前編
「エルツォーネ、私はお前との婚約を破棄し、この愛らしいリーナと婚約する!」
貴族学院の卒業パーティーの最中、そんな言葉が響き渡ったのはジークが一杯めのグラスを飲み干し、おかわりを探しつつ「中盤からの余興が少なければ『新人にいいところを見せようとして試し切りをするも、うまく切れなくて気合いで誤魔化す先輩騎士のものまね』でもするか」などとのんきに考えていたときだった。
一瞬、聞き間違えかとも思った。
だが、学院在籍時からすでに騎士として働き、戦場で駆けるジークの耳は先ほどの言葉を一言一句違える事なく頭に刻み込んでいた。
なにせ、剣戟、馬蹄、怒号、魔術の爆音が響く戦場で言葉を聞き直したり、聞き間違えていれば死に至ることすらある。指示を聞くこと、その意図を正確に理解することは騎士団に入団して即座にたたき込まれる基本だ。
そしてジークは、それが自分と同じ、今しがた放言した王太子の側近候補の仕掛けた悪戯であることを願い、つい一瞬前まで歓談していた二人の友人の方を振り向いた。
「……ヴェルス、ムーイ」
だが、後ろの友人二人も真っ青な顔をして、そしてこちらの顔を見ていた。宰相の息子であるヴェルスも、魔術団長の息子であるムーイも、騎士団長の息子であるジークと同じように、これがなにか他の二人が仕掛けた余興であればと、お互いがあり得ない希望にすがったのだろう。
「……どういうことでしょうか、ヒューリ殿下」
「白々しい。お前はこのリーナに陰険な嫌がらせを繰り返し、虐めていたのだろう! そんな女は正妃に相応しくない!」
「服を汚されたり、私物を壊されたり、お茶会に私だけ招待しなかったり、階段から突き落とされたり、……さらにはならず者を雇って乱暴までしてきて……私、生きた心地がしませんでした……」
婚約者でもないヒューリの側に寄りそうリーナが自分の身体を抱く。
王太子であるヒューリと、やたらと被害者ぶるリーナの糾弾が続く。だが、それはどうでもいい。
三人は顔を見合わせ、こくりと頷いた。ここで「どういうことだ?」や「どうする?」など狼狽しないのは、三人の有能さを示していた。
そしてそうだからこそ、このような愚行を行うようなヒューリを王太子たらしめた理由でもある。もっとも、それにはもう一つの大きな要因があるのだが。
「……誰がやる?」
「俺しかあるまい」
ヴェルスの問いに、ジークは即答した。立場と状況からして、ジークがやるしかない。そう思い、二人を見る。
「ヴェルス、ムーイ、合わせられるか?」
「できる。が、本当にいいのか?」
ムーイが静かに訪ねる。友人の心遣いを感じながら、しかしジークはゆっくりと首を振った。
「もしかすれば、もう少し考えればもっといい方法が見つかるのかもしれん。だが、状況がそれを許さない。これ以上殿下に喋らせれば、取り返しがつかなくなる。この国と、エルツォーネ・ヒュドルブ嬢にとって」
なにせ国中の貴族の子が集まる学院だ。それは将来の王宮における関係の縮図にもなる。
そしてそうなれば、近隣諸国からもそれらを探り、あるいは繋がりを持とうとする人間が派遣されてくる。
商人、貴族、あるいは王族、それらの子弟が留学生としてやってくるのだ。当然、彼らもこの場に臨席している。
これ以上あの愚行を見過ごせば、国に決定的な傷が残る。いや、今すでにひび割れが始まっている。
それを最低限にとどめるために、迅速な行動が必要だった。
「二人とも、この国のことを頼むぞ」
「ジーク……」
ヴェルスがすがるように名を呼んでくるが、ジークは一瞬瞑目し、首を振るだけだった。そうして持っていたグラスを置き、二人を目を見る。
「行くぞ、二人とも補佐を頼む」
そう言って歩き出す。すでに騎士として働いているジークは生来の身体の大きさもあって、生徒たちの中では目立つ。
突然の事態に硬直している人の波をかき分け、まるで演劇の舞台かのようにぽっかりと開いた空洞へと三人は躍り出た。
「大体貴様はいつも私のことを見下すような態度で――む、お前たちか」
「はい、ヒューリ殿下、私も殿下にお伝えしたいことが」
ジークが騎士の礼を取り、ヒューリへと告げる。これは臣下として正式に進言したいという作法であり、これを無視するのは臣下をないがしろにするということと同然である。
ヒューリは眉を顰めたものの、それでもジークの発言を却下はしなかった。自分に酔ったような状況でも、その辺りの分別はついたらしい。
一方で、謂われなき糾弾を受けていたエルツォーネは硬い表情で乱入してきた三人を見据えていた。何を言うのか、予測がつかないのだろう。
「私もこのエルツォーネ・ヒュドルブ嬢に数々の嫌がらせを受けておりました!」
「なに、そうなのか?」
ジークが告げた言葉にヒューリは嬉しそうな笑顔を浮かべ、一方でエルツォーネは相手の援軍にさらに唇を引き結んだ。
「ええ。服を汚されたり、私物を壊されたり、私をお茶会に呼ばなかったり……冷たい仕打ちを受けました!」
「は……?」
ヒューリが間抜けな顔をするが、ジークは至って真面目に哀しそうな顔を作ったままだ。普段は冷徹な顔を保っているジークがそんな表情をするのは、ある意味貴重とはいえた。
そもそも、この国では未婚の女性が主催するお茶会は、同じ境遇の女性か婚約者の男性のみを招待するのが仕来りだ。ゆえにジークが婚約者のいるエルツォーネのお茶会に行くなどあり得ない。あり得ないというか、仮にそんなことがあったら醜聞である。
「あとは……なんだった?」
「階段から」
「そう、階段からも突き落とされました!」
小声で聞くジークにヴェルスがこれも小声で助けをよこし、ジークは胸を張って大声でそう告げた。
ちなみにジークは学生の中でも一、二を争う大きさであり、さらには学生唯一の現役騎士を兼任していることもあって、学院の制服がはち切れそうなほどの筋肉が服の上からでも分かる。
対するエルツォーネは貴族令嬢かくあれかしと思えるような細腕で、身体もジークより一回り以上も小さい。自身と同じ程度のリーナならともかく、ジーク相手では助走をつけても突き落とすことは不可能だろう。
あまりにもあり得ない状況に、周りの聴衆から小さな忍び笑いが漏れてくる。
「ジーク、お前はなにを――」
「それに、あれは私が騎士団として山賊討伐に行ったときです……彼らはこちらに武器を向けてきて……わ、私に乱暴しようとしてきたんです!」
当然である。討伐に来た騎士に無抵抗な賊がいるはずもない。
ことここに至って、一連の状況を喜劇と理解したのか笑い声を隠すこともなくなった聴衆が現れ始める。
「私……怖かった……怖かったんです殿下!」
もはやわたしというよりあたしというような発音でジークは自分の身体を抱いて震える。それが先ほどのリーナの仕草をそっくり真似ていることに、何人が気づいたか。
そして筋骨隆々のジークがそんな仕草をするのは、不気味極まりない。
「ジーク、お前――」
「事ほど左様に、一方だけの証言を鵜呑みにするのは滑稽であり愚かでもあります。というヒューリ殿下からの卒業する皆様への訓戒の演劇でした。お目汚し、失礼いたしました」
つまりは喜劇的な訓戒、そう締めくくったヴェルスにヒューリとリーナが何か言うよりも早く、群衆の中から拍手の音が鳴る。
それにつられて、聴衆が拍手を始めて会場はジークやヴェルスの言葉を肯定するような雰囲気になる。
実際は、最初の拍手の音はムーイが魔術でねつ造したものだ。聴衆の奥の方から鳴らせば、誰が最初に拍手したかなど分かるものはいない。
観客がヴェルスの言葉を受け入れたことを確かめてから、三人は頷いて締めの言葉を紡ぐ。
「それでは、我々は一旦退席させていただきます。ご清聴ありがとうございました!」
「お、おい、お前ら、何を勝手な――!」
「あっ、ヒューリ様! 待ってください!」
ヴェルスとムーイが強引にヒューリを連れて退席していき、リーナがその後を追う。
そしてジークもエルツォーネの側へ寄る。
「申し訳ないがヒュドルブ嬢、あなたもお願いできますか?」
「……ええ」
ジークのエスコートにエルツォーネが頷く。その顔には硬さと、少しの不可解さが浮かんでいた。
それでも何も言わず、淑女として周りの学院生に一礼してから、エルツォーネも奥へと下がっていった。