Chapter Twenty-Two Le Calme avant la Tempête
穏やかな日が、しばらく続いた。
ダリウス侯爵の件が落ち着いてから、社交界の空気は少し緩んでいた。
大きな陰謀も、緊急の情報収集も、しばらくはない。
そういう時間が、私にも時々訪れる。
午前中は刺繍をした。
ヴァレンタイン家の令嬢として身につけた嗜みの中で刺繍だけは嫌いではなかった。
手を動かしている間、頭が静かになる。
考え事をするでもなく、考え事をやめるでもなく、ただ針を動かす。
その時間が、今日は心地よかった。
昼過ぎ、母の部屋を訪ねた。
母は窓際の椅子に座って、本を読んでいた。
私が入ってきても驚いた様子はなかった。
「珍しいこと」
「少し、ご一緒してもいいですか」
「もちろん」
母の部屋は、邸の中で最も静かな場所だ。
父の執務室のような緊張感もなく、私の部屋のような一人の孤独感もない。
ただ、優しい空気がある。
いつもそばにいる母の侍女のナタリーが、お茶を持ってきた。
四十代の落ち着いた女で、母が嫁いできた頃から仕えていると聞いている。
物静かで、余計なことを言わない。
母の側にいつもいる影のような存在だった。
「ありがとう、ナタリー」
「ごゆっくりどうぞ」
ナタリーは静かに会釈して、部屋の端へ下がった。
私は母と他愛のない話をした。
庭園の薔薇がそろそろ芽吹く季節になること、先日の茶会で見かけた美しいドレスのこと、最近読んだ本のこと。
政略も情報も関係ない話を、ただ話した。
こういう時間が、母との間にはある。
他では作れない種類の時間だと、最近少し分かってきた。
帰り際、ナタリーが扉まで見送ってくれた。
「またいつでもいらしてください、お嬢様」
長年この家にいる人間の、穏やかな親しみが滲んでいた。
✦ ✦ ✦
夕方は、音楽の時間にした。
ピアノフォルテの前に座って、しばらく鍵盤を眺めた。
令嬢の嗜みとして習ってきたものだが、弾くこと自体は嫌いではない。
ただ人前で弾くことが少ないので、一人の時だけの習慣になっていた。
ゆっくりと、一曲弾いた。
特別な曲ではない。
昔から知っている、静かな旋律の曲だ。
弾いている間、頭の中がまた静かになった。
刺繍の時と似た感覚だが、音楽の方が少し違う。
音が空間を満たす分、孤独感が薄れる。
弾き終えてから、しばらく鍵盤の上に手を置いたまま座っていた。
ベネディクトは音楽が好きだろうか、とふと思った。
聞いたことがなかった。
夜会で音楽が流れている時、あの人はどんな顔で聞いているのだろう。
今度、聞いてみようと思った。
そういうことを聞けるようになったのも、最近のことだ。
✦ ✦ ✦
夜はマルグリットと過ごした。
支度を解きながら、他愛のない話をした。
最近のマルグリットは、以前より少し話すようになった気がする。
あるいは私が聞くようになったのかもしれない。
「今日は穏やかな一日でしたね」
「そうね。こういう日も悪くないわ」
「ミシェルローズ様がそうおっしゃるのは、珍しいことですね」
「そう?」
「ええ。以前は何もない日を退屈だとおっしゃっていましたから」
言われてみれば、そうだったかもしれない。
盤面を動かすことに常に意識が向いていた。
何もない日は、物足りなかった。
それが今日は、穏やかな日が心地よかった。
何かが変わったのだと思う。
何が、というのは分かっていた。
「マルグリットは、ナタリーとは仲がいいの?」
「仲が良い、というより長く同じ家にいる者同士の、安心感がありますね。物静かで、信頼できる方だと思っています」
「そう。私もそう思うわ」
窓の外に、月が出ていた。
丸に近い月が、冬の空に白く浮かんでいた。
穏やかな夜だった。
こういう夜が、もう少し続けばいいと思った。
続くと思っていた。
その時は。




