黒炎
「雨が降るかもしれませんね」
思った以上に灰色の雲が空を覆っていて、草原は薄暗い。
カエルたちは私の下へは雨をお知らせしてくれないので、きっと凱のところへ行っているだろうなと思う。
街の入り口で馬を下り、そこからは徒歩で草原を目指す。
足早に進む途中、聖様が耐えかねた様子で私を振り返った。
「姫、これは何だ……?」
「ツタです」
今、私たちはにょろにょろと蠢くツタに囲まれながら移動している。
「気持ち悪いですか?弓が飛んできても弾いてくれるので、安全のために必要だと思いまして」
「それは便利だが一言説明が欲しかった」
危険な場所に行くのだから、守りを固めるのは当たり前すぎて説明を忘れていた。確かに、初めて見る人には説明が必要だった。私は「すみません」と謝る。
「天陽は平気ですか?」
そう尋ねると、しばしの沈黙の後に返事をくれた。
「……新緑色できれいです。そう思うことにしました」
天陽は我慢強かった。それに優しい。
私は彼にも「ごめんなさい」と謝り、草原への道を歩き続ける。
「この先にある崖から草原を見渡せます」
霧があるとよく見えないけれど、岩の多い斜面になっているところがある。そこへ行けば、凱たちも永家の私兵も見えるかもしれない。
木々のざわめきに、次第に不安な気持ちが大きくなっていく。
「相手を攻撃せずに勝てないでしょうか?」
「やはり怖いか?」
聖様の目が、私を心配してくれていた。
でも私は静かに首を振る。
「できれば大地を血で汚したくないんです。精霊族は、自然を愛する精霊神様の民ですから」
自分でも無茶を言っているとわかっている。
人と人の争いで、血を流さないなんて無理だろう。
私が祈れば、精霊神様の力を借りて雷も落とせる。この天候ならそう時間もかからない。
けれど、未だに私は「こんなことに力を使うのか」と心の中で嘆いていた。
「姫がそう願うなら……」
聖様は何かを思案し始め、そこから一言も話さなかった。
草原を見渡せる崖についたとき、真っ先に目に入ったのは相手の軍勢だった。
ざっと数えてみる限り百人ほどだろうか、どうやらちょうど半分に隊を分けたらしい。
精霊たちの姿はなく、きっと怯えているに違いない。
三台の射石砲が目に留まり、あれで石を投げこむつもりなのだと想像できた。
「あんな武器まで用意しているなんて、最初から強引な手を使うつもりだったんですね」
「まさかここまで愚かとは……」
天陽も思わずそう呟く。
私は、こんな人たちに心彩が踏み荒らされるのは絶対に嫌だと思った。
「宰相らはどこにいる?」
草原に凱たちの姿はなかった。
花琳によればここに二十人ほどいるはずなのに、その姿は影も形もない。
どうして?私たちより先に向かったはずでは?
草原の奥に広がる森に姿を隠してるんだろうか?
「行きましょう。あちらから下りられます」
このまま黙って見ているわけにはいかない。
私は兵の足止めをするつもりで、草原へと出る。
そのとき、聖様は私にツタを引っ込めるように言った。
今が一番危険なのに?
疑問を持つ私に、彼は「巻き込まないように」と説明した。
私はそれに従いツタに森へ戻ってもらうと、聖様に続いて草原を歩いていく。
一面に広がる緑はふかふかの絨毯のようで、白と黄色の野花が咲いている。心彩に繋がるこの草原は、ことのほか美しい。
心彩の街に通じる橋はかなり離れているが、聖様たちがやってきた日とは違い、遠くに橋や街が見えるくらいには霧がなかった。
ザッザッと、大人数の足音が聞こえてくる。
思わず身構えた私に、聖様は前を見据えたまま「心配ない」と言った。
「おそらく宰相は色々と歓迎の用意をしているだろうが、これは俺が招いたことだから責任を取らせてもらう」
兵はもうすぐそこまで近づいている。
聖様は彼らがこちらに気づいて動きを止めたとき、加護の力を使った。
「黒炎よ、我が敵を退けろ」
「っ!」
あたりに黒い煙が広がり、それはするすると集まって龍の形になる。
まるで生きているかのような動きをしたそれは、聖様の意志に従い、兵らの方へ飛んでいく。
「炎……?」
これほどに強い加護は見たことがない。
龍は黒い炎となり、兵らを瞬く間に呑み込んでいく。
「ぎゃぁぁぁ!」
「逃げろ!」
慌てたところで、もう逃げ場などどこにもない。
恐怖で混乱に陥る兵たちは、ただ悲鳴を上げるしかできなかった。
「姫様!」
「凱!」
そこへ、慣れ親しんだ声がする。
振り返れば、そこには槍を手にした凱がいた。
私の姿を見つけ、走ってきてくれたのだとわかる。
「これは?」
黒い炎に飲み込まれた兵たちが、次々と姿を消していく。
炎に焼かれたはずなのに、その痕跡もなく皆が消えていった。
凱も理解できない力だったみたいで、聖様に尋ねる。
「黒龍神の加護の力だ。敵とみなした者は黒龍が闇に引きずり込む」
黒龍神は泰仁で祀られている神様で、精霊神様と違って自然の理の中に存在しない。気まぐれで、攻撃的だとされている。
「本当に存在したのですね……」
私は呆然として、その場に立ち尽くす。
何て恐ろしい力だろう。精霊神様のお力とはまったく違う。
凱は聖様に加護があったことに特に驚くそぶりもなく、「なるほど」と納得した様子だった。
「気づいていたの?」
凱に尋ねれば、「はい」という端的な答えが返ってきた。
「仙氷が姫様に無礼を働いたとき、聖様がそれを止めたと聞いて不思議に思いました。普通の人間が仙氷を強引に引きはがすなどできませんので」
もしかすると、加護があるのでは……と凱は考えたと話す。
「手合わせのときに確信しました。本気になるのをためらっているようでしたので」
なぜ私に教えてくれなかったのかと不満に思う気持ちが顔に出ていたらしく、凱は「様子を見ることにしたのです」と苦笑いをした。
「今回姫様に護衛をつけなかったのは、聖様が姫様を守れると確証があったからです。まさかここまで連れてくるとは予想外でしたが……」
ちなみに、凱たちは背後から兵の隙を突き、指揮官を片付けるつもりだったらしい。指揮官がいなくなれば、風の加護を持つ者たちが兵をまとめて一掃する計画だったとか。
「血を流しては姫様が悲しむと思ったので、海に流してしまおうと思っておりました」
「大地と同じく、海もきれいにしてもらいたいんだけれど……?」
呆れた目で見つめる私に、凱は「人のやることはすべて自然の一部です」と堂々と言ってのける。
「さて、一度戻ってお話をいたしましょうか?聖様」
「…………あぁ」
聖様は緊張した様子で返事をする。
話をした結果どうなるのか、不安を抱いているの?
私は思わず彼の左手に自分のそれを重ねた。
聖様は、聖様だ。
どんな力を持っていても、怖いだなんて思わない。
聖様は、驚いた顔でこちらを見る。
「戻りましょう」
私は聖様の大きな手を引き、凱に続いて歩き始めた。




