三年間無視され続けた妻は、静かに離縁届を差し出した
離縁届を手に、私は夫の執務室の前に立っていた。
重い樫の扉。三年間、一度も開けたことのない扉。
ノックをする。返事はない。いつものことだ。
「失礼いたします」
声をかけて中に入る。窓際の執務机に、黒髪の男が座っている。
北方辺境伯グレン・ヴォルフハルト。私の、夫。
彼は書類から顔を上げなかった。
「離縁届をお持ちしました」
私は静かにそう告げた。
◆
三年前、私は政略結婚でこの屋敷に嫁いできた。
実家は没落寸前の子爵家。辺境伯との縁談は、家を救う最後の綱だった。
けれど夫は、婚礼の夜から私を避けた。
同じ食卓につくことはない。廊下ですれ違っても視線を合わせない。名前を呼ばれたことは、一度もない。
最初は泣いた。何が悪かったのかと考え続けた。
けれど理由など、わかるはずもなかった。
一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年目の冬が来た。
私の心は、静かに凍っていった。
◆
「離縁届、ですか」
夫がようやく顔を上げた。銀灰色の瞳が、私を見る。
冷たい。いつもと同じ、感情の読めない目。
「ええ。本日中に提出すれば、年内に手続きが完了するそうです」
私は机の上に書類を置いた。
「署名をいただければ、すぐに出ていきます。ご迷惑はおかけしません」
夫は書類に目を落とした。長い沈黙。
私は待った。怒りはない。悲しみもない。ただ、早く終わってほしかった。
「……理由を聞いても?」
「理由ですか」
私は小さく笑った。
「三年間、一度も名前を呼ばれませんでした。一度も、同じ食卓につきませんでした。一度も、夫婦らしいことはありませんでした」
声は震えなかった。もう、とっくに枯れていた。
「私は貴方にとって、何だったのでしょう。家具ですか。飾りですか。それとも、最初から存在しないものでしたか」
夫の表情が、わずかに歪んだ。
けれど私はもう、その意味を読み取ろうとは思わなかった。
「お返事は急ぎません。署名ができましたら、執事に渡してください」
踵を返す。扉に向かう。
これで終わりだ。三年間の、何もない結婚生活が。
「待て」
低い声が背中に刺さった。
振り返らなかった。もう、期待などしない。
「待ってくれ、リーゼル」
足が止まった。
名前。
今、この人は私の名前を呼んだ。
三年間で、初めて。
◆
振り返ると、夫が立ち上がっていた。
その顔には、今まで見たことのない表情があった。焦り。苦しみ。そして、何か押し殺してきたものが溢れ出すような。
「話がある。聞いてくれ」
「今さら何を——」
その時、執務室の扉が開いた。
「あら、奥様。こんなところで何をしていらっしゃるの?」
艶やかな赤毛。勝ち誇った微笑み。
イレーネ・コルスタイン侯爵令嬢。夫の幼馴染にして、この屋敷の「本当の女主人」を自称する女。
「離縁届を出しに来たの。賢明な判断ね」
彼女は私の横をすり抜け、夫の傍らに立った。
「グレン様は貴女を愛したことなど一度もないのよ。ずっと私を想っていらしたの。だから貴女なんかに触れるはずがないでしょう?」
夫の顔が強張った。
「イレーネ、黙れ」
「あら、なぜ? 事実を言っているだけよ。この方には真実を知る権利があるわ」
イレーネは私に向き直った。目には明確な悪意。
「可哀想なリーゼル様。三年間も気づかなかったの? 貴女は最初から、私たちの関係を隠すための隠れ蓑だったのよ」
私は黙っていた。
怒りは湧かなかった。ただ、空虚だった。
「そうですか。では、なおさら離縁は正しい判断ですね」
「リーゼル、違う。そいつの言葉を信じるな」
夫が一歩踏み出した。けれど私は扉に向かった。
「もう結構です。お幸せに」
◆
廊下に出ようとした瞬間、背後で何かが落ちる音がした。
「おお、これは失礼を」
老執事オスヴァルトが、床に散らばった書類を拾い上げている。
「旦那様、日誌が落ちてしまいました。奥様、よろしければお手伝いを」
「オスヴァルト、それを触るな!」
夫の声が鋭く響いた。
日誌。
一冊の革表紙の本が、私の足元に転がっていた。
「拾うだけです」
何気なく手に取った。開いたページが目に入った。
そして、息が止まった。
『今日もリーゼルを遠ざけた。彼女の哀しそうな顔を見るたび、胸が引き裂かれる。けれど近づけない。この呪いが彼女に移ってしまったら、私は生きていけない』
文字が滲んで見えた。
『彼女の笑顔を見たい。名前を呼びたい。手を繋ぎたい。けれど、できない。魔獣の呪いは接触で伝染する。愛する者に触れれば、その者の命を奪う』
私は震える手でページをめくった。
『医師の見立てでは、あと数年。それまでに解呪の方法を見つけなければ。リーゼルを巻き込むわけにはいかない。彼女だけは、絶対に』
日付は三年前。婚礼の翌日。
最初のページから最後のページまで、同じ名前が繰り返し書かれていた。
私の名前が。
◆
「返せ」
夫が私の前に立っていた。その顔は蒼白だった。
「なぜ、言ってくださらなかったのですか」
「言えるわけがない。お前を死の恐怖に巻き込むなど」
「三年間、私は——」
声が震えた。
「三年間、愛されていないと思っていました。存在を否定されていると思っていました。毎晩、何が悪かったのかと考えて、眠れない夜を過ごしました」
涙が頬を伝った。凍っていたはずの心が、溶けていく。
「それなのに貴方は、私を守るために——」
「泣くな」
夫の手が伸びかけて、止まった。
「触れない。触れたら、お前に呪いが移る」
「もう遅いのよ、グレン様」
イレーネが甲高い声を上げた。
「その呪い、とっくに解けているでしょう? 半年前に解呪師が来たじゃない。私、知っているのよ」
空気が凍った。
「……何だと」
「呪いは半年前に解けた。でも貴方は私に、まだ解けていないと言った。なぜかしら? 私が奥様に嘘をつけば、離縁が進むと思ったから?」
イレーネの顔から余裕が消えていた。
「グレン様、私を選んでくださるのでしょう? ずっと私を愛していると——」
「一度も言っていない」
夫の声は氷のように冷たかった。
「お前が勝手に言い触らしていただけだ。俺がリーゼルに近づかなかったのは呪いのせいだ。お前への愛など、欠片もない」
「嘘よ! そんなはずない!」
「オスヴァルト」
老執事が一礼した。
「コルスタイン侯爵令嬢を、本邸から追い出せ。今後、敷地内への立ち入りを禁じる。侯爵家には、彼女がこの三年間、俺と主人の関係にあるという虚偽を社交界に流布していた件について、書状を送れ」
「かしこまりました」
「待って! グレン様、お願い、私を——」
イレーネは取り乱した。けれど執事に腕を取られ、引きずり出されていく。
扉が閉まった。
静寂が戻った。
◆
「リーゼル」
夫が、私の前に跪いた。
北方辺境伯が。魔獣討伐の英雄が。誰にも頭を下げない男が。
「許してくれ」
銀灰色の瞳に、光が揺れていた。
「三年間、お前を傷つけた。理由があったとはいえ、お前の涙を無視した。その罪は消えない」
「グレン様……」
「呪いが解けた後も、告げられなかった。今さらどう説明すればいいかわからなかった。お前に軽蔑されるのが怖かった」
私は膝をついた。夫と同じ高さに。
「なぜ、今言ってくださるのですか」
「お前がいなくなると思ったら、何も怖くなくなった」
夫の手が、震えながら私の頬に触れた。
「リーゼル。俺の妻になってくれ。今度こそ、本当の意味で」
温かい。
三年間、ずっと求めていた温もりだった。
「ずっと貴方の妻です」
私は微笑んだ。
「離縁届は、破り捨ててください」
◆
夫の腕の中は、思っていたよりずっと温かかった。
「名前を呼んでください」
「リーゼル」
「もう一度」
「リーゼル、リーゼル、リーゼル」
耳元で何度も囁かれる名前。三年分を取り戻すように。
「これからは毎日呼ぶ。毎食一緒に食べる。毎晩、隣で眠る。三年分、全部取り返す」
「欲張りですね」
「お前を三年も待たせた。これくらいでは足りない」
窓の外では、雪が静かに降り始めていた。
長い冬が終わる。
私の心を凍らせていた冬が、ようやく溶けていく。
「グレン様」
「グレンでいい」
「……グレン」
「もう一度」
私は笑った。今度は心から。
「グレン。愛しています」
夫は——いいえ、グレンは、私を強く抱きしめた。
「俺もだ。ずっと、お前だけを」
離縁届は、二人の手で破り捨てた。
紙片が雪のように舞う中、私たちは初めてのくちづけを交わした。
三年越しの、本当の始まりだった。
お読みいただきありがとうございました。
三年間の誤解が解ける瞬間を、じっくり描きたいと思いました。グレンの不器用な愛情が伝わっていれば幸いです。
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