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今日は俺が鍵当番だった。閉める方ではなく、開ける方だ。つまりは一番乗り。鍵開けは大体、早番の誰かが担当することになるけど、生鮮は出勤時間が早い日が多いので、鍵開けを担当する確率が高い。俺は欠伸を噛み殺し、鍵をドアに差し込んだ。
「おはようございます」
思わず俺の背が跳ねた。ゆっくり頭だけで後ろを覗うと、そこには山本さんがいた。
「おはようございます」
落ち着いて挨拶を返す。驚いた。まだ六時だぞ。
山本さんは、手に風呂敷を持っていた。布の張り方で、お重の様な四角い何かを包んでいるのが分かる。
「早いですね」
「ええ、初日ですからね」
「これから仕込みですか?」
「そうですね。簡単な仕込みは家でやってきたんですが」
「そうなんですか?」
「はい」
山本さんは穏やかな笑みを浮かべて頷いた。仕込みは昨晩のうちにやってきたんだろうか。それとも、今日、朝起きてから? もし今日仕込んで来たのだとしたら、一体山本さんは何時に起きたんだろう。
更衣室で作業着に着替えた。これから、注文した魚がやってくる。良いものが入ってくるといいんだけど。
トラックが到着するまで、もう少し時間がある。俺は通りすがりを装って調理場を覗いた。
山本さんも作業着に着替えていた。蛍光灯の光に青白く光るほどの白衣を纏った山本さんは、目の前に置いた包丁をじっと見つめていた。祈るようでもある。
そこから一本を手に取り、作業を始めた。俺の呼吸が瞬間、止まる。
(大した手捌きだ)
包丁など、この会社に入るまで握ったことがなかった俺がこう判断するのも失礼かもしれないけど、俺は素直に感嘆の吐息を零した。
眼鏡の奥に、黒豆の様な艶を含んだ山本さんの目があった。じっと食材を見つめ、一つ一つと向き合うように調理していく。調理場は蛍光灯の光で十分明るいはずなのに、なぜか暗がりに山本さんの白い体が浮かんでいるように見えた。
高名な書道家が筆を取った時の様な緊張感。それでいて、懸命に鉄を鍛える鍛冶師の様な情熱。静かながらも奥深くから迸る山本さんの気迫に、思わず身震いした。
この人は、匠なんだ。
ちょっと趣味で料理をやっていた、というレベルの人じゃない。料理に関して大した知識や技術がない俺ですら、心臓が震えるぐらいの圧を感じるんだ。きっとどこかの高級料亭で働いていた人に違いない。
さすが、今宮さんが調理場にまで入れた人だ。やっぱり今宮さんは生半可な気持ちで山本さんを入れたんじゃなかったんだ。
(でも、それはそれで、とんでもないことになったぞ)
壁時計に視線を流す。俺はハッと我に返り、搬入口に急いだ。
案の定、といったところか。俺が休憩室に入ると、尾崎さんと市原さんが心なしか憔悴しているように見えた。
「お疲れさまです」
俺は山本さんが二人とどんなやり取りをしたのか気になって、二人の前に腰を下ろした。
「どうですか? 山本さんは」
「どうもこうもないよ」
市原さんが溜め息をついた。
「あの人、とんでもない人だ」
『とんでもない人』というのが批判でないことぐらい、俺はすぐ理解した。
十時半を少し回ったころ、山本さんのお弁当が売り場に出た。名前は『山本さんのお弁当』、そのままだ。その名前を考えたのは、勿論今宮さんだった。
『今、野菜でもあるだろ? <何とかさんが作ったトマト>みやいなやつ』
分かりやすい方がいいんだと、今宮さんは自らプレートまで作成してきて、その弁当が並ぶ予定のブースに貼り付けたのだった。
パートさんが『山本さんのお弁当』を手際よく並べる。それを見たお客様たちが感嘆の声を上げた。
「なんて綺麗なお弁当!」
「ほんと」
そうだろ、そうだろ。お客様の声に、俺は傍で寿司を並べながら何度も頷いた。
山本さんの作った弁当は、料亭の仕出し弁当かってぐらい綺麗に整った弁当だった。容器は市販の黒いプラスチック容器だけど、山本さんが作った惣菜の数々を抱いてどこか誇らしげだ。『私は名匠の手によるお皿ですよ』と言っているみたいに見える。一見ハリウッドスターが地元公立高校のジャージを着ているような残念感が出そうなのに、それをハイブランドのスーツの様に着こなしてしまうおかずの数々は眺めるだけで溜め息が零れた。
「でもお高いんで――。え、六百五十円?」
「これは買いだわ!」
「ありがとうございますー」
パートさんがにこやかにお礼。十個の弁当はすぐ半分にまで減った。
「こんにちは」
「青森さん。いらっしゃいませ、こんにちは」
「あら、なぁに? 新しいお弁当?」
「そうなんです」
「綺麗ね。頂こうかしら」
「ありがとうございます」
青森さんは、二個、手早くカゴに入れた。まだ十分も経たないのに、これで弁当の残りは三個になった。
こんな珍しいことが起こるとは。弁当が出して数分で半数以上売れることもそうだけど、青森さんが弁当を手に取るなんて。
青森さんが普段、惣菜の類を手に取ることはない。料理が好きなため、スーパーの惣菜を食べる機会がないと、以前聞いたのだ。
『美味しそうなのに、ごめんなさいねぇ』
惣菜コーナーで会った時は大抵そう言いながら、俺との会話を終わらせて別の売り場に行ってしまうのだった。
その青森さんが、見えない何かに唆されたかのように弁当をカゴに入れた。
これは、とんでもない化け物が入りこんでしまったかもしれない。俺の中で、山本さんの存在がどんどん大きな何かになっていった。