皇子は胸を躍らせる
「婿入り?心彩へ行けと?」
泰仁国の首都。平民でも豊かな者たちが集まる露店街は、橙色に光る灯籠が至る所に置かれ、夜でも明るく幻想的な雰囲気である。
今夜、母の生家の者に呼び出され、夜の街へ出てきた第五皇子・聖は、初めて会った祖父から自身の婿入りの話を聞かされた。
彼は、庶民に見える服を着て茶屋にいる。
対面しているのは、彼の祖父だ。
深いシワに浅黒い肌。祖父は落ちくぼんだ目がギラギラとしていて、見るからに欲深い商人という容貌だ。
これでも昔は多数の女性に囲まれるほどの美青年だったというのだから、年月は人をこうも変えるのだなと聖は密かに思った。
「以前から、聖様の縁談を各国に持ち掛けておりましてなぁ。加護なし皇族であるお可哀そうな貴方様には、泰仁よりも異国の方が暮らしやすいと思いまして」
笑みを浮かべる祖父に対し、聖は胡散臭い者を見る目をした。
(どうせ、商売のためだろう。使える者はとことん使う。こちらが何も知らぬと思っているのか)
テーブルに向かい合って座る二人は、互いの腹の内を決して明かさない。
あくまで表面上は、皇子とその祖父という立場を崩さずに話を進める。
「誠にありがたいお気遣いですが、加護なしの私を受け入れるなど、心彩の姫は正気ではないと思われます。……あなたの商売の役に立てるかどうか?」
「ご心配は不要です。すでにあちらの宰相様から、珍しい織物をいくつかいただいておりましてなぁ。これはかなりの商いとなりましょう。それに、心彩は確かに聖様を欲しておられる」
「この私を?」
冗談だろう。
聖は思わず笑いを漏らした。
(加護なし皇子を望む姫、か)
物珍しさか?憐みか?
加護は本来、自身の武器となり自慢となるもので、次期皇帝にふさわしいかどうかは加護によって決まる。
聖の兄である第1・2・3皇子は強い加護を持っていて、武に秀でた男たちだ。三人とも「自分こそが皇帝にふさわしい」と思い、常に争っている。
皇族でありながら加護なしと侮られ、政治的な後ろ盾もない聖と縁づきたいという者はいない。
それは聖が一番わかっていた。
だからこそ、かの国が自分を求める理由がわからない。
(心彩の目的はなんだ?あの国は、保守的だと言われているが)
10年もあれば国の数も名前も変わるとされる情勢で、心彩がどこかの国と戦った記録はない。精霊の末裔が暮らす国という特殊な立場から、どの国からも不可侵とされ、向こうからも目立った接触はない。
それが、なぜか今回は聖との縁談には乗ってきた。
(まさか持参金目当てではないだろう。一国の姫が婿を取るのに金目当てはあり得ない)
相場よりは多い金額も、泰仁からすればはした金である。
そのはした金目当ての姫がいる、という現実を彼は知らない。
聖が黙り込んでいると、祖父が語気を強めて言った。
「話を持ち掛けたのはこちらです。今さら断ることはできませぬ」
彼が乗り気でないと思ったのだろう。その上で、逃げるなとその目が言う。
断れないということは、聖自身も当然わかっていた。加護なし皇子に、選択権など最初からない。
「かの国は謎に包まれた国ですが、精霊に護られし一族というのは本当です。長い寿命、健康な体、そして加護を持つ民……。今後の取引が期待できる国でして、聖様もきっと気に入ると思いますよ」
「取引ね。あまりに距離があると思うが、それでも利が見込めると?」
「ええ、当然です」
その笑みの醜悪さに、聖は内心では罵倒してやりたかった。
(金儲けしか頭にないとは。なぜ母がこいつを頼らなかったのかよくわかる)
亡き母は、最後までこの男を頼らなかった。娘をも金儲けの道具と考え、何か頼みごとをしたら最後、その数倍は対価を払わねばいけないとわかっていたからだ。
実の娘さえ耐えられぬと避け続けた醜悪さを前に、聖は怒りを感じていた。
が、ここで事を荒立てるのはまずい。
黙って宮を抜け出すことはしょっちゅうだが、それが露見すればただでは済まない。
「ひと月後には、すべて整います。どうか間違いなどおかしませぬよう」
「…………」
祖父はそれだけ言うと、茶も飲まずに部屋を出て行った。用件だけ告げ「逃げるな」と釘を刺したらこれで終わりらしい。
部屋に残された聖は、扉の向こうに立っている付き人を呼ぶ。
「天陽、聞いていたか?」
牡丹の彫り物が美しい黒い扉が音もなく開き、茶色い髪の青年が入ってきた。
天陽は、幼い頃からたった一人で聖に仕えている世話役で、聖より二つ年上の二十歳である。
彼は悲しげな顔で「聞いておりました」と答えた。
「まさか、国を出て心彩へ向かうことになるとは予想外でした」
「そうだな。またとんでもない縁談が決まったものだ」
まるで他人事のようにそう話す聖を見て、天陽はますます悲しそうな顔をする。
「どうした?」
「お逃げください」
「無茶言うな」
聖はあっさりと却下した。
これまでに何度もしてきたやりとりだったが、天陽も今日は食い下がる。
「もうよいのです。私と妹のことは……」
母亡き今、聖が蔑まれながらも留まる理由は、天陽とその妹の存在があるからだ。
乳母の子である天陽と雨霏の兄妹だけはどうしても守りたいと、頑なに逃げようとしなかった。
「雨霏はもうすぐ韓殿の元へ嫁ぎます。そうなれば、聖様がいなくなっても人質にはできません」
双子の妹・雨霏は、有力貴族の後妻になることが決まっていた。
年齢こそ十五も離れているが、二人は仲睦まじい仲だと有名だった。
「そうだな。でも、まだダメだ」
今じゃない、と言う聖に対し、天陽はなおも説得を試みる。
「さきほど商会の者に話を聞いたところ、心彩にも後宮があるそうです」
「後宮とは、姫のか?」
「はい。現状、聖様のほかに王配候補がいるかどうかはわかっていないそうですが……」
「つまり、俺が心彩へ向かったとしてもほかにも男が山ほどいて、王配になれるかどうかは姫の気持ち次第ということか……」
愛憎渦巻く後宮の世界。皇帝の愛を奪い合う妃たちは、そこで育った聖にとっては愚かにも哀れにも見えた。
(男に生まれた自分が、まさか妃たちの立場になるとは思っていなかったな……。だが、ほかにも男がいるなら姫が自分を選ぶとは限らない)
考え込んでいる主人を見て、天陽は様子を窺う。
「あの、聖様?」
顔を上げた聖は、楽しみだといわんばかりの笑みを浮かべていた。
「ほかにも男がいるなら、加護なしと馬鹿にされる俺は必要ない。これは好機だな」
「どういう意味ですか……?」
「おまえの妹さえ嫁いでしまえば、俺たちは自由だという意味だ」
二人で心彩へ向かい、姫の伴侶候補として幾日かやり過ごす。
そして、雨霏が正式に貴族の妻となったときに逃亡する。
「姫だって、俺が逃げてもほかに男がいるのだから追ってくることはないだろう」
「そこは……。わかりませぬが」
これはもしかすると、人生で初めて自由になれる好機かもしれない。
聖は希望が見えた気がした。
「せっかくこの国を出られるんだ。何をしてでも自由になりたい」
後宮を抜け出し、街を歩くようになってから早五年。聖の自由への渇望は限界に近かった。
(これは好機だ……!)
心彩に行き、期限付きで夫になる。それが過ぎれば、行方を眩ませればいい。
もうすぐ自由になれる。
聖は期待に胸を躍らせていた。