1-6 ある雪夜の出会い 其之一
細やかな宴会は深夜を間近に控えたところでお開きとなった。
ちなみに主賓であるアルフォンスは半刻前に店を出ている。にも拘らず飲み食いが続いた辺り、何かにつけて騒ぎたい者が多いのだろう。
かく言うヘイズも、その一人だった。滅多に味わえない高級品もあって、いつもより飲みすぎてしまった。
どことなく頭がふわついているのを感じつつ、後片付けに勤しむ。
現在『カメリア』に残っているのは、ヘイズとフランツのみ。
給仕も客も帰宅したか、仕事に向かったかで、店内は水を打ったように静まり返っていた。
机を布巾で丁寧に磨き、床を隅々まで箒で佩く。
三ヶ月も経てば手慣れたもので、自分に割り振られた作業をヘイズは着々とこなしていった。
本来、客の立場であるヘイズが手伝う必要はない。
だがフランツには何くれと世話になっている手前、しばしばこうして店の手伝いをしているのだった。
「おいヘイズ、ちょっといいか?」
一通りの掃除を終え、道具を物置に放り込んだ所で、フランツに声をかけられた。
「アルフォンスの奴が忘れ物をしていきやがった。悪いが、アイツの家に届けてやっちゃくれねえか」
そう言ってフランツが手渡してきたのは懐中時計だった。
随分と年季が入っており、表面には細やかな傷がついている。
しかし、金属の光沢は艶やかさを失っておらず、丹念に手入れがされているのが見て取れる。
確か貿易商としての生計が安定した頃、少し背伸びをして買った一品なんだとか。酒の席でアルフォンスが照れくさそうに語っていたのを覚えている。
几帳面な彼にしては珍しい忘れものだ。
久方ぶりのカメリアでの宴会に舞い上がってしまったのだろうか。
「分かりました。じゃあ、ちょっと行ってきます」
丁度外の空気を吸いたかったこともあり、ヘイズは二つ返事で快諾した。
愛用の外套を羽織り、懐中時計を懐にしまってから店を出る。
途端に頬を撫でた冬の風に、思わず身震いした。僅かながら残っていた酔いが、急速に覚めていく。
今夜はいつにも増して冷え込んでいる。
そう思った矢先、視界の端ではらはらと白い何かが舞い降りてきた。
雪だ。
羽毛の様な水の結晶が、夜空を彩っている。
軽い泡雪なので、積もることはないだろう。しかし、街灯に照らされてた淡い粒は、思わず立ち止まって見上げてしまう程度には情緒的だった。
「道理で寒い訳だ」
ポケットに手を突っ込んで、ヘイズは夜の街に足を踏み出した。
マルクトという都市は、夜になれば巨大な歓楽街としての側面を表にする。
劇場やクラブ、賭博場や娼館等、数多の娯楽施設が門戸を開き、独特の喧騒を繰り広げている。怪しく煌めくネオンの光は、人々を熱狂に巻き込む誘蛾灯そのものだ。
それと同時にこの時間帯は、日陰に生きる者達が活動を始める頃合いでもあった。
街の明かりが作りだした陰影の中を、あらゆる悪徳が跳梁跋扈する。
秩序と混沌、退廃と繁栄。
相反する二つが鎬を削り合う姿は、人心惑わす『魔都』と称されるのも頷けよう。
さて、客引きの声を躱しつつ歓楽街を抜ければ、打って変わって閑静な住宅地に辿り着く。
この辺りは富裕層が邸宅を構える区画であり、建物の意匠もどこか高級感がある。夜の街特有のいかがわしい雰囲気も、ここには流れ込んできていない。
ホーキンス邸の場所はフランツから教えて貰っている。
メモを頼りに建物を通り過ぎ、ヘイズは目的の家の前で立ち止まった。
窓に明かりが灯っているので、恐らく住人はまだ起きているだろう。
控えめに扉をノックする。しばらくすると、扉越しに人が駆け寄る気配がした。
「どちらさまでしょうか?」
控えめに空いた扉の隙間から、女性が顔を覗かせた。
決して華やかではないが、路肩に咲く花の様な、しっとりとした上品さと健気さを湛えた美人である。
ホーキンス夫人だ。
アルフォンスから散々惚気話を聞かされる傍ら、顔写真を見せて貰ったことがある。
とは言え向こうは初対面であり、その表情には幾ばくかの警戒心が滲んでいる。こんな夜更けに見知らぬ若い男が訪ねてくれば、当然の反応と言えるだろう。
なので居住まいを正し、折り目正しく頭を下げる。
「夜分遅くに申し訳ありません。『カメリア』のフランツから使いを頼まれた者です」
「ああ、フランツさんのところの。……でしたら、あなたがグレイベルさんなのかしら?」
「はあ、そうですが……?」
「やっぱり!本当に琥珀みたいな綺麗な瞳をしていらっしゃるのね」
ぱっ、と夫人の表情が目に見えて明るくなった。
対してヘイズは彼女が自分のことを知られているとは思わず、面食らってしまう。
「主人がよくカメリアでのことを話すものですから。あなたのお話も聞いていますのよ?お会いできて光栄です」
「は、はあ。それはどうも……」
一体どんな話をしているのだろうか。
気にはなったが、用件を先に済ませる事にする。
「失礼ですが、アルフォンスさんはいらっしゃいますか?忘れ物を届けに来たのですが」
「まあ、そうでしたの。ですが、態々ご足労頂いたのにごめんなさいね。実は主人はまだ戻っておりませんの」
「……戻っていない?」
「ええ、寧ろまだ『カメリア』にいるものだと思っていたのですが」
夫人の言葉に、ヘイズは怪訝そうに眉を顰める。
アルフォンスは当の前にカメリアを出ている。
堅実な商売をモットーとするだけあって、彼は賭博場に立ち入ることは滅多にない。
加えて夫人への熱の上げようはカメリアの常連に知れ渡る程で、娼館に赴く可能性も限りなく低いはず。
にも拘らず、彼は未だ帰っていないと言う。
普段ならばそう気に留めるような話ではない。
人がいつも同じ行動をする訳が無く、時には寄り道をしたり、遊び呆けたりしたくなることだってあるだろう。
だが、ヘイズの脳裏には昼間に聞いたとある話が過っていた。
――吸血鬼。
夜な夜な人を襲い、その血を啜る恐るべき怪異がマルクトの闇に潜んでいるという噂が。
「あの、主人がどうかしたのでしょうか?」
黙り込んだこちらを不思議そうに窺うホーキンス夫人。
内心の懸念を気取られぬよう、ヘイズは愛想よく笑顔を返す。
「何でもありません。もしかしたら、すれ違ってしまったのかも。忘れ物は預けておきますね」
「ありがとうございます。もしよろしければ、主人が戻るまで中でお待ちになりますか?こんな寒空ですもの、お茶位ならお出ししますわ」
「いえいえ、流石に上がり込む訳には。俺はこれで失礼しますよ。……今日は冷えます、戸締りはしっかりされると良いでしょう」
胸騒ぎがした。
皮肉なことに、こういう時のヘイズの勘はよく当たってしまう。
ホーキンス夫人が扉を閉めたのをしかと確認してから、彼は踵を返した。
疾走を開始する。
正面に差し迫る壁に足を掛け、大きく跳躍。夜天に灰色の外套が翻る。地を蹴り、壁を蹴り、屋根を蹴って、変幻自在の軌道を描きながら街を駆けていく。
「畜生め、今日は厄日だ!」
思わず毒づきながら、ヘイズは懐から銀色の鎖を取り出した。
術式起動と小さく唱えると、先端に括りつけられた水晶の錐の中で光が明滅を始める。
探索式と呼ばれる魔術である。
元々は水脈や地脈の所在を探るために開発された術式だが、ヘイズが使ったのは人捜しに最適化されたものだ。
人間がその身に宿す霊素には、それぞれ特有の波長がある。それを術式に変数として入力することで、相手の居場所を探索できるのだ。
『カメリア』の常連客の波長は大凡、頭の中に入っている。
ヘイズは記憶の中からアルフォンスの情報を引っ張り出して、魔術を発動させた。
仮に、『カメリア』を出てそのまま邸宅へと向かったとするならば、自分と同じような経路を辿るはず。
ヘイズの推測は誤っていなかったようで、来た道を引き返すとすぐにぼう、と水晶に灯る光が明るさを増した。
間違いない。
アルフォンスはこの近くにいる。
慎重に水晶の反応を観察しつつ、ヘイズは徐々に人通りの少ない方へと進んでいく。
やがて行き着いたのは、表通りからかなり外れた路地裏の一画であった。
充満する暗闇は、まるで底のない穴のよう。おまけに幾ら夜と言えど、周囲に不自然なまでに人の気配がなかった。
鎖をしまい、ヘイズは意を決して足を踏み出す。
途端、肌がざわついた。
これは恐怖によるものか。
いや違う、この泥のようにまとわりついてくる奇妙な感覚は昼間に味わったばかりだ。
即ち、異界。
ここから先は人知及ばぬ神秘が潜む領域であると、魔導士としての経験が告げていた。
かつん、かつんと踵が石畳を叩く。
何かに導かれるように、ヘイズは自然とその場所に到達した。
――果たして、彼の予感は的中した。
あらゆる光を排斥するような夜闇の奥に、影が蟠っている。
人だ。何か胸に抱えて、それに口づけるように頭を下げている。
影がヘイズの存在に気が付いたらしい。ゆるり、と長い髪を揺らしながら振り向く。
女だった。娼婦なのだろうか、肩や胸元が大きく開いたドレスを着ている。
その面差しは路地裏で春を売る身とは思えない程瑞々しく、美しく精緻に整っていた。
けれどもその表情からは生気と呼べるものが一切感じられない。紅の燐光を帯びた虚ろな双眸が、鏡みたいにヘイズを映している。
そこでヘイズはようやく、女が抱えているものが何なのか気が付いた。
赤毛の、若い男。
首筋に穿たれた一対の小さな孔から、赤黒い液体が零れていて。
ぽたりと落ちた雫が、石畳の上で弾けた。
それを目視したと同時に、ヘイズの中で意識が切り替わった。
弾丸のごとく地を蹴り、そのまま女の美顔目掛けて靴底を叩きこむ。
ごきん、と生々しい音がした。
そのまま吹き飛んでいく女には目もくれず、ヘイズはアルフォンスを抱き起こす。
「アルフォンスさん。おい、しっかりしろ」
「ぅ……あ、ぁ……」
頬を軽く叩き、肩を揺さぶれば、呻き声が返ってくる。
生きている。だが顔色は蒼白で、脈拍も弱い。酷く衰弱しているのは明白だった。
血を吸われただけではない、何かもっと、生命の根幹そのものを失くしたような症状に、ヘイズは覚えがあった。
「霊素を食われたのか……」
弱り具合からして、かなりの霊素を失ったのだろう。
応急手当の魔術で血液の補填は出来たとしても、そちらが回復しなければ意識は戻るまい。
まずは治療院に運ばなければ。
だが、アルフォンスを肩に担ごうとしたところで、背後で何かが蠢く物音がした。
「……まあ、そうだよな」
ヘイズはアルフォンスを壁に寄りかからせると、ゆっくりと立ち上がる。
相手がもし、伝承に謳われるような本物の吸血鬼であるならば。
曰く、彼らは闇夜において不死身である。
ゆえに先程の、首の骨が圧し折れる程度の蹴りで行動不能になるとは思えない。
事実、女は倒れた体勢からそのまま起き上がろうとしていた。
人体として有り得ない関節の動き。
更に顔面を蹴りつけられたにも関わらず、痛みを感じている様子さえなかった。
「お前、何だ?」
短剣に手をかけながらヘイズは問いかける。
足の裏に残る奇妙な質感。
表面は紛う事なく人間のそれだ。
けれど違う。皮膚と肉の向こう側、人を人たらしめる中身が根本的に自分達とは異なっている。
魔導士でも、星霊でもない。言い知れぬ不気味さを覚える相手だった。
女は黙したまま、ヘイズを見つめている。
『……』
ふと、その赤い瞳と視線がぶつかった。
「っ!」
視界が捻じ曲がる。
次いで、ヘイズの脳に思考を蕩かす甘い感覚が襲った。
まるで夢の中に微睡むよう。ふわふわと意識が浮ついていて、心地よい。
女の艶のある唇から、白く鋭い牙が覗いた。あれに首を貫かれ、命を啜られる。
それはなんて、甘美なことなのだろう。
ヘイズの体から、意図せず力が抜けていく。どこまでも優しく、蠱惑的な囁きに、脳が彼女に身を委ねよと促してくる。だが。
「黙れ、鬱陶しい」
ヘイズは煩わし気に頭を振るだけで、それを掻き消した。
次いで自らの身に起こった事象を理解する。
恐らくは魅了の魔術の一種。眼光の明滅によって、脳に干渉されたのだ。
なるほど、一般人であればかなり有効な手だろう。
だがこの程度、解呪を使うまでもなく、自前の耐性だけで弾くことができる。
一方で、まさか術が弾かれるとは思っていなかったのか、無表情の女の顔が僅かに揺らいだように見えた。
ただそれも瞬時に掻き消えて、彼女は直ぐに次の行動に移った。
両腕を左右に広げる。すると指先に生えた爪が、なんと短剣程の長さにまで伸びたではないか。
そしてドレス姿にも関わらず、女は獣じみた身のこなしでヘイズに飛びかかって来た。
寸での所で躱す。
女の爪は木の板でも削るみたいに、石の壁を容易く抉り取った。
刻まれた痕には、毒々しい紫の瘴気がこびり付いている。
先程の魅了とは比べ物にならない。相手の息の根を確実に止めるための凶悪な猛毒だった。
(あれは、流石にまずいな)
ヘイズは直感的に悟る。
食らえば例え死ななくとも、前後不覚に陥るだろう、と。
なので、短剣で防ぐ。金属同士がぶつかり合う、甲高い音が木霊する。
女の攻撃は我武者羅に見えるものの、その実極めて効率化されていた。体の稼働範囲を無駄なく使い、最短距離でヘイズの命を狙いにくる。
まるで機械のように計算された、温度を排した挙動。だが、常に最適解を選択し続けるからこそ、対処は容易い。
相手が攻撃しやすい位置に敢えて踏み込み、ヘイズは隙を晒す。
案の定、食いついてきた。
心臓目掛けて突き出される猛毒の爪、それを短剣の柄で真横に打ち払った。
つんのめるように体勢を崩す女。ヘイズはドレスの襟を掴んで、力任せに壁に叩きつける。
「……ちっ」
ヘイズは舌打ちした。
人間であればこれで決着しただろうが、女はよろめくだけですぐ持ち直した。
痛みを感じていないのか、はたまた別の要因なのか。
何にせよ、暖簾に腕押しで、ダメージを与えている手応えがない。
となると次に試すのは、四肢の破壊だろうか。例え不死身だとしても、物理的に動けなくなれば止まらざるを得まい。
身を屈めた状態から一足で肉薄する女を、ヘイズは短剣で迎え撃つ。
しかし、刃は空しく空を切った。目の前にまで迫っていた筈の女の姿が、掻き消えている。
視界の上端を、ドレスの裾が通り過ぎる。それを追いかけてみれば、宙を舞う影が。
ヘイズと衝突する直前で、女は高々と跳躍したのだ。
そして着地と同時に、加速する。狂騒が狙う先は、無防備な姿を晒すアルフォンス。
己の失態に歯噛みしつつ、ヘイズは急いで追いかける。疾風さながらに女の真横に張り付き、手首を捩じり上げんとする。
――その時ぎちり、と女の背中が生々しい音を立てて隆起した。
「っ!」
ヘイズは咄嗟に女を突き飛ばす。
結論から言えば、そうしなければ彼の肘から先は消失していただろう。
女の背中を勢いよく突き破って現れた何かが、掌の僅か手前を高速で掠める。
それは、異形の翼であった。
いや、翼と形容するには余りにも奇怪だった。
意思を持つかのように蠢くそれは、蜘蛛の脚を連想させる鋼鉄の爪。或いは、死神の鎌といったところか。
女の身の丈程もある六つの刃の切っ先が、ヘイズの方を向く。
「……それは、流石に予想外だったな」
体積だとか質量だとか、そんな物理法則を一切無視した禍々しい変貌。
最早人としての輪郭を留めていない女を前に、ヘイズは呆然と呟くことしかできなかった。
一切の慈悲なく、凶刃が獲物を蹂躙せんと解き放たれる。
回避は間に合わない。
出来ることと言えば、精々身を捩って致命傷を避けるくらいだ。
只人ならそれでも間違いなく死ぬだろうが、この身は魔導士。
肉体の強度と回復力を底上げすれば持ちこたえられるはず。
鈍い光を宿した切っ先が迫る。
自らを襲うであろう痛みを覚悟しつつも、ヘイズは決して目を逸らさない。
銀の閃光が夜を引き裂いたのは、次の瞬間だった。
落雷のような轟音が大気を震わせ、凶刃を伸ばす怪物が紙屑のように吹き飛んでいく。
目の前に影が降り立ち、烏羽色の外套が翻る。
「ご無事ですか?」
凛、と鈴を鳴らすような女の声が、ヘイズの耳朶を叩いた。
こちらに振り向くその姿を、どうして忘れられよう。
何せつい数刻前に別れたばかりで、しかも出来れば二度と会いたくないと思った人物だったから。
そんなヘイズの顔を見て、相手も少し驚いたようだ。
黒衣をまとう女はフードの下で面白そうに唇を釣り上げる。
「こんばんは、こんな所で奇遇ですね」
「アンタ、は……」
思わぬ再会にヘイズが言葉を詰まらせる中、女は躊躇いもせず顔を覆うフードに手をかけた。
「ああ、すみません。二度目の対面だと言うのに、顔を見せないのは流石に無礼ですね」
露わになった面を見て、ヘイズは知らず息を呑む。
歳の頃は青年と同じくらいだろうか。
夜風に靡く、透き通るような白金の髪。それを首の後ろで一つに結んでいるだけなのに、恐ろしく様になっている。
涼やかな顔立ちは玲瓏でありつつも、どこか飄々と掴み所がない。
だが何より印象的だったのは、彼女の瞳である。まるで宝石を思わせる、どこまでも迷いのない清冽な輝きを宿した紫水の双眸。
きっとこの先二度と忘れないであろう、磨き抜かれた刀剣のごとき気品を備えた女だった。
「初めまして。私はセリカ・ヴィーラント、貴方と同じ魔導士です。お見知りおきを」
呆然と言葉を失うヘイズの前で、女は綺麗な微笑みを向けてくるのであった。
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