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星辰のマギウス  作者: 空蝉
第二章 彷徨う凶星
31/67

2-2 春の一幕 其之一

 麗らかな日差しの降る季節になった。

 例年より冷え込みを見せた冬の気配は過ぎ去り、花々がその色彩を鮮やかに増し始める。

 窓の外に広がる空を見やれば、雲が暢気そうに青天を泳いでいた。

 こんな日に木陰の下で午睡にでも興じてみたら、さぞかし気持ちが良いことだろう。

 まあ、残念なことに。

 今、ヘイズ・グレイベルが立っているのは、そうした穏やかな時間とは無縁の場所であるのだが。

「くそ、離せよ……!」

 怒気を孕んだ声に視線を下げると、両手足を固く縛られた青年が、床に転がされていた。

 ヘイズよりやや年下くらいだろうか、若々しい顔つきには隠しきれぬ青臭さが見て取れる。ひょっとすると、まだ学生なのかもしれない。

 そんな彼を取り囲む、三人の男達。強面を更に厳めしくしつつ、青年が妙な真似を仕出かさないか目を光らせている。

 何とも息の詰まる殺伐とした雰囲気に、清涼剤を求めてヘイズは周囲に視線を巡らせる。

 だが、ここにそんな物があろうはずもなかった。

 理性を蕩かすような甘い香気。

 退廃的な明暗を生み出すぼんやりと朧げな照明。

 今は日中ゆえに聞こえないが、夜になれば壁の向こう側から女の嬌声が漏れ聞こえてくるだろう。

 つまるところ、そこは娼館であった。

 『胡蝶の園』という。マルクトでも取り分け格式高いと知られる店舗である。

「あら、こんな状況でも肝が据わっているわね。中々、将来有望な坊やじゃない?」

 と、あだっぽい言い草と共に、待合所エントランスに踏み入る人影が一つ。

 まるで針金細工みたいな輪郭の長身痩躯である。中性的な容姿に加えて、歩く仕草にもしながあり、独特な色気と存在感を振りまいている。

 ただしその口から紡がれる音は、ハスキーだが間違いなく男のそれであり、彼の本来の性別を示していた。

「アタシはカルメン。ここら一帯の娼館を取り仕切る顔役のみたいなものをやらせて貰ってるわ。よろしくね、坊や」

 名乗りながら、カルメンは青年に向けて堂に入った仕草で片目を瞑って見せた。

 ……繰り返すが、彼は男である。心は乙女らしいが。

 さて、中々強烈な印象を与えてくる人物を前にした青年であるが、少々たじろいだ様子を見せるも、すぐに毅然とした態度を取り戻した。

「彼女は無事なんだろうな?」

「坊やが攫おうとした子?それなら君には悪いけど、今回は流石にオイタが過ぎたからねぇ……奥の方でちょっとお仕置中よ」

 そうカルメンが言った瞬間だった。

 青年は目を見開き、噛みつかんばかりの勢いですごんだ。

「アンタら、彼女に何かしてみろ!絶対に許さな――」

「うるせえよ、クソガキ」

 見張りの男の一人が、青年の鳩尾を爪先で乱暴に小突く。暴力に慣れた者特有の、躊躇いの無い動きだった。

 急所を突かれた青年は苦悶の声を漏らし、激しく咳き込む。

 一方のカルメンは呆れた調子で、暴力を振るった側を窘めた。

「こーら、気持ちは嬉しいけど乱暴は駄目よ。アタシ達はマフィアじゃないんだから」

「す、すみません……でもこいつ、盗人の分際で姐さんに舐めた口を」

「良いの良いの。この位の歳の子なんて、ちょっと生意気な方が可愛いものでしょ」

 男はまだ何か言いたげだったが、気まずそうに眉を下げ、見張りの位置に戻る。

「部下がごめんなさいね、坊や。話はできるかしら」

 こくこくと若干強張った顔で頷く青年。この場において誰が自分の命運を握っているのか、ようやく実感したらしい。

「私はこれから、君の処遇を考えなければいけない訳なんだけど。一方的にそれを決めるのも道理が通らないじゃない?だから坊やから教えて欲しいの。どうして、この店の子を攫ったりしたのか」

 事の次第は極めて単純。

 床に転がる青年が、『胡蝶の園』の娼婦と手に手を取っての逃避行を敢行したのである。

 それでカルメンが古馴染みのシャロンに相談し、ヘイズへと依頼が渡って来たという経緯だった。

 青年にとっての不運は、追跡者が魔導士ヘイズであったという点だろう。一般人たる彼が神秘を駆使した捜索から逃れられる筈もなく、逃走劇は深夜から朝までの、およそ半日にも満たぬ短い期間で終わったのだった。

 ……尤も、この迅速な捕り物の背景には、ちょっとした裏話があるのだが、今は置いておく。

 カルメンの問いかけに、青年は緊張した面持ちで口を開く。

「あ、アンタ達は……こんなことをして心が痛まないのか」

「こんなことって?」

「彼女は、両親から多額の借金を押し付けられて、ここに連れてこられたと聞いた。望んでもいない人に体を売らせるなんて、どう考えても間違ってるだろ!」

「あー……」

 恐怖を怒りが上回りだしたのか、青年の言葉には徐々に熱が籠る。

 だがその言葉を耳にしたカルメンは、居た堪れなさそうな顔をした。ヘイズも同じ心境だった。

「うーんと、坊や。その話、件の子から聞いたんだろうけど、もう少し詳しく教えて貰える?」

 カルメン達の反応に不思議そうに首を傾げつつ、青年は話し始める。

 女の両親が生活を苦に性質の悪い業者から金を借り、挙句蒸発してしまったこと。

 借金の返済を業者から迫られ、娼館に身売りされたということ。

 本当は嫌だけど、自由を得るために懸命に働いているということ。

 その他諸々、彼女が如何に不幸な道程を歩んできたのか。

 痛ましそうな語り口は、女に対する切実な想いが感じられ、また青年の善良さを表しているようだった。

 なるほど、列挙された内容は正に悲劇と言う他になく、同情を誘うに足る。

 しかし一連の話を聞き終えたヘイズですら、白けた面持ちでこんな感想を抱くのだった。

 絵に描いたような話だな、と。

 カルメンは青年の前にしゃがみ込むと、諭すような口調で言った。

「悪いけど、それ嘘ね」

「……え?」

 その時の青年の表情は、まるで雷にでも打たれたかのようだった。

 みるみる顔を蒼褪めさせ、唇を戦慄かせる。

「う、嘘だ……だって彼女が、俺を騙す理由なんて……」

「お得意様を作るための営業トークってやつよ。確かに昔は借金があったけど、とっくに完済済み。もっと稼ぎたいってここで働き続けてるのも、彼女の意思よ。けど、坊やみたいなのが出てきた辺り、ちょっとやり過ぎたみたいねぇ」

 客の同情を引くために素性を偽るのは、娼婦がよく使う手口だった。

 理不尽に身を窶した女を救うという、ある種の英雄願望を掻き立てるのだろうか。その過去が悲劇的である程に、男は益々入れ込んでいく。

 今回は、青年の方が若さゆえの正義感を暴走させたようだが、これもまた珍しい話ではない。

 女が見せる煌びやかな夢に、男が目を眩ませ金を貢ぐ。色街の至る所で繰り広げられる、ありふれた出来事だった。

「違う、嘘だ……彼女は辛い日々を送っていて、俺を頼りにしてるって、言ってくれて……」

 突き付けられた現実を受け入れられず、青年は俯いて譫言のように繰り返す。

 この様子からして、件の娼婦に対する熱の上げようは相当なものだったのだろう。その想いを裏切られた絶望は察するに余りある。

「さて、それじゃあ本題。坊やの今後について話しましょうか」

 空気を入れ替えるように、カルメンが拍手を一つ打つ。それに肩をびくつかせる青年の眼は、すっかり消沈していた。

「姐さん、こちらを」

 と、見張りの男の一人が、紙片をカルメンに手渡す。

 カルメンはその内容に目を通し、感心したように頷いた。

「へえ……。坊や、貿易商の次男なの。お父さん、最近は随分儲かっているのね。学生の身空で、このお店で遊べるのも納得だわ」

「……!なん、で……」

 青年が瞠目する。

 恐らくあの紙片には、彼の個人情報が記載されているのだろう。シャロン辺りから買ったのかもしれない。

「安心なさい。別に家族にどうこうしようって訳じゃないわ。何度も言うけど、アタシ達はマフィアじゃないんだから。……まあ、連絡くらいはいくかもね?」

 などとカルメンは冗談めかして言うが、これは紛れもない警告だ。

 こちらはお前の関係者にいつでも手出しできるぞ、と。自分達の情報網をちらつかせることで、まずは釘を刺したのだ。

「とりあえずウチの店が被った損害については、弁償してもらわないとね。えーっと、とりあえず概算にはなるけど、請求額はこの位かしら」

 カルメンは懐から手帳を取り出すと、さらさらと文字を書き入れる突き出す。

 それを見た青年は更に顔色を悪化させ、頭を振った。

「こんな金額、明らかに法外だ。ぐ、軍警局がこのことを知ったら、きっと黙ってないぞ!」

 必死の形相で、青年は声を上げる。

 ともすれば脅しとも捉えられる内容だが、本当に軍警局に駆け込むつもりはないのだろう。騙されたと言えども、今回の件は青年の方が規則を逸脱しているのだから。

 だが娼館が胡乱な稼業であることには変わりなく、カルメン達も軍警局に介入されるのは可能な限り避けたいはず。

 よって青年の狙いとは、自身の今後の行動を材料とした値段交渉に他ならない。

 流石は商人の息子と言うべきか、転んでもただでは起きないという強かさをひしひしと感じる。

 ただ残念ながら、それを発揮する機会を完全に誤っている辺りが、やはり半人前ということなのか。

「ふう……ねえ坊や。貴方、自分の立場がよく分かっていないみたいだから、ちゃんと教えてあげるわね」

 カルメンは至極億劫そうに肩を竦め、徐に青年の頭を両手で挟みこんだ。

 そして視線を合わせ、一言一言を刻みつけるようにゆっくりと口にする。

「娼館って言うものはね、時間を提供する場所なの。浮世の憂さを忘れさせる極上の時間をね。だからウチに所属する女の子は須らく、掛け替えのない価値を持った商品なワケ。それを盗むということが、このマルクトにおいてどれほど重い罪なのか……商人の子だもの。分からないとは、言わないわよね?」

「……っ」

 有無を言わさぬ口調に、青年は委縮した様子でこくこくと頷く。

 例え穏やかそうな印象を受けたとしても、カルメンとて伊達に娼館を取り仕切ってきた訳ではない。

 時に裏社会の人間とさえ対等に渡り合うその迫力に、一介の学生に過ぎない青年が逆らえるはずもなかった。

「話を戻しましょうか。今回は確かにウチにも問題があったけど、面子ってものがあってね。お金だけ払って貰って、はいおしまいとはいかないの」

 青年を解放したカルメンは、悩まし気に顎に手を添えた。

 処断の内容で肝になるのは、如何に再犯を抑止するか、という点に尽きる。

 要するに見せしめを行う訳だが、青年が一般市民である以上、そこまで苛烈な行為には踏み切れない。下手を打てば、それこそ軍警局に付け入る隙を与えてしまう。

 加えて青年が暴走した原因の一端は、間違いなく娼婦の行き過ぎた営業……即ち、娼館側の管理体制にある。

 ゆえに彼一人に責任を押し付けるのも、些か体面が悪いだろう。

 さて、どうなることやら。

 壁際に寄りかかり、他人事気味に成り行きを眺めるヘイズ。すると、思案に耽っていたカルメンが、唐突に水を向けてきた。

「ヘイズちゃんはどう思う?折角同席して貰ってるんだし、是非意見を聞かせて頂戴」

「……俺、別に娼館の人間じゃないんだが?」

「そう言わずにお願ーい。私だけだとどうしても偏った考えになっちゃうし、坊やのためにもならないと思うの。だから、ね?今度お店に遊びに来た時サービスしてあげるから」

 表面上は剽軽に振る舞いつつ、意味ありげな視線を送ってくるカルメンに、ヘイズは思わず苦笑した。

 なるほど、自分を残したのはこれが狙いだったのかと得心する。

 そもそもヘイズの仕事は、青年を娼館に引き渡した時点で完了している。にも拘わらずこうして立ち会っていたのは、カルメンたっての希望だった。つまり彼は最初から、落としどころをヘイズに委ねる腹積もりだったのだ。

 今回の件が娼館側にも非がある以上、カルメン達が青年への処罰を一方的に決めてしまうと、客からの疑心を煽りかねない。

 そのため結論を下す第三者を立てることにより、討議の公平性を喧伝する算段なのだろう。

(とは言え、カルメンはともかく、奴の部下が納得するかはまた別の話だが……)

 何せヘイズは依頼を引き受けただけの部外者である。出しゃばり過ぎるのは、逆にカルメンの立場を悪くしかねない。

 そう思いつつちらと見張りの男達の表情を探ってみるが、特段不満そうな素振りはなかった。

 これはカルメンの教育が行き届いているのか、或いは信頼されているのかは不明であるが、ヘイズが口を出すことは認められているらしい。

 利用されるのは癪に障らないでもないが、これも仕事の一環。

 あくまで中立な視点から、ヘイズは率直な意見を述べることにする。

「そうだな。今回は娼館の管理にも落ち度があった訳だし、ここは世間知らずの小僧がやらかしたってことで、賠償額も含め小さく納めて度量を見せてやるべきなんじゃないか?」

 そう言うや否や、青年は希望に満ちた瞳でヘイズの方を見上げてくる。きっと彼にとって、ヘイズは救世主のように映っているに違いない。

 だが勘違いしてもらっては困る。

 確かにヘイズは娼館の味方ではないが、決して青年の味方でもないのだ。

「あら、それじゃあアタシ達の面子はどうなるのかしら?泣き寝入りしろと?」

「まさか。お前も言っただろ、その小僧に何のペナルティもないんじゃ道理に合わない。しかし一応、そいつも堅気の人間な訳だからなァ……」

 ヘイズはしばし視線を宙に彷徨わせ、ふと思いついた。

「そうだ、一月ほど不能にする(・・・・・)、ってのはどうだ」

 何とはなしに口を衝いた内容に、青年が完全に硬直した。見張りの男達でさえも、表情を強張らせる有様である。

 男を娼館に立ち寄らせないようにするには、最も効果的な手段だと思ったのだが、流石に厳し過ぎただろうか。

 提案した本人のヘイズにも、そんな所感が湧き起こる。

 が、カルメンだけは別だった。

「――良い!良いわね、それで行きましょう!ちょっとアナタ達、早速隣の通りの薬屋に行って調合できるか聞いてきて頂戴」

 ヘイズの提案を痛く気に入ったらしく、カルメンは意気揚々と声を上げる。

 それに圧される形で、見張りの男達は急ぎ足で店の外へと出ていった。色街も何かと日陰者が集まってくるので、そうした怪しげな霊薬を取り扱う輩がいても不思議ではない。

 青年はと言えば先程からは一転、絶望の眼差しをヘイズに送りつけていた。幸福の絶頂から不幸のどん底へいきなり突き落とされたりしたら、こんな顔になるだろうか。

 事の経緯から同情しない訳ではないが、盗みは盗みである。自分の不始末は清算して然るべきだろう。

 ヘイズは青年の肩に手を置いて、励ますように言った。

「あー、なんだ。ちょっと高い勉強代と思って神妙に受け入れるんだな、お坊ちゃん」


 ◇◇◇


「くぁ……」

 外に出ると同時に、ヘイズは大きな欠伸を零した。差し込む午前の日差しの眩しさに、思わず目を眇める。

 カルメンから依頼を受けたのが、深夜遅くのこと。そこから一睡もせずに捜索を行っていたので、かなり眠かった。

 深呼吸をする度に、肺腑に溜まっていた甘ったるい空気が抜けていく。

 マルクトの街並は既に常の営みを開始していた。春になったからか、道行く人の足取りはどことなく軽やかで、雑踏が織りなす無数の騒めきもまた、陽気な趣に富んでいる。眺めているだけでも、自然と滅入っていた気持ちが上向きになるようだった。

「悪かったわね、ヘイズちゃん。遅くに突然呼び出した上に、最後まで付き合って貰っちゃって」

 と、背後から申し訳なさそうな声がかかる。

 振り向くと、娼館からカルメンが出てくるところだった。

「良いさ。その分、報酬に色を付けてくれてる訳だし」

 何でもないようにヘイズは返す。

 カルメンとの付き合いは、この都市を訪れて以来の縁となる。

 裏社会の事情に通じていることもあり、仕事の際に何かと世話になる相手だ。なので日頃の借りを返す意味でも、夜中に呼び出される位はお安い御用だった。

「でもホント、仕事が速くて助かるわぁ。今回も、半日足らずで連れ戻せるとは思ってなかったもの」

「あー……ヒントがあったからな」

 少し迷う素振りを見せ、ヘイズは躊躇いがちに口を開く。

 不思議そうに首を傾げるカルメンに、外套のポケットから取り出したそれを見せてやる。

「なあにこれ、ボタン?」

「ああ。恐らくは例の娼婦のドレスについてた、な。小僧たちが潜伏していた場所に、必ず落ちてたよ」

「……そういうこと」

 概ねの事情を察したらしく、カルメンは気の毒そうに目を伏せた。

 ボタン以外にも装飾品や服の切れ端、その他諸々。

 ヘイズが向かう先に、娼婦が身につけていたと思しき物が残されていた。さながら見つけてくれと言わんばかりに。

 それを辿った結果、ヘイズはあっさり彼女達を捕捉することができたのだ。

 自分は娼館に戻りたかったのだと言い逃れをするための保険だったのか、或いは初めから青年のことなど眼中になかったのか。

 連れ出された女が何を思っていたのかは、本人を問い質さなければ分からない。

 ただどちらにしても、真実は時にやるせないと、そう思えてならなかった。

「本当、こういう所が因果な商売よねぇ。時々、嫌になっちゃうわ」

 辟易したように肩を竦めるカルメンに、ヘイズは苦笑を返すことしかできなかった。

 騙された方が悪いとは言え、惚れた相手のために行動を起こした青年が不憫でならない。罰を受けた彼が女の元に通うのを止めるかは定かではないが、せめてその行く末に幸あらんことを祈るばかりだ。

「ああ、そういえば聞いたわよヘイズちゃん。賭博場カジノで雇われることになったんですって?」

 暗くなりかけた空気を掻き消すように、カルメンが殊更明るい口調で話題を変える。

 だがヘイズの表情はますます渋くなるばかりだった。

 カルメンが指しているのは、都市最大の賭博場『カジノ・アヴァリティア』のこと……ではなく、そこが持つもう一つの顔の方だろう。

 即ち、結社『アンブラ』。特に裏社会において、数多の犯罪者を震え上がらせる組織である。

「……なんで知ってるんだよ」

「シャロンちゃんから買ったのよ。何せアタシ達みたいな日陰者の界隈じゃ、彼らに目を付けられるっていうのは死刑宣告と同義な訳だし。その動向に気を配るのは当然のことでしょう?」

 今から一月前のことである。

 マルクトの夜を震撼させた通称『吸血鬼事件』。その黒幕の企みを暴き、阻止するべく、ヘイズは『アンブラ』に所属する魔導士と手を結んだ。

 そして事件の首謀者だった旧き錬金術師、ヨハネス・エヴァーリンと対決し、死闘の末に討ち果たす。

 だが後先考えぬ行動のために、ヘイズは莫大な負債を抱える羽目になり。

 紆余曲折を経て、『アンブラ』へと加入することになったのだった。

「でも悔しいわぁ。ヘイズちゃんには私も前々からモーションかけてたのに、横からかっさらわれちゃった」

「それは悪かったな。ただ俺にも色々、止むに止まれぬ事情があってだな……」

 具体的には借金とか、脅迫とか。

 とは言え今のところは、『アンブラ』に入ったこと自体に後悔はない。

 金払いは良いし、何より結社にありがちな行動の制限もとにかく緩いのだ。現にこうしてシャロンから引き続き仕事を受けていても全くお咎めなし。

 寧ろ結社に所属したという実感が、今一薄いのが現状であった。

「あ、結社と言えばそうそう、ヘイズちゃんも当分気を付けた方が良いわよ。こわーい人達が、最近マルクトに戻って来たみたいだから」

 すると、カルメンが思い出したようにそんなことを言い出す。

「なんだそれ。犯罪組織の類か?」

「んー、それとはちょっと違うんだけど。その辺りはシャロンちゃんの方が詳しいから聞いてみて。あんまりお株を奪うと、恨まれちゃいそうだし」

 聞き返すと、歯切れの悪い反応が返ってくる。

 それが更にヘイズの疑念を掻き立てるが、一先ず呑み込んだ。カルメンの言う通り、もう一人の雇い主に訊ねた方が詳しく知ることができるだろう。何しろ彼女の目と耳は、マルクトに広く行き渡っているのだから。

「とりあえず、忠告として気には留めておくよ。じゃあ俺は帰る。今後ともご贔屓に」

「ええ、今度は客として遊びに来て頂戴。約束通り、サービスしてあげるから」

「気が向いたらな」

 そうしてヘイズは、気だるげな足取りで娼館を後にする。

 春の到来を告げる柔らかな風が吹く、そんな日の一幕だった。



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