「最弱から始まる、金の逆襲」
金がなかった。
何かを諦めるとき、いつも理由はそれだった。
小学生の宮崎嵩之は、昼休みの教室で机に伏せていた。
隣の席の連中が騒いでいる。
「えっ、ゲーム持ってないの!? マジで? うっそー!」
「お年玉もらってないのかよ、貧乏かよ~!」
笑い声が教室に響く。
反論すれば、もっとからかわれる。黙ってうつむくしかなかった。
母親は毎晩パートで遅くまで働いていた。
父親は早くに蒸発し、残された二人暮らし。
給食費の支払いが遅れた月は、担任に廊下で呼び出された。
「お母さんにね、もうちょっと早く払ってもらえると助かるんだけど」
そのときの“申し訳なさそうな優しさ”が、逆に屈辱だった。
だから、金に執着した。
努力した。勉強した。
奨学金で大学へ行き、都市銀行に就職した。
「金さえあれば、人生は変えられる」
そう信じていた。
誰より早く出社し、誰より遅くまで残業した。
だが、同期は口先だけで上司に取り入り、評価され、出世していった。
「お前ってさ、真面目なんだけど地味なんだよな~。営業向いてないかも?」
真面目は悪だと知った。
ゴマをすれない奴は、不器用と切り捨てられた。
気づけば38歳。平社員。年収410万。独身。
貯金200万。奨学金はまだ残っている。
たった一度だけ交際した女性からは、こう言われた。
「あなたって、お金の話ばっかりだよね……。安心はできるけど、夢がないというか……うん、つまらない」
黙っていた。
彼女が去ったあとも、食器は片付けず、テーブルの上に2日間放置したままだった。
その夜も、誰より遅くまで残業していた。
都市銀行・第五営業部のフロア。午後10時47分。誰もいないオフィス。
「……やっと終わった……」
古びた椅子に体を沈める。
その瞬間、胸に激痛が走った。
ズキリ、と心臓が引きちぎられるような痛み。
呼吸が詰まり、視界が歪む。手も足も言うことをきかない。
「……あ、れ……?」
倒れ込む身体。デスクの端に肩がぶつかり、書類がぱらぱらと床に落ちる。
助けを呼ぼうにも、声が出ない。
呼吸ができない。涙が出る。
──誰もいなかった。
バタリという鈍い音がフロアに響き、静かになった。
最後に意識の奥底で呟いた言葉が、彼の魂を引き裂いた。
「……生まれ変わったら……全員……金で見返してやる」
意識が、暗転した。
どこまでも白い空間だった。
地面も空も存在しない。前後も上下も不明。
ただ、そこに“誰か”がいた。
「転生対象:宮崎嵩之さん。男性、38歳。過労死、確認済み。魂搬送処理、開始します」
冷たい声が響く。
スーツ姿の女だった。
銀色の髪を一つに結び、無機質なグレーのスーツに身を包み、無表情で立っていた。
その手に持つのは、タブレットのような光の端末。
まるで役所の窓口担当。
「……あんたが、女神……?」
「違います。私は“魂管理局・再配属課”の転送担当です。アイン=ナンバー8。あなたの処理担当者です」
「ずいぶん事務的な……いや、むしろ助かるけど」
「時間が限られておりますので、進行します。
異世界転送先、魔導文明型中世経済圏“リヴァルグ地方”に確定。スキル適性、診断開始──……はい、完了」
彼女は端末の画面を見ながら、機械的に読み上げた。
「スキル:【利息計算(Interest Master)】
職業:金貸し(ローンマスター)
付随スキル:複利の悪魔/債務の呪い
戦闘能力:非武装、非魔導、非回復。生存指数:Eランク。生産指数:Dランク」
「……は? 利息計算? 最弱ってことか?」
「はい。戦闘能力においては、異世界転生者中、下位2%に該当します」
「なんだよ……なんでこんなスキルになったんだよ……」
「適性値により自動判定されます。あなたの魂は“金銭的概念”への強い執着を示しました。
生前、最も多く費やした時間は“利息計算、回収業務、リスク管理”であり、そこに最大適性が確認されました」
「……でもよ、金貸しなんて、現実でもバカにされてたんだぜ……? “地味で夢がない”とか、“つまらない男”とか……」
「社会的評価と実質的影響力は一致しません。
異世界は現代ほど制度が整っておらず、信用経済は未発達です。
あなたの知識は、相対的に希少価値が高いと判断されます」
「つまり……金貸しの力で、逆転できるってことか?」
「“できる可能性はあります”が、約束はできません。
この局では成功率を保証しませんので、自己責任での生存・拡張をお願いいたします」
「信用を積み上げて、債務者を増やしていけってことだな……」
「その理解で問題ありません。
異世界の住民は“契約”の概念が曖昧ですので、文字による拘束力を持たせる必要があります。書式は手書きになります」
「……あのさ、あんた、この仕事、楽しいのか?」
「楽しい・つまらないは、評価対象に含まれていません」
「そりゃそうか……ああ、もういいや。準備できてる。行かせてくれ」
「では、転送処理を開始します」
彼女は指を鳴らした。
その瞬間、白い世界が強烈な光に包まれ、重力を思い出したように体が落ちていく。
「──なお、クレームは受け付けておりませんのでご了承ください」
光の向こうで、彼女が最後にそう言った。
世界が、開いた。
そして、宮崎嵩之は──異世界へと、落ちていった。
着地から一日が経った。
まだこの世界に“冒険”らしきものはなかった。
あるのは空腹と土と、混沌。
宿すらないまま街を歩き回っていた嵩之は、とうとう一人の少年を見つけた。
路地裏、ゴミのように蹲っていた少年。顔に泥、服はボロ切れ。
「……ああ? なんだよ」
「食ってるか?」
「見りゃ分かんだろ。食ってねぇよ。
つか……なに? あんた、俺を“かわいそうな子”認定して施しでもしにきた?」
「違う。投資だ」
「……はぁ?」
嵩之は腰から金貨を1枚取り出して見せた。
淡い金色が、曇天の光を反射してチラリと光る。
「これを貸す。利息込みで返せ。返済できなければ──報酬の三割を今後五年間、譲渡契約」
「お、おいおい……はは、なんだそりゃ。いや、え? 冗談……だよな?」
「本気だ」
少年が、吹き出した。
「うっわ! なんだこいつ! マジの金貸し!? バッカじゃねぇの!? こんなとこで!? 俺相手に!?」
「……名前は?」
「リュー。で? あんたの名前は、“バカな金貸し”って感じか?」
「宮崎。金貸しだ」
「本当にバカだな……! 何? 俺みたいなゴミに“貸してやった”とか言って、恩着せがましく生きる気?」
「君に貸す金は、君の将来にとって必要な“燃料”だ。火を起こせるかは、君次第」
「かっけぇこと言ってるけどさ。
あんたみたいなの、一番嫌いなんだよね。
金で何でも解決できると思ってる奴。
人の感情とか、努力とか、誇りとか、そういうもんを踏みにじって、金で動かそうとする奴」
リューは立ち上がり、顔を近づけてきた。
瞳の奥には、強い反発と拒絶。
まるで、かつての自分を見ているようだった。
「この街じゃ、“金”は卑しいって言われてんだ。
力で守ったもんが正義。剣があれば飯が食える。
でも金? 誰かからむしり取って、帳簿に数字書いて、あとは利息とか? バカバカしい」
「剣で得たものは、剣で失われる。金で得たものは、契約が守る」
「クソ喰らえだよ。
俺はな、金で親父に捨てられた。
母ちゃんの薬代が払えなくて、兄貴は盗みに走って吊られた。
金が正義だって? ふざけんなよ……! 金が、俺から何を守ってくれた!」
リューの拳が震えていた。
顔は怒りに赤く染まり、目には涙すら滲んでいた。
嵩之は、静かに契約書を差し出した。
「だからこそ、俺は“貸す”。
この世界に、金で救われる人生があることを、証明したい」
「……お前、変人かよ……本物の変人だ……。
いや、ただの“金に取り憑かれたやべー奴”か……!」
「そう思うなら、この契約は破ってくれていい。
だが、契約を守れば──君は何かを変えられる」
リューはしばらく黙り込んだあと、地面を睨みつけたまま言った。
「……チクショウ。こんなのにすがる俺も、相当だよな……」
そして、噛んだ親指の血を、紙に押しつけた。
「三日後。俺の稼ぎで、全部返す。
あんたみたいな奴に、“金がすべてじゃねぇ”ってことを見せてやるよ」
「期待している」
その様子を、数人の通行人が見ていた。
「なんだ? また“契約詐欺師”か?」
「うわ、金貸しだよ金貸し。あれ、最弱スキルじゃん。マジでやってるの?」
「ガキに金貸すとか、マジで最低だな……。金は卑しい。
もっとこう、“清く正しく剣で勝てよ”ってのがこの国の流儀だろ」
「下種な商売だよな。ああいうのが後で泣くんだって……あのガキが」
──でも、泣くのは誰だろうな。
嵩之は、静かに契約書を巻いて袋にしまった。
金は卑しい──そう思っていた。
だが、それでも現実は、金がない者から先に潰れていく。
金の価値を否定する者の手元から、命は離れていく。
それを、何度も見てきた。
「ならば俺は──卑しさの象徴になろう。
全ての“正しさ”を、金で買い叩く存在になってやる」
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街の朝は、喧騒と共に始まる。
だが今日は、どこか様子が違っていた。
「なあ、あのガキ……戻ってくると思うか?」
「いや、逃げたに決まってんだろ。
そもそも“金貸し”なんて、信じる方がバカだ。
昨日だって俺の知り合いが言ってた。“金は卑しい者が使う呪い”だってよ」
人々は口々に言う。
そしてその中心に、例の“黒服の変人”──宮崎嵩之が立っていた。
何も語らず、ただ一人、契約書と懐の小袋を整えて。
「もう三日だぞ。戻ってくるわけ──」
その瞬間、駆け足の音が響いた。
「ぜぇっ……はぁっ……お、おい……!」
ボロボロの服。肩で息をしながら、少年が現れた。
「リュー……」
誰かがつぶやいた。
「はぁっ……金貨……1枚……それと銅貨3枚。
ギルドの配送任務で稼いだ。
3日で“返す”って言ったろ……!」
リューは泥と汗にまみれた手で、小さな布袋を差し出した。
嵩之は静かに受け取る。
「約束は果たされた。利息分も正確だ。契約、完了」
「──っは……よかった……」
その場にいた者たちが、言葉を失った。
「まさか……本当に……返した……?」
「ガキが、金を……?」
「いや、待て。三日で? あんな貧相な身体で? 嘘だろ……?」
空気が変わった。
かつての嘲笑は、沈黙へと変わり──やがてざわめきへ。
「すげえな……あいつ……“金で何かを得た”ぞ……」
「契約って……成立するのか? こんな街で?」
リューは息を整えながら、立ち上がった。
「俺は、金で“仕事”を買ったんだ。
剣もねえ、力もねえ、仲間もいねぇ俺が──
“信用”だけで仕事にありついた。
……だから……俺はあんたに……ちょっとだけ感謝してる」
「“ちょっとだけ”か」
「調子に乗るなよ。金貸しってのはやっぱり、ちょっと胡散臭ぇ。
でも──俺は今、生きてる。
それが全部、自分の足で稼いだ“返済金”のおかげってんなら……まあ、ちょっとは認めてやる」
そのとき。
人ごみの後ろから、昨日笑っていた男が近づいてきた。
「あの……俺も……少し話が……。その、うちの店が今月の仕入れに困ってて……」
「内容は?」
「え、えっと……薬草の卸が遅れてて、でも別ルートだと単価が高くて……その、金貨で前払いできれば……」
「利率7%、期限30日。遅延時は12%。担保は店の什器一式。
リスク次第で日割り再計算も可能。……契約するか?」
「はいっ!」
跪くようにして男が契約書にサインを入れる。
「──嘘だろ……あの商人、あんな腰低く……」
「“金貸し”に……頭を下げてる……?」
「つい昨日まで、あんな奴、最弱スキルだって馬鹿にしてたくせに……!」
人々は確かに見ていた。
“剣”でも“魔法”でもない力。
目に見えない信用が、現実を変えた瞬間を。
嵩之は、静かに立ち去る。
「契約とは、“言葉を紙に変え、責任を力に変える魔法”だ。
そしてその魔法を動かす燃料が──金だ」
後ろでリューがつぶやいた。
「──やっぱあんた……やべぇ奴だよ……。でも……」
彼の声が遠ざかる中、嵩之の耳にははっきりと届いていた。
「ちょっとだけ──かっけぇよ」