2-3 春の一幕 其之二
「という物騒な話をカルメンから聞いたんですけど。何のことなんです?」
湯気を上げる紅茶を一服しながら、ヘイズは訊ねた。
マルクトは四番街、うらぶれた路地にひっそりと佇む骨董品店である。幽霊屋敷もかくやの外観は相も変わらず、客を寄せつけようともしていない。
相反して整然とした店内には、また数と種類を増した過去の遺物が陳列されており、窓から差し込む春の陽光によってその輪郭を柔らかく浮かび上がらせている。
だが今日はその中でも一際目を惹くものがあった。
古書だ。
経年によってすっかり煤けた書の山が、店の最奥に据えられた机の側にうず高く積み上げられていた。
「なんだ、もう聞いちゃったの。カルメンのお喋りにも困ったものねぇ」
昨晩カルメンから急遽依頼された、誘拐された娼婦の捜索と犯人の捕縛。
開いた古書に指を這わせながら、その顛末を一通り聞き届けたシャロンは何とも不満そうに嘆息した。
「折角世間知らずの君に、あることないこと色々吹き込めるチャンスだったのに」
「そんな素直さは、ここで働き始めて一週間で消え去りましたよ。色々と勉強させてくれた人がいたもので」
「あらまあ、それは災難だったわねぇ。お気の毒に」
皮肉を言ったつもりだったのだが、シャロンに応えた様子はなく、それどころか欠伸を噛み殺す始末。
やはり口喧嘩では絶対に勝てぬと改めて思い知らされ、ヘイズは諦念と共に肩を竦めた。
「で、実際どうなんです?個人的には余計なトラブルに巻き込まれないよう、知っておきたいんですが」
「ふむ……まあ良いでしょう。深夜手当ということで、サービスしてあげる」
あくまでも視線は手元の書籍から外すことなく、シャロンは問いを投げてきた。
「君、『不凋の薔薇』って傭兵団は知っているかしら?」
「まあ、一応。かなり有名な連中ですしね」
大陸の裏の情勢を多少なりとも知っていれば、自ずと耳にする名前である。
恐らく知名度だけならばマルクト最高峰の結社、『竜狩の騎士団』以上であろう。尤も轟いているのは、悪名の方であるが。
所属する兵の練度の高さも然ることながら、彼らの現れた戦場はことごとく凄惨な有様になることで知られている。堅気に手を出したという話は聞かないので、線引きは設けているようだが、一度敵対した者は必ず血の海に沈むという。
彼らによって、一体いくつの傭兵団や魔導士の結社が壊滅させられたことか。真偽定かならぬ噂だけでも、枚挙に暇がない。
「それじゃあ、彼らの本拠がこのマルクトなのは?」
「へえ、それは初耳でしたね……ああ、うん。理解しました」
シャロンの言わんとしていることを察し、ヘイズは頷いた。
つまり、『不凋の薔薇』がマルクトに戻って来たという話だ。
少し前までは気にも留めなかっただろうが、今のヘイズは『アンブラ』に所属する身。毒を以て毒を制す、都市の裏側の秩序を保つ結社の一員である。
となれば彼らの動向には目を光らせる必要があり、結果として関わり合いになる可能性が高いだろう。
ゆえに矛を交えることにならないよう、上手く立ち回れとシャロンは忠告しているのだった。
「そういうこと。まあでも君の場合、遅かれ早かれ厄介事に首を突っ込むことになるんでしょうけど。精々死なないよう、気を付けておいた方が良いわよー」
「いやあの……俺は別に、望んで巻き込まれている訳じゃないんですが……」
そう言いつつも、ここ一ヶ月の出来事を鑑みるに、どうも最近は星の巡り合わせが悪い気がしてならない。またぞろ死にそうな目に遭うのだと思うと、憂鬱な気持ちになる。
「あ、原因これかぁ」
と、物憂げな表情で再び紅茶に口を付けるヘイズの前で、シャロンが唐突に声を上げた。
彼女はしばし古書に丹念に目を通し、得心したとばかりに頷く。
「なるほど、確かにこれは私の所へ持って来て正解だったわねぇ。全く、趣味の悪い仕掛けですこと」
独り呟きながらシャロンは徐に立ち上がり、ヘイズに古書を寄越してきた。
「ちょっと持っていてくれる?準備するから」
「はあ、別に良いですけど……?」
シャロンに促されるまま、書物を受け取る。瞬間、装丁に触れた指先から凍えるような冷たい気配が伝わった。
ヘイズは即座に悟る。これは人が持っていてはならない代物だ。
「さっきから気にはなっていましたけど、なんですかこれ。魔導書なのは分かりますが」
「うん、正解。しかも読むと人が死ぬ系」
思わず本を放り出すところだった。
明らかに危険と分かっているのに、それを躊躇いなく渡してくるなど、一体何を考えているのか。あっけらかんと言い放ったシャロンへ、ヘイズは不満げな半眼を送る。
「こんな物騒な代物、どこから仕入れたんですか」
「君が店に来る前に、知り合いの蒐集家が持って来てね。それを手にして以来、原因不明の体調不良に悩まされるようになったそうなの。で、解呪を依頼されたって訳」
「被害を被ってるなら棄てればいいのに……」
「何言ってるんだか。骨董品ってのはね、曰くがある程希少なのよ」
シャロンの断言に、ヘイズは渋面を禁じ得なかった。
付加価値を重視するという点は理解できるが、それで自身を危険に晒すのは本末転倒ではなかろうか。結構な期間、シャロンの下で働いてきたが、未だに共感しきれない世界の話であった。
気を取り直して、ヘイズは古書を観察する。
掠れた題名を辛うじて読み取ると、どうやら治癒魔術に関する研究をまとめたもののようだ。
四肢の欠損、衛生状態に起因する感染症への言及が多いあたり、記された年代はひょっとすると戦乱期にまで遡るかもしれない。
となると、この魔導書が生み出された背景も、自ずと窺い知れた。
「敵地に潜り込ませて、内側から衛生兵を殺すってところですか。戦乱期によく使われた手口ですね」
「迂遠ではあるけど、合理的ではあったからね。工作員の人的資源も抑えられたみたいだし。まあ、皆やり始めたせいですぐに対抗策が構築されたという話だけど」
会話しながら、シャロンは着々と解呪の準備を進めていた。
机の引き出しから布を取り出し、机の上に敷く。途端、香草の独特の匂いが鼻をくすぐる。
そして布の四方に幾何学的な紋様の描かれた護符を配置し、一枚ずつ霊素を流し込んで術式を起動させれば完了だ。
「ほい、じゃあその中に放り込んで頂戴」
シャロンの指示に従って、ヘイズは布の中央に魔導書を投げ入れる。
変化は劇的だった。
古書は布に触れるや否や、意思持つかの如く震えたかと思うと、勢いよく開いて頁を捲りだした。
そして溢れ出す無数の文字。黒々と綴られたそれらは人を侵し、殺すためのものに他ならない。例え内容を理解できずとも、網膜に移すだけでも肉体に変調をきたすだろう。
しかし、呪いがヘイズ達に害を成すことはない。それどころか、端から中空で燃え尽きていく。
シャロンが造り出したのは、一種の竈だった。
布に染み込ませたのは魔除けの香草であり、護符は霊素に反応してその効力を高めつつ、外界から遮断された場を形成する。
後は解呪したい対象を布の上に置けば、呪詛は自然と炙りだされ、脱することも叶わず浄化されるという寸法だ。
「おー、流石は戦乱期の呪詛。しぶといですね」
竈の中で暴れ狂う文字の羅列を眺めつつ、感心したようにヘイズは呟く。余程敵が憎かったのか、筆を走らせた魔導士の執念を感じるようだった。
しかしシャロンが護符の表面を指先で撫でれば、布の表面に電荷が走り、呪詛は更に激しく霧散していく。
それから五分と経たずして、唐突に本がぱたんと閉じられる。解呪が果たされたのだ。
「こんなところかしら。解呪対策が大して施されてなかったから、楽だったわ」
古書を手の中で弄ぶシャロン。何てことなさそうな言い草だが、その手並は鮮やかの一言に尽きた。
例えヘイズが同じことをやったとしても、もっと強引な方法を採っただろう。伊達に何年も骨董品を取り扱っている訳ではない。
「ご謙遜なさらず。無駄のない見事な解呪でした」
隣の人物もヘイズと同じ感想のようだ。シャロンの場合は下準備ありきではあったものの、術式を巡る霊素に不順が欠片もなかったのが美しい。
やはり熟達した魔導士の業は、目の当たりにすると非常に勉強になる。
ヘイズは同意を示すように頷き……そしてようやく気が付いた。今、やけに聞き覚えのある声が横から聞こえてきたことに。
「……いつから、そこにいたんだ」
壊れた自動人形みたいにぎこちなく、ヘイズは声のした方に視線をやる。
そこに、長さ三尺を超える大太刀を携えた女が立っていた。
透き通るような白金の髪に、清冽な紫水の双眸。そして一度見たら忘れない、磨き抜かれた刀剣のごとき気品を備えた美貌。
先月共に死線を潜り抜け、果てにヘイズを『アンブラ』へと引き込んだ張本人――セリカ・ヴィーラントその人だった。
「つい先程、解呪が始まった辺りからですよ。所用で立ち寄ったのですが、思いがけず良いものを見ることができました」
眼福眼福、とセリカは上機嫌に顔を綻ばす。
対照的に、ヘイズの心中はどんよりとした暗雲が立ち込めていた。何しろ彼女が現れる時は、決まって面倒な事件を引っ提げてくるのだから。歓迎するなど、土台無理な話だった。
「もちろん私は気付いていたけど。ほら、ヘイズ君ってばすっかり私に夢中だったから」
「態々いかがわしい言い方にする必要ありました?」
茶化すようなシャロンの台詞に、ヘイズはようやく冷静さを取り戻す。
そうだ、諦めるのはまだ早い。そもそもセリカが態々ここを訪れたのは、シャロンに用があるからであり、ならば話題が逸れている今が逃げ出す好機であろう。
素早くそう結論付けたヘイズは踵を返すと、足早に店の出口へと向かう。
「じゃあシャロンさん、俺はこれで。カルメンからの報酬はいつもの口座に振り込んで――」
「まあ待ちなさい、ヘイズ」
突如後ろから首を引っ張られ、ヘイズは否応なく停止させられる。
見れば大変素敵な笑顔を浮かべたセリカが、襟首をがっしりと掴んでいるではないか。
振りほどかんと、前進する足を更に踏みしめる。が、セリカの手は小動もしない。然程力を入れているようには見えないのに、一体どんな絡繰りなのか。
「くそ、離せ!俺はこの後、知り合いに用事があってだな……」
「それは夜の話だそうですね?日中は暇を持て余しているのだとか。フランツさんが快く教えてくださいましたよ」
「あ、あの助平親父……!」
拠点とする宿酒場の店主に向けて、恨みの籠った念を送る。セリカにねだられるまま、鼻の下を伸ばして軽々とヘイズの私生活を喋る姿が容易に想像できた。
「何も取って食おうという訳ではありません。少し仕事を手伝って欲しいだけです」
「断る、余所を当たれ」
「報酬は山分けで行きましょう。ではシャロンさん、頼んでいた情報を頂けますか」
「聞けよおい」
「貴方達、一月そこそこの付き合いの割に仲良いわねぇ」
ヘイズ達のやり取りを心底面白そうに眺めるシャロン。実に性質が悪い。
そしてどこをどう見たら仲良さそうに見えると言うのだろう。セリカの気まぐれに、ヘイズはただ振り回されているだけである。
「さて、それでご注文の品だったわね。でも調べた限りじゃ、貴方が元々掴んでいた話と、そう違いはなかったみたいだけど……それでも必要かしら」
「ええ、構いませんよ。事実を裏付ける根拠が多いに越したことはありませんから」
数枚の紙幣と引き換えにセリカはシャロンからメモを受け取ると、そこに書かれた内容に目を通す。
「……なるほど、やはり今回の件も兆候の一つと見て間違いなさそうですね。さあヘイズ、行きますよ」
一人意味深に頷いて、セリカは颯爽と店を出ていこうとする。……ヘイズの首根っこを掴んだまま。
「おい待て、この状態で外に出るつもりか?」
「そうしないと逃げ出すでしょう?仕事の前に無駄な霊素は使いたくありません」
「滅茶苦茶、悪目立ちするだろうが!」
「私は一向に構いませんが。他人の視線など気にしなければよろしい」
「分かった、降参だ、せめて自分で歩かせろ!」
見目麗しい女と、それに引き摺り回される男。
表通りを闊歩するには余りにも珍妙な組み合わせである。さしものヘイズと言えど、好奇の視線に晒されて平然としていられる程、図太くはなかった。
「それじゃ毎度あり、気を付けてねぇ」
シャロンの間延びした声に送られて、ヘイズはセリカに続いて店を出る。空はこんなにも爽やかな晴れ模様だと言うのに、この後のことを思うと、気分は全く上向きになってはくれなかった。
「で、仕事ってのはなんなんだよ。お前が俺を連れていくなんて、正直嫌な予感しかしないんだが」
自棄気味な口調でヘイズは訊ねた。
セリカ・ヴィーラントは優れた魔導士である。特に戦闘という分野において、彼女に並びうる者はそういまい。実際に相対したことのあるヘイズは、それを身を以て知っている。
にも拘らず、態々ヘイズに助力を頼んできた。セリカの性格からしても、何か裏があると考えるのが自然だろう。
「然程珍しい内容ではありませんよ。そうですねぇ、過去の妄執を断つという意味では、先程貴方たちが行っていた解呪と似ていると言えますか」
「……つまり?」
結論を促すと、セリカは振り向いてにこやかに告げた。
「亡霊退治です」




