気づいてしまったこと
漆黒の夜空には、無数の星たちが煌めいている。
私の目の前にある湖面には、空をそっくりそのまま映した美しい星空が広がっていた。
湖のほとりで地面に腰を下ろし、私はもう随分と長い間ぼんやりとしている。
「はぁ……」
いつか誰かと結婚するものだって思っていたし、それが当たり前すぎて深く考えてこなかったというか……。
精霊族を救うためにただ必死で、持参金目当ての結婚を即決した。
聖様は素敵な人だから、私にとってはいい縁談だと思う。しかも、予想外に一族全滅も回避できそうだ。
でも、聖様は私を愛してくれる?凱の言うみたいに「離れたくない」と思うくらいに、愛情を抱いてくれるようになる?
わからない。
何をどうすればいいのかわからなくて、ここ数日はずっとなかなか寝付けずにいた。
キラキラと輝く星たちを見ていたら、無性に羨ましくなった。
「星になりたい……」
こんな風に美しければ、聖様は私をすぐに好きになってくれたかもしれない。
そんなバカなことをうっかり考えてしまった。
そのとき、後ろから急に声がした。
「何をバカなことを」
「っ!!」
聖様の声だった。驚いて振り返れば、ちょっと怒っているように見える。
その手には青色の羽織を持っていて、彼は私にそれを差し出した。
「これは?」
「体が冷えるだろう?」
「私に?」
わざわざ持ってきてくれたのか、と目を瞬かせる。
聖様は私が羽織を受け取ると、そのまま隣に座った。
「ありがとうございます」
精霊族はめったに風邪をひかない。
それなのに持ってきてくれたんだと思うと、嬉しく思ってしまった。
羽織に包まってにやにやしていると、聖様は呆れたように言った。
「星になりたいと言っていたわりに元気そうだな」
「え?」
「死にたいんじゃなかったのか?」
「は?」
どうしてそんなことになるのか?
私はとんでもないと首を横に振る。
「星が、きれいだったから……!それだけです」
あっ、そういえば泰仁の方では人は死んだら星になるって言われていたような?よその人間についてはよく知らないが、精霊族は死んでも星にはならない。自然に還るだけだ。
聖様は、ここでも微妙に感覚がずれていたことに気づき「そうか」と言って前を向いた。
「私は何が何でも生きるつもりです、今度こそ」
「今度こそ?」
「あ、いえ、お気になさらず」
とにかく生きる気力に溢れていると伝える。
聖様は怪訝な顔をしていたが、しばらくすると視線を落として言った。
「星になりたくなるほど落ち込んでいるのかと思った」
どうやら、聖様は自分が黒龍神の力を見せてしまったことを気にしているらしい。確かに人が炎に包まれるのを見たのは初めてだったけれど、それで死にたくなるほど落ち込んだわけではなかった。
「私は大丈夫です」
「それならどうして毎夜こんなところに?」
「知っていたんですか?」
こっそり出てきたのに、気づかれていたんだ……。
「精霊たちが教えてくれた」
「精霊が?あぁ、聖様にも見えてるんですね」
加護がないと、精霊たちは見えない。天陽には見えないが、実は加護のある聖様には精霊の姿が見えていたんだ。
私を心配した精霊たちが、聖様の部屋に押しかけていたらしい。
言葉はわからないけれど、呼ばれたような気がしてここへ来ると私がいたそうだ。
「一人になりたいんじゃないかと思って話しかけずにいたが、さすがに三日連続となると気になった」
「すみません……!眠れなくて」
一昨日から見られていたの!?
恥ずかしくなって俯いてしまう。
さすがに「何もない」ではごまかせないだろうな。
でも、今の私にはすべてを打ち明けることはできない。話せる部分だけ切り取ってうまく伝える自信もなくて、何も言えずにいた。
「美しいな、この国は」
星空を映した湖面を眺めていた聖様が、ふとそんなことを口にする。
「そうでしょう?この景色も、聖様に見てもらいたいって思っていました。まだまだ見せたいところはたくさんあるんです」
心彩を褒めてもらえたことが嬉しくて、私は聖様の方を見て微笑んだ。
「姫はとても幸せそうに笑う」
「……幸せですから」
大切な人たちが生きていて、未来は続いていくのだと思えるのは幸せなことだ。
私が今どれほど幸せか、何気ない瞬間ほど実感する。
「聖様が心彩を気に入ってくれて、私はとても嬉しいです」
ふふっとさらに笑みを深めれば、再び湖面に目をやった聖様が唐突に問いかけてきた。
「姫にとって、『国』とは何だ?」
私は聖様の横顔をまじまじと見つめ、なぜそんなことを尋ねるのかと不思議に思いながら答える。
「そうですね。国は、精霊族がずっと守ってきたこの土地であり、森であり、水であり、空気であり。精霊族そのものであって……、ここにあるすべてが国を作っているのだと思います」
「そうか」
自然も、精霊族も、どれも欠けては心彩ではなくなる気がした。
「俺にとって、心彩は心如だ」
「私……?」
「俺はまだこの国に来てまもない。ほんの一部にしか触れていない。でも、精霊族を信じてみようと思った。心如が愛する国だから」
そう言うと、聖様は右手を懐に入れて何かを取り出した。
細い七色の糸で編み込まれたそれは、婚儀で使う髪紐だった。
「これ……」
精霊族は結婚するとき、精霊たちからもらった糸で互いの髪紐を編む。それを交換することで夫婦と認められる。
私の場合、聖様に渡す分はすでに作ってあるけれど、自分の分は花琳たちが皆で編んでくれた。聖様は外の世界の人だし、皇子様がこんなことはなさらないかも……と思ったからだ。
「儀式で必要だと聞き、花琳に教わって作った。伴侶はこれを交換するのだろう?」
加護の力を使って疲れていたはずなのに、私との結婚について考えてくれたばかりか、髪紐まで作ってくれたなんて……。
目に涙が浮かび、視界がぼやける。
「俺は至らぬばかりの男だが、心如にとって必要な伴侶になりたいと思う」
私は胸を右手で押さえ、深く瞼を閉じた。
涙の粒がはらはらと衣に落ち、喜びで胸がいっぱいになる。でも────
「聖様。私、実はまだ言ってないことがあるのです」
なぜお金が必要だったのか?
肝心なことを伝えられていない。
「でも、言えなくて……」
聖様を傷つけたくない。でも、隠し事をしたまま結婚するのは卑怯だと思った。ずっとモヤモヤした気持ちが晴れなくて、悩み続けていた。
何もかも話してしまえば、今こうして寄り添おうとしてくれている聖様が離れていってしまわないか?
それも不安だった。
凱に言われた、あの言葉。
──聖様が姫様を愛し、『絶対に離れたくない!』と思うようになれば世界は安泰です。
離れたくないは私の方。私はこんなにも強く、聖様にそばにいて欲しいと願っている。
聖様は泣くだけの私の手を取り、髪紐を手首に結んでくれた。
「儀式用はもっと上達してから作る。今はこれを」
「聖様、あの」
話していないことがあるのに、これを受け取ってもいいんだろうか?
躊躇う私に、彼は穏やかな表情で告げた。
「無理に話せとは言わない。心如のことだから、話せないのはどうせ俺のためなんだろう?ならば、話さなくていい。黙っていてくれ」
「でも」
「これは俺が願ったことだから、姫は俺の希望を聞いて黙ったままでいればいい」
何が正解かはわからない。でも、この方は私に逃げ場を与えてくれた。
話さなくていいと言ってくれた。
私は何度も手で涙を拭い、そして呟くように言った。
「本当に、よいのですか?」
「あぁ」
「そんなことでは、いつか誰かに騙されますよ」
「気を付ければいいのでは?」
思わず笑ってしまった。
警戒心の強い聖様が、気を付ければいいだなんて。
私が笑っていると、聖様もつられて少しだけ笑った。
「きれい……」
手首に結ばれた髪紐を改めて眺める。
儀式用はまた作るとおっしゃったけれど、私はこれが世界で一番気に入ってしまった。
「ありがとうございます」
私は聖様の肩にもたれかかり、湖を眺める。
「一つお願いしても?」
「何だ?」
「その……もう一度、心如と呼んでもらいたくて」
「改めて頼まれると呼びにくいな」
さっきまで、ときおり名で呼んでくれていたのに。
「呼んでくれなければ、このまま帰しませんよ?」
「それは困るな」
「かといって、帰れないのは困るから仕方なく呼ぶというのも嫌です」
あぁ、私ってこんなにめんどくさい人間だったかな……。とてもめんどうなことを言っていると自覚はある。
やっぱりいいですと諦めようとしたとき、隣からくすりと笑う声が聞こえた。
「心如」
思わず顔を見上げれば、聖様の優しい眼差しに驚いた。
こんな顔もなさるんだとしばらく見惚れてしまう。
聖様は私の髪を撫でると、困ったような顔で笑った。
「心如、そろそろ戻ろう」
立ち上がろうとした聖様を、私はいたずら心で引っ張った。
「待ってください!」
「っ!?」
草の上に、どさりと倒れる音がする。
二人してもつれるように倒れ込み、仰向けになって夜空を見た。
「ほら、ここに来たらこうやって寝転んで空を見上げるのも一興です」
「転ばさずとも、もっとやり方があっただろう……」
紺碧色の空に輝く無数の星。
聖様の腕を取ったまま、私は満たされた気持ちで眺めていた。
三度目のやり直し、私は聖様とこの国で生きていく。
精霊族の皆が、笑顔で暮らせるように。そして、聖様がずっと幸せでいられるように。
「一緒に幸せになりましょうね」
「……あぁ」
手を繋げば、強く握り返してくれる。
一族の長としてはまだまだ未熟な私だけれど、聖様が一緒にいてくれるならきっと大丈夫だと思えた。




