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星辰のマギウス  作者: 空蝉
第二章 彷徨う凶星
34/67

2-5 異変の予兆 其之二

 日没を迎えた空に、宵闇が混じり始めた。

 この時間帯になると、マルクトは大陸随一の歓楽街としての側面を表にする。

 劇場や賭博場カジノではより声高な喝采と悲鳴が鬩ぎ合い、娼館が門扉を開いて甘い香りを漂せる。

 そんな享楽の気配に誘われて、ネオンの光の中に無数の影法師が消えていく。彼ら彼女らの欲望を糧にして、都市を包む狂騒は更に熱を増すのだ。

 他方、路地裏に目を向けて見れば、そこでは怪しい輩が跳梁跋扈。ご禁制の品の売買など可愛いもので、人の命すらも一山いくらで勘定される悪徳が蔓延している。

 繁栄と退廃が危うい均衡の下に成り立つ独特な情景。魔都、マルクトの真骨頂とも呼べる夜の喧騒であった。

「ちょっとそこのお兄さん、今晩はウチで遊んでいかない?」

「悪い、先約があるんだ。また今度な」

 次々とかかる客引きの声を躱しつつ、ヘイズは港近くの目抜き通りを早足で歩いていた。

 約束の時間までもう間近。昼の亡霊退治の事後処理に思ったよりも時間がかかったのが原因だった。

 そうして猥雑極まる人混みを掻き分けて辿り着いたのは、煌々と明かりを零す酒場である。扉を開くと、騒がしい笑い声と怒声がヘイズを包み込んだ。

「いらっしゃいませー!お一人様ですか?」

「いや、連れが先に入ってると思うんだが……」

 元気よく近付いてきた女給にそう告げ、店内を見回す。

 立地の都合ゆえか、客層は船乗りらしき男が多い。ヘイズが拠点とする『カメリア』とはまた異なった趣の賑わいだった。

「おーい、ヘイズ。こっちだこっち」

 すると、奥の席からそんな声がかかる。見れば長身の男が、椅子に腰かけたままヘイズに手を振っていた。

「すまん、遅くなった。少し待たせたか?」

「いんや、こっちもついさっき入ったばっかだ。気にしなくて良い」

 席につきながら謝罪するヘイズに、男は気分を害した様子もなく鷹揚に笑う。

 無造作に掻き上げられた髪、鋭い光を帯びた緑の瞳。野性味の中に貴公子然とした品を感じさせる容貌は、人でごった返す酒場の中においても存在感を放っている。

 テオドア・シュレーゲルという、先月からヘイズの同僚となった男だ。

「聞いたぜ、今日もセリカと仕事だったんだって?お安くないねぇ」

「どこをどう聞いたらそんな発想に至るんだ……いやまあ、俺のために骨を折ってくれてるってのは、分かってるんだが」

『アンブラ』に所属してからの約一ヶ月間、散々連れ回されたことを思い出し、ヘイズはげんなりと肩を落とす。

 とは言えセリカの意図も理解できるので、文句ばかりを口にする気にはなれなかった。

 魔導士マギウスの世界は実力至上主義。特に『アンブラ』は手掛ける業務の内容上、更にその傾向が強いと言って良い。従って新参者であるヘイズが手っ取り早く他の構成員からの信頼を勝ち取るには、仕事をこなして自身の価値じつりょくを示すのが最適である。

 要するにセリカはヘイズが組織の一員として認められるよう、箔を付けようとしてくれているのだった。

「まあ、女に振り回されるのも男の甲斐性ってな。アイツ美人だし、役得だと思っとけよ。実際、他の連中からも羨ましいって声を聞くんだぜ?」

「じゃあ代わってくれよ……」

「それは断固拒否する。命が幾つあっても足りねぇ」

 人情もへったくれもない即答だった。

「気を取り直して、飲もうぜ。最初は……とりあえず麦酒エールで良いか?」

「任せる。酒は基本、何でも飲める方だ」

「あいあいっと。――そっちの坊ちゃんも同じ物で問題ねぇか?」

 そこでヘイズとテオドアは初めて、同じ机を囲むもう一人に目を向けた。

 小奇麗な身なりをした、鈍色の髪の男だ。彫りの深い眉目は精悍であり、座る姿勢にも一本芯が通っていて、総じて堂々した印象を受ける。だが何より人目を引くのは、彼が身につけた腕章だろう。そこに刺繍されているのは、とぐろを巻く竜とその身を貫く剣の象徴エンブレム

 エリオット・アーヴィング。マルクト最高峰の結社『竜狩の騎士団』の一員である。

 唐突に声をかけられたエリオットは、面食らった様子で控えめに頷いた。

「え、ええ。自分もそれで構いませんが」

「おう。じゃあ頼んじまうな」

 意気揚々と通りがかった女給に声をかけるテオドア。

 それを尻目に、エリオットは仏頂面でヘイズに耳打ちしてきた。

「……おい。おい、グレイベル」

「なんだよアーヴィング君。お貴族様には、大衆向けの酒場はお気に召しませんでしたか」

「違うわ!何故この方がここにいる……!?」

「テオドアのことか?元々別で約束してたんだが、お前と飲むって言ったらじゃあついでに、って流れで」

「それをどうして俺に言わんのだ貴様は!」

「いやちゃんと確認しただろ、もう一人呼んでも問題ないかって。そうしたらお前、別に構わんと言ってただろうが」

「ぐ、それはそうだが……!」

 言い淀むエリオットの表情を、ヘイズは観察する。

 明らかにテオドアのことを知っている態度だが、嫌悪感を抱いている訳ではなさそうだ。強いて言うならば、困惑と委縮の趣が強いように見受けられる。

 そんな落ち着かない様子のエリオットに、テオドアが苦笑を浮かべた。

「そう肩肘張るなよ、アーヴィングの坊ちゃん。折角の飲みの席なんだしよ。楽にやろうや」

「ですが貴方は……」

「俺はテオドア・シュレーゲルだよ。神秘幻想を飯の種に、市井で気ままな生活を送るしがない魔導士。お前さんもそのつもりで頼むよ、な?」

 やけに自身の名を強調してテオドアが言い含める。

 エリオットの方は未だ納得いかない様子であったが、意地を張る場面ではないと考えたのだろう。

「……分かり、ました。ではシュレーゲル殿と」

 しばしの逡巡の後、渋々といった風に首を縦に振るのだった。尤も口調や呼び方については、本人の中で譲れない一線があるらしく、堅苦しさが残っていたが。

「それで良い。まあなんだ、こうして知り合ったのも何かの縁だ。上司からの無茶ぶりに困ったら、何時でも相談しに来いよ。多少なら力になってやれると思うしな」

「はは……それは、心強いですね」

 冗談めかして言うテオドアに、エリオットはようやく相好を崩す。

 すると見計らったように、女給が酒と料理を運んできた。卓の上に置かれた杯の中で、なみなみ注がれた琥珀の液体が揺れる。表面に浮かぶ綿毛のような泡が、何とも涼し気だった。料理の方は肉が多めだが、ふんだんに使われた香辛料が芳しく、食欲を誘う。

「良いねぇ、こういう野郎だけの飲みは久しぶりだからな。今夜は親睦を深めるために、語り明かすとしようぜ」

「例えば何をだ?」

「やっぱ定番は女の話だろ」

「……はあ。総帥から聞いていた通り、何というか、奔放な方なんですね」

 ヘイズが気怠そうに訊ねれば、テオドアが得意満面といった調子で答え、エリオットがそれに呆れた溜息を零す。

 三者三様、それぞれ違った表情を見せながら、各々の杯を握りしめる。

「そんじゃあ、新たなる盟友との出会いを祝して!」

 乾杯。その一言と共に、魔導士達は掲げた杯を打ち付け合った。


 ◇◇◇


 時計の針が、深夜に差し掛かった頃である。

 ヘイズとテオドアは、眠らぬ街の中をぶらぶらと歩いていた。

 春を迎えたと言えど、外気には肌寒さが残る。火照った頬を撫ぜる夜風が、何とも心地良い。

 因みにエリオットは不在である。意外にも余り酒に強くなかったらしく、早々に潰れてしまったのだ。

 なので彼を自宅に送った帰り道、酔い覚ましがてら夜の散歩に興じているという訳だった。

「男二人ってのが、今一カッコつかねぇけどなぁ。どうよ、これからで綺麗所のいる店を冷やかしに行くってのは」

「それはそれで魅力的だが、今日は遠慮しておく。花を眺めてばかりだと、目が肥える」

「ほほう、つまりセリカのことも花だと思っちゃいる訳だ?」

「……面倒くさい絡み方するなこいつ」

 今にも歌いださんばかりの陽気さで、テオドアがしたりと口元を吊り上げる。

 尤もそれはヘイズも同じこと。テオドアに半眼を送る表情は普段よりも幾ばくか柔らかく、声色も弾んでいた。

 酔っ払いらしいとりとめのない会話を繰り広げつつ、二人の魔導士は運河沿いの路に出る。

 この辺りは表通りと比べると、人通りも少なく落ち着いている。そのためか、逢瀬を愉しむ恋人達の姿が、川岸にちらほらと見受けられた。

「おーおー、お盛んだねぇ。若いってのは良いねぇ」

「お前の歳、俺とそう変わらないだろうが」

 橋の上で欄干に体を預け、眼下をぼんやりと見やる。ゆるゆると流れる水面に、三日月が朧げな輪郭を映し出していた。

「しかしなんだ、セリカがお前を連れてきた時は本当に驚いたぜ。アイツがスカウトなんざ、俺が知る限り初めてのことなんじゃねぇかな」

「そうなのか?」

 ヘイズは意外そうに目を瞬かせる。

 セリカという女の性格を一言で表すと、刹那主義だ。安寧よりも波乱を好み、自身が面白いと感じた事柄のために能力を尽くす。だから少しでも気に入った相手は積極的に勧誘していると思っていた。

「それがそうでもねぇんだよなぁ、これが」

 だがヘイズの想像に反して、テオドアは首を横に振った。

「どうも、一定の基準みたいなモンは持ってるみたいだけどな。具体的な所は、数年来の付き合いになった今でもよく分からん。間違いねぇのはただ闘いに強かろうが、魔術の素養に優れていようが、アイツが興味を惹かれない限りは駄目ってことだ」

「あー……確かに、あの女の琴線は謎だからな」

 以前、勧誘した理由を訊ねた際に、要領を得ない答えが返ってきたのをヘイズは思い出す。

「だから結社のメンバーの補充は基本的に俺か、ヴィクターの爺さんが主体となって取り組んでんだよ。イヴの奴も、他人に興味ねぇし」

 諦めた風に肩を竦めるテオドア。その背中には哀愁が漂っていて、同情を禁じ得なかった。

「何というか……お前も苦労してるんだな」

「ま、適材適所ってな。それに面倒なのは違いないが、色んな奴と顔を合わせられるのは案外面白いモンだぜ?開口一番で決闘を申し込まれたりなんかしてな」

 テオドアはふとそこで言葉を区切ると、欄干にもたれたまま視線を横に向ける。強い意志を秘めた緑玉の瞳が、ヘイズを真っ直ぐに射抜いた。

「話が逸れちまったが、要はお前には期待してるってことだ。何しろ我が結社が誇る剣聖殿が気に入った男なんだからな」

「……またとんでもないプレッシャーをかけてきやがったな」

 くつくつと悪戯が成功した子供みたいに喉を震わすテオドアを、ヘイズは睨みつける。常識人に見えて油断ならない辺り、やはりこの男も『アンブラ』の一員なのだと実感させられた。

 天を振り仰いで、思う。本音を言えば、勝手に寄せられた期待に応えてやるつもりはない。

 ヘイズ・グレイベルは己の為すべきと思ったことを為すと決めている。結社に所属することになったからと言って、その信条が変わることはない。

 けれども。

 ――ただ一つだけ、よく覚えておきなさい。

 ――巨額の富を捨てても惜しくないだけの価値が、貴方にはあるのだということを。

 一月前、真正面から告げられた言葉が、今も胸の奥底に残って消えないから。

「精々、信頼を勝ち取れるよう努力いたしますよ。……せめてお前の本名を教えて貰えるようになるくらいにはな」

 意趣返しとばかりに、ヘイズが言う。

 対するテオドアは僅かに目を瞠ると、面白そうに破顔した。

「そん時を楽しみにしてるよ。まァお互い死なないよう適当にやろうや、後輩」

「頼りにしてるよ、先輩」

 釣られてヘイズも不敵に笑みを返した。

 今夜の宴はこれにてお開きだ。語らいの余韻に浸りつつ、二人の魔導士はそれぞれの帰路につく。

「おい、ヘイズ!」

 数歩進んだ所で、ヘイズは呼び止められる。

 振り向くと、テオドアが真剣な表情で立ち尽くしていた。そして言葉を探すように口をまごつかせ、

「大丈夫か?」

 と、短く問うてきた。

 端から聞けば、脈絡のない意味不明な質問である。だがヘイズには、その一言だけで意味が伝わったらしい。

「お気遣いどうも。けど、お前が気を揉む必要はない。それじゃあ、お休み」

 ひらひらと手を振り、橋の上から去っていく。

 夜闇に溶けていく灰色の背中を、テオドアは無言で見送るのだった。


 ◇◇◇


 テオドアと別れたヘイズが足を向けたのは、場末の路地裏であった。

 人のいない方へ、いない方へ。薄っすら差し込む月明かりを頼りに、暗がりを突き進む。

 今日は何かと忙しなかったので、本当なら真っ直ぐ『カメリア』に戻り、早々に休んでしまいたかった。

 だが世話になっている宿に、厄介事を持ち込む訳にもいかない。至極面倒ではあるが、どこかに飛び火する前に処理することにした。

「この辺りで良いか」

 そして袋小路に突き当たったところで、ヘイズは立ち止まった。

 迷宮めいた街並みが作り出した空白地帯。表通りからは隔離されていて、多少騒ぎを起こしてもそれが外に漏れることはないだろう。

 聳え立つ壁を背に、物陰に向かって声を投げかける。

「――で、アンタはいつまで尾いてくるつもりなんだ?」

 しばしの沈黙が、その場に漂う。

 不意にぬっと、人影が一つ暗闇の中より現れた。

 頭から膝にかけて、外套で身を包んでいる。頭巾フードに隠れた顔を注視するも、靄がかったように認識できない。魔術による迷彩だろう。

 ただ友好的でないのは明らかだった。ヘイズに突き刺さる、肌がひりつくような鋭い視線がその証左だ。

「俺が酒場を出てからずっと追いかけてきていたよな?悪いが、今日は店仕舞いだ。依頼なら後日、素顔を晒して持ってこい」

 右手を後ろ腰にやりつつ、相手の出方を窺う。

 外套の人物は黙したまま答えない。代わりに懐に手を突っ込むと、それ(・・)を取り出した。月光の下、鈍い光を放つのは分厚い短剣である。

「……折角の良い気分が台無しだ」

 うんざりと嘆息しながら、ヘイズもまた短剣を抜き構えた。

 一先ず分かったのは、外套の人物は暗殺者ではないということ。

 本職ならばヘイズの前に姿を現すことなく、奇襲に徹したはず。自らの得物をこれ見よがしに晒すこともすまい。

 加えて、短剣を構えるその体勢。適度に脱力した様は、そこらの破落戸ごろつきなどとは比較にもならぬ程洗練されている。

 日常的に闘いに身を置く者の所作だった。

 自分に恨みを持つ誰かに雇われた刺客であろうか。残念ながら心当たりが多すぎて、特定はできない。

『……!』

 外套の人物が動く。

 軽やかな足捌きで肉薄、凶器の切っ先をヘイズの喉元目掛けて突き出した。

「問答無用かよ……っ」

 ヘイズは首を傾けてこれを躱す。

 相手の正体が何であれ、振りかかる火の粉は払うのみ。がら空きになった懐へ、拳を叩きこまんとする。

 だが外套の人物の攻撃は終わりではなかった。突き出した掌の中で、くるりと短剣を逆手に回転させ、そのまま振り下ろしてきたのである。

 得物の扱いを熟知した、曲芸じみた芸当。それに意表を突かれ、ヘイズの反応が一拍遅れた。

 短剣で防ぐことは難しい。身を横に反らして回避を試みても、体勢を大きく崩すために、相手に付け入る隙を与えてしまう。

 ならば、どうするか。

 ヘイズは重力に身を任せることにした。体を反らした姿勢から、そのまま転倒したのだ。

 外套の人物もこれは予想外だったのか、表情は見えないが、驚いたように息を呑む。

 その空白をヘイズは見逃さない。

 倒れた状態から、外套の人物の脛の辺りに向かって蹴りを放つ。

 足払いなどという生温い代物ではない。『強化』の魔術を施した、骨を粉砕する一撃である。

「ちっ!」

 だが、あえなく避けられる。外套の人物は驚異的な速度で以て、後方へ跳ぶ。

 ヘイズもそれを深追いせず、体勢を立て直すことを優先する。

(こいつ、魔導士どうぎょうしゃか……厄介な事になったな、クソ)

 ヘイズは確信と共に、内心で毒づく。

 先程、外套の人物が見せた跳躍。あの反応速度と体術の冴えは魔術の恩恵に他ならない。加えて今も肉体より発せられる励起した霊素エーテルの脈動が、敵の正体を雄弁に物語っている。

 外套の人物は、強い。まだ小手調べの段階ではあるものの、何と言うか、闘い慣れしているのが分かる。

 さて、どう仕掛けてくる。

 短剣を構え直すヘイズの前で、外套の人物が再び地を蹴った。瞬きの間に、彼我の距離が詰められる。一度目とは比較にもならない速力。

(加速術式――!)

 敵が使用した魔術の正体を看破しつつ、ヘイズは短剣を振るう。

 だがそこで外套の人物が更に加速した。疾走の軌道を変え、壁を駆け上がり、死角からヘイズを襲う。

 悪寒に突き動かされ、前方に身を投げ出す。

 着地と同時に振り向くも、外套の人物が側頭部目掛けて蹴りを繰り出してきていた。

 咄嗟に左腕で防御する。直後、凄まじい衝撃に見舞われて、ヘイズは吹き飛んだ。

「ぐっ……!」

 壁際にまで追いやられ、ヘイズは苦悶に顔を歪めた。当然、外套の人物はここぞとばかりに追撃を加えてくる。

 心臓を抉らんと迫る一刺し。加速術式を用いた敵の機動力は、『強化』した視力を持ってようやく追えるほど。であれば劣勢を覆すには、こちらも同じ土俵に立つ他あるまい。

 ヘイズが言葉を唱える。魔導士としての本領、超常の神秘をこの世に顕す呪文を。

術式起動ブート――」

 刹那、彼の周囲に焔が吹き上がり、夜の闇を焼き焦がした。

 愚者火ウィル・オ・ウィスプ。ヘイズが最も得意とする、妖しき鬼火を操る魔術である。

『……!?』

 外套の人物が再びの驚嘆を漏らしながらも、即座に急制動をかけて距離を取らんとする。

 そこに、焔の帳を踏み砕きながら灰色の魔導士が追従する。

「お返しだ」

 振るわれた短剣を頬に掠めながら、フードの奥に隠れた顔へ、拳を叩きこんだ。

 吹き飛んでいく外套の人物。そのまま壁に激突し、倒れ伏す。

 外した、とヘイズは直感した。拳を当てたことには違いないが、どうにも手応えが軽い。

 現に外套の人物は多少ふらつきつつも、すぐに起き上がっていた。

 恐らく、衝突の瞬間に身を後ろに引いたのだろう。敵ながら大した身のこなしだと、感心せざるを得ない。

 ともあれ、これで仕切り直しとなった。

 自分も相手も、殆ど手傷を受けていない状況である。ここから本格的な魔術合戦にもつれ込むのは、場所的にも避けたい所だが。

『……』

 しかしヘイズの懸念に反して、外套の人物は纏っていた戦意を唐突に霧散させた。

 そして短剣を懐にしまい、軽やかに跳躍。近場の建物の屋根に着地すると、ヘイズを一瞥して夜闇に駆けだしていくのだった。

「……何だったんだ、一体」

 肩透かしを食らった形となったヘイズは、戸惑い気味に臨戦の構えを解いた。

 追跡しようとも考えて、辞めておく。勘の域を出ないが、外套の人物は本気でこちらの命を狙っていなかったように思えたのだ。

「……?」

 その時、ヘイズは反射的に振り返った。

 密集する建物が切り取った空に、時計塔が高々と突き立っている。何の変哲もない、見慣れたその光景に、どこか不穏な気配を感じ取った。

「また面倒なことにならないと良いんだが……」

 時計塔の屋根を睨みつけながら独りごち、ヘイズは路地裏を去るのだった。


 ◇◇◇


「驚いたなぁ。まさか、この距離で気取られるなんてね」

 天を衝く時計塔、その頂にて。物陰に身を潜めつつ、女は興味深そうに呟いた。

 春の夜風が、ふわりと赤錆色の髪を舞い上げる。薄い月光に濡れる立ち姿は幻想的な美しさを湛えながらも、獲物を睥睨する猛禽のごとき獰猛さを同居させていた。

「戻りました」

 低く、くぐもった声が背後からかかる。振り向くと同時、外套に身を包んだ人物が音も無く屋根に降り立った。

「お帰り、苦労をかけたね。一発良いのを貰っていたけど、大丈夫かい?」

「ええ、ダメージは逃しましたのでこれといって支障はありません」

 頷きと共にフードが取り払われ、隠されていた顔が露わになる。

 浅黒い肌の、巌のような男だった。頬や目元に刻まれた傷痕が、彼が歴戦の戦士であることを示している。

「さて、じゃあ早速だけど、威力偵察の結果を聞かせて貰えるかな?彼ら(・・)に加わった新たな刃、その切れ味や如何に」

 女の問いかけに、男は顎を手に添えて思案すると、

「戦闘を生業する魔導士としてならば、優れた部類に入るかと。我流ゆえに、立ち回りは粗削りではありますが、優れた勘でそれを補っているといった印象ですね。そこらの有象無象共ではまず相手にもならんでしょう」

「へえ、君が手放しで評価するのは中々珍しいね。――ただ、まだ何か思う所がありそうだけど?」

 意味深な女の指摘に、男は「お嬢に隠し事はできませんね」と苦笑を浮かべる。

「何と申せば良いのか。どうにも得体の知れなさが拭えぬ男でした。下手に踏み込めば、すぐにでも喉笛を噛み千切られてしまいそうな……申し訳ありません、学の無い自分では上手く言葉にできず」

「構わないよ。君がそこまで言うということは、きっと彼には何かあるんだろう。先月のお祭りで首謀者を討ったという噂は、それなりに信憑性が高そうだ」

 女は再び、路地裏の方へと視線を戻した。そこに灰色の青年の姿は既になく、都市の隙間が閑散と広がるばかりだった。

「決めた、やっぱり今度のお仕事は私も出張るよ。依頼主殿の予想が確かなら、彼らが首を突っ込んでくる可能性は高そうだし。団長だって駄目とは言わないだろうさ」

「了解しました。それでは布陣の変更については、自分の方で進めておきますので」

 そうして二人は時計塔を飛び降りると、闇の中へと消えていく。

 都市の裏側に潜む火種が燃え上がる時は、そう遠くない。


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