2-32 魔女の末路 其之一
"魔女"という呼称は、神秘の世界において単なる渾名以上の意味を持つ。
錬金術と並び、現代魔術の基礎を築いた原初の業――黒魔術。
空想を現実に変えるという破格の異能を受け継ぐ者を指し、人々は畏敬の念を籠めて"魔女"と呼ぶのだ。
もっとも同じ肩書を背負っているからと言って、彼ら彼女らに仲間意識の類は殆どない。
その理由は単純で、交流を持とうにも一つの土地に複数の"魔女"が存在する状況が稀であるためだった。
かつては人里離れた場所に集落を作り、共同生活を送っていたそうだが、当時は大陸全土を覆う戦乱の真っ只中。強大な力を誇る"魔女"が敵となることを危険視した勢力によって、数多くの同胞を失うことになったらしい。
そこで生き残った祖先たちは自らの血と技術を絶やさぬため、また一所に集うことで有事の際に犠牲を増やさぬため。互いに寄り合うことを避けつつ、各々安住の地を求めて旅立っていった。
ある者は俗世を厭って工房に引き籠り。
ある者は民衆の幸福のために奔走し。
ある者は欲望の赴くままに悪逆を働いた。
時代の変遷と共に"魔女"は着実に数を減らしているものの、彼女らが残した足跡は今も伝承やお伽噺として方々で語り継がれている。
カルンハインの先祖もまた、その内の一人であった。夜の暗黒を統べる"魔女"は放浪の末、建立したばかりのマルクトに根を降ろすと、秩序の安定に陰から力を貸していたという。
そんな市内でも指折りの歴史を誇る一族の末裔として、イヴは生を受けた。
商家を営む父と、魔女の継嗣たる母。両親からの愛情を一身に受けて、彼女は健やかに育っていった。
転機が訪れたのは、イヴが五度目の誕生日を迎えた時だろう。当時から既に霊素に対する高い適性を示していたイヴは、早々に魔導士としての経歴を開始することになる。
師は外ならぬ母であった。彼女の厳格な指導の下、本人の貪欲なまでの知的好奇心も相まって、イヴはその類稀なる素養を瞬く間に開花させていく。
まず修練を始めて二月で基礎を網羅した。
次に半年が経った辺りで影の使い魔を完全に制御できるようになり、一年に達する頃には"宵闇の魔女"として求められる技能を余す所なく習得した。
正しく天才である。
彼女の常軌を逸した学習速度は常人はおろか、研鑽を積んだ魔導士でさえも戦慄せしめ、関わった者の殆どから得体のしれないものを見る眼を向けられる程であった。
だがそのような境遇に置かれながらも、イヴが孤独に苛まれることは一切なかったと言って良い。
元より魔術の研究以外に興味が薄かったという点もあるが、最大の要因はやはり両親の存在であろう。
過ちを犯した時には叱ってくれた。成長を見せた時には我がことのように喜んでくれた。
偶に喧嘩することもあったけれど、翌日にはお互いに謝ってまた笑顔を交わすことができた。
字面にすればごくあり触れた家庭の交流、しかしそれが幼き魔女に道理を教え、心を人の世に繋ぎ止めてくれたのだ。
イヴもまた表情にこそ乏しかったが、異質な自分と真摯に向き合ってくれる両親への感謝を忘れず。幸福な日々がいつまでも続いてくれることを、純朴に祈ったものだった。
――だが。
あらゆる物事に永遠が存在しないように、彼女の満ち足りた世界も唐突に終わりを迎えることになる。
曰く、"魔女"の結末は報われない。
母から幾度となく聞かされてきたその言葉の意味を、イヴは否応なく理解することになる。
◇◇◇
母が乱心した。
それを止めるために力を貸して欲しい。
神妙な面持ちで自分に頼むその男は、名をヴィクター・ガスコインと言った。
歳は間もなく壮年の末に達するくらいだろうか。白の混じった髪を見栄え良く整え、仕立ての良い衣服を纏っている。
総じて紳士という表現がよく似合う外見だが、その正体はマルクト最大の賭博場の盟主にして、母が所属する結社『アンブラ』の総帥。社会の表裏に巨大な巣を張る恐るべき謀主である。
そんな油断ならない人物と、机を挟んで向き合っている。
天窓から昼の光が差し込んでいるにも拘わらず、リビングは妙に薄暗い。きっと室内を漂うがらんと寒々しい雰囲気が、殊更そう感じさせるのだろう。
事実、今この館にはイヴしか住んでいなかった。
早めの独立という訳ではない。ただ寝食を共にしてきた家族が、誰もいなくなっただけの話だ。
「……そうでしょうね」
老紳士の話を一通り聞いたイヴは他人事のように呟いて、温くなった紅茶を口に含んだ。
事の発端は一月ほど前、彼女が十歳になった直後にまで遡る。
簡潔に事実を羅列すると、父が殺された。
立て続けに母の親友が殺された。
自分は葬儀の際、二人の遺体と顔を合わせる機会が与えられなかったのだが、聞いた話によればかなり惨い有様だったらしい。
愛する家族の片割れと、よく面倒を見てくれた奇特な大人。彼らの死を知った時はイヴも衝撃を受けたし、胸に穴が空いたような寂寥感が今も消えずに残っている。
それでも、イヴは泣くことだけはしなかった。何故なら誰より悲しんで然るべきはずの母が、一滴たりとも涙を流さなかったから。
だからイヴも己の心に封をすることにした。例え周囲から冷酷と蔑まれようと、より異端視を深められようとも、最も泣きたいであろう人を差し置いて嘆くのは、理に反していると考えたのだ。
しかし今にして思えば、イヴは母の内心をまるで理解できていなかったのだろう。
――母が姿を消したのは、葬儀を終えてから三日後のことであった。
当然、街中に使い魔を放って探し回ったものの、結局見つけることはできなかった。
ヴィクターが語った所によれば、母はイヴの元を去った後、マルクト内に存在する犯罪組織や無法者を手当たり次第に駆逐して回っていたのだという。
父達を殺した犯人を探していることは明らかだった。
何しろ目撃情報や事件の現場に残された痕跡の乏しさゆえに、軍警局も捜査を難航させている状況である。
よって可能性を一つずつ潰していく母の手法は、愚直すぎる傍ら合理的ではあるのだろう。
また襲撃する対象に関しても、悪徳に頭まで浸った輩に限定されている。独断専行による私刑は確かに褒められたものではないが、活動自体は裏社会の抑止力たらんとする『アンブラ』が掲げる理念からは逸脱していない。
では如何なる由があって、ヴィクターは母を危険と見做すに至ったのか。
「君のお母さんは、やり過ぎてしまったのだよ」
老紳士は平坦な淡々とした口調で、理由を告げた。
要するに、母は善悪の天秤を前者に傾けすぎてしまったのだ。
表裏に関係なく、社会の秩序とは均衡によって保たれる。それが著しく崩れた状態が続いてしまえば、巷には退廃が横行し、致命的な破綻の呼水となりかねない。
むろん母とて、無辜の民を巻き込むような事態は本意ではないだろう。彼女は"魔女"らしく冷徹な面を持ち合わせているが、根底には人の営みへの慈愛がある。
だが現実として、母は激情に身を委ねてしまった。最後の家族を置き去りにしてまで、血塗られた道に自ら足を踏み入れてしまった。
きっとそうしなければ死んでしまう程に、彼女が抱いた憤怒と憎悪は深かったのだ。
或いはもっと他にのっぴきならない事情があったのかもしれないが、当人が明かさぬ以上は無きも同然である。
ともあれこのような経緯により、『アンブラ』の粛清対象と相成った。ヴィクターの指揮の下、彼女を討つ準備は着々と進められているそうだ。
「それで、どうだろうか」
じっとイヴを見つめながら、ヴィクターが訊ねてくる。
「我々としては、君のお母さんをこのまま放置しておく訳にはいかない。しかし彼女は極めて優秀な"魔女"だ。真面にやり合って止められるような相手じゃない。だから――」
「だから、母の手の内を知る私に協力して欲しい、と。そういうことですね?」
被せる様に結論付けると、老人は無言で首肯する。
案外甘いのだな、とイヴは思った。
ヴィクターの評価通り、母は卓越した魔導士である。有象無象が何人集まった所で、隔絶した技量差を前に返り討ちに遭うのが関の山だ。
従って必勝を期すのであれば策を巡らせ、罠に嵌め、母に本領を発揮させない立ち回りが必須となる。
その点、イヴの存在はヴィクター側からすれば、非常に魅力的な駒と言えた。
何故なら標的は、愛深き故に狂った"魔女"。夫の忘れ形見である娘を人質にでも取れば、母の動揺を誘い、闘いを優位に運ぶことができるだろう。
にも拘らず、ヴィクターはイヴに決して手荒な真似を働こうとはしなかった。しかも直々に状況を説明した上に、協力するか否かの選択をイヴの意思に委ねる始末である。
何と悠長なことか。全く以て合理的ではない。
仮にイヴが同じ立場であったなら、問答無用で最適解を実行している。
「……」
イヴはさりげなくヴィクターの顔色を窺った。
眼鏡の奥から覗く瞳はこちらを冷徹に値踏みしているようにも、断られることを切望しているようにも見え、本心がまるで見通せない。
ただイヴが無駄と評したこれまでの時間こそが、彼なりの誠意の表れなのだということだけは推察できた。ゆえに、
「分かりました。その話、受けます」
「……本当に良いのだね?」
「はい。元々の予定が、少し前倒しになるだけのことですから」
迷いなくイヴは了承する。
そうとも。別にヴィクター達が行動を起こさなかったとしても、彼女は一人で事態に収拾を付けるつもりだった。何故ならば、
「それが私たち、"魔女"の役割なのですから」
毒を打ち消すのが毒であるならば、荒ぶる"魔女"を鎮めるのもまた同じ"魔女"。母がもはや正気に戻らぬというのなら、後継者たる自分が始末をつけるのみ。
それが各々の自由を認めた血族の間で、唯一課せられた不文の掟である。
そう在るべきと師から弟子へ、時代を超えて受け継がれてきた不変の在り方である。
果たしてイヴの返答を聞いたヴィクターは一言、
「そうかね」
と。
どこか哀し気な響きを乗せて呟くのだった。
◇◇◇
その日は雨が降っていた。
目深に被ったフードを伝い、冷えた滴が頬を濡らす。気温が低いせいか街にはうっすらと靄が立ち込めており、普段は堂々たる存在感を示す摩天楼の数々も、輪郭を朧に煙らせていた。
風は弱いが視界は劣悪。甘く見積もっても狙撃に適した天候とはとても呼べまい。
しかしそれは裏を返せば標的からも捕捉されにくいということでもあり、暗殺を決行するには都合が良い条件が揃っていた。
そう、暗殺である。
ヴィクターからの要請を了承した後、イヴ達はそのまま母を討つための作戦を考えた。
相手は規格外の神秘を操る"魔女"。純粋な術比べでは敗北は必至で、毒や呪詛といった搦め手も多少の効果は期待できようが、絶命に至る前に破られてしまうだろう。
かと言って不意を突こうにも、母の傍らには常に使い魔が控えている。例え僅かな暗がりであろうと、影ある所に彼らの目は存在し、主に害意を持って近づく者に容赦なく牙を剥く。
ゆえに求められるのは母の索敵能力を以ってしても捕捉困難な一撃……即ち、超遠距離からの狙撃こそが、最も勝算の高い方法との結論に至ったのだった。
射手は当然イヴであり、アンブラの面々は標的を誘い出す囮の役を担うことになっている。
戦端は既に開かれていた。
薄白い帳の向こう、人影の途絶えた路地を舞台に、霊素が電荷を散らす。
その光景を遥か遠方より、イヴは見守っていた。
距離にして、悠に二キロ以上。狙撃地点として陣取ったビルの屋上は、母と都市の夜景を楽しむためによく足を運んだ思い出深き場所だった。
「……はぁ」
口から零れた息は僅かに震えていた。鼓動が速まっているのが手に取るように分かる。
実に意外なことなのだが、どうやら自分は緊張しているらしかった。
別に母を討つこと自体に今更躊躇はない。葛藤がないと言えば嘘になるが、ヴィクターからの依頼を了承した時点で、感情面における割り切りは済ませている。
よって土壇場で尻込みする余地はなく、時が来ればイヴは迷わず引き金を引くだろう。
では何が彼女を委縮させているのかと言うと、答えはこれから直面することになる全く未知の事象にあった。
即ち、人を自らの意思で殺すという体験。それがイヴの精神に無視できぬ程の波紋を呼んでいた。
今まで修行の一環として数多くの星霊を屠ってきたが、彼らは所せん霊素が模倣した仮初の命に過ぎない。
その本質は自然現象に近く、真の意味で生きているモノを――人間を手にかけるのとでは、意味も重さもまるで異なる。
ましてや殺害する対象が血を分けた肉親ともなれば、無意識にでも体が強張ってしまうのはごく自然の反応と言えよう。
ゆえに、イヴは敢えて声に出して呪文を唱えた。幸福だった日々へ、自ら別れを告げるかのように。
「術式起動」
脳裏に思い浮かべるのは、夜の静寂に佇む湖。
凪の水面に意識を溶かし、人間性という名の雑音を根こそぎ消去する。
続けて天から落ちる月の影が湖全体に行き渡るように、指先の隅々に至るまで霊素を行き渡らせるのだ。
魔術を学び始めた時に、母から教わった瞑想法である。
幾千幾万と繰り返してきた習慣は残酷なまでに変わりなく、イヴを神秘を出力するための機構へと切り替えてくれた。
足元に影を手を伸ばし、象られた黒き拳銃を掴み取る。これで準備は整った。
(――来た)
裏路地から、複数の人影が飛び出してきた。
アンブラの魔導士たちである。全員浅くない負傷を抱えつつも、総身より霊素を立ち昇らせ、臨戦の構えを保っている。
そんな彼らを追いかけて、標的が路地の暗がりより姿を浮き上がらせた。
漆黒のベールを身に纏い、影の絨毯の上を悠々と闊歩する夜の化身。久方ぶりに目にする母の外見は、最後に顔を合わせた時から殆ど変わっていなかった。
薄らと浮かんだ隈が病的な風情を漂わせているものの、その浮世離れした美貌は依然として健在である。
そしてそれは、魔導士としての卓越した技巧においても同様だった。
白魚のような指が軽く持ち上がるだけで、無数の魔弾が乱舞し、影絵の怪物たちが吠え猛る。
呼吸一つ取っても濃密な神秘が宿り、世界を支える摂理が端から幻想に侵され無為に帰す。
初めて目の当たりにする母の全霊に、イヴは称賛の念を禁じ得なかった。
あれこそが"魔女"の系譜における一つの完成形、何れは自分も到達しなければならない至境。一人の魔導士として、彼女の弟子であったことを誇りに思う。
だからこそ、ここで必ず殺す。
母がお伽噺に語られるような、恐怖と災いを振り撒く本物の"悪い魔女"へと変わってしまう前に。
「……」
イヴは静かに銃を構えた。
撃鉄を起こし、魔弾を装填する。
環境条件を抜きにしても、これほどの距離の狙撃を成功させるのは、熟練の射手であっても至難を極めよう。
だが彼女が受け継いだ魔術は、窮屈な物理法則などに縛られない。
照準を補佐する使い魔は、既にマルクトの空へと放っている。
標的の姿はイヴを含めた四つの視点より観測されており、仮に逃走を図られたとしても見逃す恐れはない。
「さようなら」
指先は滑らかに動いた。
引き金が絞られた瞬間、銃口が青白い火を吹く。
撃ち出すは『狩猟の矢』。射手の視線を辿り、どこまでも獲物を追跡する魔弾が、流星のごとく天翔ける。
それに対し真っ先に反応を示したのは、母であった。
影の茨を素早く編み上げ、堅固な壁として自身を囲う。
長らく孤独な闘いに身を置いていたがゆえに、神経が鋭敏化されているのか。使い魔の索敵範囲に到達していないにも関わらず、己に向けられた殺意の気配から攻撃を察知したのだ。
従ってこのまま魔弾が射線を進んだとしても、標的に傷を付ける所か触れることすら叶うまい。
しかし、イヴの表情に動揺はなかった。
なるほど確かに奇襲を気取られはしたが、元より想定の範囲内である。どれだけ入念に隠蔽を図ったとて、そこに魔術が介在する以上、母の知覚を完全に搔い潜ることは難しい。
唯一の弟子として彼女の実力を目の当たりにし続けてきたイヴは、そのことを誰よりも理解している。
ゆえに、本命はここから。
間髪入れず、イヴは再び引き金を引いた。
続く二の矢、三の矢もまた『狩猟』の名を関する魔弾。一射目と同じ軌跡を描きつつ、蒼白の閃光が空を走る。
まずは最初に放った弾丸が、標的の元に命中した。案の定、茨の結界を破るには至らず、折り重なる蔦の層を幾らか砕いた所で停止する。
闇色の銃口と共に、母の鋭い眼差しがこちらを向く。空間に残った魔術の痕跡を辿ったのだ。
遠く隔てられた距離を越え、微かに揺れる瑪瑙の瞳と視線が絡み合う。
それが、彼女ら母娘の最後の交流となった。
"――!"
母を護っていた茨の壁が、内側から弾け飛ぶ。裂け目から溢れ出るは影絵でできた無数の牙、或いは爪。
そして次の瞬間、飛来した魔弾が母の胸板を深々と抉った。
傷口から溢れ出る鮮血が、黒衣をみるみる赤く染めていく。
イヴが行ったのは、要するに魔弾による玉突きだ。
前提として、最初の一発目は使い魔の種を仕込んだ特別製だった。それを茨の中に潜り込ませた後、二発目を背面から接触させ、霊素を移転させる。
結果、餌を与えられた種は急速に成長、膨張し、その圧力によって堅牢な防御を内部から破壊したのだ。
後は無防備になった標的を三発目の弾丸が撃ち抜き、致命傷を与えたという訳である。
もっとも所詮は小細工の域を出ない策であり、本気になった母に通用するとは考え難かった。
だから決め手として、イヴは愛情を利用したのだ。初弾でこちらの位置が特定されると踏み、敢えて姿を晒したまま狙撃を敢行した。
自分の姿を目にした母が、少しでも警戒に綻び生んでくれるように。
それは返り討ちに遭う危険性も孕んでいたが、結果としてイヴの目算は叶ってくれた。
急所を穿たれた母は傷口を抑え、地面に膝をついている。即死しなかったのは土壇場で身を逸らしたためだろう。それでも出血の量を鑑みるに、死は確定的と判断できる。
止めを刺すべきか。少しだけ逡巡した後、イヴは銃を構える。徒に苦しめるのは、彼女としても本意ではない。
その時、母がゆっくりと顔を上げた。
咄嗟に引き金から指を離す。愛さえ策に使われた母は、一体どのような表情を浮かべているのだろう。
憎悪だろうか?絶望だろうか?
好奇心からでもなく、勝利の高揚からでもなく。ただ殺したからには見届けるべきという義務感から、イヴは粛々と母の顔に目を凝らす。
「……え?」
されどイヴの喉から出てきたのは、そんな間の抜けた声だった。
勘違いでなければだが。母の口元がほんの一瞬、笑みを形作ったように見えたのだ。
朱に染まった唇が、短く言葉を紡ぐ。
"■■■■。"
最期の言葉は聞こえなかった。読み取ることもできなかった。
母の体がぐらりと傾き、血溜まりの中に倒れ伏す。
その姿は地に落ちる椿の花を連想させ、死の香りに満ちているのに妙に美しく思えた。
「……………………"魔女"の結末は、報われない」
長い、長い沈黙の末に、イヴは噛みしめるように呟いた。
古の時代より伝わるその言葉が意味する所を、彼女は今正に目の当たりにしたのである。
曰く、"魔女"の名を継ぐ者は、等しく悲劇の中で息絶えるという。
工房に籠れば怪物として討ち取られ、民衆に尽くせば裏切られ、悪徳に耽れば理不尽によって蹂躙される。辿る道筋は千差万別なれど、行き着く先は必ず同じ。
現にイヴをして至高と称えさせる程の魔導士であった母も、その運命から逃れることは叶わなかった。
無論、因果関係を踏まえれば腑に落ちる話ではある。例え相手が悪党と言えども、大勢の命で手を汚してきた事実に変わりはない。
愛する者を奪われたのも、愛する者に討たれたのも、全て自業自得と捉えることができるのだろう。
だが、それでも。見知らぬ誰かのために闘ってきた人が迎える結末としては、余りに虚しく思えてならなかった。
「だったら、私は……」
母がこのような最期を遂げたのならば、親殺しという大罪を自ら犯したイヴ・カルンハインを待ち受ける終幕は?
決まっている。
きっと背負った罪に相応しい罰が下り、散々責め苦を味わった果てに惨めに息絶えることだろう。
否、そうであるべきだ。そうでなければ、辻褄が合わない。
降り頻る雨を浴びるように、イヴは色褪せた空を仰いだ。胸の奥から湧き上がる問いが、掠れた声乗って口を衝く。
「貴女はどうして……最後に笑ったの?」
その答えをくれる者は、もういない。
更新が遅くなってしまい申し訳ありません。
当方の事情が諸々落ち着きましたので、投稿を再開いたします。
本年も拙作をお楽しみ頂けますと幸いです。




