2-24 彷徨う凶星 其之八
マリアン・ルベリウスにとって、闘争とは至上の"交流"である。
愛と憎悪、絶望と希望、悲嘆と歓喜、恐怖と勇気。
戦がもたらす狂熱は人の理性を容易く蕩かし、秘めた感情を爆発させる。
そこには打算もなければ柵もない。誰もが恥じることなく自らの本質を曝け出し、ただ生き延びるために死力を尽くす。
何と甘美な世界であろうか。丸裸の魂と魂が火花を散らす様は、相互理解の究極と呼んで相違ない。
その苛烈な営みはマリアンを幼少の頃から魅了して止まず、ゆえに血風荒ぶ荒野をこそ己が楽土と彼女は定めていた。
無論、マリアンとて物を知らぬ訳ではない。自身の嗜好が常人から逸脱していることなど、とうの昔に承知している。
それでも刃を通じて互いの呼吸が溶け合い、命を絶つ刹那に得も言われぬ恍惚と寂寥を味わうあの感覚が、堪らなく愛しくて。
マリアンは心の欲するまま、戦火を求めて己が魔道を走り続ける。
そのようにしか生きられぬのではなく、そのように生きるのが自分にとっての幸福であると信ずるがゆえに。
――ならばこそ、彼女には今の状況が不満で仕方がなかった。
「うーん、どうしたら君はその気になってくれるのかなぁ?」
悩まし気に視線を向けた先では、灰色の青年が剣を杖代わりに立ち上がらんとしていた。
髪は血と泥に汚れ、荒い呼吸を繰り返す姿は見るからに痛々しい。全身を巡る霊素の量も減衰しており、もはや満身創痍の有様である。
だと言うのに、彼の双眸は未だ翳りを見せていなかった。寧ろ窮地にあってより炯々と燃え盛り、それが益々マリアンを困惑させる。
「……」
不意に、青年の姿が陽炎のように解け消えた。
恐らくは幻術の類。術の起こりを感じさせぬ手並みは見事という他になく、平時なら心からの賛辞を送っていただろう。
だからこそ、この後に訪れるだろう顛末に落胆を禁じえない。
気配が現れた方向を見やれば、音もなく間合いを詰めてきた青年と視線がぶつかる。
黒剣は既に振り抜かれている最中で、対処を過てば深手は必至。
しかしそうと理解しながらも、マリアンは防ぐ素振りすら見せなかった。寧ろ自ら刃を受け入れんとするかのように、敢えて無防備を晒す。
「……っ」
対する青年の反応は顕著だった。剣がマリアンに届く寸前で手の内を返し、側身による殴打へと攻撃を切り替えたのだ。
もっとも鋼の塊を叩きつけられれば、当たり所によっては充分致命打になり得よう。だがそれは常人を相手取る場合の話であって、歴戦の魔導士に使う技としては余りに手緩い。
ゆえにマリアンは迫る剣を左の掌だけで受け止めて見せる。続けて鋭く呼気を吐き、生じた風を衝撃波へと変じた。
得物を掴まれたままの青年にこれを避ける術はない。大気の鉄槌に打ち据えられ、地面を無様に転がる。
「はあ……」
憂いを帯びた嘆息がマリアンの口から零れる。
直近は同様の場面の繰り返しであった。青年の攻撃は敵を無力化することに主眼を置いており、殺意が決定的に欠けている。
そのため幾ら隙を作ってみても、必ず土壇場で踏み止まってしまうのだ。果敢に仕掛けてきてくれるのは大歓迎だが、これでは余りに味気ない。
そして何より無視されているという実感が、マリアンの興を著しく削いでいた。
「こっち向きなよ」
主の心情を代弁するように、烈風が唸りを上げて疾駆する。
素早く体勢を整えた青年は霊撃による相殺を試みるも、疲弊ゆえか出力の差は歴然だった。砕き切れなかった退廃の残滓が彼の体に絡み付き、血飛沫を散らす。
その間も琥珀の双眸はマリアンに固定されて動かず、ひたすら観察を続けていた。まるで目を逸らしたら死ぬと言わんばかりの、鬼気さえ感じさせる眼差しである。
にも拘らず、マリアンは見られている気が微塵も湧かなかった。
確かに瞳は自分に据えられているが、あくまで機械的に像を映しているだけ。意識は別の所へと注がれているように思えてならない。
つまり何もかも一方通行だった。
こちらは殺し合いに没頭したいのに相手は応えてくれず、あまつさえ背景のごとく扱われる始末。
手加減されているとは感じない。ただマリアンが望む"交流"の形からは程遠く、要所要所で優れた技巧を見せつけてくるだけにもどかしさも一塩だった。ゆえに、
「君は強いよ、私が保証する。多分うちの団の中でも真面にやり合える奴は限られてくるだろう。……でも、その程度な筈がないよね?」
などと、叱咤にも似た台詞を投じてしまう。
別に根拠もなく断じている訳ではない。半生を戦火と共に過ごしてきたマリアンは、その遍歴に相応しい見識を以て、青年の特性をほぼ看破していた。
闘いの中で成長するのではなく、積み上げてきた記憶から最適解を組み上げるタイプ。
術式の暴走という自殺行為を武器として転用できているのも、膨大な経験則に裏打ちされた勘働きに因る所が大きいのだろう。
総じて敵が強くなればなるほど挙動が冴え渡る、格上殺しに特化した手合いと形容して良い。
そして『アンブラ』に属することになった経緯に、二度に渡る威力偵察とイヴから受けた忠告。
以上を踏まえてマリアンは確信を抱いたのだ。この青年は得難い好敵手になってくれる、と。
「私は闘いが好きだ、心の底から愛してる。だから君にも同じように夢中になって欲しいし、不満があるなら出来る限り改善したいと思うんだ」
重要なのはただ一点、本気の青年と鎬を削ること。そのためだけに迂遠な策を弄してまでこうして舞台を整えたのだ。
無論、努力が必ずしも報われるとは限らないのが世の常ではあるが、見向きもされぬというのは些か寂しい。
ゆえにマリアンは諦めきれず、清廉とさえ呼べる心根で希う。
「私は人付き合いが上手い訳じゃないから、ちゃんと言葉にして教えて欲しいな。君はどうしたら闘ってくれる?どうしたら本当の姿を見せてくれる?でないと……うん、心から残念ではあるけれど」
もう殺してしまうよ、と。
術式を回しつつ続けようとした、その瞬間だった。
「捉えたぞ」
目の前に、灰色の影が迫っていた。
「っ……!?」
背筋に走る悪寒が、マリアンの体を突き動かす。
霊素を総動員して脚力を増幅、後方へ飛び退かんとするも僅かに遅い。黒き切っ先がマリアンの額を浅く裂き、鮮烈な赤を迸らせた。
「今の、は……」
心臓が早鐘を打っている。過剰なまでに青年から距離を取ったマリアンは、呆然とした面持ちで今の奇襲を反芻していた。
こと闘いの場において、彼女に油断などという概念は存在しない。相手が強者であれ弱者であれ、敵に回ったのなら等しく全霊を以て仕留めるのが『不凋の薔薇』の流儀であり、戦場という混沌の坩堝で生き残るための秘訣だった。
しかも今回は望んだ相手との一騎討ちだ。その集中力は普段よりも鋭利に研ぎ澄まされていたと言って良いだろう。
だが結果は御覧の通り、マリアンは攻撃の前兆をまるで察知できなかった。更には反撃することも忘れ、安全圏へと全速で逃れる有様である。
ありえないことだった。過去の記憶を紐解いてもこのような経験は初めてで、顔を濡らす流血を理不尽とさえ思う。
「くそ……やたら難解な術式を組みやがって。お陰で解析が終わるまでに随分時間を使わされたぞ」
一方で青年はと言えば、両手を地に突いた姿勢で悪態を吐いていた。およそ完璧と評せる不意打ちを実現した反動だろう。
彼が行ったのは恐らく加速術式と幻術を含む認識阻害の魔術の多重駆動。マリアンの意識に強制的に空白を捻じ込み、その隙間を縫って肉薄したのだ。
ここまでは良い。明らかに無茶な行為ではあるが、マリアンの虚を突くという点ではこの上ない位に成功している。
――問題は。今も脳裏にこびり付いて離れない、不吉な余韻の正体だった。
「差し詰め反類感呪術って所か。本来はモノの類似性を媒介に敵対者を攻撃する代物だが、アンタはそれを逆転させることで、自分の損失を踏み倒しているんだな」
訝しむマリアンを尻目に、滔々と淀みなく青年が指摘する。
類感魔術とは要するに、形状の似た物体同士の状態を同調させる神秘だ。
分かり易い例としては、自傷を用いた呪詛が挙げられよう。己を術の対象と見立てて危害を加えることにより、実在の人物にも苦痛をもたらすというもの。
マリアンが纏う術式は、その逆を成すと考えたら良い。
彼女の場合は対峙する者の状態を正として、それが反映される先を自分自身に定めていた。
当然そのように設定すれば相手に対する攻撃によって生じた痛みは、全てマリアンの元に返ってくることになる。
つまり構図だけを切り取れば自殺行為も同義であるのだが、彼女の魔術はこの前提を文字通り引っ繰り返す。
本来ならば自身に再現される苦難苦痛を、恩恵へと転じた上で還元するのだ。
矛を交える敵が傷を負う度、疲弊を重ねる度、逆しまの鏡面たるマリアンは回復し、驚異的な持久力を体現する。
闘争が終わらぬ限り、敵の生き血を啜って咲き誇る深紅の華――それこそが『不凋の薔薇』。
所属する団と同様の名を冠するマリアンの魔術だった。
「術式の中身自体はまあ見応えあったよ。俺にはない発想で組まれた部分もあって、中々興味をそそられた。……だがな」
鼻白んだとばかりに、青年は吐き捨てた。
「コンセプトの方は興醒めも良い所だ。要するにアンタはあれだろ?自分が一秒でも長く闘って、愉しむことができるんなら誰が相手でも良いんだろ?いや魔導士らしくて大変結構。はた迷惑で、馬鹿馬鹿しすぎて感心する」
皮肉交じりの言葉が紡がれる度、マリアンの額に刻まれた小さな傷が疼く。
じくじくと血の雫が滴る傍ら、奇妙な喪失感が胸をざわつかせる。
それがどこに由来する感覚なのかを探り始め、すぐにマリアンは異変に気が付いた。
『不凋の薔薇』が機能を停止している。さながら断線した回路がごとく、供給される霊素に対し術式は何の反応も示さない。
その原因に彼女はすぐに思い至った。
「……なるほど、これが不死殺しの絡繰りだね?」
同時に悟る。青年が観察していたものが何なのかを。
この魔術の発動条件は恐らく、効果を及ぼす対象への理解だ。
だからこそ青年は無意味とも思える突撃を繰り返し、マリアンに術式を使わせ続けた。
基本的な原理に始まり、駆動時に生じる霊素の循環経路や演算の構成等々。魔術という現象の根幹を成す数多の歯車を余さず検分し、最も脆く致命的な箇所を見つけ出す。
そうして必要な情報を揃えた青年は乾坤一擲の奇襲を敢行し、果てにマリアンの術式を破壊するに至っ訳だ。
総括すれば、獲得した知識を神秘に対する殺傷力へと変換する術、とでも表現できるだろうか。
解呪や封印とは全く仕組みが異なる、輝かしき幻想を零落させる解体の刃。それが不死の打破という奇跡の裏に隠された真相であった。
「で?俺にその気になって欲しいだの、散々好き勝手宣ってくれていたが……どれだけお目出度い頭をしてるんだよ馬鹿が」
沈黙を貫いていた態度から一転、饒舌な調子で青年は痛罵する。
「俺にとって闘いは魔術と同じだ。目的を達成するために使う道具の一つで、それ以上でもそれ以下でもないんだよ。今こうしているのもイヴの元へ向かうにあたってアンタが邪魔だからだし、もっと効率の良く片付けられる手段があるなら迷わずそっちを選ぶ」
冷淡に、容赦なく。決してお前の色には染まらぬのだと、遠く突き放すように。
拒絶の言霊が彼我の隔たりの深さを白日の下に晒していく。
マリアンはそれを立ち尽くしたまま聞いていた。戦闘よりも相手の言い分に耳を傾ける方を優先するなど、普段の彼女からは考えられない異常事態である。
にも拘わらず槍を構えさえしなかったのは、偏に予感があったため。
青年の真実に触れた時、自分の中で何かが決定的に変わってしまうような。恐怖とも期待ともつかぬ漠然とした兆しが、彼女の意識を掴んで離さない。
「何よりこいつが一番重要なことだが」
そして青年は当然のごとく告げた。頑なに殺意を潜めていた、その理由を。
「俺は最初に言ったはずだ。アンタは叩きのめす、と。だからそうするんだよ」
「…………なんだって?」
突き付けられた言葉の意味を、マリアンは咄嗟に咀嚼できなかった。
つまり、こういうことか。
彼は別に暴力を厭っている訳でも、何か高尚な主義信条に憑かれている訳でもない。
ただ単純にマリアンの思い通りになるのが気に食わず、逆らいたかっただけ。だから殺すことも向き合うことも拒んだ上で、マリアンを打ち倒すべく剣を振い続けた。
まるで負けず嫌いの子供じみた理屈である。そもそも効率を謳うのならば早々にマリアンを殺せば済む話で、本懐に辿り着くための道筋を自ら遠ざけているようにしか思えない。
馬鹿げている。初志貫徹と呼ぶのも烏滸がましく、狂気の沙汰と評して差し支えない。
なのに総身を駆け上がる戦慄に、歓喜を覚えるのは何故なのか。
「ずるいなぁ」
ぽつりと口から零れた呟きを、誰よりもマリアン自身が驚いた。
何故ならその声音には、紛れもない嫉妬の情が宿っていたため。
では何に対し羨望を抱いているかと自問すれば、答えはすぐに見つかった。
破壊された自らの術式である。
だってそうだろう。
青年の刃が触れるあの刹那。ほんの須臾の間とは言え、彼女が求めて止まぬ魂の猛り――即ち闘志を敵意を殺意を、青年の言う道具ごときが甘受したのだから。
つまり自分はおまけ扱いされた訳で、その事実が堪らなく腹立たしい。私を見ろと力の限り殴りつけ、視線を独占したくなる欲求が際限なく湧き上がる。
「ああ、なんだろうこの感じ。どうにも胸の辺りが落ち着かない……とても不思議な気分だよ」
甘く切なく、それでいて狂おしく煮え滾るこの感情に、果たして何と名前を付ければ良いのだろう。
彼を殺したい。いや殺されたい。ずっと殺し合っていたい!
思考はまるで一貫せず、堂々巡りを繰り返す。なのにそれが心地良くて、自然と口元が弧を描く。
「ふ、くふふ、ふふふふ――」
「……気でも触れたか?」
気色悪そうに眉を顰める青年。愛想の欠片もない言動だが、マリアンには痛快だった。
一度成すべきことを定めたならば、彼は決して止まらない。規則も損得も度外視し、己だけの道理を以てあらゆる苦難を踏破する。
客観的には愚者の極みとしか言いようがない生き様だが、だからこそ鮮烈に魅せられて。
その不屈の牙を恋しく思わずにいられない。
「私も決めたよ。――絶対に振り向かせてやる」
宣誓を謳い上げた瞬間、マリアンを中心に殲滅の嵐が具現した。逆巻く魔風は触れる草木をことごとく塵と変え、森に風穴を空けていく。
これは結界だ。何人も寄せ付けず、また内側から誰も逃さない風の檻。
当然ここまで大規模な魔術行使を行えば、霊素の消耗も著しい。『不凋の薔薇』による回復が失われた以上、恐らく十五分と経たずしてマリアンは枯渇するだろう。
しかしどうでも良い。今は胸を満たす興奮だけが全てであり、他に割く思考など一切無用。余力を残すことさえ意中にない。
過去最高の高揚と心からの敬意と共に、マリアンは吼え叫んだ。己という存在を消えぬ爪痕として、眼前の男に刻み付けてやるために。
「私はマリアン、マリアン・ルベリウス!傭兵団、『不凋の薔薇』が副長!灰色の君よ、どうかその口から名乗りを聞かせて欲しいッ!」
「お断りだ。遊び相手なら他を当たれ」
かくして対決は佳境へと突入した。
颶風が織り成す二人きりの戦場で、魔導士達はより激烈に剣戟を掻き鳴らす。




