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星辰のマギウス  作者: 空蝉
第一章 彼方に捧ぐ哀歌
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1-24 幕間 其之二

「ったく、俺を何だと思ってるんだか、あの人は」

 言霊の術を解くと同時に、テオドアは肩を竦めた。

 セリカやイヴと比べれば、自分はかなり良識を弁えていると自負しているのだが、アネットからすれば五十歩百歩らしい。実に心外である。

 とは言え、彼女は軍警局の中でも、数少ない『アンブラ』に友好的な隊員だ。今後も仕事を円滑に進めるためにも、心象を損ねるのは得策ではない。

 最も、周囲に配慮できるかは、敵の出方次第という話にはなるのだが。

「さて、待たせたな」

 顔を上げれば、敵意を漲らせる地砕竜の姿がそこに在る。

 漂わせる神秘の気配は、濃密にして荘厳であり、邪悪さとは一切無縁。なのに視線を向けるだけで、喉を締めあげられるような窒息感を覚える。

 テオドアは表情を消し、拳を静かに握り込んだ。

 彼の脳裏に浮かんでいたのは、ここに至るまでの道程だった。

 破壊された建物を見た。助けを呼ぶ声を聞いた。生々しい血の匂いを嗅いだ。

 全ては自分達がヨハネスの狙いを看破できなかった結果の事態であり、それを思うと煮え滾るような感情が腹の底から湧き上がってくる。

 最も、地上で闘うことを選んだ理由は、正義感や贖罪の念からだけではない。

 ――そう、あの人がこの場いたのなら、きっと一も二もなくこうしていただろうから。

 今も胸に刻まれた、誰かの背中への憧憬が、テオドアを巨大なる"竜"の前に立たせていた。

「生まれたばかりのお前に恨みはねえよ。だが俺にも色々と譲れないものがあってな。……ちっとばかし付き合って貰うぜ」

 かくして燃え盛る怒りを力に変えて、テオドアは傲然と巨大なる"竜"へと宣戦布告を叩きつける。

 応じるように、地砕竜が唸り声と共に殺意を発現させた。

 初手は右前腕を高く振り上げてからの踏みつけ。行動自体は単純だが、その膂力と体重が生み出す破壊力は筆舌に尽くしがたい。

 対するテオドアはと言えば、一歩たりとも動こうとはしなかった。それどころか、防御の態勢さえとらず、攻撃を受けるに任せていた。

 衝撃が広場を震わせる。石畳は無残に爆散し、舞い上がる土砂が雨のように降り注ぐ。

 これだけの破壊を食らえば、真っ当な生命であれば肉片さえも残るまい。

 しかし直後に、驚くべき光景が起こる。

 火山の噴火めいた霊素の奔流が迸ったかと思うと、地砕竜の腕が勢いよく跳ね上げられた。

 大きく陥没した地面の底で、テオドアが拳を突き出した姿勢で佇んでいる。信じ難いことに、彼は自らの腕力で以て、地砕竜の体重を退けたのだ。

 ただし、特筆すべき点はまた別にある。

 莫大な質量を叩きつけられたにも関わらず、テオドアの体は、衣服も含めて掠り傷一つ負っていなかった。

「じゃあ次はこっちの番だ――!」

 テオドアが地砕竜の頭目掛けて、高々と跳躍する。そして未だ体勢の整わぬ横っ面目掛け、拳を思い切り叩きこんだ。

 地砕竜は"竜"の中でもとりわけ頑強な外殻を持つ。その硬度たるや、戦車の大砲の一撃さえ容易に耐え抜くほどで、人間ごときの拳撃など、食らったことさえ認識しないだろう。

 よって基本的な物理法則に照らし合わせれば、テオドアの行動は自傷行為以外の何物でもなかった。生身で鉄塊を殴りつければ、砕けるのはどちらかなど議論する余地もない。

 されど、拳が地砕竜に触れた瞬間、大質量同士が衝突したような、凄まじい轟音が虚空を震わせた。

 果たして、苦悶の声を上げたのは地砕竜の方であった。更にその巨体が僅かに宙に浮き、横転させられたではないか。

 地に降り立つテオドアの腕は、骨も含めてやはり傷一つない。まるで彼自身が、決して壊れぬ鋼へと変化したかのように。

 勝機とばかりに、テオドアは地砕竜の懐へと踏み込む。

 狙うは無防備を晒す胸部。心臓にある核を砕けば、いかに強力な星霊とて、たちどころに消滅する。

「ちッ……!?」

 だが、敵は上位の"竜"。そう簡単にことを運ばせてはくれなかった。

 倒れたままの状態から振るわれるのは、長く鋭利な突起を備えた尾の一撃。それが広場の表面を削りながら迫る。

 咄嗟に両腕を体の前で交差させた直後、痺れるような感覚が全身に伝播した。

 気が付けば体は宙を舞っていて、弾丸さながらの勢いで近くの建物へと突っ込んだ。

「……あー、ちきしょう。流石に上位の竜か、油断した」

 砂埃の帳を振り払いながら、立ち上がるテオドアは表面上はやはり無傷。しかしながら、打ち据えられた箇所は炙られたように熱く、おまけに口の中が鉄臭い。

「げ、こりゃまた派手にやっちまったなぁ。姉御にどやされる……」

 瓦礫と化した建物を見渡し、うんざりしたように肩を落とす。

 と、見ればいつの間にか地砕竜は起き上がり、警戒も露わに自分を観察していた。

 どうやら気付いたらしい。

 今相手をしている人間が、自分と同じモノであるということに。

 地砕竜が体勢を変える。両の前腕を伸ばし、身を屈めたのだ。その姿はさながら、引き絞られた弓を連想させた。

 来るか。

 テオドアがそう悟ったのと同時に、地砕竜が跳んだ。

 重力の軛さえねじ伏せて、その巨体が一直線にこちらに向かってくる。

「上等、かかって来やがれ!」

 無論、その程度で怯むテオドアではない。望むところとばかりに獰猛に牙を剥き出しにして、竜の咢を拳で迎え撃つ。

 再びの激突。両者は一歩たりとも引かず、そこから始まるのは真っ向からの殴り合いだった。

 人間と竜。

 圧倒的な体躯の差がありながらも、拳と爪の応酬を繰り広げる様は、最早漫画の世界とさえ思える程に荒唐無稽だった。

「ラァッ!」

 裂帛の気勢と共に、テオドアの渾身の拳が竜の顎下を捉える。

 さしもの地砕竜もこれは効いたらしい、苦悶の悲鳴を上げて後ずさった。

 (……思った以上に堅いな)

 会心を外した手応えに、テオドアは眉を顰めた。

 ダメージを与えているのは間違いないが、堅牢な外殻によって威力を大幅に削減されている。

 地砕竜は特筆すべき異能を持ち得ない。しかしながら、その頑丈さは"竜"の中でも最上級に類する。

 よってただ闇雲に打撃を加えるだけでは、あの強靭な防御を突き崩すことは不可能だろう。

 方法はある。あとは必殺の機会にそれをぶつけるだけなのだが……。

 と、その時テオドアは、周辺の大気が引っ張られるかのような錯覚を得た。

 見るも無残に砕けた広場、その中央で地砕竜が頭を下げて、息を深く吸い込んでいる。

「やべぇ……!」

 地砕竜の行動の意味を即座に理解し、テオドアは焦った表情を浮かべた。

 遍く外敵を滅ぼす"竜"の切り札――即ち、息吹ブレス

 テオドアが纏っている魔術の効果は、自らの肉体にのみ及んでいる。ゆえにテオドア自身は、"竜"の息吹に晒されたとしても耐え抜ける自信がある。

 だが周囲に立ち並ぶ建物は別だ。ヨハネスの大魔術によって、都市の結界が弱まっている今、"竜"の本気の攻撃に耐えられるとは思えない。

 刹那、地砕竜の呼吸が止まる。

 ――GoOOAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!

 放たれる地砕竜の息吹。その正体は大音量の咆哮に他ならない。

 ただの空気の揺らぎと侮るなかれ。莫大な肺活量から繰り出される音圧たるや、岩石どころか鋼鉄の柱さえ木っ端微塵に砕き散らそう。

 テオドアにこれを打ち消す手立てはない。迫る音の暴威が、自分を突き抜け、背後に広がる街並みを瓦礫の山へと変える光景を幻視する。

 ……だが、そんな未来が訪れることはなかった。

 今まさにテオドアに触れんとしていた"竜"の息吹が、突如として霧散する。目を瞬かせるテオドアの眼前に、淡く黄金の煌めきを帯びた障壁が聳え立っていた。

「全く、派手に暴れ回っている輩がいると思えば……相変わらずの配慮に欠けた立ち回りだな。少しは視野を広く持ったらどうだ」

 嘆息混じりの声が聞こえたかと思うと、誰かが自分の横に並び立つ。

 顔を見るまでもなかった。尊大な癖に嫌味の無い、慣れ親しんだ口調。きっと眉間に皺を寄せ、端整な顔を呆れ返った形に歪めているに違いない。

「ハン、随分遅いお出ましじゃねぇか。あの泣き虫が偉くなったモンだな?」

「煩い。好き勝手している貴方と違って、私には果たすべき責務があるんだ」

 壮麗な蒼の外套と共に、王冠のような金髪が翻る。

 結社『竜狩の騎士団(ファフニスベイン)』の首領、ルクレツィア・ラインゴルトが堂々たる佇まいで参戦した。

「街にこれ以上被害を出す訳にもいかん。奴の攻撃はこちらで受け持ってやるから、早々に仕留めろ」

 テオドアの方を見向きもせずに、ルクレツィアが端的に言う。

 どこか棘を感じさせる余所余所しい態度。テオドアはどこかやるせなさそうに微苦笑し、しかし力強く両の拳を打ち鳴らした。

「そんじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうぜ。……しくじんなよ、ルーシー(・・・・)!」

「愛称で呼ぶなっ」

 ルクレツィアの怒声を背に、テオドアは駆けだす。

 無論相手とて、猛然と迫る敵を放置する訳もなし。

 荒ぶる巨竜は爪を深々と地面に突き立て、そのまま掬い上げた。抉り抜かれた土砂は津波のごとき勢いを伴い、矮小な人間を呑み込まんと迫り来る。

 常人であれば圧死確定の質量だが、鋼の肉体を誇るテオドアにとっては、牽制以上の意味を成さない。

 とは言え、埋められてしまっては流石に身動きが取れなくなる。おまけに今ので足場そのものが崩されてしまい、自然進路は横へと逸らさざるを得ない。

 恐らくは、それこそが地砕竜の狙いなのだろう。

 テオドアが大地の波涛を避けたところに、必殺の一撃を叩きこもうという腹積もりなのだ。

 しかし、地砕竜は気付くべきだった。

 この場で注目すべき敵は、テオドアだけではないということを。

 否、むしろ彼女こそが、自身の天敵であるということを。

「浅はか――」

 ルクレツィアが静やかに呟いた。祈りを捧げるような流麗な仕草で、印を結んだ両手を前方に向ける。

 光が煌めく。

 次の瞬間、テオドアを覆い尽くさんとしていた土砂の塊が、内側から真っ二つに分かたれた。

 それだけではない。慣性に従って周囲の建物へと殺到する筈の礫は、宙を舞う最中、唐突に勢いを失い落下する。

 虚空に出現した黄金の結界。ルクレツィアが操るその魔術が、一連の現象を引き起こしたのである。

「おいおい、ぼさっとしてる場合か!?」

 呆然と固まる地砕竜の眼前に、テオドアは高々と飛び上がった。

 視線が合う。こちらが必殺を期していることを悟ったのだろう。させぬとばかりに、有り余る筋力を総動員して右の前腕を振るってくる。

 全霊の一撃だった。鉄壁の防御を誇るテオドアだが、これを食らえば流石に負傷は免れまい。

 まあ最も、食らえばの話ではあるが。

 再び、地砕竜の目が驚愕に見開かれる。振るわれる筈の右腕が、その状態のままぴくりとも動かないのだ。視線を転じれば、幾重にも重なる結界が、自身の腕を雁字搦めに固定していた。

 ならば、と左腕を動かさんとするが、上から伸びてきた結界によって、地面と縫い付けられる。

 怨嗟に満ちた咆哮を上げる地砕竜。

 それを受けつつ、テオドアは足元に顕れた結界を蹴って、更に高く跳び上がる。

 最早地砕竜に、彼を止める術は残されていなかった。

 強く、強く。テオドアは練り上げた魔術を籠めた拳を握りしめ、

「こいつで――砕けろッ!」

 地砕竜の背中に叩きこんだ。

 無論、ただの人間の拳程度で、竜の巨体を砕くことなど出来はしない。前述の通り、そもそもの強度に差があり過ぎるからだ。

 なれど、テオドアの竜殺しの一撃はその前提を覆す。

 地砕竜が悲鳴を上げた直後、びしりと硝子の砕けるような音がした。

 拳を撃ち込まれた箇所を起点に、竜の巨躯に無数の亀裂が走り抜けていく。

 そして、割れ目の内から眩い光が迸り――弾け飛んだ。

 辺りに撒き散らされる莫大な量の霊素と霊源石。それらが織りなすどこか幻想的な光景だけを残し、地砕竜は星の循環へと還るのであった。

「……あー、まあ、なんつーか」

 虚空に溶けゆく霊素の帳を掻き分け、テオドアは女騎士の前に立った。何と声をかければ良いのか分からなくて、酷く焦れったそうに口をまごつかせる。

「助かったぜ、ルクレツィア(・・・・・・)。こいつは貸しにしとく」

「……礼など不要だ。貸しにするのも結構。私は、私の役目を果たしただけなのだからな」

 にべもなくそっぽを向くルクレツィア。だがそこまで邪険にするような雰囲気は感じられなかった。

 まあ、仕方がないよな、とテオドアは苦笑した。別々の組織に所属する者同士、下手に馴れ合うより、明確な線引きがあった方が互いのためだ。

「公社からの通達で、事情はある程度把握している。我々は住民の避難を手伝いつつ、星霊を討伐するが、貴方達はどう動くつもりだ」

「元凶の方はセリカが叩きに行った。都市に展開された術式は、他の奴らが絶賛解呪中。俺はヴィクターの爺さんの采配に従って、ここに残るとするさ」

「……ガスコイン殿が、貴方をここに?」

「ああ、そういうことだ」

 都市最強を冠する結社の長なだけあって、ルクレツィアは『アンブラ』も含めた都市の裏事情に精通している。そのためテオドアが端的に伝えた内容だけで、こちらの意図を察したようだった。

「飛竜の方はどうするつもりだ?確かに大物相手は貴方が適任だろうが、市民達への脅威の面では飛竜の方が上だろう」

「あー、アネットの姉御にも伝えたんだが……ほれ、あの通りだよ」

 と、ルクレツィアはテオドアに釣られる形で、天を仰ぐ。

 丁度そこに飛竜の群れが通りがかった所だった。こちらに気が付くと、口の端から炎を零す。

 だがそれが放たれることは終ぞなかった。突如飛来した蒼銀の流星が、飛竜の躰を貫いたためである。

 そのまま断末魔を上げることなく、飛竜は現世から消え去っていく。

 正確無比に星霊の核を撃ち抜く狙撃。そして月光を溶かしたような色彩を帯びる魔弾。

 それらを自在に操る人物を、ルクレツィアは一人しか知らなかった。

「なるほど、魔女殿も出張っている訳か」

「そういうこった。寧ろあんな木端相手なら、俺よかイヴが動いた方が効率が良い」

 ルクレツィアは何事かを思案するように口元に手を当て、やがて意を決したように顔を上げた。

「状況は分かった。では、私もここに残るとしよう。ガスコイン殿がこの場が危険だと判断したなら、放っておけるはずもない」

「……良いのか?俺としちゃあ確かに、お前がいた方が楽だし、助かるが」

 どこか気遣わしげに、テオドアは問う。

 そんな彼らしからぬ態度にあてられてか、ルクレツィアの厳めしい表情がふっと緩む。

「言ったはずだぞ。私は、私の責務を果たすためにここにいる。個人的な事情は二の次にするべきだし、部下たちも貴方が心配するほどヤワではない」

 それに、だ。

 ルクレツィアはそこで強調気味に区切ると、揶揄するように口の端を釣り上げた。

「貴方を野放しにしていたら、それこそ周囲への被害が拡大するのは明白だからな」

「おい」

「さっきだって、みすみす地砕竜に息吹を使わせただろう」

「うぐっ……!」

「未熟者め」

「ぐはっ……!」

 ぐうの音も出なかった。

 屈辱に打ち震えるテオドアを眺め、ルクレツィアはふふんと勝ち誇るように鼻を鳴らす。

 子供の喧嘩そのものといったやり取りである。だが両者の間に張り詰めていた緊張は幾分か和らいでいて、彼らの本来の距離を伺わせた。

 一しきりテオドアをからかって満足したのか、ルクレツィアは表情をきりりと引き締め直し、

「私は今の内に逃げ遅れた市民がいないかを探ってくる。星霊が出現したら声をかけてくれ」

 颯爽と荒れ果てた広場を歩み去っていく。

 その背中を見つめつつ、テオドアは後ろ髪をがしがしと乱暴にかいた。

「やれやれ、昔はもうちっと可愛げがあったと思うんだけどなァ……」

「私からすればお互いさまのように見えますがね」

「うおおおっ!?」

 何の前触れもなく生まれた声に、テオドアは吃驚の声を上げる。

 いつの間にか、隣に執事然とした風体の老人が立っていた。

「あ、あんたか……驚かせるんじゃねえよ。相変わらず神出鬼没な爺さんだな!」

「いやはや、申し訳ございません。何分、影に徹してきた人生ですからな。もう癖になってしまっておりまして」

 口では謝罪を述べつつも、未だ驚きの止まぬテオドアを老人は微笑ましそうに見つめている。

 怜悧な外見に反する孫を慈しむような眼差しが、酷くむず痒い。

「あー、あいつがここに来たの、もしかしてアンタの采配だったのか?」

「さて、どうでしょうな。確かに星霊の出現が顕著な区画は報告いたしましたが、足を運んだのはお嬢様のご判断ですよ」

「……けっ、マルクトの年寄りってのはどいつもこいつも食えなくて困るぜ。俺もアイツもあんたの前じゃ、まだまだ子供扱いって訳か」

「そう拗ねなさるな。お嬢様も貴方も、ご立派に成長してらっしゃる。お二人を見守ってきた老骨としては、実に感慨深く思っていますよ」

 老人は励ますようにテオドアの肩を柔らかく叩いてから、踵を返す。

「私は団員達のフォローに戻ります。お嬢様のこと、よろしくお願いいたします」

 とん、と軽やかな調子で老人の体が宙に浮く。そのまま屋根から屋根へ飛び移り、広場を離れていった。

「……はあ」

 大きめの溜息を吐いて、テオドアは空を仰ぐ。

「上手くいかないもんだな、何事も」

 誰にともなく呟かれた言葉は、風に巻かれて消えていく。

 憧れた背中は未だ遠く、いつ届くかさえ分からない。今いる場所が正解なのかだって曖昧だ。

 けれども今は、一つ一つ経験を積み上げていくしかないのだ。決して悔いを残さぬように、憧れた姿に恥じないように。

「ま、精々頑張るとしますかね」

 見計らったかのように、再び歪を見せ始める空間。

 テオドアは掌と拳を打ち鳴らし、新たなる闘いへと身を投じていく。


◇◇◇


 薄暗い立方状の空間に、足音が木霊する。

 マルクトの地下に数多存在する、霊素供給用のパイプを繋ぐ結節点ジャンクションである。

 明滅する灯りが映し出すのは、琥珀の瞳を携えた灰色の影。

 彼は壁を指先でなぞりながら、忙しなく、しかし一歩ずつ踏みしめるような歩調で部屋の中を巡る。

「……仕掛けは上々。あとは結果を御覧じろ、ってな」

 酷薄な笑みを浮かべて、壁から手を離して踵を返す。

 程なく足音の感覚が狭まり、青年の背中は都市の更に奥深くへと沈んでいく。


 彼の言う仕掛けが、果たして何を意図したものなのか。

 その答えは、もう間もなく明かされるだろう。


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