噴水のある公園
あれはまだ僕がカメラマンを目指していた大学生の頃だった。
そのころの僕は、卒業論文を書かなくても卒業できるのをいいことに、毎日カメラを持っては街にくり出していた。
ちょうど、M社のオートフォーカスシリーズが出た時期で、僕も三台目のカメラとしてそれを使い始めたばかりだった。感性を磨くには、なるだけ多くシャッターを切らなければならない、そう思い込んで、何の変哲もない人々の日常を撮りまくっていたように思う。
そんな時だった。
広い歩道の中の、人通りの多い噴水のある広場で、彼女は小物を広げていた。レンガの路上にアクセサリーの露店を開いていたのだ。
ひざを抱え、ただ寂しげに、感情のない人形のように座るその姿は、そんな彼女の存在にも気付かぬようにせわしげにあるく人の群と好対照で、浮き世離れしているようにさえ見えた。
僕は無意識のうちに、手にしたカメラのファインダー越しに彼女の姿をとらえていた。しかし、シャッターに指はかけなかった。フィルムはとうに使い切ってしまっていたのだ。
ただ僕は、網膜にその構図を焼き付けるしかなかった。
しばらく、人の流れの分だけ距離を置いたまま眺めていた。少しでも多くの彼女の表情を見たかった。
しかし、やがて酔いの回った勤め帰りのサラリーマン達が多くなってきて、その影で彼女を見失いがちになると、いつのまにか彼女も露店も姿を消していた。
次の日も、その次の日も、同じ時間、僕はその広場に足を運んだ。しかし、彼女の姿と彼女の露店は見つからなかった。外国人の男女が二三人、小物や絵を広げているだけだった。
僕はフリーのカメラマンになるつもりだったので、殆ど就職について考えていなかったのだが、仲間は次々と活動の成果を上げているようだった。最近、特に景気がいい証券や金融関係の企業に内定の決まった連中は、口々に僕に忠告めいたことを言っていた。しかし、僕は彼らの喜ぶ就職先の仕事に全く魅力を感じられなかったから、「すごいじゃないか、お前」などとおだてながらも、強がり抜きでうらやましいとは思わなかった。
その日、珍しく大学に行った帰り、また広場へ行ってみた。
前と同じ場所に、彼女はいた。
僕はうれしさと、悔しさを同時に味わった。その日はどういう訳か、カメラを持っていなかったのだ。
彼女の向かいにあたるベンチに腰を下ろし、長いこと人波越しにただ無表情な彼女を見つめていた。
やがて異変が起きた。
酔っぱらいが、彼女に絡み始めたのだ。相手にしなかったのが災いして、男が彼女をこづきだした。
皮肉にも、彼女が感情を表すのを見たのは、それが初めてだった。
僕は人波をかき分けていた。
「やめろよ、おじさん」
「何だ?お前は」
中年のサラリーマンは呂律の怪しい口調で行った。
「俺はな、この小娘にくだらん物を道ばたで売るなと注意してたんだ」
その時、初めて彼女と目が合った。もちろん初めて見る、とまどいの表情だった。
「そろそろ、片付けてもいい時間なんじゃないか?」
初対面にしては馴れ馴れしすぎる口の聞き方をしたものだ。
彼女は頷くと、木箱の中に小物を入れ始めた。
「片付ければ済むこっちゃなかろうが」
男は、まだ広げられている小物を一つ踏みつけた。僕は慌てて男を引き離し、残りの小物を箱に入れるのを手伝った。
男はひとしきりわめいた後、去り際、僕の脇腹を蹴り付けて行ったが、彼女と一緒に作業をしていることに夢中で、痛みを感じる暇がなかった。
片付けが終わった後、彼女が壊れたブローチを手に乗せ、悲しげな目でそれを見つめているのに気付いた。
「君が作ったのかい?」
間に耐えられず、僕が言った。
「ええ」
「いくらだい?僕が払うよ」
彼女はふっと目を上げた。綺麗だが、冷ややかな目だった。
「どうしてあなたが払うの?私は物乞いじゃないわ」
とたんに僕は自分の軽率な言動を恥じた。
「ごめん。そんなつもりじゃ...あの、君があんまり悲しそうだったものだから」
彼女は荷物をまとめると、噴水の縁に腰掛けた。気まずさを感じながらも、去るに去れず、僕も隣りに腰掛けた。
しばらくして、そっと彼女の横顔を見ると、ブローチを握ったまま流れる人波の方にぼんやり視線を向けていた。
噴水の水が止まった。
黙っていると、帰ってしまうような気がして、僕は話しかけた。
「たまにここに居るね。それ、売れるの?」
考えてみれば、僕より、もしかしたら年上かもしれない女の人に、馴れ馴れしい口をきいたものだ。しかし、僕は同年代の若者同志が丁寧な言葉で話しているのが嫌いだった。かえって不自然で、嫌みっぽく聞こえるものだ。
彼女も気さくな調子で答えてくれた。
「ボチボチね」
その商売人のような答え方に僕が笑うと、彼女も初めて笑顔を作った。
「うそ。本当はちっとも売れないの。時々女子高生やカップルが冷やかし半分に買って行くだけ」
「冷やかし半分か。でもそんな買われ方したくないだろうね」
「そうね。上手くできた物だけ売り物にしてるのだけど、気に入ってる物は人に買われたくないような気がするわ」
何となく分かる気がした。物を作ると言うことは、そういう感情が伴うのかもしれない。写真はちょっと違う。気に入った物はいくらでも焼けばいいからだ。それでも愛着が湧くくらいだから、手作りの品ならなおさらのことだ。まして、それを壊されたときの気持ちはどんなだったろう。それを考えて沈みがちになるのを押さえて、僕は明るく言った。
「君が一番気に入っているやつを当ててみようか」
彼女は、ちょっと面白そうな顔をすると、木の小箱を僕に渡した。
「こんな素敵なアクセサリーが作れるのに、自分では一つも身につけていないんだね」
小箱の中を探りながら言った。
「自分の作った物を身につける?なんだか虚しいわよ。一人暮らしのOLが自分のお誕生日に自分でケーキを買ってくるみたいで」
「変なたとえだね」
彼女が段々親しげに話してくれるようになってきたのを感じて嬉しくなった。
「これだ」
僕はイヤリングを一組つまみ上げた。
「どうして?」
彼女は優しい笑顔で言った。
「理由は二つ。一つには品物を並べる位置だね」
僕はわざと理屈っぽい口調で答えた。
「このイヤリングは今日も、前に見たときも君に一番近いところに置かれていた。客からは一番遠いところだ。とすると、さっき君が言ってた事に当てはまるだろう?気に入った物は人にやりたくないって」
彼女は、その八分音符が二つつながった形の銀色のイヤリングを受け取りながら、面白そうに僕の顔を見た。
「いい観察力ね。誰でもそんなに良く見てるの?」
誰でもって事があるもんか。
「もう一つの理由は君が付けたら良く似合うだろうなって思ったからさ。どう?当たったろう?」
彼女は今までで一番優しい笑顔を作ると手にした音符を見ながら言った。
「当たり。これ、一番気に入っているのよ」
銀の光りが瞬いた。
「いくらだい?売ってくれよ」
僕が言うと、彼女は一瞬、冗談と取ったようだが、財布を出すのを見て少しとまどいの表情になった。
「包んで貰おうかな。君にプレゼントしたいんだ」
ゆっくりと微笑んだ彼女は、悪戯っぽく言った。
「そういうことなら安くしとくわ」
二重のまぶたは薄く柔らかそうで、優しい目をした女がった。
彼女を見なくなって一月程経った。
未希、という本当かどうかも分からない名前の他は、何も分からない。せめて写真を撮っておけば手がかりになったのに、と悔やんでいた。
写真の嫌いな女だった。
「だって、自分の子供に”お母さんは若い頃、とっても綺麗だったのよ”って言って聞かせても、昔の写真があったらまずいじゃない」
彼女は冗談半分に言っていた。
「君ならそんな心配いらないよ」
僕は笑いながら本気で言っていた。
カメラを向けると、真顔でいやがるので僕も無理に撮ろうとするのをやめていたのだ。
正直言って、恐かったせいもある。
実際にあっているととても綺麗で魅力的な人も、写真に写すと薄っぺらく見えてしまうことがあるからだ。撮る側の思いこみが激しいほど、そのギャップは大きい。
そんな経験は何度かしていた。
その日もバイト帰り、広場の噴水に来た。
彼女は居なかった。
僕はいつも彼女と並んで座っていた噴水の縁に腰を下ろすと、真後ろで誰かが吹いているハーモニカの音色を聞いていた。
何気なく手で水をすくったとき、水の底できらめく物を見つけた。
見慣れた形の光りだった。水の底からすくい上げるとそれは、やはり彼女のお気に入りの、あのイヤリングだった。
(どうしてこれが、こんな所に?)
様々な憶測が頭をよぎった。
彼女が自分で捨てたのか?しかし、何故。もしかしたら、また、酔っぱらいにでも絡まれたのかもしれない。
いずれにしても僕を不安にさせる、この片方だけのイヤリングを、僕はポケットに突っ込んだ。
彼女に再び会うことが出来たのは、夏も終わろうとしていたある日のことだった。
探すでもなく噴水の広場にやってきた僕はそこに座っている彼女を見つけたのだ。
「どうしたの?急に姿を見せなくなるから心配したよ」
喜びを隠しきれない僕と対照的に、彼女は冷静に言った。前に良く見た、無表情な顔だった。
「私、結婚するのよ」
一瞬、意味が分からなかった。どう対応していいのか迷っていると、先に口を開いてくれた。
「父の会社のお得意先のエリート。いい人よ」
「そうか。そりゃ、おめでとう」
とりあえず、言うべき事はそれしか浮かばなかった。
変な間が空いた。
僕は黙っている彼女の横に腰を下ろした。
「これ」
上着のポケットから片方だけのイヤリングを出した。
「ここで拾ったんだ。記念に貰っちゃおうかとも思ったけど、これは僕が君にあげた物だからね」
彼女は黙ってそれを受け取ると、右耳に付けた。
「似合うよ」
下を見たまま、彼女は微笑んだ。
「社長さんなんだ。君のお父さん」
言いながら、改めて彼女のことを何も知らないのを感じた。不意に悪い考えが浮かんだ。もしかしたら、今時、政略結婚なんじゃあるまいか。
「私、短大を出てから少し、父の会社で働いていたのだけれど、春から辞めてぶらぶらしてたの」
彼女が初めて身の上話をした。
あれほど、事情を知りたいと思っていたにも関わらず、いざ聞き始めるとなんだか彼女が少しずつ小さくなってしまうのではないかと言うような、不安な気持ちになっていた。
「暇にまかせて金属工芸の教室にたまたま行って、初めて自分の手でアクセサリーを作ってみて分かったの。物を生み出すことの素晴らしさが。一体、今まで何をやっていたんだろうって思ったわ。そしたら急にもっと作りたくなって、それで道具を一式そろえて露店用に作り始めたのよ」
彼女は隣の僕の方を向こうともせずに、淡々と話した。
「一月前に父の会社の人に現場を押さえられるまで、アパートとバイト先とこの広場を往復してたわけ」
その一月前というのが、僕がイヤリングを拾った頃らしい。トラブルがあったのかもしれない。
半年前から、この女はひどく寂しい生活を送っていたのだ。それが、あの浮き世離れした雰囲気を作り出していたのだ。
「会社はどうして辞めたんだい?」
彼女は、一瞬とても哀しい目をしたが、すぐ無理に明るい調子で言った。
「そこは、社内恋愛が禁止だったのよ」
僕と同じくらいの年齢なのに、彼女はいろいろな辛い経験をしてきたらしい。そして今、無理矢理かどうかは別として、親のすすめた男と結婚しようとしている。
彼女の、人生を悟ったような、あきらめたような態度が悲しく映った。
僕に出来ることは、明らかに、何もない。
「この公園に来るようになって、新しく知り合ったのは、あなただけだったのよ」
「こんなにたくさん人がいるのにね」
周りには、いつものように、幾重にも人の流れが出来ていた。
「みんなプライバシーを主張しすぎているから、他人と交わることができないのよ。自分のことだけを考えているのは楽だけど、それってとっても寂しいことでしょう?だから無意識に人ごみの中に入りたくなる。でも誰も本当に近付こうとはしないの。他人と協調することの負担を追いたくないのね」
その負担を負ってまでも近付きたくなる、そんな魅力を持っていたことを彼女自身、気付いていたのだろうか。
「ところで、今日はここで何してたんだい?」
手ぶらの彼女を見て尋ねた。
「この噴水にお別れを言いに来たの」
彼女は水を手にすくった。
「それに、あなたにもお別れを言いたかった」
「上手いこと言うね。僕が思っている程、君は僕のことを考えていないと思ってた」
「言ったでしょ。この半年の間に新しく知り合ったのは、あなただけだって。他にはおしゃべりできる人さえいなかったわ」
満足感で息苦しいくらいだった。僕は彼女の記憶の一頁に十分に入り込めたようである。
「ありがとう。このふたつき楽しかったわ。これ、最近、一番良くできて気に入ってるの。とっておいて」
彼女は胸のポケットから銀色のネクタイピンを取り出し、僕に手渡した。
裏には「M」と
打ってあった。
「君の名前の頭文字かい?」
「そうよ」
「作ったアクセサリーには全部このイニシャルが?」
「入ってるわ。でもみんな処分したの。残ったのはあなたにあげたそれと、あなたに貰ったこれだけ」
耳元できらめくイヤリングをはじいた。
今まで止まっていた噴水の水が出始めた。
「さようなら。元気でね」
「君も」
たったそれだけのあいさつを交わして、僕らは別れて歩き始めた。
不思議と未練はなく、むしろ彼女と出会えて得をしたような、充実した気持ちになっていた。
それから何年も経ち、彼女の事を思い出すこともなくなった頃だった。当時の街の写真を処分していて、偶然映っている彼女の姿を見つけ出したのは。人混みの間に、あの現実離れした雰囲気で、彼女は座っていた。それで急に懐かしくなり、こんな話をしたのだった。
「それで女の子だったら『未希』はどうかと、こういうわけね?」
僕の横で彼女がわざと事務的に言った。
「そのかわり、男の子だったら、名前は君に任せるよ」
「ほんとにいいの?」
「思い出の名前がありそうな顔してるな」
暗がりの中で隣の枕に向かって言った。
「そりゃあるわ」
「話してくれよ」
「いいわよ。但し、あなたがヤキモチを焼いても知らないわよ」
彼女が悪戯っぽい目で言った。
僕はその前に、ホットミルクを入れる用意をした。
こちらの物語も長くなりそうだったからだ。
終わり




