2-9 波乱の夜会 其之三
夜も深まった頃合いである。
繁華街の猥雑な喧騒から切り離された、高級住宅の立ち並ぶ区画にて。ブルーノ・ロッシーニの邸宅は門扉を開け放っていた。
煌々と宵闇を照らすその様は、差し詰め暗い海に佇む灯台であろうか。それを標として、何台もの自動車が敷地内に吸い込まれていく。
下車する人々は等しく、華美な装いで着飾っていた。彼らは皆、今宵の競売会に参加すべく集まった、マルクトでも有数の資産家や名士達である。
そして玄関を潜る客人達を壮麗なシャンデリアの光が出迎える。次いで視線を巡らせれば、そこかしこに絵画や彫刻品が飾られており、内装をより豪奢に彩っていた。
これだけなら成金趣味と揶揄されそうなものだが、そこは界隈で名を馳せる蒐集家の面目躍如か。美術品の並びを含めた空間の造りには、目を飽きさせぬ工夫が見て取れる。現に賓客達は展覧会さながらの光景に、思わず感嘆の息を漏らしていた。
一方で、その様子をエントランスの片隅より、冷めた眼差しを送る男が一人。
「……ただでさえ窮屈なのに、目まで痛くなりそうだ」
などと、情緒の欠片もない感想を零すのは、他ならぬヘイズである。
黒い背広に袖を通し、黒眼鏡まで装着している。人相をぼかしつつ、厳然とした印象を周囲に与える格好であった。
今の彼は『マモン・セキュリティ』より派遣された魔導士、アンバー。先日の商談で結ばれた契約に従い、競売会の警備員としてこの場に立っているのだった。
それにしても、とヘイズは周囲に目を走らせる。
壁際には黒服で着揃えたロッシーニ商会の構成員が控えているのだが、彼らから監視を受けている気配はない。控室として通された部屋も同様で、罠の類が仕掛けられている形跡はなかった。
一応、ヘイズ達の配置を会場に集中させている辺り、館内を自由に歩き回られたくはないらしい。が、制限らしい制限はそれくらいで、実質野放しに近い状態であった。
「雇い主殿は何を考えているんだか……」
どうにもブルーノの真意が掴めず、ヘイズはつい思索に没頭してしまう。
が、それも長くは続かなかった。
「こらアンバー、弛んでいますよ」
という叱責の声が、横から飛んできたのである。
我に返って気が付く。知らぬ間に自分の手は首元に伸びていて、ネクタイを緩めようとしていた。
「既に賓客の方々が集まっています。服装は乱さないように。ロッシーニ様の顔に泥を塗るような真似は許しませんよ」
見れば飴色の髪の女が咎めるような眼差しで立っていた。
そのきびきびと活力に溢れた佇まいからは想像もつかないが、正体はカミラなる人物に扮したイヴである。設定上の肩書は警備主任で、ヘイズの上司にあたる。
「……申し訳ありません。気を引き締め直します」
なので真面目腐った顔で謝罪すると、彼女は「よろしい」と仰々しく頷いた。
「無線の調子に問題はありませんか?言われるまでもないでしょうが、有事の際に備え、各班とはいつでも通信を繋げられるようにしておきなさい」
「承知しました」
今夜の警備に参加するにあたり、『アンブラ』に所属する魔導士が八名招集された。
ヘイズは部隊のリーダーということになっているため、状況に応じて彼らに指示を下す必要がある。
イヴが直々に選出した人材らしいので、能力的な面においては全く心配していない。
寧ろ問題なのはヘイズの方である。元々単独行動を好む気質であるために、集団を率いた経験など皆無なのだ。
そんな自分が周囲に怪しまれぬよう、それらしく振舞うことができるのか。不安の種は尽きないが、引き受けたからには腹を括って務め上げるしかない。
因みにイヴは本来の目的である内偵調査を単独で担当する。
各自の役割を決める際、それは流石に彼女に荷が勝ちすぎるのでは、とヘイズは意見したのだが。
「問題ないわ、慣れているもの」
などと、確固たる自負と共に断言されたものだから、引き下がるしかなかった。
実際、この場所に潜入することができたのは、イヴのお陰である。密偵に関する彼女の手腕には疑いの余地もなく、門外漢たるヘイズが口出しをするべきではない。
「おお、カミラ殿。こちらにいらっしゃいましたか」
不意に、背後から呼びかけられる。振り返ると廊下の奥から、ブルーノが肩で風を切ってこちらに近寄ってくる所だった。
見るからに上等そうな正装である。指に煌めく宝石の輝きも、先日身に着けていた物より一段と眩しい。
当然、彼の半歩後ろにはエドワードという男が付き従っていた。相変わらず迫力のある出で立ちであるが、先日顔を合わせた時とは違い、剣呑な気配は纏っていない。
雇い主の姿を認めて、イヴがぱっと表情を華やがせる。
「ロッシーニ様。この度は私共とご契約いただき、誠にありがとうございます」
「いやいや、礼を言うのは寧ろこちらの方でしょう。契約に際し、何くれと便宜を図っていただきましたからな。今後とも御社とは、良い付き合いを続けていきたいものです」
「過分なお言葉、痛み入ります」
ブルーノは上機嫌そうに笑うと、今度はヘイズの方にも視線を投げてきた。
「貴方はアンバー殿でしたな。今宵は苦労をかけますが、よろしくお願いしますよ」
「……微力を尽くします」
何とも愛想のない返事となったが、ブルーノが気分を害した様子はない。彼は「うむうむ」と鷹揚に頷き、続けてイヴに提案する。
「実はこれから挨拶回りに向かうのですが、カミラ殿に紹介したい方が何人かおりましてな。お時間があれば、お連れしたいのですが」
「まあ!お声がけ頂いて光栄です。是非とも同行させてくださいませ」
「それは良かった。ではカミラ殿、こちらへ。……エドワード、聞いての通りだ。私は当分この辺りにいるから、お前は警備に戻って良いぞ」
「かしこまりました」
そうしてブルーノと共に、イヴはエントランスに集う客人達の下へと向かっていく。
取り残される形となったヘイズであったが、内心では安堵していた。
上流階級の社交界には政治的な駆け引きが付き物である。参加者達はにこやかに会話する裏側で、互いの腹を探り合い、時に策謀を巡らせる。
そんな彼らの姿を外野から眺めているだけでも気が滅入るのに、渦中に身を晒すなど考えるだけでも億劫だった。
「退屈そうだな、坊主」
「……はい?」
話しかけられたのだと気付くのに、ヘイズは一拍の遅れを要した。
声の主を確認して、更に困惑を深める。どういう訳か、エドワードがヘイズの隣に並び立っていたのだ。
「いえ、そのようなことは……」
「ああ、誤魔化さんでも構わんぞ。俺も正直、こういう場は慣れちゃあいるが、苦手なんだ」
取り繕うヘイズに、エドワードはむず痒そうに顔を顰めた。
「あと敬語も辞めてくれて良い。お前さん達は商会に雇われた側ではあるが、一緒に仕事をする以上は対等だ。精々仲良くやろうや」
「……分かった。これで良いか」
ヘイズが口調を崩すと、エドワードはにっと歯を見せて笑う。物騒な第一印象からは想像もできなかった、気さくな表情であった。
「改めて、俺はエドワード・ウェイクだ。ブルーノの旦那の護衛と、あと構成員の取りまとめなんかをやらせて貰ってる」
差し出された手を、ヘイズは訝しみながらも握り返す。
「そう身構えんなよ。ちょっとこの間のことで、一言謝っておきたいだけだ」
罰が悪そうに言うエドワード。彼が何を刺しているのか、ヘイズはすぐに察しが付いた。
「こちらの実力を試した時のことか?」
「ああ。本気で当てるつもりはなかったんだが、手荒な真似をしたのは事実だろう。特にお前さんには、面倒をかけさせちまったし……すまなかったな」
エドワードが頭を下げる。
謝罪はブルーノからあの場で受けたつもりだったが、彼自身はその後も気に病んでいたらしい。存外に律儀な男だった。
「……別に構わない。職業柄、俺も主任もああいう場面には慣れている。それにアンタの場合は、ロッシーニ会長の命令なんだろう?」
ヘイズが訊ねると、エドワードはやれやれと肩を竦めた。
「そこもお見通しか。あの人の下で働いて十年近く経つが、昔から疑り深い人でね。お陰で色々と無茶をこなしてきたもんさ」
「……アンタも苦労しているんだな」
エドワードの口調から察するに、先日のような出来事は珍しくないのだろう。頭目に敵が多い分、腹心の彼が何かと骨を折っている訳だ。
振り回されがちな自身の境遇も相まって、同情の念を禁じ得ぬヘイズであった。
「それにしても、カミラのお嬢さんは大したタマだな。旦那も相当気に入ったらしい。ありゃしばらく連れ回されるな」
感心した風にエドワードが呟く。彼の視線の先では人の輪の中心で歓談するイヴの姿があった。
彼女の美貌は、目の肥えた賓客達も無視できないのだろう。男性を中心に、舞台女優のごとく周りの感心を一身に集めている。
目立って良いのかと思わないでもないが、本人の態度は堂々たるものだ。
会話に真摯に耳を傾け、よく相槌を打ち、共感と敬意を示す。勿論、さりげなく『マモン・セキュリティ』の名を売り込むことも忘れない。
端から見た印象は愛想が良い上に聡明、それでいて強かさも兼ね備えた才媛といったところか。
だが実際は、相対する一人一人の顔と名前を冷静に記憶しているのだろう。それを億尾にも出さぬ演技力には脱帽させられる。
「まあ、主任としては願ったり叶ったりだろう。実になる話ができるなら、幾らだって付き合うさ」
「だと良いんだがな。俺としちゃどっちかって言うと、旦那の方が羽目を外しすぎないかが心配なんだが……後で一応釘を刺しておくか」
そこで唐突に、エドワードははっとしたように、近くに置かれた柱時計を確認する。
気が付けば競売会の開催まで、あと一時間を切っていた。
「おっと、つい話し込んじまったな。そろそろ警備の最終確認にいかねぇと。付き合ってくれてありがとうな、坊主。滅多なことはねぇと思うが、もしもの時は頼りにさせて貰うぜ」
「了解した。報酬に見合うだけの働きはさせて貰うとも」
ヘイズの返答にエドワードは今一度破願して、慌ただしく立ち去っていく。
本当に、何事も起きなければ良いのだが。
切実にそう願いながら、ヘイズも警備に戻るのだった。
◇◇◇
ロッシーニ邸の門の前で、男は直立不動の姿勢で佇んでいた。
競売会が始まってから、かれこれ一時間程度が経つ。宴は中々の盛り上がりを見せているようで、感嘆や称賛の声が微かに聞こえてくる。
対照的に眼前に横たわる往来は時分もあってか閑散としており、人通りも皆無だった。
とは言え油断は禁物である。彼は気を引き締め直し、引き続き周辺の様子に目を光らせる。
「あーあ。門番っつっても暇だよなぁ。こんなことなら誰かに代わって貰えば良かったぜ」
すると、隣から不満を隠そうともしない声が聞こえた。
眉を顰めながらそちらを向くと、同じく警備を担当する同僚の男が、退屈そうに欠伸を零していた。流石に看過できず、その不真面目な態度に苦言を呈する。
「おい、気持ちは分からんでもないが黙って集中しろ。いつ他の商会が邪魔しにきても可笑しくないんだぞ」
「冷たい奴だな、雑談くらい付き合ってくれたって良いじゃねぇか。同期だろ?」
同僚は不貞腐れたように唇を尖らせる。しかし全く懲りていないらしく、すぐさま能天気な表情を取り戻して話しかけてきた。
「そんなことより、お前も見たか?今回警備に協力してくれてる企業の主任さん」
仕方がない。男は嘆息した。
無視して文句を延々と吐かれ続けるのも鬱陶しい。自身の精神衛生のためにも、少しだけ相手をしてやることにした。
「……遠目からならだが。それがどうした?」
「すげえ美人だったよな!」
即座に返ってきた答えに、男は呆れ返った。
「お前な……いきなり何を言い出すかと思えば」
「良いよなぁ……俺もあんな人とお近づきになりてえよ。競売会が終わった後とか、ちっとでも話できたりしねぇかな」
男が送る半眼など意にも介さず、同僚は惚けたように宙に視線を彷徨わせる。きっと彼の脳内では、どこまでも都合の良い妄想が繰り広げられているのだろう。
夢を見るのは自由だが、それを現実にして貰っては困る。彼が悲惨な目に遭っても寝覚めが悪いので、同期の好で釘を刺しておく。
「悪いことは言わないから辞めておけ。聞いた話じゃあの人、会長のお気に入りだって話だからな。下手なことをしたら首が飛ぶ……とまでは流石にいかんだろうが、エドワードさんから拳骨を喰らうぞ」
「分かってるよ、言ってみただけださ。お前は本当、昔っから堅苦しいよなぁ」
親切心から忠告してやったというのに、この言い様。揶揄するように笑う同僚に、男はむっと眦を釣り上げた。
「堅苦しくて何が悪い。お前のように軽薄な奴より何倍もマシだろうが」
「お前の場合は全力疾走し過ぎなんだよ。そんなのを続けてたら、いつかぶっ倒れちまうぜ」
「生憎、自己管理はちゃんとしてる。それに与えられた仕事に力を尽くすのは、人として当然のことだろう」
「うんうん、真面目なことは確かに美徳だね。まあ個人的には、もう少し遊びがある方が素敵だと思うけど」
「――は?」
男は硬直した。
今、会話に滑り込んだ声は誰が発したものだ?
背筋を戦慄が走るのを感じながら、恐る恐る正面に視線を戻す。そこにはいつの間にか、しなやかな人影が立っていた。
会話に意識を割いていたとは言え、誰かが接近して来れば気配で分かるはず。にも拘わらず、今の今までその存在を欠片も感知できなかった。
明らかに、只者ではない。
「誰だッ」
呆然としたままの同僚を尻目に、男は咄嗟に腰に手を伸ばした。警棒を抜き放ち、闖入者に突き付け凄む。
妙な素振りを見せれば、即座に暴力に訴えるつもりだった。
だが次の瞬間、顎から脳天を衝撃が突き抜ける。一体何をされたのかも分からぬままに、男はその場に膝から崩れ落ちた。
「て、てめぇ――」
ようやく我に返った同僚も、狼狽しながら得物を構えるが、同じ末路を辿った。
電光石火の早業で、無力化されてしまう。
(エドワードさんに、伝えなくては……)
懐から零れた無線機を掴もうとするも、体はもうぴくりとも動かない。
そして視界が暗転する間際、彼は場違いなくらいに無邪気な声を耳にした。
「それじゃあ行動開始しよう。今回の仕事は隠密だからね。焦らず騒ぎ過ぎず、手早く済ませよう」




