一番の** 前編
自警団一の美形と自負するエスカが、なぜ最初は第二隊ではなく乱暴者の集まりである第三隊に入れられたのか――その謎を紐解く、学生時代の終わりに起きた事件を描いた過去編。前後編の二部作。
2月の初め、残雪で街がまだ寒々しく見える季節、キペルの高等魔術学院では入学式が執り行われていた。灰色の制服に身を包んだ50名の新入生たちが緊張の面持ちで講堂に整列し、時には視線だけをちらりと動かして周囲を窺っている。自分がこの先やっていけるのかという漠然とした不安……ではなく、気を抜いた瞬間、横で自分たちを見張っている教官に叱責されるのではないかという差し迫った危機感からだった。
そこに、後方に整列する在校生の少なさが拍車をかける。人数は新入生の半分にも満たない。ふるいに掛けられて学院を去る者がいかに多いか、その在校生の数が物語っていた。
入学式よりも前から、生徒たちは学院の厳しい洗礼を受けていた。教官は基本的に命令口調、規律厳守、反抗的な者には容赦なく罵声が浴びせられる。まだ14歳、何かにつけて庇護されることの多い初等学校を出たばかりの少年少女たちには、その厳しさがかなりの衝撃だったことだろう。「家に帰りたい」と弱音を吐いた生徒に、教官は迷いもせず「さっさと帰れ、クソガキが!」と言うのだから。
前方の演壇では、学院長がようやく長ったらしい訓辞を終えるところだった。生徒たちはほんの少しだけほっとする。これが終われば、後は新入生代表の挨拶だけだ。緊張を強いられる入学式も終わりに近付いている。
学院長が演壇を去り、司会が「新入生代表挨拶」と告げる。灰色の列の中から一人、颯爽と前に歩いていく男子生徒がいた。黄金の稲穂を思わせるような美しいブロンド髪が、窓からの陽にきらりと輝く。新入生を含め、その場にいた全員の目が自然に彼を追っていた。それほどの美少年だった。
彼は演壇に立つと、緊張の欠片すら見せず、まさに造形美ともいえるその顔で講堂の中を見回した。そして中央に視線を戻すと、こう話し出した。
「我々新入生一同、高等魔術学院に入学を許可されたことを光栄に思います。……僕はこの学院でも、自警団でも、一番になるつもりでいます」
突拍子もない宣言に講堂がざわついた。どうやら彼は予定とは違うことを話しているらしい。担任教官が演壇に一歩踏み出そうすると、男子生徒はそちらに顔を向けて言った。
「そのための努力は惜しみません。口だけではないと、僕は身を以て証明するつもりでいます」
その気迫に、教官も思わず足を止めた。
「魔導師はその力を用いて国民の安寧を守ることを使命とする。我々新入生はその使命を果たすべく、仲間と支え合い、この学院で一人前の魔導師を目指し精進していく所存です。新入生代表、ユージーン・セルジュ・クスティ・オーガスト・ソレイシア」
その豪胆さと容姿とやたらに長い名前で、誰もがその瞬間、彼を記憶せずにはいられなかった。
「えっと……、ユージーン?」
入学式の夜、寮の部屋で遠慮がちに彼の名を呼んだのは、同室者になったルカ・ミリードだった。赤毛の大人しそうな少年だ。彼は入寮したばかりで散らかる机の上を整理し、ユージーンは壁際の本棚に教科書を並べているところだった。
「呼んだ?」
ユージーンは振り向き、にこりと微笑んだ。思わず惹き付けられるような笑顔だ。その魅力を少し恐ろしく感じながら、ルカはこう言った。
「うん。……あ、忙しいなら後でいいんだけど」
「昨夜から思ってたんだけど、君って遠慮がちだよね。誰に対してもそう?」
ユージーンはルカの隣にある自分の机に向かうと、椅子に腰掛けてじっと彼を見た。生徒たちは皆、昨夜のうちに全員入寮している。大抵の生徒はその日に同室者と仲良くなっていたが、引っ込み思案なルカは自己紹介くらいしかしていなかった。ユージーンがあまりにも輝いて見えたせいもある。
「そう……かな。父さんがすごく厳しい人で、いつも顔色を窺いながら生活してたから。人と話すの、実はあんまり得意じゃないんだ」
ルカは目を逸らしつつ答えた。
「厳しい人かぁ。それで君、怒鳴られるのには慣れてるんだ」
「え?」
「今朝、僕たちが担任の教官に怒鳴られてたときさ、君だけ全然怯えてなかったから」
ユージーンはまだ真っ直ぐにルカを見ていた。からかうような言い方ではなかったから、ルカは素直にこう答えた。
「当たってる。周りのこと、よく見てるんだね」
「観察は大事だろ? 相手がどんな人なのか、よく見極めて接し方を考えないと。僕ってほら、無駄に容姿に恵まれてるから、目立ち過ぎると妬まれるんだ」
美少年の自覚がある上に世渡り上手……、ルカはため息が出そうになった。自分にとっては羨ましい才能だ。
「でも今日、あの発言でかなり目立ってたよ。俺も周りもびっくりしてたもん」
ルカがそう言うと、ユージーンは楽しそうにふふっと笑った。
「ここ、実力勝負の学校だし。僕が目立ったとしても、みんな他人を妬んでる余裕なんてないと思うね」
「それはそうかもしれない」
入学式であんなにピリピリしていたのだから、授業や訓練などその比ではないのだろう。ルカはユージーンの言葉に感心しきりだった。思ったより話しやすいし、考え方に芯が通っている。彼を少し誤解していたかもしれないと思った。
「少なくとも俺は、君を妬んではいないよ」
「ありがとう。じゃ、ルカ、友達になってくれる? これから二年間、同じ部屋で過ごすんだし」
ユージーンはすっと手を差し出した。
「うん、よろしく。ユージーン」
ルカがその手を握り返すと、ユージーンは意外にも照れたような顔をしたのだった。
「なんか、いいね。同じ目標を持った友達って」
「そうだね。あ、でも俺は医務官志望なんだ」
ルカが言った。
「そうなの? 僕はもちろん、監察部の方。第二隊に入って、いずれは隊長になる」
ユージーンは自信満々に言った。
「まあ、君なら確実に第二隊だろうけど、隊長か……。大きい目標だね」
「大きすぎるくらいでちょうどいい。すぐに達成出来たらつまらないし、やる気も続かない。ルカもさ、医務官になるなら医長を目指しなよ」
「えぇ……。何十年掛かるんだろう」
自警団の医長は、数多いる医務官のトップだ。治療技術も判断力も桁違いで、ルカには途方もない道のりに思えた。
「そもそも進級出来るかどうかだって怪しいのに。見たでしょ、二年生の数の少なさ」
「僕たちは大丈夫だ。口に出してみなよ。有言実行ってやつ。僕は隊長になって、君は医長になる!」
本当にそうなったら面白いなと思いながら、ルカもこう口にした。
「うん。俺は医長になるよ」
そのときにユージーンが見せた嬉しそうな顔を、ルカはその先もずっと忘れないのだった。
学院での厳しい日々が始まると、ユージーンが言っていた通り他人を妬む余裕はどこにも存在しなかった。しかし誰もが自分のことで精一杯な中、ユージーンは同期を励まし、時には手助けした。彼自身も余裕があるようには見えなかったが、それでも仲間を放っておけない質なのだろう。
一週間もすると、ルカには同期が全員ユージーンを好きになっているように見えた。ユージーンは男女の区別なく同期に接していたが、彼に向けられる女子の視線には時々恋心が混じっていたりもした。
「君って恐ろしい人だね、ユージーン」
夜、寮の机で課題にペンを走らせる彼に、ルカは声を掛けた。
「え?」
ユージーンはルカに顔を向けた。不意を突かれたようなその表情も魅力的で、人を落とすにはぴったりかもしれない。天性の人たらしだなと思いながら、ルカはこう言った。
「たった一週間で、同期のみんなを虜にしちゃったから。俺なんてまだ全員の名前も覚えてないのに」
「あー、つまり僕が、計算尽くで動いてるって言いたいんだね?」
ユージーンはいたずらっ子のように笑った。確かにルカも、それを少し疑ってはいた。
「そこまで悪い人間じゃないよ、僕。確かに半分くらいは好感度を狙ってるけど、仲間を助けたいっていうのは本当。だから誰が困ってても同じように助ける。たとえその人が僕を嫌いでもね」
「いるかなぁ、君を嫌いな人」
ルカには今のところ、そんな人物は思い当たらなかった。
「そう思うのも最初だけさ。『年頃になったら、否が応にもその顔が禍になるぞ』ってパパに言われてる。こればっかりは僕にはどうしようもない」
そう言って、ユージーンは憂いを帯びた顔になった。ルカにはその憂いが何なのかよく分からなかったが、時を経てその理由を間近に見ることになるのだった。
入学から半年が過ぎ、気付けば同期が5人ほど減っていた。厳しさに着いていけず、学院を辞めていったのだ。残った生徒たちは学院生活にも慣れたのか、少しずつ余裕が出てきたようだった。ルカはあちこちで、誰が誰と付き合っているなどという噂を耳にするようになっていた。
学院の規則で恋愛は禁止されていない。しかし、その影響で成績が下がれば即退学だ。みんなそれを分かった上で……とは思えないような光景を、ルカは見てしまったりもした。
「……でね、課題そっちのけで、図書室でいちゃついてたんだよ。二年生の先輩たち、すごいしかめっ面だった」
放課後にそんな場面に遭遇したことを、ルカはいつものように部屋でユージーンに話していた。ユージーンは仰向けでベッドに寝転がり、気もそぞろな返事をして、険しい顔で手紙のようなものを読んでいる。
「どうしたの?」
「学院が恋愛を禁止にしていないのって、魔導師に適さない生徒をふるいに掛けるためだと思う。わざとなんだよ、きっと」
ユージーンはぶつぶつとそんなことを言った。
「……ねえ、もしかしてそれ、ラブレターだったりする?」
ルカの問いに、ユージーンは小さく頷いた。
「ニーナから」
同期の中でも殊更に可愛らしい女子だった。実技も座学も、席次は割と上の方にいる。告白出来るくらいの余裕はあるということだろう。
「そっか。君がもてないわけないもんね」
ルカは当然のことのように言った。何につけても圧倒的なユージーンには、もはや羨ましいという感情さえ湧かない。ただ、彼が眉間に皺を寄せる理由が分からなかった。嬉しいことではないのだろうか。
「これ、禍のきっかけだよ」
そう言うとユージーンはおもむろに起き上がって、手紙をじっと見つめた。次の瞬間、手紙は燃え上がって跡形もなくなった。魔術で燃やしたのだ。
「えっ! なんで燃やしちゃうの?」
ルカが目を見開いた。
「貰ったラブレターを他人に見られないようにするくらいの配慮は、僕にもある。厳重に管理するって大変だから、燃やしちゃった方が早いよ」
ユージーンは小さく肩をすくめ、ため息を吐いた。
「この手紙にどんな返事をしようが、僕は同期の男子に嫌われるだろうね。しばらくは僕の悪口を聞くことになるけど、ルカは気にしなくていいから」
結局、ユージーンはニーナの告白を断ったようだった。ルカがそれを知ったのは、数人が囁き合っていた悪口を聞いてしまったからだ。
「信じられないよな。あいつ、ニーナを泣かせたんだぜ」
「顔が良いからってさ。調子に乗ってると思わないか?」
気にしなくていいと言われていても、ルカは胸糞の悪い気分になった。君らだって最初の頃はユージーンに助けて貰ったじゃないか、と。突っ掛かりたくなったが、余計に事を荒立てる勇気はなかった。
当のユージーンは普段と変わらず、堂々としていた。悪口を言っていた生徒にも挨拶するし、必要であれば手を貸す。気まずそうにしていたのは相手の方だった。
その内に悪口も収まり、ルカはほっとしていた。それに男子の全員が全員、ユージーンを嫌っていたわけではない。「悪口はやめろ」とそれとなく生徒を窘めてくれていたのが、いつもユージーンと首席を争っているマグラス・ベルンだった。少しウェーブのかかった黒髪で、凛々しい顔立ちの少年だ。
「気を遣わせてごめん、マグラス。庇ってくれてありがとう」
ある日、放課後の廊下でユージーンがマグラスに声を掛けた。彼は歯を見せてにっと笑うと、こう言った。
「敵に塩を送っただけだよ。ライバルがいてくれなきゃ、学院生活がつまらないだろ?」
「へぇ。君が僕のライバルか」
ユージーンもにやりと笑った。単純に嬉しかったのだ。彼はこう続けた。
「君も自警団の監察部志望だよね。賭けようか。どっちが首席で卒業出来るか」
「何を賭けるんだ?」
「髪の毛。負けた方は坊主頭だ」
ははっ、とマグラスが笑った。
「第二隊で坊主頭は、さすがに怒られないか?」
「僕は負けないから問題ない」
「分かった。今の言葉忘れるなよ」
二人は顔を見合わせて笑った。この時はまだ、ユージーンも自分を襲う次の不幸には気付いていないのだった。
進級試験で生徒の半数以上がふるい落とされる中、ユージーンたちは無事に二年生になった。ユージーンとマグラスは監察科、ルカは医療科だ。
「それにしても医療科って、課題多いよね」
消灯時間を過ぎても机にかじりつくルカの背中に、ユージーンがベッドから思わず声を掛けた。彼は既に寝る準備に入っている。
「んー……。これから人の命を預かるわけだから、このくらいはね」
覇気のない声で言ってから、ルカはくるりと体ごと振り向いた。
「ユージーンは? 監察科、どう?」
「まあまあ、楽しいかな。一年生の頃に比べたら剣術の訓練がかなり厳しくなったけど。あと、僕はなんとなくアスカム教官には好かれてない気がする」
監察科で、法律関係の授業を担当する教官だった。白髪混じりの気難しそうな男性だが、ルカはあまり接点がない。
「どうして?」
「……僕が一年生の頃に告白を断ったニーナ、アスカム教官の姪らしい。結局ニーナは進級出来なくて学院を去ったけど、それも僕のせいだと思っているのかも」
「そんなのこじつけじゃないか。おかしいよ」
ルカが憤慨するが、ユージーンは笑った。
「大丈夫。教官も大人なんだから、生徒相手に私情を挟んだりはしないと思う。今のところ不当な扱いは受けてないしさ」
「それならいいけど……」
ルカはあまり納得がいかなかったが、とりあえずはユージーンの大丈夫という言葉を信じることにした。
結果的にそれが大丈夫ではなかったと判明したのは、卒業が近付いた11月のことだった。
その日、学院は朝からざわついていた。一年生の女子生徒が一人、校舎の屋上から飛び降りたというのだ。意識不明で病院に運ばれたらしい。
事件か事故か。ほとんどの教官は事故だと考えていた。魔術学院では高所から魔術を使って安全に降りる方法を学ぶ。練習は教官の監督の上で行うのが基本だが、稀に勝手に練習しようとする生徒がいて、過去にも似たような事故が起こっていた。
そこに異を唱えたのがアスカム教官だった。彼は尤もらしく、教官たちにこう言ったのだ。
「飛び降りた生徒は精神的に不安定な状態だったのでは? 例えば誰かにこっぴどく振られるとか。彼女は二年生のユージーン・ソレイシアに思いを寄せていたという噂も聞きます。彼に話を聞く必要もあると思いますが」
全く事実無根の話だったが、不幸にもユージーンの容姿端麗さがそこに真実味を与えてしまった。監察科の担任教官が聴取を担当すると言ったが、アスカムは何の利害関係もない自分が聴取に相応しいと主張した。
かくして、ユージーンは無実の罪で呼び出されることになったのだ。
「行かなくていいよ! アスカム教官、君に罪を擦り付けて退学にするつもりかもしれない」
部屋を出ようとするユージーンを、ルカが必死に止めた。
「飛び降りた子の意識が戻ればはっきりすることなんだから、それまで聴取を拒否すればいいじゃないか!」
「落ち着きなよ、ルカ。僕は何を言われたって認めないから。飛び降りた子のことも知らないし。それに僕が行かないと、他の生徒が槍玉に上げられるかもしれないだろ? アスカム教官、他にも気に入らない生徒がいるみたいだから。大丈夫、すぐに戻る」
ユージーンはそう言って身を翻し、部屋を出ていった。
ルカは嫌な予感しかしなかった。しかし、どうすべきか分からない。迷った挙げ句、マグラスの部屋へ向かった。監察科で最もユージーンと仲が良いのは彼だ。
「どうしよう、ユージーンが退学になる!」
ルカはマグラスに掴みかかる勢いでそう言い、事の詳細を説明した。
「落ち着けよ。あいつはそんなに馬鹿じゃないぜ? それに無実なんだから、堂々としていれば――」
「相手はユージーンに恨みがある教官なんだよ、マグラス。魔導師なんだ。尋問の魔術が使える」
「あ……」
マグラスがさっと青ざめた。尋問の魔術は、相手の精神を徹底的に追い込む魔術だった。負の感情に支配された相手は、真実を話して解放されることしか考えられなくなる。尋問で得られるのはあくまで真実のみだが、教官はその精神的苦痛を利用してユージーンに罪を認めさせる可能性があった。
魔術学院では一度退学になった生徒が復学することは認められていない。ユージーンを退学にさえしてしまえば、後で真相が判明しようがアスカムの勝利なのだ。ルカが早口でそれを説明すると、マグラスも大きく頷いた。
「あの教官ならやりかねないかも。急ごう」
二人は廊下に飛び出し、校舎へと急いだ。教務室に飛び込んでアスカムの居場所を訪ねたが、もちろん教えては貰えない。そこで二人は、普段あまり使われない棟へ向かった。秘密裏に尋問をするなら、人目に付かない場所を選ぶはずだからだ。
「人の気配はないな。上だ」
マグラスの判断で一階を走り抜け、二階へ。そこにも気配はない。三階も同じだ。四階に上がってようやく、奥の部屋から話し声が聞こえてきた。二人は乱れた息を整え、耳を澄ませる。間違いなく男性の声だ。そろそろと部屋のドアに近付き、更に耳をそばだてようとしたその時だった。
断末魔のような悲鳴が、ドアを突き抜けて廊下に響いた。
「ユージーン!」
ルカとマグラスは叫び、思わずドアに飛び付いた。鍵が掛かっている。二人が必死にドアを叩いていると、足音が近付き、カチリと錠が回った。そして、開いたドアの隙間からアスカムの顔が覗いた。額に冷や汗をかいている。ここで良からぬことをしていたのは間違いなかった。
「……ああ、ちょうど良い所に。私は医務教官を呼んで来るから、君たちは彼を介抱してあげなさい。急に悲鳴を上げて倒れたんだ」
アスカムは早口に言って、逃げるように廊下を走っていった。二人は大急ぎで部屋に入り、机の側でうつ伏せに倒れたユージーンを発見した。
「ああ……!」
ルカが小さく悲鳴を上げ、彼の横に跪く。仰向けにさせるために触れた彼の体は冷たく、口元には吐瀉物が付いている。呼吸はあるが意識朦朧として、ルカの呼び掛けにも反応しなかった。
「あいつ、やっぱり尋問したんだ! すぐ治療しないと――」
「待った」
マグラスが止めた。
「証拠が必要だ。アスカム教官が尋問の魔術を使ったっていう」
彼はそう言い、ユージーンの側に屈んでその体に手を翳した。しばらくすると体全体から白い靄が浮かび上がる。マグラスはそれを手で絡め取り、どこからか取り出した小瓶に入れて栓をした。靄は瓶の中で静かに渦を巻いていた。
「オッケー。もう治療していいぞ」
「それ、何?」
ルカはすぐさま治療に取り掛かりながら尋ねた。
「魔術の痕跡。図書室の本でやり方を見て、こっそり練習してたんだ。ここで役に立つとはな」
マグラスは小瓶を見つめ、それから心配そうにユージーンを見た。
「大丈夫そうか?」
「強い精神的ショックで、一時的に意識が飛んだだけだと思う。吐いてるけど窒息はしてない。脈も今は正常だ」
てきぱきと診察しながらルカが答える。彼は医療科の中でも優秀な方だった。
「う……」
ユージーンが身動ぎし、薄目を開けた。
「ユージーン。ここがどこか分かる?」
ルカの問いかけに視線だけを動かし、ユージーンは突然起き上がった。そしてルカが今までに見たこともないような、怒りと憎悪に満ちた顔でこう呻いた。
「あいつ、殺してやる……!」
そして目を閉じ、ふっと倒れ込んだ。折よく女性の医務教官が部屋に飛び込んできて、ユージーンはすぐさま医務室に運ばれた。
ルカとマグラスは廊下に出て、そそくさと去ろうとするアスカムの前に立ちはだかった。
「アスカム教官。ユージーンに何をしたんですか」
ルカが怒りで唇を震わせると、アスカムは眉根を寄せ、彼を睨みながら言った。
「私が危害を加えたとでも? 彼は聴取の途中で急に倒れただけだ。証拠もなしに教官を非難するなら、君にはそれなりの罰が必要だぞ」
「証拠は――」
いきり立とうとしたルカを、マグラスが肩を掴んで止めた。
「すみませんでした、教官。動揺しているだけなんです」
「……このことは他言無用だ。ユージーンの名誉のためにも」
アスカムは今一度ルカを睨み付けてから、去っていった。彼の姿が消えてから、まだ鼻息の荒いルカを宥めるようにマグラスが言った。
「意外に血の気が多いな、君。とりあえず落ち着いて。あそこでアスカム教官に証拠を見せていたら、取り上げられて終わりだったはずだぜ」
「あ……」
ルカは途端に冷静になった。
「とにかく、今はユージーンの無事が最優先だ。行こう、医務室」
「そうだね。……俺、殺してやるなんて言うユージーン、初めて見た」
ルカにとっては今日一番の衝撃的な場面だった。マグラスにとってもそれは同じだったらしく、二人はしばし無言のまま医務室へ向かった。
ユージーンはベッドでぐっすりと眠っているようだった。吐瀉物で汚れた制服から寝間着に着替えさせられたらしい。
「君たち、ちょっと」
ベッドサイドでユージーンを見下ろす二人を、医務教官が呼んだ。
「アスカム教官は、彼が突然悲鳴を上げて倒れたと言っていたんですけどね。診察する限り、どうもそんな病気を持っているようには思えないんですよ。君たち、何か知りませんか?」
鋭い視線がルカとマグラスを射抜いていた。二人は顔を見合わせて頷き、マグラスがポケットから小瓶を取り出した。
「それは?」
「さっきユージーンから取り出した、魔術の痕跡です。アスカム教官は彼に尋問の魔術を使ったのではないかと、俺達は考えています」
「ほう……」
医務教官はそれを受け取り、目の前にかざした。
「学生でこれが出来るとは驚きました。ありがとう。これがアスカム教官のものかどうか、調べればすぐに分かります。私はね、君たち生徒の味方ですから」
彼女は微笑むと、ユージーンに顔を向けた。
「まだしばらくは眠っていると思います。しかし心配はいりませんよ、ルカ。起きたら部屋に戻るよう伝えておきますからね」
深夜になって、ユージーンは部屋に戻ってきた。その時間まで起きて彼を待っていたルカは、ほっとしながら彼の前に立ち、瞬時に凍り付いた。
目の前にいるのはいつものユージーンとは別人だったからだ。目付きは険しく、表情には以前の快活さが一切ない。さめざめとして、「殺してやる」と発言したときの憎悪に満ちた顔に近かった。
「ユージーン……」
「謝罪するつもりはないんだってよ」
ユージーンは乱暴な口振りでそう言った。
「え?」
「アスカムの野郎。俺に尋問の魔術を使ったことは認めたけど、謝罪はしないらしいぜ。腐ってる……」
呻くように言うと、ユージーンはどすどすとベッドに入って頭から布団を被ってしまった。これ以上話すことはない、ということなのだろう。
ルカは泣きそうな気分になりながら、明日になれば元に戻っているはずだと自分に言い聞かせ、ベッドに入って部屋の明かりを消した。
「おやすみ、ユージーン……」
返事はなかった。
後編へ続く