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星辰のマギウス  作者: 空蝉
第二章 彷徨う凶星
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2-16 混沌の渦中へ ~剣聖と邪竜~

 酒場『アルミーダ』の片隅で、ジェフリーは独り杯を傾けていた。

 赤みを帯びた液体を舐めると、濃厚な果物の香りが舌先から広がる。喉を通り抜ける感触は熱を呑むようで、酒精の強さを感じさせた。

 紛れもなく、自身が最も好む銘柄の味である。しかし。

(……不味い)

 ジェフリーの表情が不快そうに歪む。慣れ親しんだ味の筈なのに、どうしてこうも口当たりが悪く感じるのか。

 それだけではない。ジェフリーは眉間に皺を寄せ、ぐるりと店内を見回した。

 既に赤ら顔の仲間たちが罵声と哄笑を飛ばし、ジュークボックスが小気味の良い音楽を垂れ流す。昨晩の悶着など忘れてしまったかのように、酒場の中は騒々しさに満ちていた。

 しかしそのいつも通りの風景が、ジェフリーの神経を無性に逆撫でする。

「おい、どうしたんだよジェフリー。今日のお前なんか変だぞ?全然喋んねぇし、顔色も悪いし」

「あのおかしな野郎にやられたことを気にしてんのか?いや俺も確かにムカつくけど、ありゃマジで化け物だぜ。関わってたら身が持たねぇ」

 数名の仲間が心配そうに声をかけてくる。ジェフリーはそれに答えることなく、顰め面のまま席を立った。

「お、おい、ジェフリー……?」

「……悪い、俺もう帰るわ。後は適当に楽しんどけ」

 ジェフリーはカウンターに代金を放ると、逃げるような足取りで店の出口に向かう。

 このままでは遠からず誰かに八つ当たりをしてしまいそうだった。彼らの頭目を気取っている以上、無様な姿を晒す訳にはいかない。

 外に出ると、空は黄昏時を迎えていた。夜の到来を間近に控え、学生や労働者が充実した顔で往来を闊歩している。

 その光景から目を背けるように、ジェフリーは踵を返した。苛立ちも露に、頭を荒々しく掻き毟る。

「サイモン……」

 亡き知人の名が、無意識に口から零れる。

 彼の訃報を知ったのは、今朝のことである。ラジオでニュースを聞き流していた折、耳に飛び込んできたのだ。

 遺体が発見された場所は、あの奇妙な男女を案内した廃商店だったという。

 驚きは少なかった。何故なら昨晩、女の方が建物に入ってから間もなく帰宅を言い渡されたからだ。

 その時点で、ジェフリーはサイモンの身に何が起きたのかを薄々察していた。同時に自分が変わり果てたサイモンの姿を目にすることがないよう、気を遣われたことも。

「クソッ」

 ジェフリーは堪え切れず、近くにあったごみ箱を蹴り付けた。

 空々しい音が、路地裏に反響する。もちろん気分が晴れてくれることはなかった。

 ジェフリーにとって、サイモンは友人ではない。学生時代こそそれなりに顔を合わせていたが、卒業後はすぐに疎遠になった程度の仲だ。交友関係も異なっていたし、互いの身の上を語り合ったこともない。

 だと言うのに、サイモンの死を改めて突き付けられた瞬間から、ジェフリーは言い知れぬ座りの悪さを感じている。

 あんな連中に関わるんじゃなかった。

 内心でそんな悪態を吐きながら、ジェフリーは集合住宅アパートメントの階段を上る。

「……あ?」

 自室の扉に手をかけたところで、ふと違和感を覚えた。

 鍵が開いている。もしや出がけに閉め忘れたのだろうか。確かに今朝は動揺していたものの、日々の習慣を忘れる程ではなかったはずだ。

 まさか泥棒か?ジェフリーの顔に緊張が走る。直後のことだった。

「なっ……!?」

 唐突に扉が内側から開き、腕が伸びてきたのだ。

 驚いて硬直するジェフリーの口を、皮手袋に包まれた掌が覆う。そのまま為す術なく、彼は部屋の中へと引き摺り込まれた。

「ようやく帰ったか。待ちくたびれたぞ、小僧」

 玄関に転がされるジェフリーの頭上から、冷たい声が降り注ぐ。

 視線を向けると、そこには二人の男が立っていた。鈍色の背広に帽子という、人相を隠した出で立ちである。

 忘れる筈もない。一月前、ジェフリーに怪しげなアルバイトを持ち掛けてきた者達だった。

「あ、あんたらは……」

「騒ぐな、後が面倒になる」

 ジェフリーが声を上げようとすると、男の片割れに首を掴まれた。そのまま乱暴に壁に押し付けられ、呼吸が詰まる。

「手短に話そう。俺達がここに来た理由は一つ、お前が約束を破ったからだ」

「なんのこと、っぐゥ」

「お前の発言は許可していない」

 喉に食い込む指の力が強くなる。苦悶の表情を浮かべるジェフリーを無視して、男は捲し立ててきた。

「俺達や仕事のことは口外するなと、釘を刺した筈だな?そしてお前達は頷いた。だと言うのに部外者に洗いざらい白状するとは、一体どういう了見だ?約束を破るなと学校では教わらなかったのか?」

 今度は後頭部を壁に叩きつけられた。衝撃に視界がぐらつく中、ジェフリーは遅まきながら理解する。

 どこからかは不明だが、昨晩酒場で起きた出来事が彼らに漏れたのだ。

「まあ所詮は半グレ、元よりお前たちに真っ当な知性は期待していない。……だが、相応のペナルティは負ってもらう」

 首を圧迫する力が失せ、ジェフリーは頽れた。咳き込む彼の前で、男が腰に手を伸ばす。

 引き抜かれたのは、小振りの山刀マチェーテであった。研ぎ上げられた刃が、ぎらりと凶悪な光を放つ。

 ジェフリーとて裏社会に片足を踏み入れた身である。男達が何をしようとしているのか、考えるまでもなく悟った。

 ゆえに助けを呼ぼうと口を開く。しかし。

「……!……!」

 声が出ない。喉が音を発することを禁じられているような感覚だった。

 ジェフリーの顔が、恐怖と絶望に染まる。

「余り手間をかけさせてくれるな。これからお前の仲間も掃除しなければならんのだからな」

 得物を手にした男が近付いてくる。ジェフリーはへたり込んだまま後ずさるが、最早逃げ場はどこにもなかった。

 これはきっと罰なのだ。

 自身の浅慮によって、知人を死へと追いやったことに対する報い。ならば潔く受け入れるのが、道理なのではあるまいか。

 そう思うと途端に抵抗する気持ちが消え失せて、ジェフリーは四肢を投げ出した。

「諦めが良くて結構。では先にあの世で待っていろ」

 山刀が無慈悲に振り下ろされる。ジェフリーはそれをどこか他人事のような心持で眺めていた。

 ――部屋の扉が盛大に蹴破られたのは、正しくその時だった。

「よう」

 額に触れる寸前で山刀が停止する。突如室内に飛び込んできた人影が、横から刃を掴み取ったのだ。

 救いの主の姿を見やり、ジェフリーは再び驚愕する。何故ならその正体は、昨晩自分を盛大に叩きのめしてくれた、あの金髪の男であったため。

 彼の掌の中で、山刀が音を立てて握り潰されていく。

「まだお天道様もまだ沈み切ってねぇってのに、随分面白そうなことしてるじゃねぇか?俺も混ぜてくれよ」

「こいつ……!」

 もう一人の背広の男が懐から拳銃を抜く。流れるような仕草で照準を合わせ、発砲した。

 鉛の弾丸は空を裂き、闖入者の胸元へと吸い込まれる。しかし命中の瞬間、吹き出たのは鮮血ではなく激しい火花であった。

 なんと金髪の男に触れた銃弾は、衣服すら貫けずに砕け散ったのだ。まるで凄まじい硬度を備えた鉄塊に激突したかのように。

 尋常ならざる結果である。背広の男達が忌々し気に舌打ちした。

「……化け物め」

「おい、退くぞ」

 言うが早いか、二人は窓の方へと足を走らせた。

 硝子を突き破り、宙に身を躍らせる。そのまま音もなく着地すると、脱兎のごとく走り去っていった。

 余りの急展開に目を白黒させるジェフリー。すると新たな人影が部屋に張ってくる。

「良かった、間に合ったようですね」

 颯爽としたその声に、ジェフリーは思わず身震いする。

 現れたのはまたしても見覚えのある顔だった。金髪の男と共に『アルミーダ』を訪れた、あの恐ろしい女である。

 彼女はジェフリーの全身を軽く見回すと、安心させるように柔らかく微笑んだ。

「外傷は無さそうですが、『沈黙』の呪詛をかけられていますね。後で人を寄こしますので、解呪して貰うとよろしい」

 女は一方的にそう言うと、掌大ほどの機械を取り出した。

 見たことがある。確か軍警局で使われている無線機だったはずだ。

「私です。予想通り、口封じに来ました。……ええ、追跡はそちらにお任せします。それから民間人が魔術を受けたようですので、一旦こちらで保護しておきます。身柄は後ほど」

 無線を切った女が、金髪の男の方に振り返る。

「軍警局が行動を開始しました。私達も合流しますよ」

「おう」

 未だ混乱の最中にあるジェフリーを他所に、彼女らは忙しなく部屋を出て行く。その間際、金髪の男が肩を軽やかに叩いてきた。

「じゃあな坊主、これに懲りたら悪さも程々にするこった」

 頷きを返す暇もなく、奇妙な男女の背中は瞬く間に見えなくなる。

 辺りが静寂に包まれる中、ジェフリーは呆然と座り込んだまま動くことができなかった。


 ◇◇◇


 背広の男達が逃げ込んだ先は港湾区画であった。貨物を保管する倉庫の一つを、アネット率いる軍警局の部隊が取り囲んでいる。

 セリカはテオドアと共に、少し離れた場所からその様子を見下ろしていた。

 今の所想定外の事態は起きていない。後は軍警局の面々が男達に手錠を嵌めてくれれば作戦は完了だ。

「しかし見事に引っかかってくれたもんだ。連中、自分達が罠にかけられるとは夢にも思っていなかったらしい」

 策の成就を前に、テオドアが満足そうに呟く。

 今回実行したのは所謂おとり捜査である。サイモンが殺害された背景を考えれば、ジェフリーや半グレ達に口封じの手が及ぶことは想像に難くなかった。ゆえに彼らを餌として、網を張ることにしたのだ。

 結果はご覧の通り。下手人は見事に罠にかかり、今正に追い詰められている。

 因みに軍警局の協力を得ることが出来たのは、偏にヴィクターのお陰だった。先日賭博場での会合を終えた後、彼らへの要請を依頼しておいたのである。

 軍警局も当初は民間人を危険に晒すということで承諾を渋ったものの、最終的には快く引き受けてくれたそうだ。

 ヴィクターのことだ、きっと言葉巧みに丸め込んだに違いない。配下として是非見習いたいと思う。

「無駄な抵抗は止めて、縛につきなさい。そうすればこちらも手荒な真似はしないわ」

 通信機越しに、アネットの声が聞こえる。逃げ場を失った男達は倉庫の中で得物を構えつつも、矛を交えることを躊躇っているようだった。

 無理もあるまい。何せ彼らが二人だけであるのに対し、軍警局側の手勢は十数名にも及ぶ。如何に優れた魔導士マギウスと言えど、この戦力差を覆すのは困難を極めよう。加えて包囲網が突破された場合は、セリカ達が介入する手筈となっている。

 つまりは万事休す。男達がどれだけ奮戦しようとも、逮捕されるという結末は揺るがない。

 ……無論、こちらの計画を覆す異分子が現れなければの話であるが。

「あーあー、大勢引き連れてきてくれちゃって」

 突如、場違いな程気の抜けた声が上がる。アネットらが警戒を強める中、倉庫内に積まれたコンテナの後ろから一人の男が姿を見せた。

 洒脱に着崩した衣服に、黒髪を覆う中折れ帽。指や首には派手な装飾品が存在を主張しており、如何にも遊び人といった風体である。

 だが彼の姿を認めた途端、背広の男達は一斉に顔色を失った。

 その表情が物語る感情の名は、恐怖。銃口を突き付けられていることすら忘れたように、彼らは唇を戦慄かせていた。

「やあ、どうもどうも。軍警局の皆さんにおかれましてはご機嫌麗しく。オレの名はサルバトーレ、一応こいつらの上司に当たる立場でね」

 サルバトーレと名乗った男は怯える部下達の傍に歩み寄ると、馴れ馴れしく肩に手を回した。

「さぁて、どうしようかねこの状況。お前さんたちのお陰で、大事な隠れ家の一つが割れちまった訳だけど」

 仕草も然ることながら、かける言葉にも親しみが籠っている。

 しかしそれを受けた男達の反応は劇的だった。遠目からでも分かる位に冷や汗を浮かべ、激しく狼狽した素振りを見せる。

「も、申し訳ありません……!」

「その、頼まれていた仕事の方がもう少しで達成できるというところで、邪魔が入りましてそれで……!」

「おいおいそう怖がらないでくれよ、傷ついちゃうじゃねえか。この程度のミス、別に目くじら立てる程じゃねぇよ」

 でもな、とサルバトーレは諭すように囁いた。

「信頼って大切だよな?特に失敗した後は言葉だけじゃなくて、ちゃんと行動で誠意を示さねぇと……だろ?」

 こくこくと背広の男達が蒼褪めた顔で頷く。そんな彼らをサルバトーレは満足げに一瞥すると、握手を求めるように掌を差し出した。

「どっちのでも良いから、銃貸してくれねぇかな?」

「は、はい!どうぞ」

「サンキュー。さぁて、どちらにしようかなっと……」

 拳銃を受け取ったサルバトーレは、部下二人の間で人差し指を彷徨わせ始める。

 異様な光景だった。サルバトーレ達は明らかに無防備な状態を晒していて、拘束するには絶好の機会であると言えるだろう。

 にも拘らずセリカは太刀の柄に手をかけたまま、サルバトーレの動向を注視ことしかできなかった。

 漠然とした予感があるのだ。例えこのまま斬りかかったとしても、害を被るのはこちら側であろうと。さながら熟練の奇術師のように、サルバトーレという人物には何を仕掛けてくるか分からない不気味な印象を抱いていた。

 それは恐らくアネットも同じなのだろう。戸惑う隊員達を目線で制し、成り行きを見守っている。

 やがて、サルバトーレの指が片方の男の元で止まった。

「よし決まり。じゃ今回はお前な」

 乾いた破裂音が木霊した。あろうことかサルバトーレが、自身の部下に向けて何の躊躇いもなく引き金を引いたのである。

 哀れ標的にされた男は、身体に風穴を開けられ崩れ落ちる――かに思われた。

「……え?」

 呆然と声を発したのは、軍警局の隊員の一人だった。

 彼は自らの胸元を撫で、掌にべったりとこびりついた赤色を認めると、

「俺、なんでこれ……撃たれて……」

 糸が切れたように地面に倒れ伏した。

「おい、しっかりしろ!おい!」

 近くの隊員が慌てて抱き起こすも、流血の量は明らかに致命傷であることを告げていた。

 一体何が起きたのか。発砲された本人すら狼狽える傍ら、サルバトーレだけはくつくつと楽しそうに喉を鳴らしていた。

「幸先良いじゃねぇかお前さん。一回目は当たりを引けたみたいだぜ?」

「貴、様ッ!」

 激情は瞬く間に部隊内に伝播した。憤怒に駆られるまま、隊員達は銃剣の照準を一斉にサルバトーレへと集中させる。

 しかし弾丸の嵐が吹き荒れる、その間際。

「撃つなァ!!」

 アネットの一喝が倉庫の外にまで響き渡った。余りの声量と気迫に、隊員達は銃剣を構えたまま硬直する。

「ヒュウ、良い判断だな隊長の姉ちゃん。あんた今、部下全員の命を救ったかもしれないぜ?」

 サルバトーレが感心した風に口笛を鳴らす。人を撃った直後とは到底思えない、余りに軽薄な態度であった。それがますます隊員達の怒りを煽る。

 アネットも例に漏れず、激昂しそうになるのを必死に堪えているようだった。

 当然だろう。原理はともかくとして、仲間が一人負傷させられたのだ。その心中は決して穏やかではいられまい。されど部隊を預かる立場としての矜持が、彼女を踏み止まらせたのだ。

「でも残念、俺は撃っちゃうんだよなァ」

 だがサルバトーレの悪意は、そんな彼女の心意気を平然と踏みにじる。

「さあて二回目のチャレンジだ。今度も当たりだと良いな?」

「ひっ……!?」

 再び拳銃を突き付けられた男も、サルバトーレから逃れようと後退りする。が、恐怖ゆえか膝から力が抜けて尻餅をついた。まずい。

「セリカッ」

 テオドアが叫ぶよりも早く、セリカは稲妻と化した。

 自身が最も得意とする魔術、『雷切』である。神速を以て倉庫の中に飛び込み、サルバトーレの元へ肉薄する。

 踏み込み、抜刀。鞘走る白銀の斬撃が飛来する弾丸を違わず切り払った。

 続けて返す刀を上段から振り下ろす。狙うはサルバトーレが握る凶器。確かな手応えの後、真っ二つにされた鉄屑が宙を舞った。

「っと……」

 意表を突かれたサルバトーレが間合いから離脱を試みる。

 しかしセリカはそれを追わず、自失する背広の男達の襟首を掴むと、倉庫の入り口に向けて思い切り放り投げた。遅れて到着したテオドアが、落下する彼らを見事に受け止める。

 ここまで十秒足らずの早業であった。出来の良い見世物を観たかのように、サルバトーレが無邪気に拍手を送ってくる。

「ほー、お嬢さんが噂に聞く処刑人って奴かい。若いのにとんでもねぇ腕前だな」

「お褒めに預かり光栄です」

 冷ややかに応じつつ、セリカは太刀を擬した。だが攻勢に出ることはなく、一定の間合いを保ったままサルバトーレを観察するだけに留める。

「ふぅん……お前といい軍警局の隊長さんといい、案外冷静なんだなぁ。俺ぁてっきり、今ので腕を落とされるかと思ったぜ?」

「……」

 セリカは沈黙を返す。いつもの自分なら、確かに四肢を斬り落としてでも無力化を図っただろう。

 だが先程目の当たりにした奇怪な現象が、セリカの脳裏に刻まれて離れないのだ。

 銃弾を受けた筈の者が傷を負わず、全く別の人物が撃ち抜かれる。魔術が作用した結果であることは明白で、現に倉庫に踏み入った瞬間から僅かな違和感を覚えている。

 その正体が判然としていない状態で、サルバトーレを不用意に攻撃するのは流石のセリカにも躊躇われた。

 魔導士との闘いにおいて、謎に包まれた術式ほど恐ろしいものはないのだから。

「無視とは寂しいねぇ……まあ何でも良いけど、俺はそろそろお暇させて貰いたいんだがね?」

「おや、部下を見捨てるのですね。薄情なことです」

「別にいなくてももう困らねぇしな。逃げる分には俺だけの方が早いし……お前さん達へのお捻り代わりってことで。煮るなり焼くなり好きにして良いぜ」

 セリカは無言でアネットに目配せする。間髪入れずに頷きが返ってきた。

「理性的な判断で大変結構。オレとしちゃあ、ちと張り合いがない所ではあるけどな」

 サルバトーレが悠々とした足取りでセリカの真横を通り過ぎる。

(……?)

 刹那、セリカは奇妙な匂いを嗅ぎ取った。強めの香水によって隠された、どこか粘ついた嫌な匂い。

 だが疑問を呈した時にはもう、サルバトーレは軍警局の包囲網を抜け出していた。

「んじゃまあ、観客オーディエンスも程々に集まってることだし、最後に名乗らせて貰おうかね」

 くるりと身を翻したサルバトーレが、芝居がかった仕草で両腕を広げる。

「我らが首領に代わり、マルクトの秩序の番人の皆様に挨拶申し上げる。

 ――我らは『ゴスペル』!この欺瞞に満ちた世界を覆し、人類に福音をもたらす革命の徒なり!……なんてな」

 言い放った彼の衣服の下から、円筒状の物体が零れ落ちる。

 それが何であるかをいち早く見抜いたアネットが叫んだ。

「閃光弾!」

 咄嗟に目元を庇った直後、強烈な光の奔流が倉庫の中を支配する。

 ようやく視界が正常さを取り戻すと、サルバトーレは既に姿を消していた。

「……怪我人の手当を急いで。霊薬や術符にも糸目はつけなくて良い、とにかく命を繋いでちょうだい」

 嵐の後のような静寂を、アネットの声が打ち破る。それを切っ掛けに、数名の隊員がすぐさま負傷者の元へと集まった。

 魔術を始め、持ち込んだ道具を惜しみなく駆使して治療が施されていく。

 一先ず出血を止めることには成功したらしい。幾らか生気を取り戻した負傷者の顔を覗き込み、アネットは安堵の吐息を零す。

「……隊長、何故発砲を止めたのですか?」

 すると堪え兼ねたように、ジンが問いを口にする。静かな語調ではあったものの、声はどこか糾弾するような響きを伴っていた。

 彼だけではない。他の隊員達もサルバトーレを逃がしたことに対し、明らかに納得していない様子だった。

 抗議の視線がアネットに集中する。

 流石に看過できない状況だ。アネットを擁護するべく、セリカは間に割って入ろうとする。しかし。

「おいハウスマン、姐さんを困らせるんじゃねぇ」

 それよりも早く、背広の男達の拘束を終えたテオドアが口を挟んだ。

「追わないんじゃなくて、追えねぇんだよ。お前も野郎がおかしな技を使ったところを見ただろうが」

「そう、ですが……しかし」

「お前らの気持ちが分からない訳じゃない。けど今は文句よりも後始末を優先するべきじゃねぇのか」

 テオドアの指摘を受け、ジンは悔しそうに歯噛みする。

 軍警局の中でも一際正義感の強い彼のことだ。理屈では分かっていても、感情の面で受け入れられないのだろう。

「はい、そこまで」

 沈みかけた空気を払うように、アネットが拍手を一つ打つ。

「私が不甲斐なかったことは認めるわ。でもテオの言う通り、まずは軍警局としてやるべきことをやりましょう。それが終わったら、ちゃんと話を聞くからさ」

「……いえ、自分も冷静さを欠いていたようです。申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げるジン。自己嫌悪によるものか、悄然とした面持ちだった。

 そんな彼にアネットは優しく笑いかけると、てきぱきと隊員達に指示を飛ばしていく。

「お疲れ様です、大尉」

 事後処理が本格的に始まった所で、セリカはアネットの隣に並び立った。

「ああ、うん。アンタもね」

 返ってきたのは常に溌溂とした彼女らしからぬ弱々しい声。部下の手前、気を張っていたらしい。

「悪かったわねー、情けない姿見せちゃってさ」

「まさか。元はと言えば我々が皆さんに助力を持ち掛けたのです。大尉が謝罪するようなことは何もありませんよ」

 それきりセリカとアネットは口を噤み、忙しなく動き回る隊員達を眺め続ける。

「ねえ」

 不意に、アネットが口を開いた。

「あたしは正しかったと思う?」

 何が、とは聞かなかった。代わりにセリカは率直な意見を述べる。

「私が大尉の立場であれば、同じ判断を下したと思います。正体不明の魔術を使う相手に無策で闘いを挑むなど、自殺行為も良い所ですから」

「……そっか。ありがとね」

 アネットは相好を崩すと、ジン達の元へと歩いていった。部下を傷付けられた彼女の心境は計り知れないが、友人として少しでも慰められたのであれば幸いだ。

 と、アネットと入れ替わる形でテオドアが近付いてくる。

「今回は相手が上手っつーか、厄介だったな」

「ええ……ですが敵の正体が判明したのは収穫と言えるでしょう」

 サルバトーレという男は間違いなく事件の中核を担っている。彼の潜伏先や目的については、逮捕した男達を尋問すれば良いだろう。

 尤もあっさり切り捨てられた辺り、然程重要な情報は握っていないと思われるが……。何れにせよ『ゴスペル』という集団に関することも含め、洗いざらい吐いて貰分ければなるまい。

「それにしても先程は意外でした。てっきり貴方も、サルバトーレを逃したことに不満を抱いていると思っていましたが」

「不満に決まってんだろ。野郎が俺の傍を通った時だって、あのすかした面に一発お見舞いしたくて堪らなかった。……けどまあ、俺のせいで仲間を危険に晒す方が嫌だしな」

 どこかしみじみとした口調でテオドアは言う。握り締めた拳を見下ろす瞳は、ここではない遠くを見据えているようだった。

 魔導士の癖に相変わらず我を通す場を弁えた男である。だからこそ結社の仲間からも慕われているのだろうが。

「なるほど、よく我慢しましたね。褒めて上げましょう」

「おいこら、最後にぶち壊しにするんじゃねぇ」

 揶揄するようなセリカの言葉に、テオドアが不貞腐れたように唇を歪める。

「ヴィーラントさん、シュレーゲルさん」

 すると横合いから声をかけられた。視線を向けると、倉庫の入り口から見知った顔が近づいてくる。

 栗色の髪を携えた女。『アンブラ』に所属する魔導士の一人だった。

「ああ?お前今日は賭博場の方に詰めてなかったか?」

「私がお願いしたんですよ、この倉庫の借主を調べて欲しいと。オーナーも了承済みです」

「いつの間に手配したんだよ」

「例の二人組が港湾区に入った辺りで。大尉のお陰で逃走経路もそう複雑ではありませんでしたし、彼らがどこに辿り着くのかは容易に推察できました」

「……頼もしいけどやっぱ怖ぇよお前」

 戦慄するテオドアを華麗に無視して、セリカは女に向き直る。

「急な申し出でしたが、流石の手腕ですね。早速結果をお聞きしても?」

「もちろんです。ただ借りた企業というのがどうにもきな臭く……」

 神妙な態度で女が耳元に顔を寄せてくる。囁かれたその名前をセリカは復唱した。

「……アラネア商会?」

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