2-39 彷徨う凶星 其之十七
神秘とは、謎めいているからこそ脅威となる。
これは魔術の世界に足を踏み入れた者であれば、誰もが胸に刻む警句である。
手品を例に考えると分かり易い。
種も仕掛けも分からぬ摩訶不思議。それを目の当たりにすればこそ、観客は心を掴まれ、驚きと感動を覚えるのだ。
逆に原理が割れてしまった芸は、如何に技巧を凝らしていようと一介の物理現象に落ち、魅力の大半が失われる。
以上のことは魔術においても同様であり、ゆえに魔導士は見の姿勢をこそ何よりも重んじる。
対象を観察し、推測から仮説を立て、検証する。この工程の繰り返しによって神秘という曖昧な概念は暴かれ、人類の発展を後押しする技術として確たる形を与えられてきた。
よって謎に直面した時、慎重さを欠く本物の愚者に魔の深淵は門扉を開かない。よしんば才能があったとしても必ずどこかで行き詰まり、大抵は悲惨な末路を遂げることになる。
中でも星霊のような怪物との対峙は、正しく魔導士としての資質を問われる場面と言って良いだろう。
何故なら彼らは受肉した神秘伝承そのもの。根本からして人間の尺度では測れない。
打倒を目論むのなら謎を紐解くに足る知識と、如何なる出鱈目に晒されようと見の姿勢を維持する忍耐力が要求される。
ましてや相手が"魔星"などという正真正銘の未知ともなれば尚のこと。
ほんの些細な混乱、焦燥が即座に命取りになると心得なければならない。
ゆえにヘイズはいつも通り、冷静であれと己を律しながら、新たな秘文を発動した敵の一挙手一投足に神経を巡らせていた。
ドラウプニル。
嵐の王がそう唱えた直後、黄金に輝く光輪が虚空から浮上した。
数は八つ。大きさは腕輪ほどで、少しの瑕もない滑らかな表面が美しい。
一見すると豪奢な装飾品の類としか思えないが、魔導士の目から見た実態はまるで異なる。
あれらは武具だ。持ち主の手足となり、敵を殺すための凶器。
何を仕掛けてくる?身構えた矢先、魔星が動き出した。
"日輪よ"
虚空に刻まれたのは、太陽の威光を示す秘文。
魔星から噴出した霊素は嵐に乗って空へと昇り、雲霞の真下に巨大な目を見開かせた。
「散れ!」
それを認めるや否や、ヘイズ達は一斉かつ全速力でその場から離脱する。
灼光の柱が突き立てられたのは直後のことだった。地面に吸い込まれた水分が莫大な熱量を受けて急速に気化、膨張し爆発を引き起こす。
散弾さながらに飛来する礫を叩き落としつつ、ヘイズは頭上に生まれた目を睨んだ。
あれが"日輪"の秘文の効果。遥か高みより下界を俯瞰し、邪悪を焼き清める罰の具現。
しかし回避に成功したからとて、完全に難を逃れた訳ではない。
寧ろ本番はここから。跳躍した方向に視線を戻せば、そこには金の腕輪が待ち構えている。
"静寂よ"
りん、と。腕輪が嵐の夜に似つかわしくない、澄んだ音色を響かせた。
震える大気が形を結び、意味を成す。今正に着地せんとしていたヘイズの体が、宙に浮いたまま制止した。
何が起きたのかと問われれば、答えは考えるまでもない。
腕輪の中心に縦に引いた直線のような記号が浮かんでいる。
それは物事の停滞を示す文字。発声器官など持ち合わせぬはずの器物が、主と同じく言霊による魔術を行使したのだ。
「そう来たか……!」
"棘よ"
間髪入れず腕輪が振動を重ね、荊棘の秘文を謳い上げる。
地に染み込んだ水がたちまち凍え、象られるは氷霜の槍衾。その切っ先が狙う対象は明白であり、ゆえにヘイズは回避のために魔術を行使した。
自らの真横に愚者火を灯し、起爆する。至近距離から衝撃を受けたことで、体が悲鳴を上げるが背に腹は代えられない。
串刺しになる寸前で静止状態を脱し、安全圏へ逃れることに成功する。
体勢を整える傍ら味方に視線を配れば、皆も同様に腕輪の襲撃を受けていた。次から次へと降り注ぐ猛攻を、それぞれ持ち得る術技を以て巧みに捌いている。
「使い魔だ!」
ヘイズが言霊を使って声を放った途端、ある者はより目付きを尖らせ、ある者は笑みを深めた。反応は各自異なれど、歴戦の魔導士として腕輪の脅威を正しく認識したのだろう。
使い魔とはつまる所、思考する装置である。
与えられた命令を遂行するだけでなく、置かれた状況に応じて自ら適当な判断を下し、主の活動を補佐するモノ。
要するに知性こそが使い魔を使い魔たらしめる最大の要素であり、契約対象に動物が選ばれることが多い所以だった。
だが極端な話をすれば、知性の有無さえ解決できるのであれば、剣だろうが機械だろうが使い魔となり得る。
魔星が呼び出した八つの腕輪が正しくその類だった。
外見からは想像もできないが本質的には自動人形に近い。そして、使い魔としてあれらに備わった機能は実に明確だった。
"日輪よ"
即ち、単独での魔術の行使である。
平易な表現をするなら、文字を綴るペンが八つ増えたといった所か。
字面にすれば地味かもしれないが、ルーンの特性を踏まえるとこれ程厄介な能力もない。
ただでさえ術の展開速度では魔星が大きく上回っているのだ。手数の差まで加わると、いよいよ接近自体が困難になる。
それは恐らく魔星も承知の上だろう。こちらの布陣が抱える難点を把握した上で、使い魔を召喚したのだ。
敵が相手が嫌がることを的確に実行し、常に優位に立ち回る。遊びも慈悲も介在しない、教本通りと評しても差し支えない基本に則した戦運びだった。
ではどうするか?決まっている。
為すべきことを定めたならば、あらゆる障害を踏み倒して進むのみ。
よってヘイズは手始めに、眼前に出現した極小の太陽に迷うことなく身を投じた。熱波がじりじりと肌を焼くのも構わず、情報の海へと没入する。
発生した事象を逆算し、たった一文字に籠められた膨大な歯車を一つずつ詳らかにしていく。そして、
「ここだ」
時間にすれば一秒にも満たなかったに違いない。看破した急所を狙い澄まし、ヘイズは剣を振り抜いた。黒き斬閃が秘蹟を断ち、残滓さえも存在を許さず殺し尽くす。
続けざま腕輪に霊撃を放ってみるが、触れると同時に霧散してしまった。
強力な対魔術が表面に塗布されているのか。あれを読み解いて腕輪を全て破壊するのは、体力面の問題から現実的ではない。
ならば。即座に結論を出したヘイズは言霊に声を乗せた。
「ラインゴルト女史、頼みがある」
『どうした、何か作戦か?』
腕輪による猛攻を結界で防ぎつつ、ルクレツィアが応じる。
「俺、今から突っ込むから」
『……は?』
「で、多分どこかで絶対殺されそうになるから。その時は適当に助けてくれ」
『…………何だって?』
「じゃ、後はよろしく」
反論を受け付ける間もなく一方に会話を打ち切り、ヘイズは疾走を開始した。その足が向かう先は、遠巻きに戦況を観察する亡霊の王である。
背後を見やれば案の定、腕輪が追いかけてきていた。しかも一つだけでなく四つに数を増やした上で。挙句天上に未だ残り続ける日輪の瞳も、明らかにヘイズに狙いを定めている。
そうだろうとも。驚きもせず地を蹴る速度を上げた。
自分は既に二度『落日の智慧』を使ってルーンを無効化している。魔星に危険性を認められるには充分な回数だろう。
従って真っ先に潰しに来るのは想定の範疇であり、ゆえにこそ付け入る隙がある。
"棘よ" "豊穣よ" "炎よ"
「そいつらはもう見た」
四方八方から牙を剥く魔術を切り伏せて、ヘイズは嵐の目に向かって最短経路を突っ走る。
客観的には無謀を通り越した蛮行だが、必要だと思ったのだから仕方がない。何より自分ならできるだろうという目算がヘイズの中にはあった。
理由は二つ。
一つ目は『落日の智慧』とルーン魔術の相性の良さゆえ。
ルーンの本質とは文字である。つまり意味を表現するための規格が定められていて、それを崩すと簡単に現実を歪める力を失ってしまう。
つまり他の術式とは異なり改変の余地に乏しく、一度理解した文字であれば、何度使われようとも即座に解体することができるのだ。
そして二つ目の理由についてだが、こちらはヘイズの来歴に起因する。
前提として、彼の魔導士としての格は突出しているとは言い難い。
術式の暴走といった小細工を修めていることを加味しても、イヴやルクレツィアといった天才らと比較すれば土台の時点で雲泥の差があり、総合的な評価は甘く見積もってやや優秀あたりに落ち着こう。
だがこと戦闘経験という点において、ヘイズは他の追随を許さない。
立ち向かう敵が強大である程、鼻先を掠める死の匂いが濃くなる程。脳裏に刻まれた修羅場の記憶が、彼に最適な挙動を教えてくれる。
ゆえに一手の過ちが絶命に繋がる苦境に身を置きながらも、ヘイズは迷わず止まらない。重圧も恐怖も鬱陶しいと捻じ伏せて、ただ目的を果たすための機構として己を研磨する。
"束縛よ" "流水よ"
「必死だな、そんなに俺が怖いか!?」
瓦礫の隙間から蛇のように毒々しい色の鎖が飛び出し、虚空から大質量の水の砲弾が撃ち出される。
どちらも初見の秘文だ。その構造を観察しつつ前者は体捌きで躱し、後者は暴走した愚者火で相殺する。
魔星との距離は既に百メートルを切っていた。身体強化の施された脚力を以てすれば、あと数秒で刃を届かせることが可能だろう。
もっとも、脅威と見做した存在の接近を魔星が黙って見過ごすはずがない。
異形の杖の石突が地を叩いた瞬間、ヘイズの眼前に亡霊の群れが出現した。妄執の軍勢は昏い情念を剥き出しにして、主の敵を討ち取らんと殺到する。
「邪魔だ」
愚者火の術式に過剰な燃料を叩き込み、狂える炎を以て恩讐の影を食い破る。
物量に任せた迎撃行為は、今まで魔星が見せてきた手腕と比べれば余りに手緩い。雑兵を集めた所でヘイズを仕留めることは叶わぬことは、最初に対峙した時に分かったはず。
ならば次の一手を打つまでの繋ぎと見るのが妥当であり、ゆえにこそヘイズは己に向けられた悪意の気配を鋭敏に察知した。
亡者を構成していた霊素が血飛沫のように視界を埋める中、魔星の左の人差し指が持ち上がる。
同時に兜の奥で囁かれた不吉な言葉がヘイズを総毛立たせた。
"起動――我が指先は汝の心髄を穿つ"
錆びた指先がこちらの胸元を示す。
瞬間、ヘイズはそこから放たれた不可視の力が、自身の心臓を貫く様を明確に幻視した。
指差しの呪詛。その動作を視た者が抱く不快といった感情を拡大、増幅し、連想された損傷を現実のものとして肉体に反映する錯覚の極致。
言霊の併用によって脳裏に描かれた虚像は現実と区別と見紛う程に生々しく、ヘイズの魔術耐性を以てしても呪いの結実を防ぐことはできなかった。
魂魄を侵す死の凶手が、指先から命脈を侵食し始める。
これだけでも人を殺すには充分なはずだが、魔星は執拗だった。間断なく次の神秘を駆動させ、追い打ちをかけてくる。
"日輪よ"
いつの間にか主の下に集っていた八つの腕輪が燦然と輝き、灼熱の炎塊を作り出す。
駄目押しとばかりに天の瞳が見開かれ、ヘイズに向けて浄滅の光を解き放つ。
逃げ道はない。ルーンを破らんとすれば呪詛で死に、呪詛を防がんとすればルーンに焼き滅ぼされる。
前門の虎、後門の狼。早い話が袋小路で、さしものヘイズも両方を同時に破る手立ては持ち合わせていなかった。
――ただし、それは彼が単独で挑んでいた場合の話である。
ヘイズは躊躇うことなく、日輪の秘文への対処に取り掛かった。
『落日の智慧』の性質上、未知よりも既知を優先するのは当然の思考だろう。しかし呪詛の脅威は無視した所で消える訳がなく、既にヘイズの心臓に到達しつつある。
では肉を切らせて骨を断つ覚悟を決めたのだろうか?……否である。
何故ならどんな無茶を働いたとしても、ヘイズの不足は至上の結界使いが補ってくれるのだから。
「竜絶界域、変転――祓い清めよ」
木漏れ日を思わせる金色の光が、ヘイズを優しく包み込む。すると彼の肉体に滑り込んだ死の幻影は、汚濁を洗い流すかのようにたちまち消え去っていった。
これもまたラインゴルトの結界術に備わった機能なのだろう。外敵から味方を守護するための盾ではなく、内部を清め聖域を作り出す力。
完全無欠の創造を目指す血族が積み上げてきた歴史と執念は伊達ではない。
ともあれ憂慮はなくなった。ヘイズは右目を手で覆うと、左の瞳に意識を集中する。
起動する術式は無論のこと『落日の智慧』だが、その運用方法については普段とは趣が異なった。
回路を駆け巡る霊素が氾濫し、数式の因果関係が破綻する。
ヘイズの十八番である、魔術の暴走だ。
「術式起動――」
撃鉄を落すと共に、膨大な情報の渦の奥へと飛び込んだ。
途端、左目の奥が燃えるような熱を持ち、頭蓋の奥で火花が散る。魔術の暴走という無法の代償は、文字通り神経を直接焙るかのようだった。
しかし常人ならば涙を流してのた打ち回るような苦痛も、ヘイズにとっては慣れ親しんだもの。
停止を求める本能を意識から隔離し、極限の集中によって遅延する世界の中で、自らに照射された紅炎を視る。
煌々と奇跡を起こす秘文を観る。
既に看破した弱所を一つの線で結ぶように、ヘイズはぐるりと目線を切った。
それはまるで空に星座を描くかのような所行。事実、彼の視野の中において、受肉した神秘は繋がっていた。
「落日の智慧」
星座の一角に向け、剣を振り降ろす。
瞬間、今正にヘイズを呑み込まんとしていた裁きの炎が全て同時に引き裂かれた。
それだけではない。雲下に張り付いていた天の瞳も、腕輪が虚空に刻んだ秘文も、ことごとくが飴細工のように砕け散る。
単なる斬撃では決して起き得ぬ、神秘の根絶であった。
果たしてこの結果を嵐の王は予期していただろうか?ヘイズを見つめる隻眼は暗黒の中に揺れるばかりで、およそ感情と呼べるものが読み取れない。
ただ阻む物のなくなった視界の中、異形の杖を振りかぶる姿が答えだった。
杖の先端にて収束するエネルギーは霊撃が放たれる前兆に他ならない。つまりはすぐにでも離脱を図るべきである。だが、
(うん、体が動かん)
当のヘイズはと言えば、茫洋とその場に立ち尽くすことしかできなかった。『落日の智慧』を暴走させた反動である。
多量の情報を一気に処理したため、思考は靄がかかったように覚束ず、また泥のような倦怠感が背中に圧し掛かっていた。
けれども焦る必要はない。ヘイズの目的はあくまで玉座に続く道を拓くことであり、例えすぐ塞がれる程度のものであろうとそれは今果たされたのだ。
ならば彼女らがこの好機を見逃すはずがなく。
「雷切」
稲妻と化した剣聖が、亡霊の王の懐に斬り込んだ。
かなり間が空いてしまい申し訳ありません。
更新再開いたします。




