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東京の八月は、空気まで茹だっているみたいだった。

夕立の湿り気がまだ路面に残って、アスファルトから湯気のような匂いが上がる。学校帰り、駅前のコンビニでアイスを買ってかじっていると、レジ待ちの大学生がぽつりと漏らした。


「成田から徒歩十九時間で行ける遊園地、知ってる?」


耳が勝手に反応した。隣で太郎が「マジ?」と食いつく。僕は笑って肩をすくめる。


「徒歩十九時間って、どんなアクセスだよ。成田って空港だぞ」

「でもさ、行った人いるんだって。帰ってこないとか、帰ってきても様子がおかしいとか」

「様子がおかしい?」

「マヨとチョコとコーラばっか飲み食いするようになるんだって。あと、ずっと笑ってる」


作り話にしては内容が具体的すぎる。太郎の悪い癖で、こういう話にめっぽう弱い。彼の目はもう、遠いどこかを見始めていた。


噂によるその名は。

——ジュンコちゃん王国


その語感だけで、ほんわかしたピンク色のイメージが浮かんで、同時に、背筋に冷たいものが通り抜けた。可愛らしくもバカバカしいその呼び名は、得体が知れずどことなく恐ろしいものを予感させた。


「成田から徒歩十九時間って、どこ経由なんだよ」

「それがさ、誰も道順を覚えてないんだって。『気づいたら着いてた』って」

「タクシーでも拾えばいいのに」

「タクシーは入れない。徒歩限定。しかも、地図には載ってない」


コンビニの自動ドアが開閉するたび、外気の熱気が流れ込む。汗で溶けかけたアイスを舐めながら、僕は窓の外を見た。電線、団地、路地、そして遠くで鳴く蝉。どれもいつもの東京の下町だ。そこに急に「王国」をはめ込むのは無理がある。


だけど、その夜、僕らは出かけることにした。

きっかけは、商店街のはずれで見つけた古い駄菓子屋だ。シャッターに貼られた色褪せたポスターには、見慣れないマスコットが描かれていた。ピンクの着ぐるみ、細い棒みたいな目。口の中の暗がりから、水色の髪らしきものが覗いている。ポスター下部には手書きでこうある。


ようこそ!ジュンコちゃん王国へ

成田から徒歩19時間(※個人差があります)


※個人差って何だよ、と心の中で突っ込む。太郎はにやりと笑った。


「ビンゴだろ、これ」


夜十時。人通りの途切れた商店街に、ネオンの残り火が滲む。シャッターの隙間から、なぜかうっすらと明かりが漏れていた。そっと持ち上げると、重い金属音がして、僕らは猫みたいに身をかがめて中へ滑り込んだ。


鼻をくすぐるのは、砂糖のような甘い匂い。けれど奥に、かすかに焦げ臭い酸味が混じる。綿菓子と、焼けたマヨネーズ——? そんなものを一緒に嗅いだ記憶はないのに、妙な既視感があった。


棚には、時代遅れのキャラが並ぶ駄菓子の箱。賞味期限はとうに切れているはずなのに、色だけは鮮やかだ。レジ横、プラスチックのガチャ筐体に、また同じ顔——ピンクの着ぐるみ、棒のような目。ガチャの見本シートには小さく「全6種」と書かれている。全部、同じ顔に見えた。


「なあ、帰らない?」と僕は言いかけた。

太郎は黙って、店の奥の棚に手をかけた。ギィ、と重い音。棚は横に滑り、暗い穴が口を開ける。古い木の階段が下へ続いていた。


「行くのかよ」

「来たんだから」


階段は冷たく、湿っていて、足音が水槽の中みたいに鈍く響く。降りるにつれ、甘い匂いが強くなった。耳の奥が圧でくぐもるような感覚。遠くでオルゴールの音が鳴っている気がする。曲は知らない。でも、どこかで聞いたことがある気がする。幼稚園の時の行事とか、そんな記憶の棚にひっかかる。


最後の段を踏みしめた瞬間、足裏の感触が変わった。

柔らかい、ゴムの床。視界が一度、ゼラチンの膜ごしに見たみたいに歪んで、それからぱっと開ける。


そこは広場だった。

ピンクと水色を基調にした城。てっぺんの旗はマヨネーズ色に黄ばんでいる。少し傾いた観覧車が、ぎい、とゆっくり回る。メリーゴーラウンドの馬は、にこやかな顔でこちらを見ている——気がした。地面にはチョークで描いたような矢印。「こちら→」「もうすこし→」「がんばれ→」と子どもの文字。空は夜でも昼でもない、紙芝居の背景みたいな明るさだった。


人の気配はない。なのに、どこかから笑い声が小さく反響している。

太郎が僕の袖を引っ張る。視線の先、広場の真ん中に、それは立っていた。


ピンクの着ぐるみ。

丸い頭。大きな口。細い棒みたいな目が、まっすぐこちらを射抜く。口の奥、暗闇の縁から、水色の髪がひらりと覗いた。着ぐるみの輪郭はふわふわして可愛いのに、全体がどこか、少し歪んで見える。


その存在が、両手を大きく振った。

甲高く、砂糖を焦がしたみたいな声が広場に弾ける。


「いらっしゃ〜い! ここはジュンコちゃん王国よ〜!」


僕は思わず一歩、退いた。背中で空気が動く。振り向くと——さっき降りてきたはずの階段がない。代わりに、キャンディカラーのアーチが据えられ、看板がぶら下がっている。


本日のおすすめ

・黒こげ焼肉(追いマヨ)

・冷やし中華(スープ:コカコーラ)

・デザート:とろけるチョコ(そのまま)


僕の喉が、からん、と鳴った。太郎は乾いた笑いを漏らす。


「……ジョーク、だよな?」


ピンクの着ぐるみ——ジュンコちゃんは、首をかしげる仕草をして、細い目をさらに細くした。

笑っているのに、笑っていない。

その違和感は、何よりも強く、鮮やかだった。


「遠いところ、おつかれさま〜。成田から徒歩十九時間、だよねぇ?」


「歩いてないけど」と思わず言う。

ジュンコちゃんは、あはは、と笑った。

「大丈夫〜。みんなだいたい、そう言うの」


広場の端で、オルゴールのような音がまた鳴った。

風がないのに、旗がふわりと揺れる。

僕の足は地面に吸い付いたみたいに動かず、口の中には、さっき嗅いだ甘い匂いが広がっていく。


——帰り道、あるよね?

そう聞こうとして、僕はやめた。

ジュンコちゃんの細い目が、既に答えを語っているように見えたからだ。


「さあさあ、遊ぼう? まずはね、ジュンコちゃんのだ〜いすきな、ゲームから!」


彼女が手を叩いた瞬間、広場の真ん中に小さなステージがせり上がった。テーブル、サイコロ、そして色紙に書かれたルール——と思しき文字列。ぐにゃりと歪んで読めない。僕らの背後で、キャンディカラーのアーチが、音もなく閉じた。


逃げ道は、やっぱり、もうどこにも見当たらなかった。

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