2-38 彷徨う凶星 其之十六
「村雨」
「生滅流転」
戦いの火蓋は二つの魔術の発動を以て落とされた。
空をも断ち切る無双の魔剣と、形あるものに崩壊を与える死の颶風。
敵を殺傷するという点において比類なき性能を誇る神秘の顎が、歪みの根源たる禍つ星を食い破らんと迸る。
対し、敵の動作は驚く程少なかった。
兜の奥に灯る隻眼で迫る魔術を一瞥し、ただ短く錆びた声を以て唱えたのだ。
"剣よ"
と。
音が形を得る。光が軌跡を描く。
上向きの矢印にも似た文字が次々と宙に浮かび、魔星の甲冑の表層に展開する。
それは現存する術式体系の中でも、取り分け原始的な機構を持つことで知られる秘技。即ち、
「ルーンか……!」
敵が操る奇跡の正体をヘイズが看破した直後であった。
必殺の斬閃が朽ちた甲冑の首筋に触れた瞬間、火花を散らしてあらぬ方向に弾き飛ばされる。ヘイズをあれほど痛めつけてくれた烈風も、正面から直撃しながら掠り傷一つ負わせられない。
まるで魔星の肉体そのものが絶対不変の存在と化したかのような、常軌を逸した防御力である。
ルーンの特性を端的に説明すると、文字が象徴する概念を具現化するというものだ。
先程使用された"剣"が良い例だろう。戦における勝利を示す文字は、刻んだ対象に不滅の加護を与える。
他にも自然現象の発生、物体が持つ属性の劣化補強、果ては吉兆の天秤の制御まで。文字ごとに定められた機能を使い分けることにより、ルーンは術者に降りかかるあらゆる苦難を払うのだ。
だが、こと戦闘の分野に焦点を当てると、この魔術の真に恐るべき点は別にある。
"豊穣よ"
間髪入れずに唱えられたのは、生命の実りを示す文字。
瓦礫を割って地中から大樹の根が伸び、蛇のようにうねりながらヘイズ達を囲う。かと思えば、
"炎よ"
その表面を呪炎が舐めて燃え盛る檻を形成し、
"棘よ"
止めとばかりに荊棘を表す文字が降り頻る雹を巨大な氷柱へと固め、鉄槌のごとく叩きつける。
息も吐かせぬ怒涛の魔術行使。この速度こそがルーンの最大の武器に他ならない。
ルーンにおける術式とは、物体に刻んだ文字そのものだ。つまり他の魔術のように煩雑な演算処理を行うことなく、ただ霊素を流すだけで現実を塗り替えることが可能なのだ。
加えて文字が有する機能も基本的には単一であることから、駆動時に消耗する霊素も極めて少ない。
単純であるがゆえに軽く、簡潔であるがゆえに速い。それこそがルーンという魔術の真髄である。
「竜絶界域」
頭上に迫る絶対零度の槍にルクレツィアが迎え撃つ。
展開される黄金結界。完全無欠に到達すべく研磨され続けた至上の盾が、氷山さながらの大塊をいとも容易く受け止める。
そしてもちろん、旧き血族の筆頭が見せる手腕は、ただ敵の攻め手を防ぐだけに留まらない。
「返してやろう」
ルクレツィアが腕を振るった瞬間、宙に縫い留められた氷柱が砕け散った。
結晶の残滓は液体へと解け、雨粒を取り込み激流へと変化する。氷柱が結界に接触すると同時に、その制御権を奪い取ったのだ。
解き放たれた水は瓦礫を押し流し、瀑布さながらの勢いを大地を駆ける。
普通に考えればこれを捌くには安全圏へと逃れるか、魔術による相殺を試みるかの二択に絞られよう。
果たしてまつろわぬ怪物が選んだ行動は後者であったが、その方法は想像を遥かに上回るものだった。
"流転よ"
新たに紡がれた文字は、万物の変遷を司る秘文。
刹那、今正に騎士を呑み込まんとしていた水流が影も形も残さず消滅する。
いや違う。微かに残る蒸気からして、消えたのではない。ルクレツィアが固体を液体へと融解させたように、魔星は液体を気体に昇華したのだ。
それは意趣返しを図ったというよりは、次の行動に移るまでの過程を省略したかったためだろう。現に兜の奥に灯る隻眼は、再び魔の一刀を振り抜く剣聖の姿を捕捉していた。
「村雨」
"剣よ"
二度目の激突を果たす剣と"剣"。どちらも同じ魔術を使った以上は、先の繰り返しになると考えるのが道理である。
だがセリカの底知れぬ天稟に常識は通用しない。白銀の斬撃は弾かれることなく秘文の加護と拮抗し、徐々に刃を魔星の甲冑に近付けていく。
彼女が何をしたのかと問われれば、恐らく斬り方を変えただけだ。
剣を振るう力加減、刃を入れる角度、手の内を絞るタイミング。解呪の類に頼るでもなく、持ち前の太刀筋に調整を加えることで、剣聖は不滅の硬度を破る方法を確立し始めていた。
よって敵も変化に合わせた対応を迫られる。
賢者のごとき厳かな所作から一転、魔星は荒々しく杖を跳ね上げた。放たれた霊撃が、肩口に食い込みつつあった魔剣を砕き散らす。
その際に生じた僅かな間隙を縫い、ヘイズは死地へと飛び込んだ。
「よォ化け物」
「初対面で悪いけど」
「死ね」
強化された脚力を以て、彼我の距離を一息で縮める。
同じく仕掛けたテオドア、マリアンとは敢えて呼吸を合わせる必要もない。数々の闘争を制してきた魔導士達は、状況を俯瞰して為すべきことを自ずと把握する。
ヘイズの場合、それは敵の守りを崩すことであった。
不滅の加護は未だ魔星を包んでいるが、二度にわたる観察を通じて"剣"の文字の構造は既に把握している。
よってダメージを与える役はテオドア達に任せ、自分は彼らを阻む障害を取り除くことに徹するべき。そう判断を下したヘイズは、唸る刃に神秘を殺す猛毒を乗せた。
"災厄よ"
しかし超常の感覚が危機を訴えたのか。新たに囁かれた音律が、現世の理ごとヘイズの思惑を打ち砕く。
その後に起きた出来事を端的に述べよう。
まずヘイズが凍結した地面を偶然踏み抜き、盛大に足を滑らせた。
次にマリアンがよろめいたヘイズと運悪く追突し、諸共地面に倒れ込む。
最後に何故かテオドアが間合いを見誤り、拳を空振りさせてつんのめる。
要するに彼らの攻撃はこの上なく無様な形で失敗したのだった。
明らかな異常事態であり、直前に行使された秘文の影響を受けた結果だと断言できる。だがその詳細を分析する暇を与えてくれる程、亡霊の王は慈悲深くない。
「クソがっ」
背筋を走る悪寒に駆られるまま、ヘイズはマリアンを抱きかかえて無理やり横へ跳んだ。
次の瞬間、彼らがいた場所を杖が突き、落雷もかくやといった爆発を轟かせる。
「うん、こう密着されると流石に照れるね?」
「言ってる場合かっ!」
はにかむマリアンを放り投げ、振り返りざま自身を追いかけてきた影目掛けて剣を薙ぐ。
錆び付いた騎士の偉容がそこにあった。激突する杖と剣が火花を散らし、両腕から伝う出鱈目な膂力がヘイズの骨身を軋ませる。
続けて繰り出された鋭い刺突を防ぐが、体勢が覚束ぬまま受けたのが悪手だった。
重心を容易く崩され、たたらを踏んでしまう。まずい。
冷や汗を浮かべつつ、次の一撃を全力で避けんと身構えるが、
「よくも恥かかせてくれやがったなこのヤロウ」
そこに憤激するテオドアが割り込んだ。
ヘイズの前に躍り出た彼は振り下ろされた杖を横から殴り飛ばし、魔星の懐を強制的にこじ開ける。
すかさず錆に穢れた胴を狙って拳打を放つが、敵は即座に対応して見せた。
弾かれた勢いに逆らうことなくその場で回転、正面に向き直ると同時に迫る拳の軌道上に得物を交差させた。
結果、荒ぶる邪竜の怪力は杖の柄の上を滑り、騎士の兜のすぐ真横の空間を抉り抜く。
それと同時に、ヘイズもまた動いていた。テオドアの影に隠れながら身を屈め、敵の側面へ地を這うように回り込む。
黒鉄の刺突が狙うは脇腹。これを敵は一瞥さえ寄越すことなく、左の籠手を剣の腹に沿えるだけで逸らして見せる。
外した。だが想定通りだ。
「愚者火」
刃が顕す奇跡を毒から炎に変え、練り上げた霊素に火を灯す。
炸裂する熱量は野原を走るがごとく燃え広がり、周囲を瞬く間に紅蓮の荒野へと変える。
融解する瓦礫に、蒸発する雨雫。当然、至近距離にいたテオドアもヘイズの魔術に巻き込まれることとなったが、彼の身を案じる必要はない。
「酒落臭ぇッ!」
竜の不死性を宿した男にとって、肺腑を焦がす程度の熱波などそよ風に等しい。
腕を杖に絡め取られたまま更に踏み込み、裏拳を強引に横へと振り抜いた。路地裏の喧嘩じみた粗雑な体捌きであるが、型破りであるがゆえに受ける側の意表を突く。
が、炎の渦中において健在を維持するのは彼だけではない。鎧の端を融解させつつも、嵐の王は法を溶かす。
"静寂よ"
テオドアの一撃が騎士の横面に叩きつけられる寸前でぴたりと停止する。
またしても間合いを測り損ねた訳ではない。拳を打つという動作自体が、力の源泉を奪われ中断させられたのだ。飛空艇の衝突を止めたのもこの秘文の効果だろう。
もっともヘイズも、そしてテオドアも、痛痒を与えるのが己の役割であるなどとは最初から考えていなかった。
愚者の炎を鎮めれば、急激な温度低下に伴って大地に霧の帳を沈殿させる。
無論、暴風によってすぐにでも吹き散らされてしまうだろうが、僅かな間であろうと敵の視覚を奪ったことには違いなく。
彼女がこの好機を逸するはずもない。
「私を忘れて貰っちゃ困るなァ」
ぬらりと音もなく、霧の狭間より喜悦を乗せた凶器の先端が放たれた。
獣が血の匂いを辿るがごとく、霊素の気配を追いかけて、薔薇の傭兵は目で見るよりも正確に標的の位置を特定する。
ならばそれに即応する騎士の勘の冴えたるや、敵ながら称賛に値しよう。
甲冑に再び宿るは不滅の加護。奇襲には何の前触れも発されていなかったにも拘わらず、魔星はとうに迎撃の体勢を整えていた。まるで最初からマリアンの動向を察知していたかのように。
だが敵の出方を読んでいたのはヘイズも同様だった。
マリアンが現れたのと同時に後ろ腰へ手を回し、佩いていた短剣を抜きざま投擲する。神秘殺しの毒を籠めた刃は風を切って飛翔し、虚空に綴られた秘文を貫いた。
魔星の隻眼がヘイズを射抜く。
決して朽ちず毀れぬ筈の"剣"が容易く破られたことに、少なからず動揺したのか。
背筋に氷柱を差し込まれたような悪寒は、自分が明確な脅威として認識された証に他ならない。
それは即ち、敵の苛烈な攻め手がこちらに集中することを意味していたが、ヘイズは望む所とばかりに歯を剥き、嘲弄を乗せて言った。
「余り人間サマを舐めるなよ、間抜けが」
収束し、炸裂する。絶滅の大嵐が指向性を以て解き放たれ、無防備を晒す獲物に牙を剥く。
大地を抉りながら吹き飛んでいく騎士の影。マリアンの魔術を真面に食らった魔星は勢いを殺すことすら許されず、辛うじて形を保っていた建物に激突し、粉塵の雲を噴き上げた。
「手応えあり。今のは良い感じに入ったね」
長い睫毛に付着した雨粒を指で払いながら、マリアンが満足げに呟いた。
彼女の魔術の威力はヘイズも身を以て知っている。しかも加減抜きの全霊の一撃だったのだ。魔性怪物の種類は数あれど、あれを受けて原型を保っていられる存在はそういまい。
よって多少なりともダメージを与えることには成功したと見るべきだが……。
「いやあ、見事な転びっぷりでしたね。映像に残して見せて差し上げたかったです」
「……お楽しみ頂けたようで何よりだよ」
嗜虐的な笑みを浮かべつつ、ルクレツィアと共に近付いてきたセリカへ嘆息を返す。
殺し合いの最中に滑って転倒するなど、不覚を通り越して恥である。いっそ盛大に笑い飛ばしてくれた方がまだ救われるというものだ。
「それで、結局あの時何をされたのです?個人的には運勢操作あたりと睨んでいますが」
「お前の予想通りだろ。失敗する方向に確率を弄られた。これでも呪詛だの妨害だのには耐性があるつもりだったんだがな」
歩く、走る、息をする。日常の些細な動作も含め、あらゆる物事には常に失敗の概念が付き纏う。
"災厄"の秘文はそれを強制的に増大、顕在化させることにより、術者に害意を持つ者を自滅させるのだ。
その点、今回転ぶだけで済んだのは不幸中の幸いだったと言って良い。運が悪ければ剣を向けた瞬間、心臓が突然停止するといった事態も充分あり得た。
あくまで仮定の話に過ぎずとも、そうなる余地があるという懸念が攻撃する手を躊躇わせる。厄介な効果だ。
「ラインゴルト女史、どう見る?」
「術比べを挑んで良い相手では間違いなくないな。テオドアの守りを容易に突破した点もそうだが、何よりルーンの発動プロセスが異常すぎる。声で空間に文字を刻むなど聞いたこともない」
「イヴ辺りなら何とか再現できるかもしれませんけどね。ともあれ、ああも矢継ぎ早に使われるとなると、近付くだけでも苦労しそうです」
ルーンの最大の特徴である速攻性は、小石や護符といった媒体に予め文字を刻んでおくことで初めて機能する。
対し魔星はどうかと言えば、特に道具を用いることもなく、ただも文字が示す意味を読み上げるだけで事象を改変していた。
音という形なき空気の波に確たる実体を与え、更には術式として成立させるその技巧。恐らく言霊を応用しているのだろうが、理屈の全容についてはヘイズの眼を以てしても把握しきれない。
つまり魔術の腕前において、敵は自分達の遥か高みにいるという訳だ。
「しかも戦士としても相当やるぜ、あいつ。油断したつもりは全くなかったが、三人がかりで一発入れるのが精々とはなぁ」
「良いじゃない。骨のある敵の方が、殺った時の達成感も一塩だよ。……ただまあ、敢えて言うならやたら視野が広い点は少し気になったかな?」
マリアンの疑念に、ヘイズも先の光景を反芻する。
仕掛ける直前まで彼女は気配を完全に殺していたし、攻撃自体も手堅く死角を突いていた。
ゆえに奇襲としての評価は申し分なく、あれ程まで迅速な対応を実現するにはマリアンの位置を常に捕捉しておく必要がある。
探知術式の類が展開されていたのであればヘイズが察知できていたはずであるし、となると元来備わっていた能力が働いたと見るべきか。
何れにせよここまでの攻防で判明した情報を整理すると、敵は正面切って闘うにはかなり難儀な相手であるということだった。
さて、どうする。
道理の通じぬ怪物と対峙する時は、とにかく強みを発揮させないことが定石だ。
そのためにはやはり『落日の智慧』の運用が肝となる訳だが、徒に行使すればたちまち霊素が枯渇する。
ゆえに殺す対象を選択するべきであり、魔星に対する理解が未だ浅い現状、狙いは必然的に本体ではなく振るわれる武器の方に絞られよう。
「ヘイズ、ルーンへの対処は貴方に任せても?」
「……まあ、それが妥当だよな」
魔星を調伏するに辺り、ルーンが目下最大の障害となっていることは間違いない。
ただでさえ速度を長所とする魔術が、更なる簡略化を果たし、竜の鱗を貫通する程の威力を伴って襲い来るのだ。
味方の編成が前衛に偏っている分、懐に肉迫できるだけの場を整える者が必要だろう。その上で幾重にも折り重なった神秘を読み解き、手札を潰し、急所に刃を突き立てる。
闘いが始まってからもう五分。制限時間は着実に近づいているが、焦りは禁物だ。
「初見のものは全力で避けろ。既出のものは構わず突っ込め、俺が路をこじ開けてやる。ラインゴルト女史、フォローして貰えるか?」
「承知した。貴方の動きに合わせよう」
一先ずの方針を立てた所で、土煙の奥で歪な形の影がゆらりと蠢く。
露になった魔星の全貌は、凄惨な変化を遂げていた。
胴は腰の辺りで圧し折れて横に曲がり、右足は捻じれてあらぬ方角を向いている。片腕は肩からくり貫いたように千切れていて、断面からは星屑のごとき煌めきを塗した漆黒が覗いていた。
がくがくと覚束ぬ歩調で進むその様は壊れた案山子を連想させ、率直に悍ましい。
するとそんな主の姿を見兼ねたのか、どこからともなく現れた猟師の亡霊が魔星の眼前に跪いた。
両者の間に如何なる諒解が交わされたのかは分からない。しかし魔星が祈るように膝を突く臣下に手を翳せば、彼らは青黒い霊素へと形を解き、甲冑の欠けた箇所を埋め、傷を修復していった。
見る間に全快を遂げた嵐の主人は、燃える隻眼をこちらに据える。
無機質な癖に、指先の一片にまで絡みつくようなその輝き。認められたと、ヘイズは直感した。
奴の思考の中で、自分達はもはや適当に蹴り飛ばして片付く路傍の石ころではない。
敵は己の命を脅かす存在であるのだと。
持ち得る技能を駆使しなければ排除できぬ障害であるのだと、今正に分類されたのだ!
ならば、この後に待ち受ける展開は明白であろう。
"神性招来――滴り盈ちる宝輪"
綴られる秘文が新たな魔を現世に呼び起こす。
暴風を掻い潜って耳朶を叩く不吉な詠唱が、死闘の激化を告げていた。




