03. 宇宙人の娘
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『近々死ぬことになったから、キミには伝えておこうと思ってね』
受話器の向こうの声は、そう言った。
時にはサシで、時には嫁も交えて、酒を酌み交わす。あの日、例の自称宇宙人と嫁とを引き合わせて以降、気づけばそれは当たり前の日常になっていた。
阿呆なことばかり言うヤツではあったが、なんだかんだでこの腐れ縁は長く続いていくものだと、小学生のガキみたいに無邪気に信じ切っていた。
そんな時に来たのが、先の着信である。
いったいいつ番号を交換したものか、嫁のスマホに連絡があり、代わって第一声がアレだった。
「…………それ、お前、今まで聞いたたわごとの中でも最悪だぞ」
すぐには言葉が出てこず、オレはバカみたい口をぱくぱくさせていたらしい。後に嫁がそう教えてくれた。
彼女自身の語り口は、もっと迂遠で、気遣いに満ちたものだったが。その遠回りな優しさも、オレはあの宇宙人の直截さと同じくらいには気に入っている。
『そうかい? でも事実だ、今回も』
軽い調子でソイツは言う。オレは、ひどく、のどが渇いていた。
「時間遡行はどうしたよ、宇宙人」
『試したよ、勿論。けれど、ボクが死ぬ未来を枯らすことはできなかった。この身体の生存限界――所謂寿命というものだろう』
冗談みたいに淡々と、その宇宙人は自分の死を語る。
「……せめて母星に還るとか言いやがれよ」
『あぁ、あそこにはもう還れなくてね』
「そういうことじゃねぇよ」
『うん? じゃあ、どういうことだい?』
「嘘も方便とか、言うだろう」
『ボクはキミに嘘なんてつかないよ』
――自称宇宙人のタイムリーパーが何言ってやがる。
そんな軽口は、何故か声にはならなかった。コイツのたわごとなんて、ひとつも信じちゃいないのに。
死ぬ? コイツが? 冗談だろう?
『それで……あぁ、この続きは彼女にも一緒に聞いてもらいたい。スピーカーモードにしてもらって良いかな?』
思考停止状態で、言われるままに変更し、嫁に「一緒に聞いてほしいらしい」と声をかけた。
『キミたちに頼みがあるんだ』
スマホから響く声に、なんだよ、と言葉を返す。
『ボクの娘を育ててほしい』
「「はぁ!?」」
夫婦そろって、声を裏返らせた。
「お前、そういう相手いたのかよ?」
『おや、やきもちかい?』
「ンなわけねー」
『それは残念。でも安心して良いよ、単為生殖みたいなものだから、相手はいない。ボクはキミ一筋だ』
「うっわ、安心できる要素がねぇ」
単為生殖ってなんだよ。微生物か。
二度目の衝撃に、ついついいつもの調子でやり合ってしまったが……そこでオレは嫁と視線を交わす。
どうやら、彼女も同じ結論に至ったらしく、深刻な表情をしていた。
女性だけで子どもができるわけがなく、そうだと言い張りたいということは、などと考えれば考えるほど、ろくでもないシナリオしか見えてこない。
無理やりそういうことをされたのだとしたら、自分の手で育てることに不安を覚えるのも納得だ。堕ろす、という選択だって簡単ではないだろう。
オレが嫁に頷きかけて、嫁はオレに頷き返す。
「わかったよ」
声に出しては、オレが答えた。
『え、嘘。いいの?』
「いやなんで意外そうなんだよ」
『いや、だって。かなり無理なお願いしてる自覚はボクにだってあるんだ。だからこれからいろいろと説得材料を出していくつもりだったのに……』
「友達が困ってたら助けるもんだろ」
暫しの沈黙の後、電話越しに熱っぽい吐息が聞こえた。
『……あぁ、もぉ。キミはどれだけボクを惚れさせるつもりだい?』
「口説いたつもりはねーぞ」
『つもりがなくてこれなんだから、キミも罪作りだよねぇ』
……ところでそこの奥さん、なんでしかつめらしい顔でうんうん頷いてんですかねぇ? 解せぬ。
『じゃあ、こっちも一気に言うよ。ボクからキミたちにあげられるもの――まずは現金。遺産でも養育費でも、好きに呼んでくれたら良い。充分な額だとは思うけれど、不足だった場合に備えて、もうひとつ用意した』言葉を選ぶように、少しだけ間を置いて『そうだね、キミには『栞』と言えば伝わるかな? それを10枚』
クスクスと、可笑しそうに忍び笑いを漏らのを、嫁は怪訝そうな、オレは嫌そうな顔で聞く。
「……『栞』、ね。」
確かに、伝わりはした。『栞』というのは、ソイツの時間遡行の設定を聞いた時に、オレが例えて言った言葉だった。
『まぁ、あくまでもしもの時のための備えだよ。ついでに言うと、少し意地悪な好奇心もある。『奇蹟』が自分の手の中にあっても、キミはそれを拒絶し続けることができるのか、という』
それは随分悪趣味な好奇心だ。
「――預かっといてやるよ。再会した時に突っ返すために。だから自殺なんてすんじゃねぇぞ、絶対に」
子ども関連の顛末が想像通りだとしたら、近々死ぬ、という言葉の意味も変わって来る。けれど、そんなのは認められない。
『……キミは、本当に、』そこで言葉に詰まるアイツに、
「素敵でしょ?」嫁が言い、
『素敵だね。』アイツが答える。
「……褒めてもなんも出ねーぞ」
『出てるじゃないか、照れ隠しの軽口が』
反射的に通話を切りそうになった。負けを認めるみたいで悔しかったからやめたけども。コノヤロウ。
『うん、わかった。ボクは自殺なんてしない。それは約束する』
含みのある言い回しではあったが、オレはそれで納得しておくことにした。別の死因について掘り下げると、コイツのたわごとを認めることにもなりかねない。
よくよく考えてみれば、厄介な病気が見つかった、というシンプルな結論があったのだが、思考をそちらに向けなかったのは、ソイツが死ぬということを現実として認めたくなかったからだろうか。
そこから先は、急展開というべきか、超展開というべきか。
まず充分な額だと思う、などと言っていた養育費に関しては、とんでもない。充分どころの騒ぎではない、一生遊んで暮らせる程の額が用意されていた。
……家付きで。
諸々の手続きのために弁護士まで雇われており、オレのやったことといえばサインと捺印くらいのものである。書類の内容確認はクソ面倒くさかったが。
養子縁組も、拍子抜けするほどあっさりと片付いた。
過剰な奉仕に文句のひとつも言ってやりたかったが、あの電話以降、アイツの姿を見ることはおろか声を聞くこともなかった。
ふっつりと姿を消した自称宇宙人に指定された家――その時はそれがそのまま譲渡されるとは思ってもみなかったが――に居たのは、ベビーベッドに寝かされた赤ん坊だけだった。
ぞくりとした。
――アイツは、いつこの子を産んだ?
出生届の日付は、ほんの数日前になっていた。
最後に会ってからまだひと月と経ってはいない。妊婦の腹ならさすがに気付く。服装でごまかすにしたって限度があるだろう。
けれどオレに怖気を感じさせたのは、そんな非現実ではなかった。
其処に、実在する、赤子だ。
その子がオレを見て笑う。とろけるような至福の表情で。
可愛い可愛いとはしゃぐ嫁の声が、ひどく遠い。
オレの意識はただただ、赤ん坊が浮かべた笑顔にだけ向いていた。
その子の母と、寸分たがわぬ笑顔にだけ。
本当の母親はアイツではないのでは、などという考えを一瞬で吹き飛ばしてしまった、美しいのになぜか悍ましいと感じる表情だ。
オレにはもう、この子とアイツの血縁を疑えない。赤の他人なわけがない。親戚の子、というのも違うだろう。実の親子だとしても似すぎなくらいなのだから。直接的な血のつながりは最低限あってしかるべきだ。
だったら。だとしたら。アイツは……コイツは、なんだ?
妊娠期間があったとは思えない出産と、姿を見せないアイツ本人と。正体不明の恐怖はあったが、約束を違える理由には足りない。
薄気味の悪さはあるものの、オレはその子の父になることを決めた。いや、とっくに決めていたことを、覆さないと決意した。
問題はあの阿呆が用意したとんでもない額の養育費だが、嫁と相談して可能な限り手をつけないことにした。この子が成人したら、なるべくそのままに近い状態で渡してやりたいと。
そしてこれは嫁には相談できなかったことだが、『栞』もだ。
それは傍らのテーブルに、封筒に入って置かれていた。オレが先に見つけたのはまったくの偶然で、たまたまついた手の指先がそれに触れたからだったが……なんだろう、見えざる手に誘導されているような、薄気味悪い肌触りがあった。
もっともそれは封筒の中身を見て、一瞬で脱力に取って代わられるのだが。
入っていたそれは、本当に栞だった。怪しい図案や呪文の類が描かれているわけではなく、描いてあるのは某アールヌーボーの大家であるアルフォンスさんの絵だ。オレが好きだと言ったのを覚えていたのだろうか。アイツもなかなか洒落たマネをする。
などと思ったのも一瞬で、一緒に入れられていた取説を読んだオレは、改めてヤツの趣味の悪さを実感するのだった。
書かれていた『栞』の使用方法は、破ること。
好きな画家の絵を破らせるということもそうだが、不用意に処分することもできないというのが最悪だ。
――ま、コレはお守りみたいなもんだな。
オレは『栞』の宇宙人的設定を嫁には伝えなかった。別にアイツの言い分を信じているわけでもなかったが、これから子育てをするのだ、余計な心労は無いならその方が良いだろう。
その日以来、オレが使う栞はその『栞』になった。絵柄は全部違っていたので、その時々の気分で選ぶ。元々紙の本が好きだったオレは、いつも一冊は持ち歩いていたのだ。
それからの生活は、特筆すべきことはない。本当に、驚くほどに何も無かった。
娘になったその子は、手のかからない……というか、手のかからな過ぎる子だった。子育てなんて初めての経験だが、夜泣き、などという言葉があるのだ、赤ん坊というのは昼夜問わず泣き声をあげるものではないのだろうか。
だというのに、その子はほとんど泣かなかった。どころか、こちらの言っていることを全て理解してでもいるかのような理知的な目をしてる――そんなことを考えて、苦笑する。
親バカを発揮するにしても早すぎるだろうと。
言葉を覚えるのが早かっただとか、そんなものは親の欲目というやつだ。
神童も長じればただの人だという。天才が天才であり続けることなど、それこそ奇蹟の確率だ。まぁアイツの娘なら、紙一重な感じにはなりそうだが。
オレと嫁の間には、あいにくと子ができることはなかったが、友人の子との生活は本物の家族と変わらぬものだった、と、思う。
ひとり娘が、必要以上に父親に懐くのも、まぁ良くあることだろう。
大きくなったらパパのお嫁さんになる、などという発言も、幼少期限定のものに決まっている。その子が成長するにつれ、アイツの姿に近づいていくのも、親子なのだから当然のことだ。
――気のせいだ。
とろけるようなその表情に、冗談では済まないような熱が籠っているなんて。