第3章 - バインゴリンの月見屋
銀色のジープが赤土の道を抜け、バインゴリンの町へ入っていった。夕陽が砂と草原に長く影を落とす。前方に現れたのは「月見屋」と掲げられた古風な日本家屋風の食事処だった。
木造二階建て、瓦屋根が反り、軒先には赤い提灯が並ぶ。松の香りに味噌の匂いが混ざり、静かな風に漂っていた。新疆の大地にありながら、まるで草原に小さな京都が現れたかのようである。
ジープが停まり、陳明軍が先に降り、趙可欣の手を取って支える。扉が開くと、着物姿の給仕二人が深々と礼をした。
「どうぞお入りください。主人がお待ちしております。」
中は提灯の柔らかな光が広がり、床は磨き上げられた木。白布を掛けた卓、揃えられた箸と杯。厳かに整えられ、まるで儀式の場であった。
陳明軍は室内を見回し、思わず笑う。
「私の手術室でさえ、ここまで清潔ではないな。」
その一言に趙可欣は吹き出しそうになり、口を押さえた。張り詰めた空気に、ひと筋の日常の風が差し込む。
屏風の向こうから足音。現れたのは神崎宏樹。黒衣に身を包み、忍者のような装い。彼は礼を尽くし、低く言った。
「陳先生、これは妹の神崎あやめです。ぜひ今日の一戦を見届けたいと申しております。」
背後から姿を現したあやめは、堂々とした侍装束に身を包み、腰には巨大な大太刀を佩いていた。刃は床に届くほど長く、月光のように輝いている。
趙可欣は目を丸くして呟く。
「な、なんであんな長い刀を……持ち歩けるの?」
あやめは微笑んだだけで、軽々と柄に手を添えた。その姿に陳明軍も思わず笑みを浮かべ、可欣と視線を交わす。
宏樹は席に着き、青磁の杯を掲げる。
「陳先生、まずは薄酒を。」
手拍子と共に扉が開き、給仕たちが舞うように運んでくる。薄切りの刺身、湯気立つうどん、丸い焼きたこ焼き、香り立つ酒。まるで宮廷の宴のようであった。
趙可欣は思わず小声で呟く。
「これ……本当に武術試合なの? 宴会じゃなくて?」
陳明軍は杯を飲み干し、静かに言う。
「宏樹殿、試合を先に済ませ、食事は後に致しましょう。」
宏樹は頷き、恭しく答える。
「承知しました。」
二人は屏風を越え、畳敷きの武道場へ。中央には澄んだ池に錦鯉が泳ぎ、脇には手入れされた桜の木。完璧な静謐。
陳明軍は礼をして言う。
「約定を。掌法は使わず、兵器のみ。三本勝負。私はこの長剣のみを用い、あなたは各本ごとに武器を変えてよい。武器を落とすか、刃が身体に届けば勝敗とする。」
宏樹は満足げに頷き、刀を抜いた。鋭い光が走る。彼は白布で丹念に刃を拭き、完全に清めたのち、ようやく構えた。
「参る!」
二人は疾風のごとくぶつかり合う。鋼と鋼が火花を散らし、静寂の武道場に金属音が響き渡った。
数分後、互いに間合いを取り、再び構える。陳明軍の衣には一筋の裂け目。宏樹は微動だにせず、ただ目を光らせて言う。
「待った甲斐がありました。陳先生……感謝致します。」