今度こそ守りたい
祈りの間は、今日も静かで清らかな空気に包まれている。
代々の精霊姫は、ここで祈ることで大気の流れを調え、海や山の怒りを鎮めてきた。
「精霊神様、どうか我らをお守りください」
わかっている。
精霊神様にも、人と人の争いはどうにもできない。
だとしても、祈らずにはいられなかった。
さきほど、心彩の宮廷に使者がやってきた。
聖様の言った通り、こちらに向かっている兵は永家の手勢だった。
私は直接会わず、凱に言われた通りに控えの間から使者の様子を観察した。
彼らの要求は、今後の取引について代表者と話がしたいとのこと。「姫との謁見も」とついでのように要求され、別に会いたいわけじゃないけれどちょっとムッとしてしまった。
こちらを軽んじているその姿勢に、凱や武官らも苛立っていた。
ところが、さらにとんでもない要求がなされる。
「精霊族の民を買わせてくれないか」と。
これまで取引の品として挙がっていた織物や鉱石、薬草のほかに、彼らが欲したのは「人」だった。
なんておぞましいことを……!と怒りで体が震えたのは初めてだった。
商会を取り仕切る永烈は、最初からそのつもりだったのかもしれない。
全員が何らかの加護を持ち、他国の人間より強い体躯を持つ精霊族を手中に収めるつもりで……!
凱は使者に蔑みの目を向け、そして『断る』と即答した。
その場にいた皆が怒りを露わにし、仙氷はその手に炎まで出していた。威嚇にしてはかなり威力があり、おそらく半分くらいは本気で使者にぶつけるつもりだっただろう。
使者は転びそうになりながら走って逃げ去り、彼には密かに二人の見張りが付けられている。
今は、使者が接触した人物を辿って、向こうの指揮を執っている者を知るのが最優先だった。
──今すぐやり合うと海福の街に被害が出ますので、まだ様子を見るしかないのが悔しいですね。
凱は真っ先に指揮官を排除するつもりらしいが、上官がいなくなれば統制が利かなくなる。末端の兵たちが海福の街を荒らし、何の罪もない人たちに被害が及ぶのは避けたい。
本音を言えば、このまま泰仁に帰ってほしい。私たちは誰かを傷つけたいわけじゃなくて、ただ平穏に暮らしたいだけだから。
加護の力は、争いではなくもっとほかに使い様があるはずで……。
でも、「精霊族の民を買わせてくれないか」と言われた怒りはずっと胸の奥でくすぶっていて、人はこうして次第に憎しみに染まっていくのだろうと思った。
それに、世の中には決して分かり合えない人もいるということを、改めて思い知らされた気がした。
今日の祈りを終え、私はそっと祈りの間を出る。
大きな扉を開ければ、すぐ目の前の廊下に聖様の姿があった。
聖様は、茶色の装束に赤い腰ひも、それに初めて会った日に持っていた刀を下げている。
その姿から、凱に言われたまま引き下がるつもりはないのだと予感した。
「祈るのはもういいのか?」
「はい」
私は、彼の前で立ち止まる。
どうしてここで待っていたのか、聞くのが少し怖かった。
まっすぐに見つめることができず、視線を下げた私に聖様は言った。
「こんなことになる前に、話すべきだった」
重い空気に、私は何を言われるのかと不安になる。
「俺は、姫と結婚して添い遂げるつもりがないままここへ来た。時が経てば、去るつもりで……」
その言葉に、思わずパッと顔を上げる。
聖様は悲しげな目で私を見つめていて、まるで私が彼を傷つけたみたいだ。
「ここを出ていくおつもりだったのですか?」
「あぁ」
「…………そうですか」
言われてみれば、思い当たる節はある。
だって聖様は、一度も私との将来について口にしなかった。
今、本当のことを話してくれたのは責任を感じているからだろう。
「正直ですね」
聖様は、人間不信のわりにこういう生真面目なところがある。
悪人になど到底なりきれない、不器用な人。心根が優しいんだと思う。
私は、そんな聖様だから心を許してしまった。
一緒にいて欲しいと思ってしまった。「お金さえ手に入ればどこへ行ってくれても構わない」とは思えなくて、胸がじくじくと痛みを訴える。
「祖父が寄こした兵たちは、俺が責任を持ってどうにかする。仮にも婿候補という立場でありながら、勝手をすることを許してほしい」
「どうにかする、とは……?」
説得など通じないだろうし、聖様はご自分で「売り物だ」と言った。情に訴えかける余地もないはず。
戦うしかないのは明らかで、加護のない聖様にはそれは無理だと思った。
「私は聖様に戦ってほしくありません。そもそも責任があるとも思いません」
お金のために彼を王配に迎えようとしたのは、この私だ。凱の提案とはいえ、私が姫として決断したのだ。
「ここは私の国です。私が皆を守ります」
だから心配しないで、と必死に笑って見せる。
精霊姫の祈りは自然の力を操る。体に負荷はかかるけれど、兵が攻めてきても退けることはむずかしくない。
「聖様のことも、私が……!」
守ります、と言うより前に力強く抱きしめられた。
包み込まれる安心感に、心の弱い部分が声を上げ始める。
私は、敵とはいえ誰かを傷つけるのが怖かったんだ。
これまで二度も死んでいるけれど、人と争ったことは一度もない。自分には身を守るだけの力があるとわかっていても、実際に力を使えるかどうかは……。
自分がこれほど弱いとは思わなかった。
相手を憎いと思いながらも、傷つけることは怖い。憎しみのままに残酷になれたら、こんな気持ちにならずに済んだのに。
「私は、精霊族を守らなきゃいけないんです。がんばらなきゃ……」
今度こそ、皆を助けたい。
原因不明の病より兵を相手にする方が簡単なはずなのに、考えれば考えるほどに苦しくなった。
「がんばらなくていい。俺の方こそ、心如には戦ってほしくない」
「でも」
「俺には加護がある。だから俺が戦う」
「え……?」




