中編
ヒューリのために用意された控え室にジークとエルツォーネが入室した途端、ヒューリが激昂して三人を睨みつけた。
「お前ら、どういうつもりだ! せっかく私が準備してきた舞台を台無しに――」
「どういうつもり、は我々の言葉です」
ヒューリの言葉を途中で遮り、ジークはそう告げた。不敬ではあるが、もはやそういう問題ではない。
ひとまずエルツォーネに椅子を用意し、座ってもらう。
「ヒュドルブ嬢との婚約を破棄してそこの女と婚約するなど……正気ですか?」
「当然だ! 私は本当に愛せる人を見つけたのだ! それがこのリーナだ!」
「ヒューリ様ぁ……」
この期に及んで二人で甘い雰囲気を作り出そうとしている二人を白けた眼で見て、ジークは溜息を隠さずに吐き捨てた。
「お二人の婚約は王命によって結ばれたもの。殿下個人の意思で覆すなどあり得ません」
「……私にとて人を愛する自由を行使する権利はあるはずだ」
「自由。自由、ねえ」
ジークはもはや失望を隠すこともない声と瞳で王太子のヒューリを見やる。口うるさくとも、それでも今まで忠実に仕えてくれた側近候補のそんな態度に、思わずヒューリは言葉を失ってしまう。
「自由を認めているからこそ、我々はあなたとその令嬢の逢瀬を認めていたのですよ。ですがそれは、側妃であればこそです。爵位も低く、マナーもなく、政務もしないような女が正妃などありえません」
「なにを……なにを言う貴様! リーナを馬鹿にするのか!」
「正当な評価ですよ、殿下。可愛いことでちやほやされるのは愛玩動物と赤子だけです。王族なればこそ、その係累であればこそ、果たさなければならない務めは数多くあります」
「それだ。それこそが息苦しいのだ。それから癒やしてくれるリーナを求めるのは当然だろうが!」
その言葉に三人が顔を見合わせる。エルツォーネは入室して以来、硬い表情のまま押し黙っていた。
「息苦しさ、ですか。では殿下、あなたの息苦しさがどこから生まれているか、理解しておいでですか?」
「なに? そんなもの決まっている、この女が――」
「あなたが息苦しいと言っていた生活が、誰の献身によって成り立っているのか。その美しい衣装も、贅を凝らした料理も、使用人に傅かれる毎日の生活も、一体誰のおかげで成り立っているのか」
またもジークが王太子の言葉を遮る。しかし、それを咎められるような雰囲気ではない。ジークはまるで戦場にいるかのような、鋭い眼光をヒューリに向けている。
「一般的な市民が病気になれば、医者にかかるのにも金が必要です。なにか祝い事を開催しようとしても、自分たちの収入と相談してのものになります。家事や生活の諸々は、自分たちでせねばなりません。だが、あなたは違う。それはなぜですか?」
「……そんなもの、私が王族だからに決まっているだろう」
「そうですね。あなたは王族で、だからこそ遇されている。そしてだからこそ、義務がある。皆の献身で生活を成り立たせているがゆえに、皆に献身せねばならない。それを息苦しいとあなたは仰る」
「……」
もはやジークは敬意の欠片もない態度でヒューリを見下ろす。一方のヒューリは納得はしていないが、さりとて反論できる要素もなかった。
「自由。本当に愛する。それもいいでしょう。ですが、それも越えてはならない一線があります。そしてあなたはそれを越えた。しかも、最悪な方法で」
「先ほどから、なんだお前のその態度は。エルツォーネがそれほどの女とでも言うのか!」
「ええ、そうですよ」
ヒューリの反駁をあっさり肯定する。ジークは何をいまさらと言わんばかりに、肩をすくめてみせた。
「ヒュドルブ嬢は知識、品位、交流、その全てにおいて抜きん出た才能を示しております。彼女以外を正妃にするなどあり得ません」
「……お前の家はヒュドルブ家と対立しているのではなかったのか?」
ジークのランドルク家とエルツォーネのヒュドルブ家は政治の場で常々意見を対立させ、争っている。それは事実だ。
内務に秀でたヒュドルブ家は国が安定した今こそ外征を行うべきだと主張し、武力のランドルク家は自国の戦力を知るからこそ無闇な戦争は控えるべきだと主張している。内政もそれに沿った主張をするので、ここ最近のお互いの意見が一致することがないのだ。
一見すれば騎士が武断派で官僚が穏健派になりそうだが、この国に限っては違っていた。
「ええ。ですが、それと彼女の有能さの評価は別です。彼女の才能は希有なもので、軽んじられるものではありません」
そうジークが言い切ると、エルツォーネは驚いたように眼を見開いた。それを見ていないジークは淡々と続きを告げる。
「それに、意見が対立したとて政敵というわけではありません。ヒュドルブ家も、我が家も国を案じるからこそ対立をしているのです。そも、ヒュドルブ嬢を排除しても私の家が押し上げられるわけでもありませんし」
現実には、ヒュドルブ家の他の誰かがその穴を埋めるだけだ。政治とは、組織とはそういうものだ。
そこで初めて、ジークはエルツォーネに向きなおった。先ほどの顔から一転してまた硬い顔になっている彼女に、ゆっくりと頭を下げる。
「今回の騒動、申し訳ない。側にいながら止められなかったのは、私たち三人の責任だ。どうか、謝罪させて欲しい」
「お前ら、なにを――」
ヒューリの言葉を無視してジーク、ヴェルス、ムーイの三人が頭を深く下げる。それを見ていたエルツォーネは、やがてゆっくりと息を吐いた。
「謝罪を受け入れましょう。お三方、顔を上げてください」
「いや、まだです」
許可を得ても頭を上げない三人を、エルツォーネは怪訝そうな眼で見る。
「どうか、この国を見捨てないでいただきたい」
「それは……私にヒューリ殿下との婚約を継続しろと?」
その言葉にヒューリとリーナが揃って顔をしかめる。ここまで言われても、エルツォーネの有能さを理解できていないのだろう。
「いえ、それに関しては貴女のお心のままに。ただ、この国を見捨てることは、どうかしないでほしい。貴女の才能は、貴女の心はこの国にあってほしい。私の後ろの二人が、充分に補佐してくれるでしょう」
重要なのは、あの場で婚約破棄などという暴挙が行われるということを防ぐことだった。そのような愚行を認めている国だと、そう認識されないがためにジークがあのような芝居を打ったのだ。
それが回避されれば、あとはエルツォーネの望むままに振る舞ってもらっていい。
「お前ら、いい加減にしろ! お前らは私の側近だろうが!」
「もう、それも終わりです」
ヒューリの怒号に、ジークが顔を上げる。その瞳はどこまでも冷たく、王太子を見つめていた。
「公共の場であのような愚かな行為をする人間が、王位を継承できるはずもありません。婚約破棄もそうですが、ヒュドルブ嬢を排除しようとするなど言語道断」
「な……に……?」
「彼女がどれほど、殿下が遊びほうけていた間の補佐をしていてくれたか。あなたが遊び歩いている間、学院の生徒会運営は我らと彼女だけでやっていたのですよ。あなたがその地位で会長に納まり、それでも仕事をしないのでヒュドルブ嬢が婚約者の権限で認証印を捺してくれてなんとか回っていたのです」
学院の生徒会は、そのまま卒業した後の働きと見なされる。特に王族が在籍している時期は、卒業後にどのような政治が行われるかということがしっかり見られる。
故にこそ学院の生徒は生徒会に入ることを望み、そこで存分に働こうとする。そうすれば、卒業後における覚えもめでたいからだ。学院にはそういう機能もある。
それをヒューリは放棄した。それでも王太子であり続けられたのは、ジークたちとエルツォーネの働きが全てだ。
「それだけではありません。各方面への折衝、商人への発注、催事の手配。俺では格が足りない部分を補ってくれていました」
ジークの説明をヴェルスが引き継ぐ。宰相家の長男とはいえ、王家の婚約者には家格が劣る。それらをエルツォーネが助けてくれていたのだ。
「ヒュドルブ嬢は孤立しがちな魔術科にもよく眼を向けてくれ、長年わだかまっていた普通科との軋轢も解消しようと動いてくれました。まだ完全にとは行きませんが、我々が入学した時とは段違いの関係性になっております」
いつからなのか、魔術を扱う魔術科と一般的な生徒の普通科はどこか隔意があるというか、軋轢が生まれていた。学舎の位置が違うという事もあるが、やはり基本的に探求者である魔術師と普通科の生徒は会話が噛み合わないことが多いのだ。
しかしそれを解消しようと動いたのもエルツォーネだった。最初は懇親会を、次いで意見交換会を、荒れそうになると自分が出張って宥め、取りなし、場を和らげた。
高位の貴族であり、王太子の婚約者である彼女が率先して頭を下げれば皆冷静にならざるを得ない。そうして、時間をかけてゆっくり両者の関係を解きほぐしていったのだ。
そういった軋轢は、後々に国のためにならなくなるという理由で、彼女はその献身を発揮した。
「ヒューリ殿下、あなたは自由を得たいと願い、少なくとも学院内での振る舞いはそうできた。それは、他ならぬヒュドルブ嬢のおかげなのです」
「それは……しかし……」
「殿下、あなたはこの女と婚約する自由を欲した。この女を正妃足りうるまで教育し、それを側で支える。その覚悟があればその欲求も分からなくありません。ですが、そうであっても、そうであってさえも――」
そうしてジークはヒューリを真っ正面から見た。そこには今までにはない、哀しみの光が湛えられていた。
「自由を理由に、ヒュドルブ嬢を傷つけることが許されることはないのです」
「っ!」
息を呑んだのはヒューリなのか、エルツォーネなのか。あるいは二人なのか。それももはやジークにとってはさほど関係のないことだった。
「あなたがそう望んだのなら、まずはこのような閉じた場で打診すべきだった。たとえあなたがヒュドルブ嬢に対して歪んだ認識をしていたとしても、あのような場で辱めを行う必要はなかった。自身の心のままに周りの人間を傷つける。それは王ではなく、ただの暴君です」
「私は……私はそういう……」
つもりではなかった。そう言いたかったのか、しかしヒューリは口をはくはくと動かすだけで言葉を紡げなかった。
「そして暴君に国は任せられない。あなたの継承権は剥奪され、第二王子殿下に引き継がれるでしょう。畢竟、我々の役目も終わりです」
ヴェルスが溜息と共に後を継ぐ。
「殿下、あなたの過ちはヒュドルブ嬢との対話をしなかったこと、我々に今回のことを相談しなかったこと、ヒュドルブ嬢を公式の場で辱めたこと、ヒュドルブ嬢の才能を理解していなかったこと。その四つです」
その宣告に、ムーイも哀しげに首を振った。
「そしてそれは我々も同じです。ここまでのことを起こすと予想できなかった。学院で過ごす日々で、もっと強くお諫めすればよかった。我々の不徳がいたすところ。ヒュドルブ嬢にも申し訳ない」
「いえ、あなたがたはよくやってくれていました。私の方こそ、こんな結果になってごめんなさい。力が足りなかったわ」
四人とも、もはやヒューイが王位を継げないという前提で話をしている。そしてそれを理解したヒューリもリーナも顔を真っ青にしていた。王族であるヒューリはともかくとしても、ただの貴族令嬢のリーナには重い罰が下るだろう。
「あとは、今回の始末だが……ジーク、本当にどうにかならないのか?」
「どうにもならんよ!」
ヴェルスの問いに、ジークは吐き捨てるように言った。そしてその態度に自己嫌悪したのか、小さく手を振って溜息を吐く。
「悪い……だが、本当にどうにもならん。誰かが責任を取らなければならない」
「どういう、ことだ……?」
また何事か不穏な話になり、ヒューリが青ざめた顔のまま問う。それを投げやりに見て、ジークは皮肉げな笑みを浮かべた。
「茶番であれ、公共の場で断りもなくあのような騒ぎを起こし、しかも高位の令嬢を侮辱するような内容だった。そんな騒動の責任は誰かが取らなければなりますまい」
そうしてジークは後ろの友人二人を見やる。
「といっても、ヴェルスは宰相の息子として内務に才覚を見せております。ムーイも魔術の研究者としてすでに論文やそれに基づく運用を提唱しており、騎士団としてもその連携を模索して取り入れようとしております。二人とも、その才能は希有なものです。ヒュドルブ嬢と同じように」
そして、どこか自嘲気味に自分を手のひらで示す。
「対して、俺は騎士として働いておりますが、それだけです。剣を振るだけしかできない。つまり、俺が一番替えが効く立場なのですよ」
「ジーク……」
今更、自身の罪を理解したかのようにヒューリが呟く。ジークが剣に全てを捧げ、父や兄と共に騎士として戦うことを喜んでいたのはヒューリとて理解している。責任を取るということは、その騎士団を離れることでもある。
高位の貴族に恥をかかせた責任は、それほどに重い。
「それに、俺と違って二人は家を継ぐ長男です。後継者でもない三男の俺が除名され、平民に落ちるのが一番丸く収まるでしょうね」
貴族からも除籍される。学生の余興としては重い罰だが、それだけしておけば他からの詮索や抗議も封殺できるだろう。
そしてそれだけのことをヒューリはしたのだ。もしも王太子の企みが最後まで行われたのならば、これ以上の処罰が吹き荒れただろう。
「それで、ランドルク様、あなたはどうするのですか?」
エルツォーネが問う。それはこの場において初めて彼女が自主的に発言した言葉だった。
「まあ、冒険者にでもなりますよ。幸いにして剣の才能はそれなりにあるようですからね。身寄りのない自分が稼ぐにはいい方法だ。傭兵となると、この国に仇成すところへ雇われるかもしれませんし」
軽く肩をすくめてそう言う。謙遜はしているが、学院に在籍時しながら騎士として働いていたという生徒は、長い歴史の中でも少ない。ジークの兄二人ですら、騎士見習いという立場が精一杯だった。
「そうですか……あなたの前途に光あらんことを」
「ヒュドルブ嬢も、これからは大変でしょうけれど、何かあれば俺の友人を頼って使い尽くしてやってください。こう見えて、頼りになりますから」
そう言って、笑う。だが、それに追従する笑いはついぞ起こらなかった。