1-8 影に踊る隠者達 其之一
吸血鬼との闘いから一晩明けた午前。
仕事が無ければ大抵昼過ぎまで惰眠を貪るヘイズであったが、今日に限っては珍しく外出していた。
イーグレット治療院に運ばれたアルフォンスを見舞った帰りである。今朝方、意識を取り戻したという連絡が入ったのだ。
昨晩はあれから大変だった。
治療院でアルフォンスの無事を確認した後、ホーキンス夫人やフランツに連絡。事情を説明する羽目になったが、まさか噂の吸血鬼に襲われた、などと言えるはずもない。なので道端に倒れている所を助けたのだと誤魔化し、何とか納得してもらった。
医者の診断によると、典型的な霊素欠乏症で、命に別状はないとのことだった。
目を覚ましたアルフォンスの顔色は完全に復調した様子ではなかったが、思いの外元気そうだった。貿易商として各国を飛び回っているだけの事はあり、体力は人並み以上にあるらしい。
昨晩のことをそれとなく訊ねてみると、彼は『カメリア』を去って以降のことは何も覚えていなかった。首に穿たれた咬み痕も消え失せていて、吸血鬼に襲われた事実など端から無かったかのようであった。
恐らく、治療院に運ぶ前にセリカの仲間が口封じを目的に催眠の魔術でも施したのだろう。一般人相手であれば、記憶の忘却など容易いことだ。
人道的にどうかという問題はさておき、処置としては妥当だと思っている。怪物に襲われ、血を啜られるという記憶など、さっさと忘れるに越したことは無い。
「とは言え、まだ問題は残っている訳だが……」
相変わらず雲に覆われた空の下、ヘイズは今後の事に思案を巡らせる。
巷を騒がせる吸血鬼の正体は、自動人形であった。
機械である彼らが自然に動き出したとは考えられず、となれば命令を与え、街に放った何者かがいるのは間違いない。
アルフォンスが襲われた以上、ヘイズにとっては最早他人事ではなくなってしまった。
だから、元を断つ必要がある。これ以上、自分の日常を脅かされないためにも。
一先ず手は打ってある。早ければ、今日にでもシャロンから連絡が来ることだろう。性格はともかくとして、仕事振りに関しては全幅の信頼を寄せている。
それまではゆっくりと英気を養うとしよう。
何せ昨日は昼も夜もトラブル続きで、流石に疲れた。読まずに積み上げていた書籍が幾つかあるので、その消化に時間を充てて良いかもしれない。
そんなことを考えながら、ヘイズは『カメリア』の扉を押し開ける。
「ただいま戻りました」
日中帯なので客入りはまばらで、夜と比較すれば落ち着いた雰囲気が店内に流れている。
ふわりと香るコーヒーや料理の香りに、何となく安心感を覚えるヘイズであった。
「おう、帰ったかヘイズ。お前に客が来てるぞ」
「客……?」
店に入るなりフランツからかけられた言葉に、ヘイズは首を傾げた。
誰だろう。仕事の依頼であれば大抵の場合シャロンを仲介するし、そもそもこの街に知り合いは然程多くない。よって、ヘイズを直接訪ねて来る者など限られているのだが……。
加えて、いつも無愛想なフランツや、他の常連達の表情が妙ににやけているのも気になる。
訳もなく、嫌な予感がした。
件の客人は、カメリアで最も奥のテーブルに通されていた。
入口からも遠く、他の座席とも距離が開いているため、落ち着いて過ごしたい時にはうってつけの位置である。
そこに座していた人物を視界に捉えた瞬間、ヘイズは絶句した。
嫌が応にも目を惹きつけられる、透き通るような白金の髪と深い紫水の色を宿した瞳。
思い起こされるのは、昨晩のことだ。自分を殺そうとした相手に窮地を救われるという、色々な意味で忘れられない奇妙な出会いの記憶。
「ごきげんよう、ヘイズ。昨夜振りですね」
言葉を失くすヘイズに対し、セリカ・ヴィーラントは悪戯っぽく微笑みかけるのだった。
◇◇◇
「……」
ひたすらに、無言。
セリカの対面に座したヘイズであったが、眉間にしわを寄せたまま一言も発さない。
普段から愛想に欠けている事は自覚しているが、今は輪を掛けて酷いことになっているだろう。
理由は単純。目の前の女に、穏やかに過ごすはずの昼を台無しにされたためである。加えて、
「おいおい、偉い別嬪さんじゃねぇか。ヘイズのツレか?」
「えー、そうかなぁ?だってヘイズちゃんの顔、あれ本気で嫌がっている感じだよ?あの仏頂面をあそこまで崩させるなんて、よっぽどの事情があると見たね!」
「となると痴情のもつれですかね?やれやれ、拗れる前にマスターや我々に相談しなさいと、あれ程言っておいたのに……」
といった具合の、ひそひそと囁き合う外野の声がうるさいうるさい。
じろり、と一睨みすればそそくさと視線を逸らすものの、それでも尚聞き耳を立てたままなのがありありと伝わってくる。
はっきり言って、居心地が悪いことこの上なかった。
おまけに同じく好奇の視線の的となっている片割れと言えば、どこ吹く風とばかりに優雅にコーヒーを楽しむ始末。
「まあ、美味しい。私、コーヒーは余り嗜まないのですけれど、これは病みつきになってしまいそうですね」
「嬉しいこと言ってくれるじゃねぇの。ああ、良かったらスコーンなんかも一緒にどうだい?サービスしとくよ」
「よろしいのですか?では、お言葉に甘えて」
基本的に女性には優しく、男には厳しくをモットーとするフランツは、セリカの華が咲くような笑みにもう鼻の下を伸ばしっぱなしだ。
なるほど、その気持ちも分からないでもない。
セリカの見てくれは確かに良い。シャロンを始め、それなりに女性の知り合いがいるヘイズだが、その中にあっても際立っている。
悔しいがそれは認めよう、だがしかし。
その実態は喜々として人に斬りかかるアレな人物であり、更には何か得体の知れない組織に所属しているというおまけつきだ。
薔薇に棘ありとはよく言うが、彼女の場合は触れれば切れる刀剣の類である。
何故自分の周りにはこう、癖のある女性が多いのだろうかと、しみじみと思わずにいられない。
一しきりの談笑を楽しんだフランツが席を外した所で、ヘイズはようやく口を開いた。
「……とりあえず、幾つか聞きたいことがある」
「ええ、どうぞ?」
「まず一つ。何故俺がこの店に滞在している事を知っている」
「それは勿論、人から聞いたからですよ」
「……誰から?」
「貴方のよく知る骨董品屋の店主です。初めは渋っていたのですが、最終的に快く教えてくださいました」
ヘイズは頭を抱えたくなった。
脳裏に「ごめんネ」、と紙幣を握って舌を出すシャロンの姿を幻視する。
彼女は報酬と引き換えに、あらゆる品を提供する闇商人。当然、"情報"だって売り物に含まれている。
誰に対しても平等な商売を貫くそのスタイルは重々承知してはいたけれど、それはそれとしてあの魔女はいつか絶対に泣かす。
内心でそんな昏い決意を固めつつ、気を取り直して質問を続ける。
「次、昨日の今日で一体何の用だ。口封じでもしにきたか?」
昨晩から今に至るまでの経緯を見るに、どうもセリカの所属している組織は、吸血鬼のことを余り表沙汰にしたくないようだ。
そうでなければ戦闘の痕跡の抹消や、被害者の記憶の改変といった手間を態々かける必要はない。
つまり今巷に知れ渡っている内容は、事件のほんの表層に過ぎないのだろう。実際の被害者は恐らくもっと多いが、市民達の耳に入らないよう、ああしてセリカ達が隠蔽工作に奔走しているという訳だ。
となると朧げではあるが、セリカ達の立場も窺い知れる。
大なり小なり、起きてしまった事実を隠すのは容易ではない。にも拘らず、それを可能としている時点で、相応の力を持った組織であると察せられる。
何ともきな臭い話になってきた。予想に反して、この『吸血鬼事件』は根深い問題なのかもしれない。
かといって、今更二の足を踏むことはないのだが。
しかし、そうなると問題になるのはヘイズの存在である。
巻き込まれたとは言え、立派な当事者だ。アルフォンスの例に倣えば、ヘイズにも何らかの処置が施されるのだろうか。
「さて、それは貴方の返答次第といったところでしょうか」
そこでセリカは言葉を区切り、こちらを真っ直ぐ見据える。表情は全く変わらないが、視線にこめられた温度が数段下がったのを、ヘイズは明確に感じ取った。
「昨晩のこと、一人で調べるつもりなのでしょう?」
大分ぼかした言い方だったが、ヘイズには明確に伝わった。
吸血鬼事件の犯人、いや黒幕を突き止めるつもりなのかと、彼女はそう問うているのだ。
「それもシャロンさんから聞いたのか?」
「私と彼女が接触している時点で、ある程度察しがつくでしょう?」
ヘイズの内側で思考が冷たくなっていく。手助けされたという事実を凌駕して、密やかに敵愾心が湧き上がる。
「つまり、余計なことはするなと、釘を刺しに来たって訳か?」
「別にそんなつもりはありませんよ。とは言え、あくまでも一市民に過ぎない貴方が、これ以上関わるのはお勧めできませんね」
「だからどうした。お前たちにはお前たちの事情があるんだろうが、それはこちらも同じことだ」
セリカの雰囲気が更に変わった。肌を粟立たせるような殺気がその美貌に宿る。
「……私が力尽くで止めるとは思わないのですか?」
「……やれるものならやってみろ」
そうしてヘイズとセリカは睨みあう。
彼女の恐ろしさは昨日の時点で身に染みている。だが、ここで退いてやる気は毛頭なかった。
両者の間に流れる緊迫感は、まるで破裂寸前にまで膨れ上がった風船だ。今にも矛を交え始めたとしても可笑しくない程に張り詰めている。
だが、それも一分と経たずに終わることとなった。
セリカの方がふっ、と安堵したように表情を和らげたのである。
「良かった、その様子なら大丈夫そうですね。ではこの後少し時間を貰えますか?貴方に会わせたい人がいるのです」
余りの急転ぶりに、ヘイズは面食らってしまう。そんな彼を尻目に、セリカはコーヒーの代金を机上に置いて、きびきびと立ち上がる。
(……まさか、試したのか?俺が折れるかどうか)
口振りからしてそうとしか考えられない。
けれども相変わらず目的が分からなかった。のらりくらりと真意を悟らせない振る舞いは、宙を舞う落ち葉の様に掴み所が無い。
食えない女だ、とヘイズは内心でひとりごちる。
「何をしているのですか、ヘイズ。行きますよ」
ヘイズを連れていくのはもうセリカの中で確定事項のようだ。昨晩に引き続いて発揮されるマイペースぶりに、僅かながらの抵抗を試みる。
「……俺の都合はまるっきり無視か」
「今日は魔導士としての仕事は何も入っていないと聞いています。そして、そういう日は大抵酒場で自堕落に過ごしているとも。であれば問題ないのでは?」
「……」
ぐうの音も出ないとはこのことである。どうも口先の勝負は向こうの方が上手らしい。
やりこめられている様を面白そうに眺めてくるフランツ達を鋭く一瞥し、ヘイズも渋々席を立つ。
「それで、俺をどこに連れていく気だ。行先ぐらいはちゃんと教えてくれ」
店を出ながら訊ねると、セリカは振り返り微笑みながら答えた。
「私が所属している結社のオーナーの所ですよ」
◇◇◇
「……なあ、お前たちのオーナーの元に案内すると言っていたよな」
「はい、確かに言いましたね」
「……じゃあそれを踏まえて聞くが。何故、俺たちはこんな所にいる」
頭上には目もくらむような光の洪水を溢れさせるシャンデリア。その下を彩る色合いに富んだ調度品の数々。
スロットやルーレットが回転し、ダイスが宙を舞う度に、熱狂的な悲鳴と喝采が飛び交う。
そこかしこに置かれた卓上ではディーラーが巧みな手つきでトランプを繰り、揃いの制服を着た給仕達が満面の笑みを浮かべながらカクテルを配り歩ている。
絢爛豪華という言葉が、これ程までに相応しい空間は他にないだろう。
誰も彼もが一時の夢に胸を躍らせ、時に苦汁を嘗め、時に勝利の美酒に酔い痴れる。そんな悲喜交々が入り乱れる賭博の園。
『カジノ・アヴァリティア』。それが、このマルクト最大の規模を誇る賭博場の名である。
「ここに足を運ぶのは初めてですか?」
「いや、何度か来たこと自体はある。相変わらずの賑わい振りだな」
都市内外にその名を馳せるこのカジノは、市民だけでなく観光客もこぞって訪れる。
そのため昼間だと言うのに、ホール内にいる人の数は尋常ではない。油断していると、すぐにセリカとはぐれてしまいそうだった。
「確か、奥のホールに行くほどレートは高額になっていくんだったか」
「ええ、貴族や商会長の方などは主にそちらの方でゲームを楽しんでらっしゃいます。この辺りはどちらかというと、一般客向けですね」
客達とすれ違いながら、ヘイズは側の遊技台にちらりと視線をやる。
丁度ルーレットが止まるタイミングだった。
勝ち続けて天狗になったらしい客が、高配当の二点賭で見事に負け越し、頭を抱えている。
無慈悲に没収されていくチップの山。一般人向けのフロアですらこれなのだから、奥の方ではきっと想像だにしないような金額でゲームが行われているのだろう。
賭博の種類はトランプやルーレットといった王道から、地方由来の独特なものまで揃えられており、ホールの隅には休憩用のバーラウンジまで完備されている。
マルクト最大のカジノの面目躍如といった所か、遊興施設としての充実ぶりは流石の一言に尽きる。
「で、さっきの質問に戻るんだが。何で俺をここに連れてきた?」
「それは勿論、ここが我々の本部だからですが?」
「…………えぇ」
なんのけなしにセリカが言い放った事実に、ヘイズは思わず頬をひくつかせた。
話によると、正確には結社の資金源として経営している施設らしい。そのため、従業員の半数位は結社に参画しているのだとか。
実の所、結社がそういった目的のために事業を起こすという話は珍しくない。だが、まさかこの賭博場もその一つだとは予想だにしなかった。
「ということは何だ、お前もディーラーとかするのか?」
「いえいえ、私は所詮素人ですから。用心棒として控えているのが精々です」
壁際には黒服を着た者達が影法師のごとく佇み、イカサマやチップの盗難といった問題を客達が起こさないよう目を光らせている。
よくよく見てみれば、その中にはヘイズが昨晩、アルフォンスの搬送先を尋ねた男の姿もあった。
なるほど、ここが結社の本拠であるというセリカの言は確からしい。
そうして人の波を掻き分けて、二人は現金とチップを交換する受付を訪れる。
するとカウンターの中に姿勢よく立っていた男は、セリカの姿を認めるなり、折り目正しく一礼した。
「これは、ヴィーラント様ではありませんか。本日はどういったご用向きでしょうか?」
「オーナーに会いに来ました。例の客人を連れてきたと、そう伝えてください」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
男は頷き、手元の受話器を取った。電話は直ぐに終わり、右手側の従業員用の通路に向かうよう促される。
その先にあった昇降機に乗り込んで、辿り着いたのは賭博場の最上階。採光用の天窓が照らす廊下は、先程までとは打って変わって静やかで、ある種厳かな雰囲気すら感じられる。
そうしてセリカとヘイズは、とある一室の前で立ち止まった。
目の前には、重厚な木製の扉がそびえている。
「失礼します、オーナー。件の彼を連れてきました」
ノックの音がやけに響く。
しばし間を空けて、中から「どうぞ」と声が返ってきた。セリカを先頭に扉を潜る。
そこは質素な造りの部屋であった。一部の隙も無く詰め込まれた書棚と、それに囲まれるようにして鎮座するマホガニー製と思しき執務机。部屋の片隅には黒革のソファが向かい合うようにして置かれている。
目に付く調度品の類はそれくらいで、ともすれば殺風景とすら言える程、無駄のない空間であった。
「やあやあ、態々来て貰ってすまないねェ」
ヘイズ達が入室すると同時に、机に座していた人影が立ち上がる。
眼鏡をかけた老人だった。
身にまとう衣服には皺一つなく、白の混じった銀灰色の髪は丁寧に撫で上げられている。聡明さを感じさせる顔付きも相まって、学び舎で教鞭をとっていたとしても何ら違和感を覚えまい。
対照的ににこやかな笑みは茶目っ気が滲んでおり、一見すると気さくな老紳士そのものといった風体である。
しかしながら眼鏡の奥にある双眸は、こちらを値踏みするような油断ならない色を帯びていた。
率直に、胡散臭い。
それがヘイズが老人に対して抱いた第一印象であった。
そんな評価が下されいてることなど露知らず、老人はさながら劇の登場人物が名乗りを上げるように、芝居がかった仕草で胸に手を当てた。
「ようこそ、ヘイズ・グレイベル君。私の名はヴィクター・ガスコイン、ここ『カジノ・アヴァリティア』の支配人にして、結社『アンブラ』の頭領を務めている者だ」
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