04. 『歪』
凶報はまた、スマートフォンが告げた。
驚いてスマホを取り落とす、などというベタなことをマジでやっていたらしい。そのことに気づいたのは、会社を飛び出して、何処へ向かえば良いのかわからなくなってようやくだった。どうやら鞄だけひっつかんで駆け出していたようだ。
と、そこで追いかけてきた同僚がタクシーを捕まえて、行先も告げてくれる。繋がったままだった通話相手と話して、上司にも事情を説明してくれたらしい。
礼も言っていないことの気づいたのは、タクシーが走り出してからだった。
道中の記憶はほとんどない。まるで過程を飛ばして結果だけ見せられたように、オレは其処にいた。
ベッドに横たわり、顔に白い布をかけられた娘の前に。
娘、なのだという。もう動かないソレが。
まだ中学に上がったばかりで、反抗期も親離れもまだの娘が、交通事故に遭って……こう、なったのだと。
鞄の中身を探る。途中からもどかしくなって、中身をぶちまけた。同席した病院関係者には、気がふれたように見えたかもしれないが、そんなことには構っていられなかった。
文庫本。お気に入りの作家の、読み返していたシリーズものが、床に落ちる前に摑む。ページがくしゃくしゃになるのも、破れるのも気にせずに乱雑にめくって、好きな絵描きの作品が描かれている『栞』を手に取った。
『本当にやり直せるとしたら、やり直しなんてしない。したくない。』
いつか、自分に向けて言った言葉だ。
……オレは、
「やり直さずに、いられるかよ、クソッタレ」
手の中の『栞』を、破り捨てた。
★
次の瞬間には、オレは会社で、自分の席に座っていた。
慌ててスマホを確認する。着信履歴は――登録されているものだけだ。例のあの……なんだろうか、病院関係者だか警察関係者だかからの着信は、無い。
――白昼夢?
それにしてはリアル過ぎた。掌には未だ、文庫本のページがくしゃくしゃになる感触が、とそこまで考えて、オレは急ぎ鞄から文庫本を取り出す。
パラパラとページをめくる、が、無い。
挟んであったはずの『栞』が、何処にも無かった。
「オイオイ、なにサボって……って、お前顔色ヤバイぞ?」
軽口をたたきかけた同僚が、途中から声のトーンを真面目なものに変えて、労わってくれる。オレはさっきの、おそらくは無かったことになったのであろうタクシーなどの件も含めて、ありがとうと告げる。
「お、おぅ。なんか大げさな気ぃすっけども」
都合が良かったので、体調不良ということにして会社は早退させてもらった。実際、体の調子は良くはない。ふらふらと会社を出て、オレは慌ててタクシーを拾う。時計を確認し、娘の通う中学の名前を告げた。着く頃には、学校が終わるくらいの時間だろう。
移動中に一応、念のために、もう一度鞄の中も含めて『栞』を探してみたが、やはりそれは何処にも見当たらなかった。
時間が、巻き戻ったのだろうか。そもそもオレが『栞』を破った時は何時だった? 動揺していたからか、ひどく記憶があやふやだ。
今もこう、ふわふわと地に足がつかない感覚がつきまとっている。
タクシーを降り、おぼつかない足取りで校門へ向かう。思考がまとまらない。娘の学校に着いて、それで、どうするんだ? 考える時間なんて、車中にいくらでも転がっていただろうに。
真昼間から、酔っ払いのようにふらふらと歩くスーツ姿のおっさんは、不審者以外のなにものでもないだろう。そんなどうでも良い思考が、頭の中で空回る。
学校は、その門は、すぐそこで……
目が、合った。
その次の瞬間には駆け出していた。名前を呼ぶ、いや叫ぶ。途中で足がもつれ、抱きしめる、というよりは抱きつく、といった感じになった。
「え、なにコレ、痴漢?」「通報……」
娘の友達らしき女の子が口々に言うのに、娘が「いやいや、父さんだから」と苦笑する。どことなく、アイツにも似た口調で。
「アンタあの一瞬で良く見わけついたわね」
「え? 匂いでわからない?」
思わず身を離そうとするオレを、娘が逃がさないとばかりに抱き寄せる。うわぁ、とドン引きしている友達に冗談だと笑っている娘の言葉をどこまで信じて良いものやら。
「――それで、どうしたの、父さん?」
娘の腕を振りほどけなかったのは、その体温のせいだ。あの時の娘が、冷たくなっていたのかどうかなんてわからないが、生きていることを雄弁に伝えてくれる温かさが、安堵と共に離れがたさを与える。
正直、さっきの匂いがどうこうとかいう悪ふざけ(だと思いたい)がなければ、恥も外聞もなく泣いていたかもしれない。
「悪い夢でも見た?」
――あぁ。最悪の、未来を見て来た。
なんて答えるわけにもいかず、ただただ抱きしめる力を強くするオレの背を、娘の小さなてのひらがあやすように優しく叩く。
「しょうがないなぁ、父さんは。大丈夫だよ、わたしは、ずっと一緒だから」
左耳に注がれる言葉が、ひどく熱い。
「うっわ……」「なに、アンタって、ファザコン?」
「娘が父を慕うのは当然のことだと思うけど」
「どう考えても『娘』の顔じゃなかったでしょ……」
見えもしなかったその顔が、オレにはありありと想像できた。きっとあの、とろけるような至福の笑みを浮かべていたことだろう。
アイツと同じ笑みを、アイツと同じ顔に。
オレはどちらかというと、娘よりも娘の友達の方に同意したい気持ちだったが、今のザマで言っても欠片も説得力は無いだろう。
これが、一度目の記憶だ。
こんなことはもう二度としたくないとは思うものの、それでもオレは、文庫本にアールヌーボーが描かれた『栞』を挟むことをやめられなかった。
ある種の依存症のようなものだったのかもしれない。
二度目の岐路は、娘が足を怪我した時だ。
動かない、という程ではないが、完治はしないと言われた。杖が手放せないとまではいかないが、激しい運動は無理だろうと。
大泣きする嫁を前に、困ったように笑う娘の姿を見て。それでも、オレは……『栞』は、使わなかった。
不自由になっても、死ぬわけじゃあない。安易に奇蹟に縋るのは、ダメだ。命にかかわる事態になれば、またオレは我慢できないだろうと思う。
それでも。これ以上、時間遡行のハードルは下げないと決めた。
――決めた、のに。
また娘が怪我をした。今度は障害が残るようなものではなく、うっすらと痕が残るくらいのものではあった。
たいしたことはない。
場所が、顔でさえなければ。
娘が、女の子でさえなければ。
顔に傷痕が残ったくらいでひとは死なない。娘は強い子だ、これくらいのことは乗り越えてくれる。そんな、自分勝手な信頼は、一滴の涙で打ち砕かれた。
この子が泣いているところなんて、初めて見た。
掌で傷痕を隠し、オレと目を見合わせて、微笑む。その頬を、すーっと涙が伝った。声を上げることもなく、ただ静かに流された涙に、オレは。
★
……使ってしまった。
命にかかわるようなことではなかったというのに、インスタントな奇蹟に頼ってしまった。そして一度ハードルを下げてしまえば、もう歯止めは利かなかった。
続けてもう1枚、足の怪我もなかったことにする。
★
4枚目は、娘が可愛がっていた猫がいなくなった時に使った。
★
ねじれていく、歪んでいく。
奇蹟の価値が、どんどん下がっていく。
★
娘が大学受験に失敗した。
その頃にはもう、外見ではアイツと見分けがつかない姿に成長していた娘が、静かに涙を流す。この子はいつだって、声を上げずに泣く。
意識すらせずに鞄を探っていた自分に気づき、ぞっとする。
なんだ、これは。過去改変を否定しておきながら、その力を手にした途端にこれか。まるでゲームのリセットボタンでも押すように簡単に、なんの躊躇も葛藤もなく、こんなことを行ってしまえるのか。
これは、ダメだ。
オレは、ダメだ。
オレは『栞』を受け取ってから初めて、文庫本に挟むのをやめた。封筒に戻し、残り6枚は本来受け継ぐべきあの子に渡すことに決める。
本当に背筋が凍ったのは、その時だ。
――5枚、だった。
封筒の中身が、今戻したものも含めて、5枚しかなかった。
なんの意識もせずに、息を吸って吐くように、オレは5回目の過去改変をしたのだろうか。記憶にも残らないような、ささいなことのために?
正直、こんなものを娘に背負わせるのはどうかとも思う。
それでも、使う権利があるのは、オレではなくあの子だから。
18になったら、実の親のことを話そうというのは、ずっと前から嫁とふたりで決めていたことだ。受験前に心を乱すのもどうかということで、先延ばしにはなっていたが、落ち着いたら話すつもりだ。
その時に、オレがひとりで抱えている『栞』のことも、また。
家から通える第一志望はダメだったものの、第二志望には合格し、娘はひとり暮らしを始めることになる。その時に、オレたち夫婦は娘の生まれについての真実を語った。
「血の繋がりが無いだけで、ここがあなたの家なのは変わらないし、わたしたちは家族よ。ただ、生みの親のことも知っておいてほしかったの」
嫁に抱きしめられた娘は、オレを見て、過去最大級に幸せそうな笑みを浮かべた。家族の絆に安堵している、ということだろう。そのはずだ。
例の『栞』だって、賢いこの子は巧く折り合いをつけるはずだ。
なのに。何故、こんな不安を覚えるのだろう。
父さんからも渡したいモノがあると呼び出しておいて、土壇場になって迷うのは……きっと、この子に『奇蹟』を押し付けてしまう罪悪感か。
詳しくは説明せずに、実母の形見だと言って『栞』を譲渡する。
「お守りみたいなモンだ。使い方は、」「知ってる」
は? と、間抜けな声が出た。
「少し前に1度、父さんが交通事故に遭った時に使ったから」
至福の笑顔でそう告げると、娘は、残る5枚全てを破り捨てた。
★
未だ、悪夢にうなされる。
大事な家族を、喪った過去に。
そんな時は決まって、若く美しい妻が優しく抱きしめてくれる。
「しょうがないなぁ、あなたは。大丈夫だよ、わたしは、ずっと一緒だから」
抱きしめて、キスをして、真っ直ぐにこちらを見つめて、微笑みかけてくれる。
……ふと、違和感を覚えた。
妻は、こんなふうに笑うひとだっただろうか。温かい、どころではない、熱い、と表現してもまだ足りない、とろけるようなその笑顔を、どこかで……
耳元で、誰かが囁く声が聞こえた気がした。
――言っただろう? 欲しいものは、手段を選ばずに手に入れる主義なんだ。
狂気症状:幻覚あるいは妄想。娘を死んだ妻だと思い込む。
『キミの理想はとても美しい。それが歪んでいく様はたまらなく愛おしい。そして、どうしようもなく壊れてしまったキミのことを、ボクは心から愛しているよ』