2-18 彷徨う凶星 其之二
朝の混雑時を過ぎ、道行く人波も落ち着きを見せ始めた頃。
日の光が差し込む色街をヘイズは歩いていた。娼館はとうに眠りに落ちて、通りを充満していた甘い香気も消え失せている。威勢の良い客引き達も舞台裏へ引き下がって久しく、聞こえてくるのは箒が気だるげに石畳をこする音のみ。
数時間前までの熱狂ぶりが嘘のような静寂。この祭りの後を思わせる、どこか寂しさを湛えた情景がヘイズは嫌いではなかった。
やがて彼の足は横に逸れ、薄暗い路地裏の方へ。記憶を頼りに何度か角を曲がったところで、肌に触れる空気の質ががらりと変わった。それに伴い軒を連ねる建物の種類も、古めかしい造りのものが増えていく。
旧市街。日々流動するマルクトにおいて、昔ながらの景観を保持する地区である。
身も蓋もない言い方をすれば、都市の開発から取り残された前時代の置き土産だ。必然的に貧困層が集まり易く、治安も他の街区と比べて悪い部類に入る。
しかしながら終わりの無い利権争いに疲弊し、素朴な生活を求めて移住する者も少なくないのだとか。そのため『公社』も不用意に手を加えることができず、半ば放置された状態にあるという話だった。
「こういう場所はどこにでもあるもんだな……」
何となく懐かしい気分に浸りつつ、ヘイズは色褪せた街並みを往く。
目的地に着くとイヴが先に待っていた。物思いに耽るように目を伏せ、ぽつんと影法師のように立ち尽くしている。
「……早かったわね」
こちらの存在に気づき、イヴが静かな瑪瑙の瞳を投げてくる。本日の彼女はここ最近で見慣れた背広姿ではなく、漆黒のケープを羽織っていた。
身形だけを切り取れば、物見遊山に訪れたどこぞの令嬢といった風情である。しかし魔導士≪マギウス≫なら、彼女の衣服に織り込まれた膨大な神秘の気配を悟るはずだ。
即ちこの姿こそがイヴにとっての完全武装であり、同時にその卓越した魔術の腕を振るう意思の表れでもあった。
「その言葉、そっくりそのまま返すよ。約束の時間までまだ三十分近くあるぞ。何か気になることでもあったのか?」
「……別にそういう訳ではないけど。ただやれることを先にやっておこうと思っただけ」
イヴはいつもの抑揚のない調子で答え、視線を正面に戻す。
そこには年季の入った三階建てのビルが佇んでいた。高さは周囲から頭一つ抜けているものの、くすんだ外壁のお陰で浮いている様子はない。
「ここが『アラネア商会』の本拠ねぇ。その割には偉く寂れているが」
イヴの隣に並びながら、ヘイズは建物を観察する。
玄関付近に積もった埃の具合から、直近で人の出入りが無かったのは確かだろう。おまけに窓はことごとくカーテンで塞がれており、外から中を覗き込めないようになっていた。
『アラネア商会』の名を知ってから今日で三日目。様々な情報網を駆使してこの場所を突き止めたは良いが、どうにも生きた施設には見えなかった。
そう思った矢先、ビルの方から小さな影がこちらに駆け寄ってくる。
全身真っ黒な鼠である。イヴが放った使い魔だ。鼠は主の元に到達すると、飛沫を上げながら影の中へと飛び込んでいった。
「一先ず中を軽く探らせてみたけれど、もぬけの殻ね。警備用の自動人形が徘徊しているというようなこともなかったわ」
「ま、予想通りと言えば予想通りだな。こっちとしちゃ侵入する手間が省けて助かるが。他には何か見つかったか?」
「……そうね、これはどう言ったものかしら」
ヘイズの問いに、イヴは怪訝そうに眉を顰める。どうやら使い魔が持ち帰った記憶に何やら違和感を覚えたらしい。
「お前にしては歯切れが悪いな。まさか死体の山でも見つけたか?」
「いえ、そういう訳ではないのだけど。どうも使い魔の視界にノイズが多く走っていて」
「……結界の類か?」
真っ先に思い付いた結論を述べるも、イヴは曖昧に首を横に振るばかりであった。
彼女の魔術に関する造詣の深さはセリカから聞き及んでいる。その見識を以てしても原因不明となると、余程の奇怪が待ち受けていると見て良いだろう。
「状況は理解した。とは言え踏み込まない訳にもいかないしな……精々注意して調べるとしようか」
頷き合い、ヘイズとイヴは建物の入口へと向かう。施錠された扉を魔術で開ると、ひんやりとした空気が頬を撫ぜた。左右に素早く視線を走らせ、慎重に内部へ身を滑り込ませる。
その瞬間だった。
「ぐ……っ」
どくん、とヘイズの心臓が高らかに脈を打つ。それは覚えのある感覚だった。
まるで檻の中に閉じ込められていたものが、外に無理矢理出てこようとするかのような。マルクトに居を移して以来、一度も味わうことのなかった荒々しい鼓動。
その疼痛に堪え切れず、ヘイズは胸を押さえてしゃがみ込んだ。
「ヘイズ君……?」
こちらの異変に気付いたイヴが素早く顔を覗き込んでくる。普段感情を表にしない彼女にしては珍しい、動揺を露にした反応だった。
しまったな、とヘイズは内心で自省する。随分久しぶりだったので取り繕うことができなかった。他人にこんな無様な姿を晒すなど、腑抜けているにも程がある。
幸いなことに、深呼吸を数度繰り返すだけで痛みはすぐに引いてくれた。
「あー実は昨晩、調子に乗って飲み過ぎてな。その皺寄せが今になって来たらしい」
脂汗を拭い、殊更冗談めかして言う。ところがイヴの表情は晴れる所か怒気を滲ませる有様だった。
今のは流石に配慮に欠けたか。ヘイズは罰が悪そうに目を逸らしつつ、核心に触れない範囲で白状する。
「まあなんだ。セリカやヴィクターさんから聞いているかもしれんが、少し難儀な体質をしていてな。今のもその一環だと思ってくれたら良い」
「……本当に平気なの?」
イヴの声にはこちらを心から案じる響きがあった。ゆえにヘイズも今度は茶化すことなく真摯に応じる。
「ああ、完全に復調したよ。それに今のでお前が言っていたノイズとやらの原因にも当たりがついた」
立ち上がると同時にヘイズは天井を睨みつける。階を隔てた先にある得体の知れない何かの気配を、彼の第六感はしかと捉えていた。
「足を止めさせて悪かったな。今頃ヴィクターさんも敵地に突撃してるだろうし、俺たちもやるべきことをしよう」
この話は終わりとばかりに、ヘイズは先陣を切って歩き出した。
イヴはまだ心許なげな様子であったが、追求しても無駄と悟ったらしい。諦念の籠った溜息を零して、ヘイズの後ろを着いてきた。
薄暗い廊下に二人分の足音だけが空しく木霊する。イヴの調査通り、人の息遣いは全く感じられない。家財こそ残っているものの、営みの痕跡は綺麗さっぱり拭い去られていた。
突き当たりの階段から二階に昇る。迷いのない足取りで向かったのは、廊下の最奥に位置する部屋であった。
元は資料室だったのだろう。広々とした空間に幾つもの書棚が並べられている。しかしヘイズの視線は、部屋の中央に置かれた小さな机の上にのみ向けられていた。
頑丈そうな銀色のアタッシュケースである。ヘイズは確信した。
あれだ。あれこそがこのビルに入ってからずっと感じていた異様な気配の源だ。イヴに警戒するよう目配せをして、机に近付いていく。
鬼が出るか蛇が出るか。罠が仕掛けられていないことを入念に確認し、蓋に手をかけた。
「……おいおい、まさかの大当たりかよ」
予想外の展開に、ヘイズは驚きを禁じ得なかった。
ケースの中に収められていたのは、一冊の本である。否、秘められた神秘の気配を思えば、魔導書と形容するのが相応しいだろう。
堅く封が成された金属製の表紙。剥き出しになった内部機構からは複雑に噛み合う歯車と、怪しく光る受石が覗いている。
一瞥した印象は時計を思わせるが、より緻密かつ高度な技術によって組み上げられていることは明らかだった。
謎めいていて美しい、機械仕掛けの魔導書。この芸術的とすら評せる代物の正体を、ヘイズ達は既に知っていた。
「"アーク"……」
ヘイズの肩越しに、イヴがその名を呟く。
近代魔術の父祖、エリアス・フランケンシュタインが生涯を通じて研究したという曰く付きの遺物。聞き及んでいた特徴と比較しても、探し求めていた品に相違なかった。
「どうする?回収して良い、よな?依頼だし」
ケースの蓋を閉じながら、ヘイズは躊躇いがちにイヴに訊ねる。『アラネア商会』が保管しているとは予想していたが、まさかこんな廃墟めいた場所に放置されているとは思いも寄らなかったのだ。
それはイヴも同じだったらしい。沈着な無表情に当惑の色が混じる。
「……そうね。今一意図は読めないけれど、回収しましょう」
「了解。となれば長居は無用だな」
机の上からケースを下ろす。ずしりと腕に伝わる重みは、中身の価値を表しているようだった。部屋を出ようと踵を返す。
「……?」
そこで、ヘイズは違和感に気が付いた。開け放っていた筈の扉が、いつの間にか閉まっている。
これだけ古い建物なのだ。隙間風なり、蝶番の老朽化なり、様々な原因が考えられるだろう。しかし数々の死線で培われたヘイズの勘は、そこに悪意の匂いを嗅ぎ取っていた。
「イヴ!」
ゆえに、異変の発生にもいち早く反応する。ヘイズが声を張り上げた瞬間、イヴは弾かれたように身を翻した。
淑やかな外見からは想像もつかぬ鮮やかな後方宙返り。直後、彼女の立っていた場所を何かが鋭く擦過した。
狩りで用いるような分厚い鉈である。濃密な瘴気を纏うそれを振り抜いたのは、不吉な青黒い影であった。
外見を端的に表せば猟師だろうか。鉈だけに留まらず、背中には古式の長銃まで携えている。霊素で構成された体躯を見るに、それが亡霊に類する存在であることは疑う余地もない。だが。
「亡霊?でもこれは……」
「ああ……少なくとも、自然発生したものじゃなさそうだな」
亡霊とは死者の想念の塊だ。どれほどの異形を獲得しようとも、表面には必ず核となった人間の要素が表出する。
しかし今ヘイズ達の目の前に立つ青黒い影は違う。貌にあたる部位には眼も鼻もなく、仮面のようなのっぺりとした闇が張り付いているだけだ。
恐らく根幹を成す想念以外を軒並み削り取られたのだろう。
純粋と言えば聞こえは良いが、ここまで来るともはや機械と変わるまい。死して尚、歪な存在へと貶められたその有様はいっそ憐れでさえあった。
「■■たい―――」
妄執に彩られた声が響く。それを呼び水として新たな猟師の影が続々と出現し、ヘイズ達を取り囲んだ。
「手厚い歓迎だな。涙が出てくるよ」
「……あの市長が手元に置きたがるだけあって、やはり真面な品ではなかったようね」
視線を落としながら、イヴが辟易したように頷く。見れば閉ざされたアタッシュケースの隙間から、煌々と光が溢れているではないか。
原理は全くの不明であるが、この亡霊たち"アーク"によって呼び寄せられたと見て良いだろう。
ヘイズは腰に佩いた剣を抜き放った。敵の数は今なお増え続け、退路を完全に絶ちつつある。悠長にしている暇は一秒たりとも存在しなかった。
「さて、ある程度予想はしていたとは言え面倒なことになった訳だが……どうする?」
「利用するわ」
答えは即座に返ってきた。その言葉に応じるように、イヴの足元で影がざわりと蠢く。
「準備はこちらで行うから、時間を稼いで。流石に迎撃にまで手は回らないから」
「了解。精々頑張らせて貰いますよ、魔女様」
「……その呼び方、誰から聞いたの?」
咎めるようなイヴの視線を受け流し、ヘイズは襲い来る亡霊の群れに吶喊していった。
◇◇◇
狂騒が収まったのは、実に三十分近く経過した頃であった。
「まさかここまで粘るとはな……」
呆れとも感心ともつかぬ呟きが、男の口から零れる。彼は身を潜めていた路地裏を出ると、部下と共にそのビルへと入っていった。
目指す場所はつい先刻まで荒々しい戦闘音が奏でられていた部屋である。
扉を開けた瞬間、生々しい鉄さびの匂いが鼻腔を侵した。部屋の中心に広がる血だまりの上に、二つの人影が倒れ伏している。
灰を被ったような青年と、夜の漆黒を纏った娘。髪色や服装は以前会った時から変わっているが、どちらも見知った顔だった。
「確認しろ」
男の号令を受け、部下が彼らの生死を検め始める。
周囲に刻まれた無数の戦闘痕は、ここで繰り広げられた戦闘の激しさを物語っていた。中でも一際色濃くこびり付いているのは、猛毒めいた呪詛の残滓である。
汚染の状態は著しく、耐性のない者であればこの部屋にいるだけでも体調に異常をきたすだろう。
これは片付けるのに苦労しそうだ。男が肩を竦めるのと同時、部下の一人が声をかけてくる。
「終わりました。両名共に心肺停止状態……仕留めたと考えて良いかと」
「そうか。なら掃除に取り掛かろう。こいつら中々派手に暴れてくれたからな、軍警局共に嗅ぎつけられる前に済ませるぞ」
次の指示を飛ばしつつ、男は死体を覗き込む。胴に深々と刻まれた裂傷からして、ここから致死量の呪毒を体内に流し込まれたのだろう。
亡霊たちを全滅させた実力は称賛に値するが、相討ちとなっては元も子もない。
マルクトが誇る処刑人も、数の暴力の前では無力だったということか。男はそっと目を伏せると、侘びるように小さく呟いた。
「恨んでくれて良いぜ。だがこれも全て」
「――恩義のためって奴か?」
底冷えするような敵意に満ちた声。
それを耳にした瞬間、男は即座に動いていた。青年の死体を叩き潰さんと拳を振り上げる。
しかし間に合わなかった。跳ね上がる黒閃が死体を半ばから引き裂いて、男の胸を浅く掠める。
飾り気のない黒鋼の剣である。影から生えた凶刃は、男が咄嗟に飛び退るのと同時に蹂躙を開始した。
餌食となったのは後始末に取り掛かったばかりの部下達である。突然のことに理解が追い付かなかった彼らは呆然と立ち尽くし、そのまま血風に巻かれていった。
「……ひでぇことしやがる。これでもウチの中じゃあ腕利きだったんだけどな」
非難の言葉を投げながら、叩きのめされた部下達を観察する。あくまで行動力を奪うことに徹したらしく、死者は出ていないようだった。傷も的確に急所を外しており、壊し方としては半端の一言に尽きるだろう。
だが長らく暴力を生業としてきた男には分かった。
これは甘さゆえに殺せなかったのではない。警告の意味を籠め敢えて生かしたのだと。
「先に手を出してきたのはそっちだろう?皆殺しにしなかっただけ感謝しろよ」
自らの骸だったものを踏み砕きながら、灰色の凶手は不機嫌そうに言った。
返り血に濡れた面は先程目にした死相と完全に一致する。しかしその琥珀の双眸はしかと見開かれ、男の姿を焼き焦がすに映していた。
「まさかこんな回りくどい方法で仕掛けてくるとはな。その点だけは予想外だったよ……ウェイク」
◇◇◇
「影による空蝉か。全く大したモンだよ、死体の目利きには自信があったんだけどなァ」
ヘイズの言葉に男は――エドワード・ウェイクはくしゃりと自嘲気味に笑った。
「いつ気付いた?俺の目線じゃ、はっきりボロが出るような真似はしてこなかったと思うんだが」
「腹芸は苦手な口か?最初から疑ってたよ。お前たちの動きは、何かとこちらに都合が良すぎたからな」
切っ掛けは競売会にヘイズ達を何の疑いもなく雇ったことだった。人手不足という尤もらしい建前を並べてはいたが、それでも商会の未来を担う催しに、どこの馬の骨とも知らぬ輩を招き入れるのは軽率に過ぎる。
他にも賊の襲撃を受けた際にあからさまに戦力を出し渋ったこと、アラネア商会の存在を見計らったように示唆してきたこと等々。不可解に感じられる点は幾つもあった。
全てはヘイズ達をこの場所に誘い込むことが狙いだったのだろう。今こうしてエドワードが姿を現したことが、その仮説を裏付ける何よりの証拠であった。
「参ったな。勤めて随分長いってのに、謀略に関しては昔から進展がねぇ」
痛い所を突かれたとばかりに渋面を浮かべるエドワード。ヘイズは構わず剣を擬した。
「知らない仲じゃねえのに冷たいこった。気にはならないのか、こんな真似をする理由とかよ」
「そういう契約だったのでしょう」
代わりに答えたのは抑揚に乏しい声だった。地面に転がる女の死体が崩れ落ち、影の中から華奢な輪郭が浮き上がる。
イヴだ。その手に闇色の拳銃を握りつつ、彼女はエドワードを冷然と見据えた。
「確か『ゴスペル』、と言ったかしら。大方彼らと結んだ協定の一環なのでしょう。だから自分達に疑いの目が向かないよう装いつつ、私達の動向を誘導し罠にかけた」
淡々とイヴが推察を述べていく。
『ゴスペル』。それは先日セリカから共有された名前であった。
曰く『アラネア商会』が所持する倉庫を謎の組織が隠れ処としていた、と。
「……ふん、あいつらあっさり尻尾を掴まれたのかよ。何考えてるんだか知らねぇが、面倒くせぇ真似しやがって」
エドワードが不快そうに吐き捨てる。しかし否定の言葉は口にしなかった。やはりロッシーニ商会は裏社会の勢力と繋がっていたのだ。
「今さら隠しても仕方がねぇ、概ねお嬢さんの言う通りだよ。例の吸血鬼事件が終わってすぐ後だったか、連中から話を持ち掛けられたのさ。諸々の汚れ仕事を引き受けてやる代わりに、ってな」
「そう。だから最近になって、ロッシーニ会長の蒐集癖に歯止めが利かなくなったのね」
競売会の開催を控え、ブルーノが他国に運ばれる予定だった古物を掠奪していたことは耳にしている。中堅の域を出ない商会が何故そんな暴挙を働いたのか疑問だったが、『ゴスペル』という協力者がいたのであれば納得だった。
「お陰で会長も日々ご機嫌でね。側近としては正直助かってる面はあるよ」
「その割には何か思う所がありそうだけど?」
「当たり前だろ」
心外とばかりにエドワードが即答する。
「お嬢さんらがどこまで掴んでいるかは知らねぇが、連中は正真正銘の犯罪組織……それも完全に箍が外れちまってる手合いだ。不用意に関われば、食い物にされるのがオチだろうよ。だが――」
そこで彼は一旦言葉を区切り、瞑目した。
さながら己の決意を噛みしめるように。或いは、込み上げる感情を呑み干すように。
「欲望を、願いを叶えるためには力が要る。……周りに敵が多い状況なら尚更な。だから会長は黒と分かっていながらも、奴らを利用することを選んだ。なら俺はどんな結末が待っていようと、とことん付き合うだけだよ」
次に瞼を開けた時、エドワードの顔は冷酷な魔導士のそれへと切り替わっていた。目的を達成するために、遍く道理を踏み躙る愚者の相。
虎視眈々と獲物を狙う眼差しが、ヘイズ達に突き刺さる。
「連中が言うにはこれから事を起こすに当たってお前らが――『アンブラ』が邪魔なんだとよ。会長も昔煮え湯を飲まされたことがあるらしく同意見でね。まずはお嬢さんたちから排除させて貰う」
「……出来ると思っているの?」
「さてな。ただ良い所までは行くと思うぜ?何しろ俺には、こいつがあるからな」
エドワードが右手を掲げる。次の瞬間、彼の掌中には機械仕掛けの魔導書が納まっていた。
空間転移。事態を察したヘイズは軽くなったアタッシュケースを投げ捨てる。要するに、エドワードこそがあの"アーク"の主ということなのだろう。
「さっきの亡霊共もお前が嗾けてきたってことか。偉く便利な代物じゃないか、ええ?」
「そうだろう?正に現代に遺った本物の神秘って奴だ。……だがこいつの力はそれだけじゃない」
エドワードの言葉に呼応するように、"アーク"の受け石が輝きを放つ。直後封を破って溢れ出したのは、青黒い文字の濁流であった。
あれに触れてはならない。ヘイズは考えるまでもなく悟った。地を蹴り、安全圏へと離脱を図る。
ところが文字はこちらを見向きもせず、倒れ伏すエドワードの部下達へと殺到した。
「な……ァあ……!」
「エドワードさん、これは……!?」
苦悶の悲鳴が続々と上がる。怪しき文字の波は彼らの元に群がるなり、触れた箇所から肉体を侵し始めたのだ。
文字が腕を伝い、首を伝い、瞬く間に全身へと広がっていく。それはまるで人間という存在を内側から書き換えるような、温度の無い機械的な光景だった。
程なくして、エドワードの部下達の体から朧げな人影が剥離する。顔に無窮の闇を張り付けた猟師の亡霊。
「なるほどな……」
目の前で起きた事象を、ヘイズは正しく理解した。
霊体の改造と抽出、それから隷属といった所だろうか。恐らくエドワードが持つ"アーク"には、生者から強制的にあの無貌の猟師を作り出し、従える機能が備わっている。
尤も生命の根幹を成す三要素の内、一角を無理矢理引き剥がせばどうなるかは自明だろう。残された魂と肉体は意図しない欠落によって機能不全に陥り、その活動を停止させる。
現に亡霊の基となったエドワードの部下達は例外なく絶命していた。
「何でも近くに資源さえあれば、こんな風に兵隊を量産できるんだとよ。しかも死者すら対象と来た。これぞ究極の死霊魔術、コストパフォーマンスの面においては最高だな」
自らが殺めた仲間の屍を眺めつつ、エドワードは何の感慨も無さそうな口振りで言う。ヘイズは努めて冷静に訊ねた。
「今の現象を見るに、さっき俺達を襲ってきた亡霊……あいつらは『アラネア商会』の人間だな?」
「ご明察だ。元々ここは『ゴスペル』の連中がマルクトで活動するための足場にしてやるつもりだったんだがな?ただ殺すだけじゃもったいないし、お前達を歓迎するために有効活用することにしたのさ」
悍ましい事実を堂々と誇るようにさえ言ってのけるエドワード。
ヘイズは更に問いを重ねた。
「最後にもう一つ確認しよう。何があろうと、"アーク"を渡すつもりはないと思って良いな?」
「……」
大人しく渡すなら見逃してやると。
そう言外に告げるヘイズに、エドワードは意表を突かれたように息を呑んだ。
しかしそれも一瞬のことで、すぐに「ああ」と頷く。
「もちろんだ。俺は俺の人生に価値を与えてくれた会長に命を賭けて恩を返す。こいつはそれを叶えるための大事な道具だ。欲しけりゃ力尽くで奪ってみせな」
「よく分かった。なら望み通りにしてやる」
言うが早いか、ヘイズは疾風と化した。密かに足に溜めていた霊素を解放し、電光石火の勢いでエドワードとの間合いを詰める。
動作の起こりを排した真正面からの不意打ちである。エドワードの目が遅れてヘイズの目を捉えるも、対処には到底追い付かない。剣閃は一片の慈悲もなく、外道に堕ちた男の首を刎ね飛ばす……かに思われた。
「っ!」
突然天井が崩落し、土煙が視界を覆う。構わず踏み込むヘイズであったが、その行く手を阻むように頭上から人影が割り込んだ。
激突する鋼が甲高い音を奏で、残響が土煙の暗幕を吹き散らす。
ヘイズの剣を堰き止めたのは、一振りの槍だった。武器らしい堅実な造りながら洗練された意匠が散りばめられており、総じて使い手の拘りが感じられる逸品である。
ただし纏っている死の気配が桁違いだった。汚れ一つない穂先からも濃厚な血の匂いが漂ってくるようで、この槍が殺戮の凶器であることを雄弁に物語っている。
「やあ、約束通り会いにきたよ」
禍々しい得物にはそぐわぬ清々しい笑み。乱入者の正体は若い女だった。
腰まで伸びた赤錆の髪は薔薇のごとく艶やかで、あどけなさを残した顔立ちも華麗の一言に尽きる。しかしてヘイズを見つめる双眸にはどこか剣呑な色が見え隠れしており、彼女の本質を示唆しているようだった。
「お前……」
鍔迫り合いを演じながら、ヘイズは女を睨みつける。
彼女の顔に見覚えはない。しかし声だけは記憶に残っていた。あの競売会の夜、自分とやり合った賊が発していた声。
驚きはなかった。エドワードの目的はヘイズ達をここに誘き寄せること。ならば賊の襲撃自体、狂言であったと考える方が自然だろう。
「改めて挨拶を……と思ったけど、ここは少し風情に欠けるねぇ。場所を変えるけど、良いかな?」
「邪魔だ、失せろ」
「うん、予想通りの答えをありがとう」
女は何故か嬉しそうに笑みを深めると、くるりと器用に槍を回転させた。ヘイズの鳩尾を狙って石突きが跳ね上がる。
まずい。本能に突き動かされるまま、ヘイズは女の間合いから全速力で外れる。だがその目算は直後に破られることとなった。
「先に行っていてよ。私もすぐに追いつくからさ」
顔の前を石突きが擦過した刹那、轟!と大気が炸裂する。気付けばヘイズの体は天井に穿たれた穴から屋根を突き破り、高々と空を舞っていた。
起きた現象から逆算するに風の魔術か。ほんの一振りで大の男を吹き飛ばすとは、何という出力!
しかし何よりヘイズを戦慄せしめたのは、術式が起動する予兆が微塵も感じられなかった点だった。それは即ち女が魔導士として恐るべき使い手であることの証に他ならない。
眼下にマルクトの全容を収めながら、ヘイズは死闘を覚悟するのだった。
◇◇◇
「じゃあイヴ。彼、借りていくからね」
「……もう好きにして」
窓から軽快に飛び去って行く友人を見送り、イヴは深々と嘆息した。
彼女の介入は先日再会した時点で予想していたし、本人の身勝手さにも慣れたつもりだった。しかしまさかこんな力業でヘイズを連れ出そうとは。
本来なら使い魔に後を追わせたい所だったが、マリアンは無粋を嫌う。ただでさえ昂っている様子であったし、火に油を注ぐような行為は避けるべきだった。
「さて、あちらは任せておくとしてだ。こんなむさ苦しい野郎で悪いがお相手願おうか」
沈黙したままイヴはエドワードに向き直る。少し目を離した隙に、彼の周囲に佇む亡霊の数は膨れ上がっていた。ヘイズと共に相手取った者達は氷山のほんの一角に過ぎなかったらしい。
当然と言えば当然か。エドワードの言を信じるならば、一商会に属する人間が根こそぎ亡霊と化したのだから。
「お嬢さんができることはよく分かった。だからこっちも、形振り構わず行かせて貰う」
エドワードが機械仕掛けの魔導書を掲げた途端、亡霊たちの身を構成する霊素の密度が増す。
彼らの核となった想念を刺激し、高めたのだ。垂れ流される瘴気は建物の外にまで溢れ、付近を生者の存在を許さぬ魔境へと変えつつある。
「苦しませるのは好みじゃない。特に女が相手の場合はな。大人しく首を差し出してくれると俺としてはありがたい」
主が仄めかす殺意に従い、無貌の猟師たちが一斉に得物を構える。"アーク"によって鍛えられた彼らの脅威度は、先刻とは比べ物にならない。相対しているだけでも並みの星霊を凌駕する力を感じる。
真っ向からぶつかり合うなど愚の骨頂で、即座に退却を選んで然るべき場面だった。
にも拘らずイヴに臆した様子は微塵もない。それどころか、
「その言葉、そのまま返すわ。今すぐ"アーク"を手放して、『ゴスペル』の情報を洗いざらい吐いてくれるなら、命の保障はしてあげるけど?」
と、傲岸不遜に挑発を返して見せるのだった。
理由は明白である。『アンブラ』で数多の邪悪を討ち取ってきた彼女からすれば、この程度は劣勢とさえ呼べぬため。
「上等、できれば最期までその調子で頼む。――その方が殺し安いからな」
舌鋒を交わす時間が終わりを告げる。
獰猛に頬を吊り上げるエドワードから、夥しい霊素が解き放たれた。両手に嵌めた皮手袋を触媒に、男の全身を炎めいた白銀の毛並みが覆っていく。
そうして象られた異形は、正しく人虎と呼ぶに相応しい。強靱かつしなやかな四肢に、剣より鋭く研ぎ上げられた爪牙。裂けたような口から放たれる咆哮が窓硝子を粉砕し、建物の骨格を震撼させる。
人ならざる獣への変身。古来より脈々と紡がれてきた神秘の一枝、その真髄の顕現だった。
『じゃあ始めよう。あれだけ大口叩いたんだ、すぐに狩られてくれるなよ』
「……何か勘違いしているようね」
吹き荒ぶ殺意の渦中にありながら、イヴは唇を綻ばせた。可憐なのに空恐ろしい、嗜虐心を忍ばせた昏い微笑。
緩やかに銃口を持ち上げれば、待ちかねたように影の湖面が激しく騒めく。それはご馳走を前にして歯を打ち鳴らす、怪物たちの声なき声だった。
人虎の顔に緊張が走る。神秘に近しい姿となったがゆえに、これから何が起きるのかを理解したのだろう。
けれどもう、逃げることは許さない。
「狩人は私で、獲物は貴方。逃げ回る準備はできていて?」
破滅の宣告はしめやかに。
ここに大釜の蓋が開き、闇夜を統べる魔女の宴が始まる。
長らく間を空けてしまい本当に申し訳ありません。
更新再開いたします。




