1-21 彼方に捧ぐ哀歌 其之八
走る、走る、走る。
耳に届く誰かの悲鳴、視界を焼く炎の色彩。絶えず轟く銃声と剣戟に、怪物達の唸り声。
混沌極まるマルクトの中を、ヘイズは脇目も振らず駆けていた。
一先ずの目的地として定めたのは四番街、彼がこの半年間拠点にしている宿酒場だった。
残念ながら、今の自分がヨハネスと闘った所で勝機は薄いだろう。何しろまともに闘いを演じられるだけの武器が手元に揃っていないのだ。
得物として使っていた短剣も、数多の魔術的な加護を付与した特製の外套も、研究所の崩落と共に失われた。
ヨハネス・エヴァーリンは強大な魔導士である。
単純な魔術の技量に限れば、ヘイズのような半端者とは雲泥の差があろう。無論負けてやるつもりは毛頭ないが、丸腰で挑むには流石に分が悪すぎる。
よって目下最優先の課題として装備を整えるべく、ヘイズは『カメリア』へとひた走るのだった。
「っ……」
一歩を踏み出す度に、不快感が腹の底からこみ上げる。反射的にえずきそうになるのを寸前で堪えた。
傷の痛み自体は身体強化の一環で、神経系を制御することにより抑制できている。が、無理を押して動いているには違いなく、代償として真綿で首をしめられるような心地を味わっていた。
その反面、利点もあった。
こうしてぼろぼろの体を引きずり、神秘の気配がごちゃ混ぜになったような場所に身を置いていると、嫌が応にも記憶が呼び起こされるのだ。何度も死にかけ、ぎりぎりの所で命を拾い続けたいつかの日々を。
それに伴い、アンドリューとの闘いを通してなお、眠りについていた感覚が完全に調子を取り戻していく。
個人的な所感を言えば、余り喜ばしいことではなかったけれど、この状況においては好都合だった。
お陰でごく近辺という範囲ではあるが、飛竜達の位置は大体捉えることができている。あとは接触しないよう、かつ最短で宿酒場まで辿り着くルートを選ぶだけで良い。
感情に左右されず、使える道具は何でも使う鷹揚さはヘイズの美点だった。
やがて辿り着いた赤煉瓦の建物は、未だその暖かみのある外観を維持していた。無意識の内に胸を撫で下ろして、ヘイズは裏口に回ろうとする。
仕事の都合上、夜間に帰ることも多いので、鍵を預けられているのだ。
しかしその途中、ヘイズは違和感に気付いて立ち止まった。
明かりが着いている。
窓からぼんやりと光が零れている。まるで、今もそこに誰かがいるかのように。
いわゆる火事場泥棒というやつが入り込んだのだろうか。それにしては内側から歩き回ったり、物を漁るような音は聞こえない。
それどころか、耳に届くのは今のマルクトの状況には場違いなほど牧歌的な会話であった。
もしや、と訝しみながら、入口の扉を押し開ける。
果たしてそこには、
「いらっしゃい――って何だ、お前かよ」
壮年の店主がいつもと変わらぬ調子で、カウンター席の中に立っていた。
「……何をしているんですか、アンタは」
そう訊ねるヘイズの顔つきは、いつもより数割増しで不機嫌そうだった。
「何って……そりゃお前、客が来るのを待っているだけだが」
「今の状況が分かって言っているんですか?」
頭痛を堪えるようにヘイズは眉間を指で揉む。
まさかこんな災厄の渦中で、普段通りに店を開けていると誰が思うだろう。他の従業員たちがいないのは、きっとフランツが避難を促したからなのだろうが、店主本人が残っているとは豪胆を通り越して正気の沙汰ではない。
「まあ、お前の言いたい事も分からんでもない。こんな状況で客なんか来るとは思ってねぇし、何よりうようよ湧いてきた星霊共にいつ襲われるかも分かったもんじゃねぇ。……けどな、お前も知ってんだろ、ヘイズ」
しかしフランツはヘイズの糾弾するような眼差しを軽く受け流し、どこか自嘲気味に相好を崩した。
「俺はな、死ぬ時はこの店でと決めてんだ」
咄嗟に出かかった文句を、ヘイズは喉奥に押し込んだ。
フランツにとって、この『カメリア』が一体どんな意味を持つ場所なのか。それを自分はよく知っている。
そもそもつい先刻、同じく我を通すために差し伸べられた手を振り払った者が、彼を咎める権利などある筈もなかった。
はあ、とヘイズは諦念を滲ませた溜息を吐く。
そしてじろり、と今度はカウンター席に座って、高みの見物を決め込んでいた人物の方を睨みつけた。
「アンタもアンタで何をしているんです、シャロンさん」
「やぁねぇ、そんな怖い眼で睨まないで頂戴。私だって人並みの良心に従って、ちゃんと避難を勧めたのよ?でもこの人、この通り頑固なんですもの」
シャロン・ミリエル。
千里眼の魔女は湯気を上げるカップを片手に、ややばつが悪そうに苦笑していた。
「アンタも魔導士の端くれでしょう。ならこんな所で暢気にコーヒー飲んでないで、外の蜥蜴共を一匹でも仕留めてきてはどうです?」
実際一部の魔導士達は、突如出現した飛竜達に対し、独自で対処を始めている。まあ勿論、純粋な善意で行動している者は一握りであろうが。
そんなヘイズの邪険な態度に、シャロンは心外そうに眉根を潜めた。
「あら、随分つれない態度ですこと。折角君のために、役立ちそうな物を持ってきてあげたのに」
はいこれ、とシャロンは折り畳まれた紙片をカウンターの上に置く。
促されるまま広げて、途端ヘイズは表情を硬直させた。
それは簡易的な地図であった。しかも都市の中心部、霊脈炉まで行くためのルートが、数パターンに渡って描かれている。
「そろそろ必要になる頃かと思ってね。さて?サービスしてくれた親切なお姉さんに対して、何か言うことがあるんじゃないかしらねー?」
「……アリガトウゴザイマス、トテモタスカリマス」
棒読み気味にそう言って、ヘイズは地図をしまう。
相変わらず、こちらの事情は何でもお見通しらしい。いっそご都合主義とすら思える程の準備の良さだったけれど、時間が省けるのはありがたい。
そうしてヘイズは、自らの部屋へと向かう。階段を突き進み、二階の最奥にある一室へと入る。
必要最低限の家具が置かれた、どこにでもある宿屋の一室。間借りした期間の割には、雑貨の類は少ない方だろう。
強いて特筆すべき点を挙げるとすれば、山と積まれた書籍であろうか。備え付けの本棚は一部の隙間もなく、溢れた本は机や床の上でうず高く塔を成している。
そのジャンルはまるで定まっておらず、部屋の住人の性格が窺い知れるようであった。
たった半年、されど半年。
それだけの時間で、殺風景だった部屋には自身の色が映し出されていた。
当たり前のことなのに、妙に感慨深くなってしまう。
そんな思いに浸りつつも、ヘイズは手を止めずに準備を進めていく。
クローゼットから灰色の外套を引っ張り出して羽織る。それから机の上に放られていた短剣を後ろ腰に佩く。
どちらも予備なので、普段使いしていたものより幾ばくか性能は劣る。しかし魔導士と矛を交える以上、これらが無いと勝負の土俵にすら立てない。
「あとは……」
装備の具合を確かめつつ、ヘイズは部屋の隅へと視線をやった。
そこにあったのは剣だった。黒塗りの鞘に収まった、一振りの剣。
書籍の山によって追いやられていたそれを、迷うことなく掴み取る。
触れることすら久方ぶりだと言うのに、柄を通して伝わるずしりとした感触は、自然と掌に馴染んだ。
ほんの少しだけ刃を露出させる。手入れも碌にしていなかったが、鞘と同じく鈍い黒色を帯びた刀身は以前と変わらぬ鋭さを維持している。
ヘイズ・グレイベルという魔導士にとっての、本来の得物だった。
別にこれを放置していたことに深い事情はない。ただ単に必要とする機会が長らく訪れなかっただけ。
……いやまあ、実際は星霊やら同業者やらとの殺し合いを散々演じてきた訳だが。それでもこの都市に来てからの日々は、目まぐるしくも平穏の範疇にあったのだ。
だからだろうか、不思議な予感があった。
今日を境に、これから何度もこの剣を振るうことになるだろうという予感が。
「……だからどうしたって話だな」
ふん、と不敵に鼻を鳴らして、剣を腰に提げながら部屋を後にする。
そのまま店を出ようと一階に戻ると、フランツはいつの間にかカウンター奥の厨房に移動していた。
「行くのか」
ただ一言、声をかけられる。
フランツは何やら鍋をゆっくりとかき混ぜていて、その度にふわりと芳しい香りが立ち昇る。複数の香草を組み合わせたものだろうか、嗅いだ覚えのない匂いだった。
「ええ、そうすると決めたので」
「そうかよ」
フランツは手元の作業に没頭していて、ヘイズの方を一瞥すらしない。
ただ背中越しに、ぶっきらぼうな言葉を投げてくる。
「なら、とっとと片付けてこい。今新しいメニューを開発中でな、試食に付き合え」
まるでヘイズが戻ることを疑いもしていないような言い様。
闘いに向かう者に送るにしては、心配だとか励ましだとかが欠けていたけれど。
それでも背中を押すような温かさを感じて、ヘイズはつい破願した。
「はいはい、精々手早く終わらせてきますよ」
いつものように軽口を返し、次いでシャロンの方に目線を送る。
「後のことはお願いします」
「ま、ここが無くなったら美味しいコーヒーとお酒が飲める場所が減っちゃうしねぇ。上手いことやっておくわー」
ひらひらと、欠伸交じりに手を振られる。何とも気の抜けた返答だったが、問題はないだろう。
戦闘は得意ではないが、シャロンもまたマルクトの裏社会を渡り歩いてきた海千山千の魔導士だ。この店を飛竜達の認識から外すくらいは容易くやってのけるだろう。
後顧の憂いは断った。ならば後は、本懐を遂げるのみ。
かくして灰色の魔導士は剣を手に、戦場へとその身を投じていく。
「うーん、何だか久々な気がするわねぇ。彼のああいう姿を見るの。最近はすっかりだらけていたみたいだけど」
「俺が言えた義理じゃねぇが、引き留めるのが人情ってもんじゃねぇの?アイツ、何してきたか知らんが、傷だらけだったぞ」
「そうかもね。でも私、ああなった彼は止めないのが吉だと思っているから」
「へえ、その心は?」
「だっていつも最高に面白いものを見せてくれるのよ?そこに水を差すなんて無粋な真似、私にはとてもできないわ」
「……相変わらず、いい空気吸ってるなぁお前さん」
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