2-19 彷徨う凶星 其之三
時は僅かに遡る。
ヘイズ達が旧市街で行動を開始した丁度その頃、テオドアは再び酒場『アルミーダ』を訪れていた。
店に到着すると同時に、乱暴に扉を蹴り開ける。営業時間はまだ迎えていないというのに、中は仄かな明かりで満たされていた。
「やれやれ、穏やかじゃねぇなァ。幾ら酔っ払う場所だからって、最低限のマナーってもんがあるだろ?」
中に踏み入るなり、横合いから声をかけられる。見れば閑散としたフロアの片隅で、誰かがテーブルの一つを陣取っていた。
派手な衣装で着飾った遊び人風の男。手元には酒瓶とグラスが並べられていて、寛いだ様子を見せている。忘れるはずもないその姿に、テオドアは気色ばんだ。
「サルバトーレ……」
「よう、先日ぶりだな兄ちゃん。まあここで会ったのも何かの縁だ。ほら、ちっとは肩の力を抜けよ」
余りにも気安い調子で、サルバトーレが対面の席を顎で示す。
テオドアは逡巡の後、それに従うことにした。矛を交える前に、幾つか確認しなければならないことがあったからだ。
「あのおっかない剣士のお嬢さんは?」
「テメェみたいなのは好みじゃねぇとよ」
「そいつは残念。女に袖にされるってのは、何度経験しても堪えるねぇ」
どっかりと腰を下ろすテオドアの前で、サルバトーレは悠々と杯を傾ける。
こちらからの敵意など、まるで歯牙にもかけていない素振りだった。それは己の実力に対する自信の表れゆえか、或いは挑発のつもりなのか。
警戒心を強めながら、カウンター席の方を流し見る。
「……マスターはどうした?」
「ちょいと遅かったな。ついさっき自室で永いお休みに入った所だよ」
間に合わなかったか。テオドアは内心で歯噛みする。
同時に顔色一つ変えず殺害の事実を述べたサルバトーレに、沸々と怒りの念が湧いてきた。
落ち着け。テオドアは奥歯を強く噛みしめ、燃え上がった心火を鎮める。
今はまだ激情に身を任せて良い時ではない。仮説の段階ではあるが、近辺に人間がいる状況でこの男に手出しするのは余りに危険だ。
するとそんなテオドアの反応を不思議に感じたらしく、サルバトーレが首を傾げた。
「なに怒ってんだ?ここに来たってことはお前さんも予想してたんだろ。あの店主が、俺たちとどういう関係だったのか……」
彼が指しているのは、二日前の出来事だ。サルバトーレの部下が口封じの対象として真っ先に選んだのはジェフリーであった。あたかも彼が自分達の情報を漏らしたことを知っていたかのように。
それが意味する所は明白である。酒場内で起きた騒ぎの顛末を、サルバトーレに密告した者がいたのだ。
無論、ジェフリーの仲間の誰かという線もあった。しかしこの店が怪しげなビジネスの勧誘場所として利用されていたことを踏まえると、容疑者は自ずと絞られる。
よってサルバトーレの言を、テオドアは肯定した。
「ああ、凡そ察しが付いてるよ。経緯はどうあれ、死人が出た事件に関わった時点で同情の余地はねぇ。遅かれ早かれ、あのマスターは罰を受けたんだろ」
だとしても。テオドアにはどうしても許せないことがあった。目の前で軽薄な笑みを浮かべ続ける男を、鋭く睨みつける。
「俺が気に食わねぇのはテメエの面だよ、サルバトーレ。人殺しをへらへら語ってんじゃねぇ」
「……へえ?」
物珍しそうにサルバトーレが凝視してくる。彼にとってテオドアの言葉は相当意外に思えたらしかった。
「案外まともなんだなァ。それともお前さんが特別なのかね?俺たちみたいな日陰者はもっと気楽にやらねぇと、この先苦労するぜ?」
「テメェの持論なんぞ知ったことか。……それに、こちとらとっくに腹括ってんだ」
秩序を守るため、毒を殺す猛毒となる。テオドア自身、それがある種の矛盾を抱えた生き方であることは承知していた。
しかし引き返す気など毛頭ない。この道を走り続けた先で、いつか憧れた背中に手が届くと信じているがために。
「まあ考え方は人それぞれかね。俺からすりゃあ、ちと眩し過ぎるくらいだが」
心底理解できぬとばかりに、サルバトーレは大きく肩を竦めた。だがそれでテオドアへの興味は尽きたらしい。グラスを口元に運びつつ、見透かしたように言った。
「で、俺に色々聞きたいことがあるんだろう?まあまあ面白れぇ話を聞かせてくれたお捻りだ。多少のことなら口を滑らせてやっても良いぜ」
「……そうかよ。ならお言葉に甘えさせて貰おうか」
どこまで信じて良いかは不明だが、答えてくれると言うなら利用しない手はない。テオドアは唇を舌で濡らし、質問を切り出した。
「まず前提を確認させろ。ここ最近マルクトを騒がせていた事件――ありえない場所に亡霊が発生し、その付近にいた人間を襲うという異常な現象。あれは全部テメェらの仕業だな」
「その通りだ。意外だろうが俺はこれでも死霊術が得意分野でね。中々よく出来た仕掛けだっただろう?」
得意げに語るサルバトーレ。自身が呼び起こした亡霊が、犠牲者を生んだことにも何ら罪悪感を抱いていないのだろう。
腹立たしい態度ではあったが、テオドアは取り合わず核心へと踏み込んだ。
「ずっと考えていたんだ。この事件を起こした犯人は、一体何がしてぇんだってな」
それはセリカと共に捜査を始めた時から抱いていた疑問だった。
端的に言えば、この事件は杜撰なのである。
当初は先月ヨハネスが行ったように、大規模な術式を発動するための布石を打っているのだと思っていた。しかし。
「軍警局に確認して貰ったが、亡霊が出現した箇所には必ず触媒が残されていた。粉末状に磨り潰した人骨を入れた小瓶がな。しかも回収しようとした形跡すらもなかったらしい」
もし秘密裡に事を運ぼうとしているのであれば、これは明らかな悪手である。"吸血鬼"のように本命を隠すための陽動であったのだとしても、自身の足跡を辿られ兼ねない証拠は抹消するべきだ。
つまり、犯人にとって重要なのは事件の先ではない。寧ろ事件を起こす行為自体に、意味を見出していると捉えるのが妥当だろう。
「テメェの目的は、俺達や軍警局に追われる状況を作ること……違うか?」
「せーいかーい」
返ってきたのは、何とも気の抜けた拍手だった。策謀を暴かれたにも拘わらず、サルバトーレは賞賛の言葉を述べる。
「いやあ、探偵さながらの名推理!くれてやった連中には大した情報を握らせてなかった筈なんだがなァ」
「だろうな。だが生憎と、俺の周りには頭が切れる連中が揃っていてね」
誇るようにテオドアは言った。例え自身には解き明かせずとも、『アンブラ』には首領のヴィクターを筆頭に権謀術数に通じた者が数多く在籍している。
彼らの知恵があるからこそ、マルクトは魔都とまで称されながら、今日まで致命的な破綻を起こすことなく存続できているのだ。
「人材が豊富ってのは羨ましい限りだ。俺らももうちょい考えの巡る奴を増やさねぇとなァ」
どこか苦労を滲ませた嘆息が、サルバトーレから零れる。最後の一杯をグラスに注ぎながら、彼は滔々と語り始めた。
「俺の目的についてはお察しの通り。軍警局はもちろん、『アンブラ』もどうしても引き摺りだしたくてね。だから態々ガキどもを使ってまで、まどろっこしい真似をしたってワケだ」
「……理由は?」
「ずばり、宣伝だよ」
サルバトーレは即答した。
「『ゴスペル』って組織は前々から裏で動いちゃいたんだがな?ここ最近になって、ようやく温めていた計画に取り掛かることができそうでね。だから本腰を入れる前に、世間の皆々サマに向けて挨拶をばと思ったのさ」
「マルクトを標的にしたのは、他国からの注目度を鑑みてって訳か」
「ああ、何しろ大陸でも名高き商人の都だ。この街で起きた出来事は、何もしなくても勝手に広まってくれる……表にも、裏にもな」
世界最大の交易都市の肩書通り、マルクトには日夜夥しい数の人間が出入りしている。加えて経済的な影響力も相まって、市内の情勢は他国へと伝播し易い。サルバトーレの読みは的を得ていると言えた。
「たかが宣伝のために、亡霊共に市民を襲わせたってのか。おまけにサイモンやここのマスターまで殺しやがって……」
「仕方ねぇだろ。出来るだけ沢山人死にが出て、かつ奇妙な事件の方が印象に残るんだからよ。現にお前らは今後、俺達の存在を意識せざるを得なくなった。違うか?」
テオドアは押し黙った。納得できるかはさておき、サルバトーレの指摘が真理を突いていたからだ。
星霊という脅威が存在するこの世界において、都市の内側とは絶対の安全圏でなければならない。その信仰が流通を、経済を、国家という枠組みを支えている。
だからこそ各政府機関はあらゆる手段を講じて、街の治安や霊脈の維持に努めているのだ。
しかし今回の事件を通じて、サルバトーレはそこに一つの亀裂を生じさせた。どれほど厳重な結界、秩序を築こうとも、『ゴスペル』には容易く覆すことができるのだと。
それはマルクトどころか、大陸全土に向けた犯行予告に他ならない。サルバトーレの目論見通り、遠からず『ゴスペル』は各地で指名手配が成されることだろう。
「て訳で、お前らに名乗りを上げた時点で俺の役割はもう終わっていてね。まだこの街に留まってるのは……ちょっとした賭けの最中だからさ」
「賭けだ……?」
「そ。寧ろ口封じはそれまでの退屈しのぎってとこだな。伸るか反るかは今の所半々だが……だからこそ面白れぇ」
焦がれるような面持ちでサルバトーレは呟いた。
彼のこれまでの所業を思えば、その賭けとやらの内容も悪趣味極まりないものなのだろう。ややもすれば、先月を超える大惨事を画策しているかもしれない。
全く、嫌な予想ばかりが当たるものだ。テオドアは内心毒づきながら問い詰める。
「確かに面白い話だったよ。テメェらの計画とやらも含めて、もうちょい詳しく聞かせて欲しいもんだが?」
「流石にこれ以上はなァ。ボスはともかく、他の連中から小言を食らっちまう」
サルバトーレがグラスの中身を一息で呷り、席を立つ。問答の終わりを告げる合図だった。
「じゃ、俺はそろそろ高見の見物と洒落込ませて貰うぜ。お前さんも、俺なんぞに構わずお仲間に加勢しに行ってやったらどうだ」
やはりロッシーニ商会と繋がっていたか。サルバトーレの意味深な言動からテオドアは確信を抱く。
となれば今頃、別行動中のヘイズとイヴの元には、商会から刺客が差し向けられていることだろう。そして敵の中には間違いなく『不凋の薔薇』の手勢も含まれているはずだ。
尋常ならざる闘いになることは明白で、助力に向かうのが仲間として在るべき姿なのかもしれない。
しかし、そうと理解しながらもテオドアは迷いなく断言した。
「要らねぇ心配だな。アイツらは強い、負けねぇ。だから俺は、俺に任された仕事を全うするだけだ」
そしてテオドアは、踵を返すサルバトーレの正面に回り込んだ。決して逃がさぬと意思を籠め、牙を突き立てるように胸倉を強く掴み上げる。
「テメェはもうどこにも行けねぇよ。今日ここで、確実にブチのめす。勝ち逃げできると思うな」
真っ向から叩きつけられる宣戦布告。対するサルバトーレは悠然とした態度を崩さなかった。
「信頼が厚くて大変結構。でも本当に良いのか?俺も牢屋で臭い飯を食うのは御免だからな、抵抗するぜ?」
瞬間、酒場に満ちる空気が一変した。全くの異界に取り込まれたような感覚が、テオドアを襲う。
彼の脳裏を過ったのは、先日サルバトーレと邂逅した際に目にした光景だった。銃弾で撃たれた筈の者が傷つかず、それを傍観する者が代わりに負傷するという異常な現象。
あれを引き起こした魔術を、サルバトーレが起動したのだ。
「俺としても暇が潰せるし、付き合ってやるのもやぶさかじゃあない。……ただ気を付けろ?この間の誰かさんみたいに、巻き添えを食らう奴が何人も出るだろうからなァ」
せせら笑うサルバトーレ。彼としても闘いは望むところなのだろう。そちらの方が『ゴスペル』の悪名をより高めることができると考えているために。
けれども彼は気付かなかった。煽るために発せられたその台詞が、竜の逆鱗を盛大に踏み抜いたという事実を。
「ああ……今の台詞を聞けて本当に良かった」
ほっと、テオドアは思わず胸を撫で下ろした。今目の前にいる相手が、サルバトーレであることを心から感謝するように。
「……どういう意味だい」
さしものサルバトーレも、この豹変ぶりは不気味に思ったらしい。怪訝そうに眉を顰める。
テオドアは凄絶な笑みを以て答えた。
「大したことじゃねぇ――これで何の憂いもなく、テメェの面を殴り倒せると思ってな!」
視界に映る景色が変わったのは、直後のことであった。暗闇が視界を覆い、湿った冷たい風が頬を撫ぜる。
瞬きにすら満たぬ間で、テオドアとサルバトーレは酒場から奈落の底めいた空間へと移動していた。
「こいつは……!」
「ちょっとしたサプライズって奴だ!存分に受け取りやがれ!」
瞠目するサルバトーレを更に引き寄せ、力任せに背面へと投げ飛ばす。異変に気を取られた彼に抵抗する術はなかった。
「ぐはッ……」
サルバトーレの体が勢いよく壁に激突し、表面に罅を走らせる。
追撃を加えるべく、テオドアは踏み込んだ。溜めに溜めた憤怒を吐き出すように、渾身の正拳をサルバトーレの鳩尾目掛けて突き出す。
しかし腕に伝わったのは、壁に穴を穿つ感触だった。拳が触れる直前で、サルバトーレが突然真横へと跳躍したのである。まるでそちらから糸で思い切り引かれたかのような、不自然な挙動であった。やはり相手も相応の修羅場を潜っているということらしい。
テオドアから大きく距離を取ったサルバトーレは、体勢を整えながら息を吐く。
「今のは中々スリリングだったぜ……にしても『入城』か。また変わり種を使う奴を揃えてるもんだ」
「殺すのだけが俺達の専売特許じゃねぇ。余り舐めんなよ」
指定した物体同士の座標を入れ替える魔術である。酒場の方には今頃、位置を交換した『アンブラ』の魔導士が佇んでいることだろう。
尤も、術式の正体を即座に見抜いたサルバトーレの眼力は油断ならなかった。結界の穴を突いたことといい、魔術の腕前については熟練の域にあると見て相違ない。だからと言って、敗北してやる気は毛頭ないが。
「ここは俺の同僚がある魔導士と雌雄を決した場所でな。目下修理中ってこともあって、少なくとも一般人が近付くことはねぇ」
「……みたいだな。俺も歳かねぇ。油断したつもりはなかったが、つい余裕に構え過ぎちまった」
辺りを素早く見回して、サルバトーレが自嘲する。
テオドア達が対峙するのは、霊脈炉の真下に広がる古びた回廊であった。天井には先月空けられた大穴が未だ残されており、撤去し切れていない瓦礫があちこちに積み上がっている。
闘いの舞台とするには些か手狭。しかしてサルバトーレの魔術を封じるには、市内でも最も適した場所だった。
「こっちもテメェの術式の正体を当ててやるよ。結界だろ?」
サルバトーレの表情から色が消える。それは彼が初めて見せた動揺の発露であった。畳みかけるようにテオドアは口舌を繰る。
「差し詰め攻撃と負傷の因果関係をランダムに押し付けるってところか。効果の適用範囲は術者を中心に半径五十メートル前後。個人的には呪詛返しを拡張した類のモンだと踏んでいるが……どうだ」
結界とは一つの世界を創造する神秘だ。隔離された空間は外部からの干渉を拒絶し、独自の法則によって運行される。
もちろん魔術の大前提として、内側で起こる事象が複雑化するほど、術者に負担がかかることは言うまでもない。
しかし潤沢な資源と、結界を維持するための演算能力。これら代償を支払うことができるのであれば、如何に荒唐無稽な世界であろうと理論上は構築することが可能なのだ。
「やれやれ、折角人が端正籠めて作ったゲームだってのに。無粋な野郎だな」
負け惜しみめいた台詞。サルバトーレはどこか不貞腐れたように、種を明かした。
「例えるなら……そう、ルーレットだ。攻撃する奴が親、それ以外の連中がマス。親が投げた攻撃は盤上を巡り、やがて特定のマスに受け止められる。ゲームとして楽しむためには参加者が三人以上必要なのが難点だが、それでも割と遊び甲斐のある術が組めたと自負してるぜ」
聞くだけでも尖った性能だった。しかし集団戦においてこれほど悪辣な術式もそうあるまい。
何しろ自身の行った攻撃により、仲間が負傷する可能性を常に想起させられるのだ。サルバトーレと敵対する者はその危惧によって行動を縛られ、彼に手出しすることが叶わなくなる。
だからこそテオドアも周囲に被害を及ぼさぬため、こうして一対一の状況へと持ち込んだのだった。
「しかしなんだ、初見じゃ見抜かれねぇと思ってたのに大したもんだよ。それもお仲間の入れ知恵かい」
「お前が死霊術を得意なように、俺も結界術はちょいとかじっていてね。まあ、昔取った杵柄って奴だ」
決定打となったのは、先日サルバトーレの餌食となった軍警局の隊員の容態だった。
と言うのも、彼が負った銃創は強化スーツを貫通せず、肉体に直接刻まれていたのである。まるで銃で撃たれたという結果だけが、そこに顕れたかのように。
更には隊員が立っていた位置から、全く外れた場所に弾丸が落ちていたこと。またテオドア達が倉庫に乱入した際、強烈な異物感を覚えたこと。
それら情報と自身の見識を照合することで、テオドアはサルバトーレの術式の内容を暴いたのだ。
「……そう言や、前に小耳に挟んだことがあったっけなァ」
ふと思い出したように、サルバトーレが呟く。
「マルクト最強の結社『竜狩の騎士団』。そこには昔、両翼と並び称された二人の魔導士がいたそうだな?片や卓越した結界術師、そしてもう片方は――不死身の肉体を持つ拳士」
探るような視線が、テオドアに絡み付く。
「だが先代の総帥の死を切っ掛けに、後者は行方知れずになっちまったんだと。色々想像の捗る噂だよなァ……お前もそう思うだろ?」
「へぇ。この都市に住んで長いが、そんな御大層な肩書を持った奴がいるとはな。機会がありゃ是非とも面を拝んでみたいもんだ」
関心なさげに、テオドアは応じた。
そう。彼には本当にそのような人物に心当たりがなかった。
何故ならあの時、あの結社に所属していたのは……己の分も弁えず、血気の逸るまま猛進するだけの大馬鹿者だったのだから。
「問答はいい加減終わりだ。散々好き勝手やった報いを受けろ、サルバトーレ!」
弾丸さながらの勢いでテオドアは仕掛けた。背面から霊素を一気に放出し、その推進力を利用して瞬時に間合いを詰める。
小手調べなどに興じて良い相手では断じてない。必殺の意思を籠め、サルバトーレの顎を刈り取るように拳打を見舞う。
「言っただろ。抵抗するってな」
「ッ!?」
刹那、目の前で火花が散った。サルバトーレに触れる寸前で、テオドアの拳が腕ごと弾き返される。
微かに痛む手の甲を見やれば、そこには瘴気を昇らせる線状の傷が浅く走っていた。
既に術式を起動したテオドアの総身は、鋼鉄を遥かに凌ぐ強度を帯びている。それを軽度ながらも容易く穿つなど、並大抵の技量では不可能だった。
「これでも幹部を張らせて貰ってる身なんでね。そう簡単に仕留められると思って貰っちゃあ困る」
サルバトーレが両腕を広げる。その十指の先から、か細い何かが四方八方に伸びているのを、テオドアの眼は見逃さなかった。
霊素で編まれた糸。あれこそがサルバトーレの武器なのだ。
「さあスリル満点、互いの身命を賭け金にしたゲームの始まりだ。お互い心行くまで愉しむとしようぜ!」
「上等だクソ野郎がッ――!」
喜悦に満ちた声と、憤怒に彩られた咆哮。
相反する二つの旋律の衝突を以て、闘いの火蓋は切って落とされた。
◇◇◇
「なるほど。賭けですか……」
懐中時計片手に、セリカは独り呟いた。
マルクトの地下に張り巡らされた回廊、その一角である。通信術式の向うでは既に戦端が開かれ、激しく打ち合う音が聞こえてくる。
「念のため、保険をかけていて正解だったようですね。流石はオーナー」
先月ヨハネスに出し抜かれたことが余程悔しかったのだろう。采配を振るうヴィクターの気炎は、それはもう並々ならぬものであった。
結果として、現在あらゆる状況に対応できるよう、複数の策が地上で並行的に進められている。都市に詰める『アンブラ』の構成員達も軒並み駆り出されており、総力戦もかくやといった態勢だった。
「それにしても、彼に一任したのは失策でしたかね?」
などと口にした瞬間、地下全体が一際大きく軋みを上げる。テオドアの拳撃が空振り、柱を壊しでもしたのだろう。洒落にならない量の土埃を零す天井は今にも崩れ落ちそうで、実に心許ない。
これは相当頭に血が昇っているな。セリカは漠然と悟った。
本人たっての強い希望から、サルバトーレの相手を任せた訳だが、敵の邪悪さを少々見縊っていたらしい。こうも見事にテオドアの自制心を吹き飛ばしてくれるとは。
今のままでは二人まとめて生き埋めになる形で決着が付くことも充分あり得た。
(まあ賽が投げられた以上、私にはどうすることもできないのですけれど)
落盤に巻き込まれた程度でテオドアが死ぬ筈もないのだし。後は標的の生死が確認できなくなるのが懸念となるが、こちらはセリカの推測が正しければ杞憂に終わるだろう。
「あとは鬼が出るか、蛇が出るか。我々の用意が無駄に終われば万々歳ですが、大抵は悪い方にばかり傾くのですよね」
思わず苦笑を浮かべながら、セリカは大太刀の鍔に指をかけた。これより一歩でも踏み込んだ先は、因果を乱す結界の内部である。
サルバトーレの魔術はまだ生きている。恐らくセリカを始めとする『アンブラ』の仲間が近くに控えていることを見越してのことだろう。
敵ながら見上げた慎重さだが、勝負を確実に決めるためにも、彼に存在を知覚される訳にはいかない。
術式の範囲を正確に測りつつ、セリカは時機が来るのを待つのだった。




