1-27 彼方に捧ぐ哀歌 其之十二
かちり、かちり、かちり。
霊脈炉の内部で規則的に回る歯車の音だけが、地下の空間に響き渡る。
短剣を振り抜いた姿勢から、ヘイズは後方に大きく跳躍した。
着地と同時に、芯が抜けたように膝をついた。
「あぁ、クソ……流石にきついな」
負傷を押しての全力疾走に、おまけに霊素の大量消費。正直今すぐ倒れて休みたいのだが、気力で何とか持ちこたえる。
「その体で、随分な無茶をした割には元気そうですね。実に結構」
ぜえぜえと息を荒くしていると、セリカがいつもの涼し気な顔で近寄ってくる。いや、彼女も多少は堪えているのか。表情に些か疲労が見て取れる。
そしていつの間にか回収してくれたらしく、手にはヘイズの投じた剣が握られていた。
「どうぞ。一剣士としては、得物はもう少し丁重に扱うことをお勧めします」
「……善処するよ」
差し出された剣を受け取る。
「……」
「何です、人の顔をそんなにじろじろと見て」
「別に……これで二度目だな、と思っただけだ」
疑問符を浮かべるセリカを余所に、ヘイズはふらつきながらも立ち上がる。
視線の先では、ヨハネスが困惑した表情で自分の体を見回していた。
ヘイズの短剣は間違いなく、ヨハネスを斬りつけた。もちろん負傷は瞬く間に修復され、彼に痛痒を与えることはできなかった。
しかし刃が走った場所に、奇妙な痕跡が残っている。
研究所でアンドリューの身にも刻まれていた、黒々と不吉な印象を湛える罅割れのごとき線。
「……?」
すると違和感を覚えたらしい。ヨハネスは恐る恐る探るような手つきで自身の肩を撫でる。
そこはヘイズの剣が擦過した箇所だった。
「何だ……これは。私の血?」
掌を覗き込んだヨハネスが、呆然と呟いた。
何故ならそこにはべったりと、鮮烈な赤色が塗りたくられていたため。
同時に彼は気が付いたはずだ。
失くしたはずの心臓が鼓動を打っていることに。熱い血潮が全身を駆け巡っていることに。
それは人間として当たり前の生命活動に他ならない。
ヨハネスからすれば信じがたいことだろう。彼は既に人ならざるモノと化し、肉体の枷から解き放たれたはずなのだから。
だというのに、今も滴る血の雫は果たして何を意味しているのか。
「君か……!」
答えを知る者は、この場にただ一人。
ヨハネスの鋭い眼光が、ヘイズに据えられた。
「私に一体何を――ぐうゥッ」
唐突に、ヨハネスが苦悶の悲鳴を上げる。
激しい頭痛を覚えているのか。麗しい顔に脂汗を浮かばせながら蹲る。
「彼らは、誰だ。あの景色はどこで見たものだ。いや違う……知っている。知っているぞ!どういうことだ、私は一体何を見せられている……!?」
忙しなく視線を虚空に彷徨わせ、頭を抱えたまま茫漠と呻くヨハネス。
異様な光景だった。陽炎のように希薄だったヨハネスの気配が、秒刻みで密度を増していく。
そこに立っているのはもう、星霊にすら該当しない正体不明の怪物ではない。
どこにでもいる、ただ一人の人間だった。
「答えろ!君は、私に何をしたんだッ!」
「決まってるだろ」
憎悪の籠ったヨハネスの怒声に、ヘイズは冷ややかに応じた。
「お前が棄てたものを、取り戻してやったんだよ」
「……私が、棄てたもの?」
「なんだ、分からないのかよ。それとも分からないふりをしているだけか?」
嘲笑を浴びせられたヨハネスがたじろいだ。まるで誰にも見つからない場所に隠していた秘密を、眼前に突き付けられたかのように。
構わず、ヘイズは口舌を続けた。逃げることなど許さぬとばかりに畳みかける。
「そもそも不自然ではあったんだ。アンタが如何に優れた魔導士だとしても、あんな人でも魔でもない中途半端な状態を維持できる訳がないんだよ」
現世は矛盾を許さない。それは物理法則を正しく運行し、空間に秩序をもたらすためだ。
だからこそ魔術の行使には霊素という対価を支払い、強大な星霊でさえも仮初の血肉を持って顕現する。
しかし先程までのヨハネスは、そうした摂理に真っ向から反抗していた。それでも尚、彼が存在を維持できたのは、現世に許容されるだけの強力な根拠を示し続けていたからに他ならない。
そしてそれこそが、彼を不死身足らしめていた代償。
「つまりアンタの魔術の代償は、自身が人間であるということの証だ。……まあ、一言証と言っても色々あるんだろうが、アンタの場合はこれだろうな」
ヨハネスは磔にでもされたみたいに身動ぎ一つしない。耳を塞ぎもせずに、ただ蒼褪めた顔でヘイズの言葉を聞いている。
その態度こそが、彼が無意識の内に自覚を得ていたことの証だった。
「記憶だ」
ゆえに確信と共に、ヘイズは埋没していた真実を抉り抜く。
「アンタは、人間として生きてきた自らの歴史を棄てたんだ」
例えば記憶喪失になった者が、全く別の人格に変わってしまうという事象がある。ヨハネスはそれを魔術によって存在規模で行ったと考えれば良い。
自分という人間の細胞の隅々にまで蓄積された時間、経験、感情。それらを棄却して、己は元より人ならざるモノであったという事実のみを残存させる。
言うなれば自己同一性の強制的な再定義、或いは転生と呼んで差し支えないかもしれない。それこそが、ヨハネスが自らに施した魔術の正体である。
ゆえに彼が致命的な傷から再生する程、つまりは怪物めいた現象を引き起こす程、人としての記憶は消費され、"永遠"の実現を目指すだけの装置へと変貌していく。
その果てに辿り着いたのが、あの張りぼてじみた異形だったという訳だ。記憶が無いのだから、伽藍洞になるのも頷ける。
「アンタがその魔術を使った切っ掛けは、恐らく五十年前。帝国の魔導士に殺されかかった際、生き長らえるためにそうしたといったところか」
ヘイズの言を受けたヨハネスが、苦し気に自身に刻まれた黒い線を押さえる。傷もないのに、痛みを堪えているかのようだった。
きっと彼は思い出しているのだ。かつて体験し、今のヨハネスを形作った全ての情景を。
それらが幻肢痛のように、彼に言い知れぬ疼きを与えている。
「まあそこから今日まで、どれだけ記憶のストックを溜めてきたのかは知らんがな。それに、ある程度は行動に指向性を持たせるために、"永遠"を求めるというアンタにとっての根幹の思想だけは残していたんだろう。だからこそ、俺の魔術が付け入る隙があった訳だが……問題は、どうして態々記憶を消したのか、ということだ」
「……なんだと」
ヨハネスの表情が如実に強張った。彼は明確に、これ以上推理されることを恐れている。
だが加減してやる気は毛頭ない。舌鋒鋭く、ヘイズは更に切り込んでいく。ヨハネス・エヴァーリンが秘めた謎を、残らず暴き立てるために。
「記憶は人格と密接に繋がっている。迂闊に消そうものなら立派な廃人の出来上がりだ。だがアンタはそうしたリスクがあるにも関わらず、記憶を代償に選んだ。人であることの証は、他にもあるというのに」
「辞めろ……」
震える声がヨハネスの口から零れる。それはもう哀願に近かった。
しかし止めない。考察は続く。
「つまりアンタにとって記憶とは、価値を感じないもの。或いは……失くしてしまいたいもの」
「辞めろ……!」
そうしてヘイズは得心したとばかりに頷き呟く。
「ああ、なるほど。つまり逃げたのか」
「辞めろッ!!」
怒声と共に、ヨハネスの瞳が瞬いた。
錬金術の秘奥、『大いなる業』の行使である。
狙うは弁舌を繰るヘイズ。その肉体を構成する元素が観測され、解読され、物言わぬ彫像へと変換される。
だが生憎と、その術は既に理解を終えている。錬成が成されるまでの僅かな間に、ヘイズは無造作に短剣を振るった。
刹那、現象を成立させつつあったヨハネスの魔術が、たちどころに霧散する。
ヨハネスは再び霊素を立ち昇らせるも、術式は断線した回路のように何の反応も起こさない。
混乱に陥る彼を余所に、ヘイズはつまらなそうに言葉を投げかけていく。
「その様子を見るに図星らしいな。差し詰め、罪悪感か?自分の実験によって、他人を食い潰すことに耐えられなくなったか。全く、お笑い種だな」
痛罵を交えながら、ヘイズは告げる。ヨハネス自身でさえも忘却の淵に沈めていた、余りに卑しく罪深い真実を。
「アンタが"永遠"を追い求めるのは、人類のためでも、ましてや己の欲望を満たすためでもない。ただ自分の所業を清算して、楽になりたいだけだ」
その言葉が、今度こそヨハネスを打ちのめした。頭を強く殴りつけられでもしたかのように彼はよろめく。
違うと否定したいのだろう。されど戦慄くヨハネスの唇は、荒い吐息を零すばかり。
彼の脳裏に浮かぶ記憶の泡沫が、ヘイズの指摘が事実であることを裏付けているのだ。
「……そうか、分かったぞ。これが君の不死殺しか」
やがて、心底忌々しそうにヨハネスが呟いた。
流石に練達の魔導士か。狼狽しながらも、ヘイズが使った術式の正体を悟ったらしい。
「君の魔術は神秘の無効化……いや、解呪などよりもっと悍ましい。これは破壊か、解体の類だな!」
「さて、どうだろうな」
はぐらかすヘイズであったが、ヨハネスの分析は殆ど的を射ていた。
『落日の智慧』。
それがヘイズが切り札と定める魔術の一つである。
効果を端的に表現するならば、神秘に対する特攻能力の獲得だ。
この魔術を行使する間、ヘイズはあらゆる術式、星霊が潜在的に持つ脆い箇所……所謂、"弱点"を穿ち、文字通り殺すことが可能となる。
難点としては次の三つ。
まず術の威力を最大限に高めるためには、解体の対象とする神秘の原理構造を理解しなければならないということ。
次にその余りに尖った効果ゆえに、神秘に属さないものに対しては何ら意味をなさないということ。
そして最後に、本来目で見えぬはずの情報を視認するため、脳どころか全身に負荷がかかるということ。
だがこれら要素を差し引いても、凶悪無比な性能を誇ることに変わりはない。
神秘とは、根底に謎を抱えた概念である。
ならば謎を暴くことが撃鉄となるヘイズの魔術は、正しく神秘の天敵と呼ぶに相応しい。
「……認めよう」
もがくように、ヨハネスが声を絞り出した。
「これは私の失策だ。君はあの研究所で、何をおいても殺すべきだった……!」
怨嗟に満ち満ちた瞳でヘイズを睨みつける。
初めて対峙を果たしたあの雪の夜から。
自分がずっと観察されていたことに、ヨハネスはようやく気が付いたのだ。
「悔やむのは結構だが、今のアンタはもうただの魔導士だ。厄介な"眼"も、さっき俺が殺した。残すところは、アンタの命だけだ」
「……そのようだ。だとしても、この首を差し出す訳にはいかない。一矢報いさせて貰うよ」
床の上で再び波打つ液体金属。不死性や奥義を失ったとしても、ヨハネス・エヴァーリンが卓越した錬金術師である事実は変わらない。
対するヘイズは疲労困憊の状態にあり、正面から挑めば苦戦は必至だろう。
尤も。闘いを挑む必要は、もうないのだが。
「……最期に一つ忠告してやるよ」
そう告げると、ヨハネスは殊更に警戒を強める。彼の敵意に矛先は、ヘイズだけに注がれていた。
意図的に誘導していたとは言え、無理からぬ話だろう。忘却していた過去を無遠慮に暴かれ、あまつさえ散々謗られたのだから。
それでも、彼は失念するべきではなかった。この場には、今も彼を斬りたくて、うずうずしている女がいるということを。
「戦場で敵から意識を逸らすなよ、間抜けが」
「ッ!?」
ヘイズの言葉の意味を理解したのか、ヨハネスが視線を横にずらした。
でももう手遅れだ。
練り上げられていた霊素が爆発し、空間を震わせる。
荒れ狂う力の渦の中心で、セリカ・ヴィーラントが抜刀の構えで佇んでいた。
術式起動。紡がれた呪文は、どこか祈りを捧げるような厳かな響きを伴っていて。
「っ!!!」
ヨハネスの対応は速かった。
床に広がっていた液体金属を凝縮し、重厚な壁を創りだす。更には内部に結界を幾重にも結界を張り巡らせて、魔術に対する抵抗力を向上させる。
瞬きする間もなく構築された防御は、城塞もかくやといった堅牢さを誇るだろう。怪物性を失っても、ヨハネスの尋常ならざる魔術の技量は、依然として健在だった。
だがヘイズは微塵の疑いもなく、確信していた。
セリカ・ヴィーラントの剣が、そんなもので止まるものか、と。
「村雨」
――斬!
鞘口から火花を散らして抜き放たれた大太刀が、虚空に銀の軌跡を刻み込む。
その時ヘイズは、世界がずれたのを確かに目撃した。
「が――ッッ!?」
激痛に悶える声が上がる。
セリカが放った斬撃は立ち塞がる盾を紙のように両断し、更にはその先にいたヨハネスの痩躯をも切り裂いていた。
ぼたぼたと溢れ落ちる命の水が、白い法衣を赤色に染め上げながら地面を汚していく。傷の深さは推測するまでもない。明らかに致命的だった。
即死していないあたり、心臓は辛うじて庇ったのかもしれないが、それでも放置していれば程なく死に至るのは必定だった。
当然、ヨハネスは持てる霊素を総動員して、傷の治療を図る。
だがセリカの放った魔術は、そんな甘い目論見を許さない。
「傷が、治らない……!」
どれだけの治癒魔術を施しても、一向に傷が塞がらない。まるで刃が通った痕に、斬られたという事実が染みついて離れないかのように。
セリカが振るった魔剣の作用だった。
術式の名は『村雨』。その能力は、剣の切れ味を必殺の領域にまで高めることである。
しかし単なる攻撃力の強化と侮るなかれ。
この魔術が解き放たれた時、セリカが放つ斬撃は文字通り全てを切断する。
有形、無形は関係ない。硬度の概念も意味を失い、空間さえも剣閃に合わせて裂け目を生む。
加えて斬りつけた箇所は強烈な魔性を帯び、容易に塞がることはない。
一度振らば、そこに赤き雨が散る。
ゆえにこそ『村雨』。
「……まだ、だ」
ヨハネスが血の池に崩れ落ちる。もう立っている力さえ失ったのだろう。顔は土気色で、地に両手を突く仕草も酷く弱々しい。
だが、その瞳はまだ死んでいなかった。それどころか真実を思い出したがゆえに、より一層強固となった決意を宿して燃えていた。
「まだだァッ!!」
咆哮と共に、ヨハネスの掌から霊素が迸った。
彼を中心として、床に亀裂が走る。錬金術による物質間の結合を弱めたのだ。
それ気付いたヘイズとセリカが、咄嗟に飛び退く。同時に、足場が一気に崩れ落ちた。
そうして生じた穴はまるで怪物が大口を開けたみたいで、ヨハネスを呑み込んでいく。
逃げられる。そう思った矢先に、ヘイズは足を踏み出していた。
「ヘイズ、待ちなさい――!」
背後からかかる制止の声など、もう耳には届かない。
底知れぬ闇の中へと、ヘイズは躊躇いなく身を投じるのだった。




