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「あの人、俺らが来る前に、ほとんど終わらせていたんだよ。一体どうやったんだか」
「鍵がかかっていたはずだから、そんな早くからはできなかったと思うんだけど」
尾崎さんと市原さんが頭を捻る。
「仕込みはほとんど家でやってきたそうですよ」
「そうなのか?」
「はい。今日、鍵開けだったんですけど、一緒になったんで」
俺の声を聞くなり、尾崎さんが市原さんを肘で小突いた。
「やっぱりそうだったんだ」
「良かった。どんな早業を使ったのかと思ったよ」
「だな」
市原さんが胸を撫で下ろす。尾崎さんの顔も安堵に綻んだ。
『初日ですからね』
山本さんの声を思い出す。そうか、惣菜担当がどうとでも動けるように早くやってきたのか。
「調理場も綺麗にしてくれてな」
「そうだね。それで、あの料理だろ」
「文句なんて言えやしないよ」
声では何とか意地を張ろうとするのに、尾崎さんの顔は完全に『参りました』と告げていた。
噂をすれば――。
「すみません」
山本さんがドアからひょこっと顔を覗かせた。悪口は言っていなかったと思うけど、聞こえていたら少しばつが悪いな。
「尾崎さん、市原さん。少し、お話をさせていただいても良いですか?」
「あ、はい」
「はい」
尾崎さんと市原さんが畏まっている。二人とも、山本さんの品の良さに大人しくなってしまうみたいだ。
「なら山本さん、こちらどうぞ」
俺は立ち上がり、座っていた席を譲った。
「ありがとうございます」
山本さんはやっぱり、品の良い所作で穏やかに微笑んだ。
『山本さんのお弁当』は毎日、飛ぶように売れた。一日十個という数量限定商品である点が、よりお客様の購買意欲を刺激したようだ。
最初は家で仕込んできていた山本さんだったけど、次第に調理場の二人と一緒に料理をするようになった。
「今の季節は、ほんの少しお酢を足すと喜ばれますよ」
山本さんからそんなアドバイスをされても、尾崎さんや市原さんが怒りだすことはない。完全に山本さんを認め、信用しているからだ。むしろ、『勉強になります』と礼を言うくらいだった。
弁当の材料には、スーパーのものが使われている。『好きに使わせてやってくれ』という今宮さんの声は、調理場の冷蔵庫の中だけでなく、スーパーの売り場で扱っている全ての商品が対象となっているのだ。
山本さんは各担当に断ってから、食材をいくつか見繕って調理場に持っていく。担当が見つからないときは、休憩室にあるホワイトボードに記入する。
そういう日もあれば、各担当に直接依頼をすることもある。
「室田さん。明日、鱧を少しだけ仕入れていただけませんか?」
こんな具合で求められたら、俺は山本さんの所望品をリストに追加した。
その柔らかな物腰のおかげか、山本さんはすぐにスーパーに馴染んだ。担当不在時に食材を使いたい場合、ホワイトボードにメモを残すことを提案したのは市原さんだ。山本さんが働きやすいように、市原さんが各担当に話を付けたのである。惣菜コーナーの二人が気難しいのは周知の事実だ。あの二人がそこまでするのならと、周囲は山本さんを受け入れたのだった。
「山本さん、今日いいオクラが手に入ったんだけど」
担当者の方から声をかけることもあった。でも、山本さんはそれを断ってしまう。
「それはお客様にお売りしてください」
その代わりと言っては何ですが、と、山本さんは野菜担当と別の話を始めた。
バックヤードで、俺は一人悩んでいた。
目の前には鯛が一尾。小ぶりで、今は旬が過ぎている。
切り身には小さい。刺身にするには量が取れない。いっそのこと一匹尾頭付きで売るか?
いや、案外お客様はそういった商品を遠ざける傾向がある。棚いっぱいに綺麗に詰め込まれていても買いにくいけど、一つだけというのは『何か嫌な予感がする』と考える人も多いのだ。それがたとえ、食べ慣れたポテトチップスなんかだったとしても。
「おはようございます」
「あ、山本さん。おはようございます」
「どうしました?」
山本さんが調理台の上に横たわる鯛に目をやった。
「これをどう出そうか、悩んでいるんです」
「なら、僕に使わせていただけませんか?」
そうか! 弁当なら小さい方が使いやすいかもしれない。
「ぜひお願いします!」
俺は嬉々として山本さんに鯛を譲った。仕事が一つ、片づいた。