2-27 彷徨う凶星 其之九
午前のカメリアは閑散としている。
多様な料理を揃えているとは言え、店の本質は酒場なのだ。忙しくなるのは夕刻を迎えた辺りからで、日の高い内は客入りが少なくなるのは当然の話だった。
とは言え完全に暇かと問われれば違うだろう。新たなメニューの開発に余念のないフランツにとっては、人目を気にせず試行錯誤に没頭できる貴重な時間なのだ。
ゆえに彼はいつも通り調理台の上に食材を並べ、味覚の創出に思いを馳せていたのだが……今日に限っては、事情が異なっていた。
「うん、相変わらず美味しい。やっぱりここの珈琲が一番しっくりくるわ」
声の主はカップに口を付け、安堵したように表情を和らげた。
シャロン・ミリエル。開店と同時にやってきた彼女はカウンター席の一画を陣取り、遅めの朝食に舌鼓を打っていた。
「お褒めに与り光栄だよ。けど珍しいな、お前が真昼間から出歩くなんてよ」
「あら失礼しちゃうわね、人を引き篭もりみたいに。私だって外の空気が恋しくなる時くらいあるのよ」
心外とばかりに宣うシャロン。嘘を吐けとフランツは心の底から思ったが、口にはしなかった。
彼女との付き合いはかれこれ十年以上にも及ぶ。下手に藪を突けば数倍になって返ってくることを、フランツはよく理解していた。
(全く、昔はもうちょい可愛げがあったのになぁ……)
シャロンが学生だった頃は純朴……ではなかったかも知れないが、年相応の愛嬌を間違いなく備えていた。
それが気付けばどうだ。年中怪しげな取引に勤しむ魔導士へと変貌を遂げる有様である。
自立した大人へと成長したことは素直に喜ばしいが、時の残酷さを痛感せずにはいられない。
「んー?何か失礼なことを考えていない?」
「いいや。あの小娘が一端の淑女になったもんだと感慨深く思っただけだよ」
などとはぐらかすが、流石に露骨過ぎたか。察したシャロンが拗ねたように唇を曲げる。
その仕草に昔日の面影が重なって、フランツは何となく微笑ましい気持ちになった。
「それで?本当の所はどうなんだ?」
「なんのことかしら」
「とぼけんじゃねぇよ。お前が普段と違うことをする時は、大抵ろくでもない事情がある時だろうが」
「……そうねぇ」
指摘を受けたシャロンの目線が、横へとずれる。釣られてそちらを見やると、壁に掛けられた時計の長針が間もなく頂点を示そうとしていた。
「もうすぐ始まるかもしれないお祭りに備えて、かしら」
意味深な物言いに、フランツは首を傾げる。
外が暗くなったのは、その時だった。
稲光が迸り、雷鳴が鼓膜を震わせる。続けてぱたぱたと水の滴が窓を叩き始めたかと思うと、すぐに桶をひっくり返したかのような豪雨が降り始めた。
時節柄天候が崩れやすいとは言え、ここまで急な荒れ方は珍しい。
通り雨だろうか。フランツがぼんやり考えていると、店の入り口が盛大に開け放たれた。
「ごめんマスター!ちょっと屋根貸して!」
息咳切らせて飛び込んできたのは、常連客の一人だった。額に張り付く髪や、水滴を垂らす衣服が雨脚の強さを示唆している。
流石に濡れ鼠の状態で放っておくのは忍びないので、店の奥からタオルを持ってきて渡してやる。
「災難だったな。天気予報じゃ今日は一日晴れだって話だったんだが……」
「いや全くだよ。しかも単なる雨じゃないしさ、マスターも落ち着くまでは店から出ない方が良いよ」
「……どういうことだ?」
常連に手招きされ、フランツは扉の隙間から外に顔を覗かせる。そして、
「うお寒っ」
吹きつける風の冷たさに身震いした。
咄嗟に零れた悲鳴も、寒気によってすぐに白く染め上げられる。見れば路面には霜が張っており、篠突く雨に混じって大粒の雪と雹が降り頻っていた。
冬の嵐である。さながら季節が逆行したかのような異常気象だった。
「ふうん、やっぱりそっちに転んじゃったか」
いつの間にか横に立っていたシャロンが、この状況を見越していたかのように呟く。
そこでフランツは「あ」と声を上げた。
どうして忘れていたのだろう。今は何を置いても優先すべき事項があったというのに。
「マスター、どうかしたの?」
「……洗濯物、取り込まねぇと」
◇◇◇
一体何が起きた。
圧しかかる瓦礫を使い魔にどかせて、イヴは身を起こした。
途端、視界に雷鳴轟く黒雲が映り込み、冷えた雨粒が頬を濡らす。
刺すような寒風は凍原の息吹そのものだ。春の陽気を余韻一つ残らず駆逐し、生命から熱という熱を掠奪せんと吹き荒ぶ。
周囲に視線を転じれば、そこには惨状を晒す旧市街が広がっていた。
石造りの路面は爆撃を受けたかのように大きく陥没し、倒壊した建物が積もっている。どこか郷愁を感じさせた景観は氷雪によって今や塗り潰され、影も形も残っていない。
「っ……」
噎せ返る程の霊素の奔流に、思わず眉を顰める。
霊脈の乱れが環境に影響を及ぼすことは周知の事実だが、ここまで急激な変容を目の当たりにしたのは初めてだった。
都市の心臓――霊脈炉による制御も働いているのだろうが、歪の拡大に対して処理が全く追いついていない。
このまま放置しておけば遠からず物理法則までもが意味を失い、近辺は人知及ばぬ魔境と化すだろう。
よって先月以上の惨事を防ぐためにも、早急に異変の元凶を取り除き、空間の秩序を回復させる必要があった。しかし。
「――」
それを視界に納めた瞬間、イヴの頭蓋からあらゆる思考が弾き出された。
荒廃した街の只中に、ぽつんと影が佇んでいる。
その姿を端的に表すなら、亡霊の騎士。
全身を朽ちた鎧で覆い、襤褸のごとき外套を頭から被っている。
兜の奥に覗くのは隻眼であろうか。鬼火めいた妖しい光が、底無しの暗黒の中でぼうと灯っていた。
指先の一片に至るまで霊素で構成された体躯からして、星霊の一種と捉えるのが妥当だろう。
だが密度が違う。
強度が違う。
幻想としての次元が違う。
老王種にまで達した竜でさえ、この騎士と比べれば根本的な格に天と地ほどの差が存在しよう。
正しく神秘の極致とも呼ぶべきモノが、形を成してそこにいた。
「……はっ、……っは」
呼吸が覚束ない。心臓は激しく脈打ち、加速する血流が今にも皮膚を裂いて溢れてしまいそう。されどイヴの胸を震わせる感情は、恐怖からは程遠かった。
深い感動と、畏敬の念である。
星霊が神話を構成する断片だとするならば、亡霊の騎士は神話の織り手に他ならない。
太古の時代より人類に語り継がれ、その身を以て奇跡を体現する極星の化身。
要するに概念の具象と呼んで差支えなく、挑む闘うなどと考えること自体烏滸がましい存在だった。
どうする。未だ消えぬ動揺を懸命に殺しつつ、イヴは思考を巡らせた。
最古の神秘の後継、魔女としての直感が告げている。
あれには勝てない、と。
例えイヴが持ち得る全ての手管を用いたとしても、精々時間を稼ぐの関の山で、徒労に終わることが目に見えている。
恐らくヴィクターが用意した保険が合流したとしても、その事実は覆るまい。寧ろ相手の正体が分からぬ以上、不用意に刺激を与える真似は避けるべきだった。
従って、現時点で取るべき行動は一つに絞られる。
被害の規模を可能な限り抑え、マルクトの壊滅と言う最悪の事態を回避するのだ。
そう結論付けたイヴは仲間や軍警局に状況を伝えるべく、使い魔の鴉を荒れ狂う空に向けて放つ。
亡霊の騎士がこちらを一瞥したのは、直後のことであった。
「……っ!」
這い上がる悪寒に駆られるまま、イヴは全速力で術式を繰る。
果たして、彼女の対応は間に合った。
影の茨を周囲に幾重も展開すると同時、騎士の足元から昏き怪炎が噴き上がる。
正確には、それは亡霊の大群であった。無数の死者の残滓は猟師の姿を象りながら地を滑り、イヴの元へと雪崩れ込む。
もし使い魔の召喚が間に合っていなければ、彼女の肢体は今頃八つ裂きにされていただろう。
鉈に銃。剣に弓。千差万別の得物を手に続々と襲い来る亡霊たちは、一体一体がエドワードの支配下にあった時よりも格段に強い呪詛を帯びていた。
或いはこれこそが彼ら本来の姿なのかもしれない。真の主に仕えることにより、秘められた潜在能力が最大限にまで発揮されているのだ。
「食らって」
無論、座して死を待つイヴではない。漆黒の狼犬を追加で呼び出しつつ、魔弾による応戦を試みる。
とは言え物量の差は如何ともしがたく、多数を相手取ることに秀でたイヴですら、防戦に徹さざるを得なかった。ここに騎士の攻撃まで加われば、立ち所に瓦解しよう。
ゆえにイヴは退路を確保すべく、霊素を練り上げる。
が、結論を述べれば、彼女の懸念は外れることとなった。
理由は騎士の視線は既にイヴではなく、マルクトの中心に聳える時計塔に向けられていたため。
やがて鎧を軋ませて、その足が徐に踏み出される。
一歩、また一歩と。老いた巡礼者のごとく厳かに、亡霊の王が嵐と死者を引き連れて文明の骸の上を往く。
(……追いかけている?)
訳もなくイヴはそう直感した。目的は依然として不明ではあるものの、ただ一点を目指して歩を進める騎士の姿からは、どこか切実な印象を受けたのだ。
尤もその道程を阻むという選択肢はイヴにはない。
知らせを飛ばした以上、住民の避難は既に始まっていると見て良い。ならば早急に亡霊の群れを掃討し、そちらに助力する方が、勝ち目のない戦に望むことより余程建設的だった。
重要なのはマルクトを存続させること。そのためならば幾らでも非情な手段を使うし、時に流血の取捨選択すら行おう。
それが結社『アンブラ』の意義である。
この都市の行く末を見守る魔女としての役割である。
――ふと、脳裏を過る光景があった。
夜空には鮮やかな銀の月。眼下に広がる街明かりは、大地に散りばめられた星のよう。
幼いイヴを膝に乗せた魔女は、人々が織りなすその営みの光を愛おしそうに眺めていて。
気付けばイヴの銃口は、騎士の背に狙いを定めていた。
「あ」
鳴り響く銃声に、誰より彼女自身が驚いた。
『壊滅』の名を与えられた死の魔弾が、射線上の亡霊たちを薙ぎ払い騎士の肩に着弾する。
火花が散った。
恐らく騎士からすれば小石を投げつけられた程度の痛痒なのだろう。現に魔弾が命中した箇所には小傷さえ生まれていない。
しかし意識をこちらに向けさせる分には、十分過ぎる威力があった。
"――"
騎士が振り返る。妖しく光る隻眼が、狼藉者の存在を確と認める。
「………………はあ」
何という愚行。何という暴挙。イヴは自分自身を呪いたくなった。
好奇心から?なるほど、神秘の探究は魔導士の至上命題だ。研究対象としてあの謎に塗れた騎士は非常に興味深く、隅々まで解剖して分析したいという欲求は当然のように存在する。
だが違うのだ。彼女がらしからぬ行為に及んでしまった理由は、もっと単純な要因に帰結する。
つまり、身も蓋もない言い方をすれば……癪に障ったのだ。
いきなり登場した分際で、何を我が物顔で私の庭を踏み荒そうとしているんだと。
自分でも理解不能な域の激情が、イヴの胸中で燃え滾っていた。
"――"
悠然と騎士の手が持ち上がる。凝集する霊素から、一つの質量を引き摺りだす。
それは長く重々しい、槍とも杖ともつかぬ奇妙な形状をした得物だった。
騎士がその柄を掴み取ると同時、応じるように極寒の嵐が激しさを増す。戦闘態勢に入ったのだ。
「……まあ、とりあえず。少しだけ頑張ってみましょうか」
もはや後戻りはできない。
半ば諦めの境地にありつつも、イヴは躊躇わず前に進み出た。
彼我の力量差は歴然であり、敗北は確定的と言えるだろう。だが魔道の深淵に触れられる貴重な機会と思えば、そう悪くない。
何よりも。悔いのない結末とは、己の信義を貫いた者にこそ与えられるのだと、彼女は少し前に知ったから。
かくして宵闇の魔女は、己の全てを賭して神秘の頂に立ち向かう。
――決着は、あっけなく付いた。
次話は明日の昼頃に投稿いたします。




