1-5 彼の日常 其之四
夕刻を迎えた街に、明かりがぽつぽつと灯り始める。
ほとぼりが冷めるのを見計らい、ヘイズは宿への帰路に就いていた。何だか一日を無駄に過ごした気がして、疲労の籠った吐息が自然と零れる。
それにしても、とヘイズは昼間にあった出来事を思い返す。
トラブルに巻き込まれることは数あれど、死ぬかもしれないと感じたのは久方ぶりだった。
あの、黒衣をまとった女。
魔術すら両断せしめる剣の腕前は、想起するだけでも背筋が凍る。おまけに躊躇なく人を斬ろうとする辺り、とても真っ当な性質とは言えまい。
当人は再会を望む言葉を残していったが、もう関わり合いにはなりたくないものである。
そうしてうらぶれた路地の一画を進んでいると、宿酒場『カメリア』の姿が見えてきた。
所謂、隠れ家的な店というやつだろうか。煉瓦造りの建物は今日も今日とて古めかしくも、どこか温かみを感じさせる。
同じく年季の入った扉を押し開けると、頭上でからん、とベルが済んだ音を鳴らした。
途端、食欲をそそる芳しい香りがヘイズを包み込む。
店の内装は中々に小洒落ていた。
決して広くはないが落ち着いた雰囲気の空間に、飴色の上品な光沢を放つ椅子とテーブルが並べられている。
一見すると酒場らしくないように思えるが、客達の陽気な賑わいは全く損なわれていない。
丁度夕食時ということもあってか座席は殆ど埋まっており、数名の女給仕達が愛想を振りまきながら、忙しなく歩き回っていた。
「いらっしゃい……ってなんだよ、ヘイズじゃねぇか。ようやく帰って来やがったか」
すると、カウンター席の中から、そんな声がかけられる。
視線を向けてみれば、そこにはエプロンを着け、顎鬚を綺麗に整えた壮年の男が立っていた。
フランツ・マクレガー、このカメリアの店主である。
「客に向かってまた随分なご挨拶ですね」
「お前は客っつーより、半ば居候じゃねえか」
字面だけを切り取れば、険悪なやり取りに見えるかもしれないが、両者の声音は至って和やかだ。半年もの間、毎日のように顔を合わせているので、こういった歯に衣着せぬ応酬は日常茶飯事となりつつある。
「また偉く疲れた顔しるじゃねぇか。仕事でトラブルでも起きたか?」
「ええ、まあ、そんなところです」
曖昧な返事をしながら、ヘイズはフランツの正面の席に腰かける。
「シャロンの嬢ちゃんは元気してるか。最近顔を見てねぇが」
「それはもう。今日も元気に金儲けに精を出してますよ」
ヘイズの答えに、相変わらずだなと苦笑を浮かべるフランツ。一方で、その表情にはどこか安堵の色が滲んでいる。まるで独り立ちした娘の息災を聞いた父親のような顔だった。
鋭い目付きと、彫りの深い厳めしい顔立ち。そしてぶっきらぼうな口調ゆえに、気難しそうというのが大抵の人が抱くフランツへの第一印象だろう。だが実際には気さくな性格で、情にも厚く面倒見が良い。
そんな人柄からか顔が広く、彼を慕ってカメリアに通う客も少なくない。風来坊であったヘイズがマルクトで魔導士稼業を続けられているのも、シャロンだけでなくフランツの助力による所が大きかった。
「で、ご注文は?」
「とりあえずコーヒー。あと、何か腹に溜まるものを」
「お前はまた、適当な頼み方しやがって……」
文句を垂れつつも、フランツは厨房に引っ込んでいく。
そうして窓の外をぼんやり眺めて十分程度経った頃。ヘイズの前にコーヒーの注がれたカップとサンドイッチが運ばれてきた。
早速、湯気を上げる褐色の液体に口を付ける。瞬間、深みのある香ばしい匂いが鼻を抜け、癖のない爽やかな酸味と苦みが舌に広がった。
それを嚥下してみれば、氷が解けるように体の芯がじんわりと暖まっていく。
ほう、とヘイズはたまらず息を吐いた。
酒場なのにコーヒーとはこれ如何に、と最初は思ったものだけれど、今ではすっかり病みつきになってしまった。
サンドイッチの味も素晴らしく、パンに挟まれた瑞々しい野菜とソースを絡めた燻製肉とが絶妙に噛みあっている。
酒の種類も豊富で、料理も絶品。店主も付き合い易いとくれば、この宿酒場が繁盛するのも納得だった。
「そういや、聞いたか?昼間に表でちょっとした騒ぎがあったらしい」
「騒ぎ?」
「魔導士達の喧嘩だとよ。魔術までぶっ放されたみたいだが、幸い余り被害は出なかったらしいぜ」
ヘイズのカップを傾ける手が止まる。
思い切り心当たりがあった。しかも紆余曲折があったとは言え、当事者の一人である。
「……へぇ、そうなんですか」
出来るだけ声を震わせないよう努めたつもりだった。
しかし、長年客商売をやっている経験からか、フランツは何事かを察したらしい。肩を竦めて、ヘイズに半眼を向ける。
「まあ、お前が何に首を突っ込んでいようが構わねえけどよ。店に厄介事を持ち込むことだけはするんじゃねぇぞ」
「はいはい、肝に銘じてますって」
ヘイズが『カメリア』に滞在を始めてから、もう何度も言われた台詞だった。
ただ、星の巡りが悪いというやつだろうか。昔から自分では平穏に生きているつもりなのに、その厄介事が向こうからやってくるのだから仕方がない。
フランツはまだ何か言いたげだったが、それ以上続けることはなかった。
彼は基本的に魔導士稼業に干渉しないし、詮索もしてこない。
分を弁えているからだ、というのが本人の談であるが、ヘイズとして実に正しい心構えだと思う。
確かに魔導士は、今日の人類文明の発展に貢献した。それは純然たる事実である。
されどその裏側で、幾度となく凄惨な事件を引き起こしてきたのも、また魔導士なのだ。
血塗られた逸話、歴史に事欠かぬ世界になど、関わり合いにならないのが賢明である。
その後もヘイズは、フランツや常連客たちととりとめのない雑談を交わす。
内容は昨今の経済事情から、仕事の愚痴、街の噂話まで様々だ。
その中でもやはり一番盛り上がったのは、吸血鬼事件の話題であった。
はっきりと口にしないだけで、内心誰もが漠然とした不安を抱いているのだろう。さもありなん、人は正体不明の存在を恐れるものだ。
ヘイズも魔導士として意見を求められたが、当たり障りのない答えを返しておいた。
然程興味がある訳でもなかったし、下手に恐れを煽るような真似はしたくなかったからだ。
かくして、夜の帳が完全に降り切った時合である。
「やあ諸君、久しぶり!元気にしていたかい!?」
そんな元気な声と共に、勢い良く店の扉が開け放たれた。
振り返ると、入口に赤毛の若い男が立っていた。
眼鏡をかけ、仕立ての良い背広に袖を通した出で立ちは、やり手のビジネスマンと言った風体である。しかしそれに相反するような人懐っこい笑顔が、彼の心根の良さを表しているようだった。
その身覚えのある顔に、ヘイズは目を瞬かせる。
「あれ、アルフォンスさん?こっちに戻ってたんですか?」
男の名はアルフォンス・ホーキンスといった。『カメリア』の常連の一人である。
マルクトで貿易商を営んでおり、よく外国を飛び回っている。
つい二週間程前にも取引のため、大陸西方はアルビオン王国に出向いたと聞いていたのだが、いつの間にか帰国していたらしい。
ヘイズとは仕事を引き受けた事があり、以来年の離れた友人の様な付き合いをして貰っている。
「一昨日の飛行船で戻ってきたばかりでね。マスターの料理が恋しくて、つい来てしまったよ」
「おいおい、ここに来てくれるのは構わねぇが、ちゃんと奥さんにはサービスしたんだろうな」
「もちろんだよ!帰ってすぐに顔を見せに行ったし、昨日は一日二人でゆっくりと過ごしたさ」
聞かずもがなといった様子で、アルフォンスは胸を張る。彼の妻への熱愛ぶりは、常連たちの知れ渡るところだった。
「それはそうと、今日はマスターにお土産を持ってきたんだ」
そう言ってアルフォンスは、小脇に抱えていた紙袋を机の上に置き、封を解く。
中から取り出したのは、酒のボトルだった。数は二本。
表面には銘柄を記したラベルが貼り付けられている。それを見てフランツは目を丸くした。
「こいつはお前、レーヌ・ド・ミエルじゃねぇか。良く手に入ったな」
アルビオン王国を産地とする蜂蜜酒だ。
蜂蜜の深い甘みとアルコールの清涼感、そしてハーブの香りが見事に同居した口触りは、数代前の女王が大層好んだのだそうだ。結果、直々に女王という称号を与えられ、今では世界に名立たる銘酒として名を馳せている。
しかしそれ故か入手の難易度も高く、年々価格が高騰しているという話だった。
「取引先で偶々何本か安く手に入ってね。妻は余り酒を飲む性質でもないから、いつもお世話になってるマスターにお裾分けさ」
「……やれやれ、こんな上物を貰っちまったら、料理を奮発してやらねぇといけねえなぁ」
フランツは困った風に頭を掻くものの、そこはやはり酒場の店主。上等な酒を前に珍しく瞳を輝かせている。
ヘイズも同じ気持ちだった。中々お目にかかれない逸品に好奇心を隠せない。
そして勿論、この『カメリア』に通う酒飲み達が、この千載一遇の機会を見逃すはずもなく。
「えー、マスターばっかりずるーい!私も飲みたーい」
「おいおいホーキンスの旦那ァ、そんな上物があるなら声かけてくれよ!」
とまあ、会員制クラブのホステス、日焼けしたがたいの良い港湾員、目の下に隈をこしらえた新聞記者その他諸々。
こんな具合で常連が続々とカウンター席に群がってくる。
「おっと、目敏い連中が集まってきたねぇ。だが良いだろう!マスター、今日は皆で盛大に行こうじゃないか!」
おお、と歓声が上がった。
酒瓶を切っ掛けに、わいのわいのと店が賑やかさを増し始める。
だが、こういったお祭り騒ぎは寧ろ好ましい。早速酒盛りを始めた常連たちの輪の中に、ヘイズも巻き込まれるように入っていった。
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