていなかった。制作会社に勤めて六年目、今度のクライアントは無理を承知でスケジュールを詰めてくる相手で、悠介は編集ソフトの前で徹夜を重ね、ようやく納品を終えた足でオフィスを出た。新宿駅のホームに立ったときにはもう意識が半分どこかに飛んでいて、電車に乗った記憶すらおぼろげだった。座った瞬間、糸が切れたように眠りに落ちたのだろう。


 目的地は大月の一つ手前、猿橋だった。そこに実家があり、今夜は法事の前入りで帰る予定だった。母には「遅くなるけど、必ず今日中に着くから」とメッセージを送っていた。


 なのに、電車はすでに大月を通過している。


 悠介は慌てて立ち上がった。車両の端から端まで見渡す。座席はどこも空いていて、吊革だけが規則正しく揺れている。ドア上の電光掲示板を見ると、次は「田野倉」と表示されていた。富士急行線に入っている。河口湖行きの電車は大月から先、JRの路線を離れて富士山麓へ向かう私鉄の線路を走るのだ。


 つまり自分は、猿橋をとうに通り過ぎて、まったく別の方向へ運ばれている。


 悠介は片手で額を押さえた。疲労で頭の芯が鈍く痛む。舌打ちしそうになるのをこらえて、とりあえず車内を歩いてみることにした。次の駅で降りて、上りの電車に乗り換えればいい。田舎とはいえ、こんな時間でもまだ何本かは走っているはずだ。


 そう思って一歩を踏み出したとき、妙な違和感に気づいた。


 車両に、自分以外の人間が一人もいない。


 最初は隣の車両に移動しただけかと思ったが、連結部のガラス越しに見える前後の車両も、同じように無人だった。座席、床、天井の蛍光灯──すべてがいつも通りなのに、人の気配だけがそっくり抜け落ちている。


 窓の外は、すでに完全な闇に沈んでいた。街灯の数はまばらで、時折、山の稜線らしき黒い塊が空との境目を作っているのが見えるだけだ。


 悠介はスマートフォンを取り出した。電波は一応立っている。時刻は21時42分。母からのメッセージが一件届いていた。


「気をつけてね。着いたら連絡してね」


 既読をつけて、返事を打とうとした指が止まる。何を書けばいいのか、うまく言葉が出てこなかった。「電車を乗り過ごした」と書くのは簡単だが、それだけでは説明のつかない不安が、胸の奥でじわじわと広がっていた。


 電車が減速し、ホームに滑り込む。「田野倉」という駅名標が、蛍光灯の下でぼんやりと浮かび上がっていた。ドアが開く。誰も乗ってこない。誰も降りない。悠介はしばらく躊躇したあと、意を決してホームに降り立った。


 その瞬間、電車は何事もなかったかのようにドアを閉め、走り去っていった。


 あたりは静まり返っていた。虫の声すら聞こえない。ホームの端に小さな待合室があり、蛍光灯が一つだけ灯っている。改札には駅員の姿もなく、無人駅らしいことが窺えた。


 悠介は上り電車の時刻表を探して駅の掲示板に近づいた。指でなぞりながら見ていくと、平日の最終上り電車は「21時35分」発。すでに七分前に行ってしまっている。次の始発は朝の5時20分。


 つまり、これから七時間半以上、この見知らぬ駅で一人、夜を明かさなければならないということだった。


 悠介はため息をついて、待合室のベンチに腰を下ろした。冷たい木製の椅子が、疲れきった体にじんわりと沁みる。スマートフォンでタクシー配車アプリを試してみたが、この時間、この場所まで来てくれる車は見当たらなかった。近くにコンビニもなさそうだ。地図アプリを開いても、周囲は山と田畑ばかりで、歩いて行けそうな場所は見当たらない。


 母に電話をかけようとして、また指が止まる。心配をかけるだけだと思い直し、代わりに短いメッセージを送った。


「電車を乗り過ごして、今、富士急行線の駅にいる。始発まで待つから、明日の朝には着くと思う。ごめん」


 既読はすぐについた。母からは「無理しないで、気をつけてね」とだけ返ってきた。それ以上の言葉がないことに、悠介は少しだけ救われた気がした。


 風が吹いて、待合室のガラス戸がかたかたと鳴った。山の匂いがした。都会の空気とは違う、土と葉と、かすかな水の匂いが混ざったような匂いだった。


 悠介はふと、いつからこんなふうに、何かに追われるように生きてきたのだろうと思った。大学を出て、なんとなく面白そうだからという理由で映像制作の道に入り、気づけば六年。仕事は嫌いではない。むしろ好きな部類に入る。だが、この数年は「好き」という感情よりも「終わらせなければ」という焦燥感のほうが、常に先に立っていた気がする。


 徹夜、修正、クレーム対応、また徹夜。その繰り返しの中で、いつのまにか「なぜこの仕事をしているのか」という問いそのものを、考えなくなっていた。


 ホームの向こうに、小さな灯りが一つ揺れているのに気づいたのは、そのときだった。


 最初は民家の明かりかと思ったが、よく見るとそれは動いている。誰かが懐中電灯を持って、線路沿いの道を歩いてくるようだった。


 悠介は立ち上がり、待合室から顔を出した。灯りは次第に近づいてきて、やがて一人の老人の姿が浮かび上がった。灰色の作業着に、首にタオルを巻き、片手に懐中電灯、もう片方の手に古びた竹箒を提げている。


「こんな時間に、珍しいね」


 老人はそう言って、悠介の前で足を止めた。声には驚いた様子も警戒した様子もなく、まるで毎晩ここで誰かと会っているかのような、自然な口調だった。


「電車を、乗り過ごしてしまって」


 悠介が答えると、老人は「ああ」と小さく頷いた。


「よくある話だ。この路線は、疲れた人がよく乗り過ごす」


 冗談なのか本気なのか分からない口調で言うと、老人は待合室の隅にある小さな物置の鍵を開け、中から石油ストーブを引っ張り出した。


「駅の掃除を任されとってね。この時期、夜は冷える。よかったら、火にあたっていきなさい」


 断る理由もなく、悠介はストーブの前に座らせてもらうことになった。老人はマッチを擦り、慣れた手つきで火を点けると、自分もその向かいに腰を下ろした。


「大月駅の一つ手前まで帰る予定だったんです。猿橋というところに実家があって。それが、寝過ごして、気づいたらここまで来ていて」


「猿橋か。ここからだと、遠回りをしたもんだね」


「明日、祖父の法事があって。今夜のうちに実家に着くはずだったんですが」


 悠介がそう言うと、老人はしばらく黙って火を見つめていた。パチ、と薪の爆ぜるような小さな音がストーブの中から響いた。


「わしも、若い頃はよく乗り過ごしたよ。仕事に追われとった頃はね」


「おじいさんも、そういう時期があったんですか」


「あったとも。東京で働いとってな。設計の仕事をしとった。毎日、図面と睨めっこで、気づけば終電で、気づけば寝過ごして、気づけば知らない駅で一晩明かす。そんなことが何度もあった」


 老人は懐かしそうに目を細めた。


「あるとき、今のあんたとおんなじように、乗り過ごしてこの駅で夜を明かしたことがあってな。そのとき思ったんだ。ああ、俺は今、どこにも向かっていない、と」


 悠介は思わず顔を上げた。


「どこにも向かっていない、というのは」


「会社と家の往復。それだけの毎日だった。仕事は嫌いじゃなかった。むしろ、誇りに思っとった。だが、ふと気づくとな、自分がどこへ向かって歩いているのか、まったく分からなくなっとった。目的地は分かっとる。だが、それが自分にとって何なのか、分からなくなっとったんだ」


 悠介の胸の奥で、何かが小さく音を立てた気がした。


「わしはそれから、この駅の近くに移り住んだ。設計の仕事は辞めた。今は、こうして駅の掃除をしながら、山を見て、季節の変わり目を眺めて暮らしとる。稼ぎは少ないが、毎朝目が覚めたとき、自分がどこにいて、何をしようとしているのか、はっきり分かる。それだけで、随分と楽になった」


 悠成は何も言えずに、ただ火を見つめていた。ストーブの炎が、老人の皺だらけの顔をオレンジ色に照らしている。


「あんたは、今の仕事は好きかね」


 唐突な問いに、悠介は少し戸惑いながらも答えた。


「好きです。多分、今でも」


「なら、いい。ただし、好きなことと、追われることは、似ているようで違う。追われている間は、好きかどうかを感じる余裕すら消えてしまう。今夜、あんたがここで乗り過ごしたのは、もしかしたら、体が『少し立ち止まれ』と言っているのかもしれんよ」


 その言葉が、疲れきった悠介の胸に、じんわりと染み込んでいった。反論する気力もなく、ただ、その通りかもしれないと素直に思えた。


 二人はしばらく無言でストーブの火を見つめていた。外では虫の声が戻ってきたのか、かすかな鳴き声が聞こえ始めていた。


「祖父さんの法事、というのは」


 老人が沈黙を破って尋ねた。


「三回忌です。祖父は昔、猿橋で小さな写真館をやっていました。地元の家族写真や、結婚式の写真を撮って生計を立てていて。子供の頃、店に入り浸っては、現像液の匂いを嗅いでいたのを覚えています」


「写真館か。いい仕事だ」


「祖父はよく言っていました。『写真は、人がどこかへ向かう途中の、ほんの一瞬を切り取る仕事だ』と。子供の頃はよく意味が分かりませんでしたが」


「今は、分かるかね」


 悠介は少し考えてから、首を横に振った。


「正直、まだよく分かりません。ただ、今夜、こうして知らない駅で一晩を過ごすことになって、自分がどこに向かっているのか分からなくなっている今この瞬間も、もしかしたら祖父の言う『一瞬』のひとつなのかもしれないと、そんな気がしてきました」


 老人は満足そうに頷いた。


「それでいい。旅というのは、目的地に着くことだけが旅じゃない。予定になかった場所で、予定になかった誰かと話をする。それも立派な旅のうちだ」


 夜は静かに更けていった。老人は途中で一度、駅の周辺を見回りに出て行き、また戻ってきた。二人はぽつりぽつりと言葉を交わしながら、ときに黙って火を見つめ、ときに互いの過去を語った。老人は若い頃に手掛けたという設計図の話を、悠介は編集した映像作品の話をした。仕事の話をしているうちに、悠介は自分がいつのまにか笑っていることに気づいた。


 いつからか、仕事の話をするときに笑うことなど、なくなっていた気がした。


 午前三時を過ぎた頃、悠介はベンチに横になり、老人が貸してくれた古い毛布にくるまって、少しだけ眠った。夢は見なかった。ただ、体の奥に溜まっていた疲れが、ゆっくりと抜けていくような感覚があった。


 目が覚めたのは、東の空がわずかに白み始めた頃だった。老人の姿はすでになく、ストーブの火も消えていた。代わりに、ベンチの脇に一枚のメモが置かれていた。


「始発は五時二十分。良い旅を」


 達筆とは言いがたい、しかしどこか温かみのある字だった。


 悠介は立ち上がり、外に出た。山の稜線が、朝焼けに淡く縁取られ始めていた。空気は冷たく澄んでいて、深く息を吸い込むと、肺の奥まで洗われるような気がした。


 ホームに立って、時刻表を確認する。五時二十分発、高尾方面行き。あと十五分ほどだった。


 悠介はスマートフォンを取り出し、母にメッセージを送った。


「始発に乗るから、6時半前には着けると思う。ちゃんと法事に間に合うよ」


 それから少し迷って、もう一文を付け足した。


「今夜、いろいろ考えることがあった。着いたら、ゆっくり話すね」


 既読がついて、すぐに「待ってるよ」と返ってきた。


 電車がホームに滑り込んでくる音が、山の静けさの中に響いた。悠介は乗り込む前に、もう一度、無人の駅を振り返った。老人の姿はどこにもなかったが、ストーブの置かれていた場所に、小さな竹箒が一本、壁に立てかけられているのが見えた。


 電車が動き出す。窓の外を、朝焼けに染まった山々がゆっくりと流れていく。悠介はシートに深く座り、目を閉じた。今度は眠るためではなく、この数時間で感じたことを、心の中で整理するためだった。


 乗り過ごしたことは失敗だったのかもしれない。だが、あの夜、あの駅で、あの老人と交わした言葉がなければ、自分はきっと、これまでと同じように、ただ仕事に追われ続けていただろう。


 大月駅に着き、悠介はJRのホームに乗り換えた。次の電車で猿橋に向かう。窓の外に見覚えのある景色が近づいてくるたび、胸の奥に懐かしさと、少しの緊張が広がっていく。


 猿橋駅に降り立つと、母が改札の外で待っていた。少し疲れた顔をしていたが、悠介の姿を見ると、ほっとしたように微笑んだ。


「大変だったね」


「うん。でも、悪くない夜だった」


 悠介がそう答えると、母は不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も聞かずに、ただ「おかえり」とだけ言った。


 実家へ向かう道すがら、悠介は昨夜の出来事を、少しずつ言葉にしていった。無人の電車、見知らぬ駅、老人との会話。母は黙って耳を傾け、時折「そう」と相槌を打つだけだったが、その静かな聞き方が、なぜだか心地よかった。


 法事は滞りなく終わった。祖父の遺影の前で手を合わせながら、悠介はふと、あの老人の言葉を思い出していた。「旅というのは、目的地に着くことだけが旅じゃない」


 祖父が生前撮り続けた写真の数々を、法事のあとに久しぶりに見返した。結婚式、七五三、卒業式、家族旅行。どの写真も、誰かがどこかへ向かう「途中」の一瞬を切り取ったものばかりだった。到着した瞬間の写真は、一枚もなかった。


 東京への帰り道、悠介は再び中央線に乗った。今度は昼間の、混雑した電車だった。窓の外を流れる景色を眺めながら、悠介はスマートフォンのメモアプリを開き、短い文章を打ち込んだ。


「いつか、あの駅にもう一度行ってみよう。あの老人に、もう一度会えるかどうかは分からないけれど」


 電車は淡々と、次の駅へ向かって走り続けていた。窓に映る自分の顔は、いつもより少しだけ、穏やかに見えた。


 オフィスに戻った翌週、悠介は上司に一つの提案をした。次のプロジェクトのスケジュールに、これまでよりも少しだけ余白を持たせてほしい、という内容だった。効率を落とすためではなく、むしろ長く良い仕事を続けていくために。上司は最初戸惑った様子を見せたが、悠介の説明に静かに頷いた。


 その夜、悠介は久しぶりに定時で会社を出た。新宿駅のホームに立ち、電光掲示板に「河口湖行き」の文字を見つけたとき、思わず小さく笑ってしまった。


 今夜は、寝過ごさないようにしよう。そう思いながら、悠介は電車に乗り込んだ。


 だが、もし今夜も寝過ごしてしまったとしても──それはそれで、悪くない旅になるのかもしれない。そんな気がしていた。


普段はテニス小説を連載しています^ ^

良ければ作品ページよりご覧ください。

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