第9章 - 九環魔刀
香煙が立ち込める祠堂の中で、神崎弘樹はひざまずき、両手で線香を捧げて亡き父 ― 神崎正信に祈りを捧げた。香炉が微かに揺れ、沈香の香りが木造の部屋全体に広がり、厳かでありながら温かみのある雰囲気を作り出していた。
弘樹は三度深く礼をし、低い声で呟いた。
「父上、どうか安らかに。私は必ず遺言を守り抜きます。」
そして彼は立ち上がり、食卓の部屋へ向かった。四角い木の卓にはすでに母が座っていた。上品に結い上げられた髪、落ち着いた顔立ち。しかし未亡人の瞳には孤独の影が残っていた。
神崎蓮司は向かいに座り、寿司を箸で掴んでは強く噛みしめ、まるで鬱憤を吐き出すかのようだった。弘樹は母の隣に腰を下ろし、徳利から酒を三つの盃に注いだ。
「父が逝き、残されたのはお前たち二人と綾女だけ。」と母はため息をつき、目を赤く潤ませた。「憎しみに囚われて、この家を裂いてはならないよ。」
ヒロキは黙ってうなずき、手にした盃に灯火が映り込んだ。
「分かっています、母上。外には敵が星のごとく存在する……我らが拠り所は、もはや家族しかないのです。」
レンジは沈黙したまま、わずかにうなずいたが、握った箸は小刻みに震えていた。その瞳の奥には、かすかな反発の光が宿っていた。
夕餉は静かに過ぎていった。外では夜風が松の枝を揺らし、初冬の冷気を運んでくる。一見すると平穏な家の光景。しかしその奥底には、やがて押し寄せる嵐を告げる小さな炎が、密かに燃え始めていた。
人通りの絶えた裏路地。煤けた煉瓦塀に映るのは、黄昏の提灯の淡い灯り。抹茶の香りが漂う屋台に人影はなく、ただ一人、顔を覆った黒衣の男が静かに腰掛けていた。その目は氷のように冷たい。
そこへ陳明軍が歩み寄ると、黒衣の男は立ち上がり、深く頭を下げて言った。
「若様、老家主は竹影剣が失われたことをすでに承知しております。その上で、これをお託けするよう命じられました。」
そう言って、彼は布に包まれた長い包みを差し出した。明軍が解けば、刃の曲線が現れ、九つの環が取り付けられた魔刀が姿を見せた。環が微かに揺れ、チリンと鳴る音は、まるで魂を呼ぶ鐘のように夜道に響いた。
「九環魔刀……？」明軍の目が驚きに光った。
黒衣の男はうなずいた。
「そうです。かつて蜀山西川を震撼させた宗門の宝刀。しかし今では誰もその名を口にしません。人々は陰でこう呼ぶのです――九銀鈴刀。抜けば九つの環が鳴り響き、その音を聞いた者は魂を失うか、命を落とすと。」
明軍は柄を握り、身震いするような重みを感じながら低く呟いた。
「祖父上……近頃もお元気であろうか。」
男はわずかに目を細め、笑みを含んで答えた。
「ご壮健にございます。日々修練を怠らず、すでに百一歳を超えながらも矍鑠とされております。そしてただ一言、若様へと伝えよとのこと――『根を忘れるな。期待を裏切るな。』」
「では……竹影幇はいまも叔父が掌っているのか？」と明軍が問うと、男は声を落として答えた。
「はい、若様。されど主君のお言葉は――いまは耐え忍び、刀を学び、時を待て、とのこと。」
明軍は刀身を撫で、低くつぶやいた。
「確かに私は祖父から九鈴刀法のことを聞いた覚えがある。しかし幇の掟では、代々剣以外を禁じ、刀は不浄とされてきた。この刀を持つことは、祖制に背くのではないか？」
黒衣の男は深く頭を下げ、しかしその声は揺るぎなかった。
「お言葉の通り。しかしこれはもう清濁併せ呑む江湖――血の雨の世界。掟だけで生き延びられる場所ではございません。
それに、若様はすでに龍気を宿す御身。剣か刀かは形にすぎません。重きは――老家主が託された使命を背負うこと。ゆえにこの九銀鈴刀は、掟を犯すものではなく、むしろ若様こそが陳氏の命運を継ぐ証しなのです。」
九つの環が澄んだ音を響かせ、その言葉を肯定するかのようだった。
明軍は刀を強く握りしめ、胸の奥に冷たく重い覚悟を抱きつつも、もはや迷いはなかった。
黒衣の男はしばし沈黙し、覆面の奥の眼差しがわずかに和らいだ。低く落ち着いた声で口を開く。
「老家主からの言葉を伝えます。若様は期待を裏切らず、今や九銀鈴刀を継ぐにふさわしい。龍脈の戦いで、若様は救援の狼煙を上げれば竹影幇の者が駆けつけたはず。しかし、若様は独りで挑み、決して援軍を求めなかった。その気概こそが、真の陳氏の武人の証だと老家主は大いに満足されております。」
そう言うと、男は袖の内から金糸で結ばれた小さな竹巻を取り出し、明軍の前に慎重に置いた。
「これは西蜀の陳氏 ― 竹影幇に伝わる家伝の刀法。入門から絶殺に至る四十九の型が記されており、老家主が生涯をかけて練り上げたものです。しかし……」男は声を落とし、眼光を深める。「刀法だけでは不十分。九銀鈴刀を真に振るうには、龍気を用いて九つの環を共鳴させ、天地の力を借りねばならない。」
深く頭を垂れ、続ける。
「私は命を受け、この地に二日留まり、若様に直接指南いたします。二日後には精髄を掴み、刀を振っても正気を損なう心配はなくなるでしょう。」
夜風が吹き抜け、九つの環がかすかに鳴り、まるで運命を告げる鐘の音のように響いた。明軍は柄を握りしめ、背後になお家族が支えていることを胸に刻み、かつてないほどの確信を抱いた。
──深夜、静かな河辺。銀の月が水面を照らし、黒衣の男がいつの間にかそこに立っていた。霧に溶け込む影、ただ瞳だけが鋭く輝く。
男は九銀鈴刀を手渡し、ゆっくりと告げた。
「若様、この秘刀を操るには、まず気を制し、蓄えることが肝要です。」
胸に手を当て、実演する。
「深く吸い、丹田に集め、労宮穴を経て柄に流す。これを『霊環導気』と呼ぶ。正しく行えば九つの環が一斉に鳴り、内力が波となって凝縮する。」
明軍が従うと、環は震え、水面に波紋が広がった。さらにもう一度導気すると、金属の震動が刃全体を走り、河岸の岩に稲妻のような亀裂を刻んだ。
「この刀は……あまりに重い。世の武人は軽快な兵器を好む。これでは鈍重すぎるのでは？」
明軍の言葉に、黒衣の男は高らかに笑い、刀を奪い取ると背を叩き、柄をひねった。九つの環は瞬時に畳み込まれ、刀身は短縮されて短剣の姿となった。
「若様、老家主はすでに考えておられた。竹影幇が最も得意とするのは兵器の偽装。九銀鈴刀は必要とあれば天を震わす宝刀に、潜めばただの短刀に姿を変える。これこそ陳家の忍耐の道なのです。」
その瞬間、明軍は悟った。この刀はただの武器ではない。背負わされた責務であり、先祖から託された宿命そのものだった。
──二日目の夜、満月が川面を銀河のように照らす。冷気が肌を切り、あたりは静寂に包まれる。
黒衣の男は刀を手渡し、声を低くした。
「若様、昨日は気の導き方を修めました。今宵は二つの要訣を伝えます。これを繰り出せば、群雄をも震撼させるでしょう。」
第二の型 ― 銀環破月
丹田の気を刃に込め、月を断つように横薙ぎにする。九つの環が和音を奏で、刃は半月のように閃き、波濤を切り裂いた。
「これは包囲を打ち破る技。四方の敵を一掃できるが、消耗は倍となる。」
第三の型 ― 霊鐘奪魂
刃を天に掲げ、やがて柄を地に叩きつける。九環が鳴り響き、葬鐘の如き重音が辺りに満ちた。石は砕け、鳥は驚いて飛び立つ。
「これは心神を揺さぶる技。心法の弱い者は幻惑され、精神を乱す。だが制御を誤れば、自らも反動に呑まれる。」
明軍は必死に鍛錬を重ねた。横薙ぎで水面は白波を散らし、柄を叩けば全身が震えながらも瞳は一層鋭く輝いた。
彼は息を荒げ、北へ向かい手を合わせた。
「祖父上……必ずや一手一手を刻み込み、託された願いを裏切りません。」
月光が刀身を照らし、九環の響きが遠き祖霊の応答のように広がった。
黒衣の男は手を合わせ、告げる。
「伝授はこれで終わりです。若様、どうかこの刀をお納めください。」
やがて男は闇に消え、明軍は一人、川辺に立ち尽くした。刃に映る月光、環の音が水音と溶け合う。
胸中に渦巻く思念――
「江湖には、正邪の線など存在しなかった。竹影幇は名門正派と称され、剣道を根本とし清廉を誇った。それでもなお、一振りの刀を闇に潜ませていたのだ。」
刃の冷気を掌で感じ、彼は目を閉じる。
「生き残るために必要なのは、気概だけではない。智略もまた不可欠。武人は天の下で剣を振るうだけでなく、袖に刃を隠すことも知らねばならぬ。光と影――その両方を抱えてこそ、真の武道だ。」
呼吸が静まり、瞳は三日月のように鋭く輝いた。
「祖父は気概を授け、江湖は奸智を教えた。九鈴刀を手にした今、私はもはや昨日の陳明軍ではない……光と闇、名門と秘策、そのすべてを背負ってこそ、この道を歩む資格がある。」
夜風が吹き抜け、九つの環が長く鳴り響き、若き武人の胸中の誓いに呼応するかのようであった。
