第19章 - 雅彦の影
阿蘇火山の鎮圧を終えた後、趙可欣と陳明軍は火炎石の入った箱を受け取り、神崎宏樹と共に新疆へ戻った。
烏魯木斉空港に到着すると、宏樹はそこで別れを告げ、近隣の会社へと帰っていった。二人は乾いた砂漠の風に吹かれながら、戦果と拭い切れぬ不安を胸に抱えたまま立ち尽くした。
それから一月が静かに過ぎた。
沈黙の時の中、可欣と明軍は幾度も向かい合い、阿蘇での死闘を語り合った。
宏樹が妖怪――炎魔軍の姿に変じた光景は、なおも二人を苛んでいた。
明軍は眉を寄せ、低く呟いた。
「もしあの時、幸運がなければ我らは生きていなかった。可欣、さらに鍛えねばならぬ。お前の『玄氷訣』と、我が『石柱神功』…合わせれば、かろうじてあのような怪物に対抗できるかもしれぬ。」
二人は人目のない郊外の倉庫を選び、隠れて修行を始めた。
だが練れば練るほど、可欣の体内の気は滞り、氷気が土力と嚙み合わなかった。
幾度も失敗したのち、彼女は唇を噛み、決意を示した。
「もう待てない…火炎石で龍気を強制的に発動させる!」
箱を開けた瞬間――彼女の瞳が大きく見開かれた。
そこにあったのは、記憶にある灼熱の紅玉ではなく、ただの灰色の石ころであった。
倉庫の空気が凍りつく。
明軍は覗き込み、顔を険しくした。
「馬鹿な…すり替えられたのか…!」
可欣の指は震え、背筋に冷たい戦慄が走った。
明軍は拳を握りしめ、断言した。
「宏樹がこんな卑劣な真似をするはずがない。彼の会社はすぐ近くだ。真意を聞こう。」
伝えた直後、宏樹の声が電話越しに響いた。
「何だと? 火炎石がただの石だと!? 馬鹿な! …悟が…もう一月も行方不明だ。まさか…関係があるのか!」
二人の瞳が交錯し、胸中に不吉な予感が走った。
――一月前。
火雲山、曹家客店。
薄暗い部屋に油灯が揺れ、悟は深く頭を垂れて報告した。
「主公、求めていた物を持ち帰りました。」
曹天俊は彫刻椅子に座り、瞳に邪光を宿す。 ゆっくりと立ち上がり、卓上の箱の蓋を開けた。
瞬間、部屋全体が紅に染まった。
火炎石が血のように輝き、灼熱の気が龍のごとく迸った。
「よくやった…下がれ。」
悟が退くと、天俊は壁の奥の秘匿箱を開けた。そこには漆黒の黒炎石が眠っていた。
二つの石を並べた瞬間、炎と炎がぶつかり合い、業火の嵐が巻き起こる。
だが天俊は一歩も退かず、両手を広げ、その力を吸収した。
口元に浮かぶのは冷酷な笑み。記憶が甦る――
十五年前、黒狼流道場。
神崎正信の前に跪く二人の少年。
一人は神崎宏樹。もう一人は、当時「神崎雅彦」と呼ばれた天俊。
正信は二つの霊石――火炎石と黒炎石を差し出し、重々しく命じた。
「これが一族の命脈だ。護れ。」
さらに遠い記憶――二十八年前。
曹慶玲は幼子を抱え、家から追い出された。冷雨の夜、罵声と鞭の中、彼女は九歳の天俊を胸に抱きしめ、涙に濡れながら門を去った。
過酷な日々、彼女は身を粉にして働き、ただ息子を生かすために全てを捧げた。
その幼子は、憎悪と飢えの中で武を学び、鬼火を宿す存在へと変わった。
――現在。
曹家客店の室内は、二つの霊石の熱気で灼かれていた。
やがて扉が開き、宋芳麗が進み出る。
「主よ、全て整いました。」
曹天俊は邪光を放つ瞳で笑みを浮かべ、低く呟いた。
「よし…明朝、出発だ。」
炎熱がさらに高まり、空間全体が圧迫される。
――一方、黒建工業の事務所にて。
宏樹は机に向かいながらも、悟の影を思い出していた。
「神崎雅彦…貴様は外道だ!」
かつての少年時代――神崎正信は宏樹に新しい兄を紹介した。
「これからは兄の雅彦だ。母は逝った。兄として敬え。」
その瞳は冷たく、血の繋がりも情もなく――ただの闇を宿していた。
宏樹の胸に、重苦しい確信が走る。
あの時の雅彦こそ、今日の曹天俊。
そして奴は、全てを呑み込み黒炎へと堕ちたのだ。