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星辰のマギウス  作者: 空蝉
第一章 彼方に捧ぐ哀歌
20/67

1-20 彼方に捧ぐ哀歌 其之七

 目を覚ますと、見知らぬ天井が映った。

 体をふわりと暖かい感触が包んでいる。どうやら寝台に横たわっているらしかった。

 全身が酷く怠い。まるで泥の中に深く浸っているかのようだ。

 それでもこの重みが生きていることを実感させてくれた。

 未だぼんやりとした頭のまま、ヘイズはここに至るまでの経緯を思い返す。

 はっきりと残っている最後の記憶は、崩落する研究所での出来事。とっくに限界を迎えていた自分に脱出などとてもできず、あっさり気絶して今頃は瓦礫の下敷きになっているはずだった。

 正直に白状すると、今回ばかりは流石に死んだと思ったが、またしても悪運に救われたらしい。

 とは言えセリカに豪語した手前、この体たらくは何とも不甲斐ない。本人に知られれば、嗜虐的な微笑みと共にからかわれること請け合いである。

 一先ず周囲を観察しようと、ヘイズは視線を巡らせる。

 そこでようやく、傍らに佇む人影に気が付いた。

「……っ」

 思わず上がりそうになった声を、咄嗟に呑み込む。

 枕元に置かれた椅子に、黒い女が座していた。

 夜色の髪と瑪瑙の瞳。研ぎ澄まされた刀剣のごとき玲瓏さを誇るセリカとは対照的な、精巧な硝子細工を連想させる儚げで温度を感じさせない美貌。

 間違いない。先日ヴィクターの前で対面した女だ。

 名前は確か、イヴ・カルンハイン。

 まるで世界に刻まれた陰影のごとく、彼女は物音一つ立てずに椅子に座ったままヘイズを見下ろしている。

「……」

 じっとこちらの顔を覗きこむ瞳からは、何の感情も読み取ることができない。

 さながら波一つない湖面のようだ、とヘイズは思った。そこに僅かでも泡沫を浮かばせることが、酷く憚れる気がして、より固く口を引き結ぶ。

 沈黙が続く。蛇に睨まれた蛙とまではいかぬまでも、居心地は控えめに言ってよろしくない。

 フランツ辺りならこういう時、気の利いた台詞の一つでも口に出来るのだろうが、自分には困難な注文だった。生憎、そこまで人付き合いが得意な訳ではないのだ。

 かと言って目を逸らすのも妙に後ろめたい気がして、結局ヘイズはただ無言で彼女と見つめ合う。

 そうして、どれだけの時間が過ぎただろうか。女のまとう静謐な雰囲気によるせいか、時間が伸びているようにさえ錯覚する。

 不意に扉がノックされ、スーツ姿の老紳士が部屋に踏み入ってきた。

「失礼するよ。……おっと、もう起きていたのか」

 ヘイズの顔を見るなり、ヴィクターは相変わらずの胡散臭い笑みを浮かべた。

 その拍子に部屋に満ちていた不思議な緊迫感が霧散して、ヘイズはこっそり胸を撫でおろす。

 対する黒い女は眉を顰め、じろりとヴィクターに視線を投げる。表情自体は変化を見せなかったものの、どことなく咎めているような雰囲気だった。

 だが結局、何の言葉も発することなく、女は椅子から立ち上がって扉の方に向かう。そして最後にもう一度だけヘイズの方を振り返り、そのまま部屋を出ていった。

「ふーむ?」

 女の後ろ姿をヴィクターは不思議そうに見送り、そのままヘイズの方に視線を寄越した。

「お邪魔してしまったかな?」

「いや俺に聞かれても……」

 ヘイズもヘイズで彼女が何をしたかったのかが全く分からないため、そう曖昧に返すことしかできなかった。

 そうか、とヴィクターは大して気にした様子もなく頷いて、寝台の横の椅子にゆったりと座る。

 腰を痛そうにさする仕草が如何にも年寄りっぽい。

 この姿だけを見れば、誰も彼が都市の裏で暗躍する結社の首領であるとは思うまい。或いは、そう映るように仕向けているのかもしれないが。

「体調の方はどうだね?何か違和感とかはあるかな?」

 そう問われて、ヘイズは寝台から身を起こす。

 視線を落とすと、上半身を中心に血の滲んだ包帯が幾重にも巻かれていた。

 試しに腕や首を回してみる。途端にじくじくとした鈍い痛みが湧き上がった。

 だが許容範囲内だ。傷口が開いた感触もないので、我慢すれば済む。

「ありがとうございます。助けて貰ったばかりか、治療までしてくれたようで」

 ヴィクターに向かって、深々と頭を下げる。

 アンドリューに殴打され、ヨハネスに体のあちこちに風穴を空けられ、その上で魔術を酷使し……気を失う直前、彼は間違いなく満身創痍の状態にあった。

 にも関わらず、起き上がるどころか身動きが出来る程にまで回復しているのは、荒唐無稽とさえ言えるだろう。となると何らかの外的要因、即ち霊薬や治癒魔術の恩恵が働いた結果なのは間違いない。

 ヘイズにそれらを使う余裕は無かったし、今の状況からして『アンブラ』が治療を施してくれたのは明白であった。

「なに、気にしないでくれたまえよ。ちょっとしたお詫びも兼ねていたしね。……しかしそうか、外傷は粗方塞がっているのか。流石は魔女の秘薬、こうも短時間で回復させてしまうとは、大した出鱈目ぶりだねェ」

「魔女……?」

「ああいや、こちらの話だ」

 ヴィクターははぐらかし、本題に移った。

「研究所での出来事は概ね把握している。セリカ君が懐中時計の機能を使って、常に情報を送ってくれていたからね」

「……それはまた、抜け目のないことで」

「ふふん、私の手駒――もとい部下は優秀だろう?」

「隠せてませんが」

 指摘すると、ヴィクターは芝居がかった仕草で咳ばらいを一つ。

 表面上はいかにも好意的な癖に、裏で他人を駒扱いする腹黒さは、やはりセリカの上司といったところか。実に碌でもない。

「さて、手短に今の状況を説明するとしよう。まず、ここは我らが賭博場カジノの医務室だ。崩壊する研究所から君を助け出し、この場所へ運び込んでから凡そ一時間弱といったところかな」

 ヴィクターに釣られて時計に目をやれば、既に夕刻に差し掛かりつつある。

 ほんの数時間でここまで回復したことに驚きを覚える一方、それ程意識を失っていたのかと舌打ちしたくなる。

 街はどうなっている。セリカはヨハネスを仕留めたのか。

 そんなヘイズの疑問を見透かしたかのように、ヴィクターは首を横に振った。

「残念ながらヨハネス・エヴァーリンは未だ健在だ。セリカ君が引き続き追跡しているが、向こうも本懐を遂げる目前だからか、あらゆる妨害工作を仕掛けてきているらしくてね。思うように近づけてはいないようだ」

 そして、と続けながら、ヴィクターは医務室の窓に近寄る。

「我らがマルクトは、今やご覧の有り様だ」

 舞台の暗幕を取り払うかの様に、カーテンが開け放たれる。

 そこには狂騒が広がっていた。

 灰を隈なく敷き詰めたような冬の空を、炎の赤が彩っている。間断なく響く銃声と、人々の悲鳴。

 その全てを天空から、異形の群れが悠々と風を切りながら見下ろしている。

 鈍い煌めきを帯びた鱗、蝙蝠のごとき影を落とす両翼。蜥蜴を思わせる頭部には捻くれた角が伸び、ちろちろと赤い舌が鋸めいた牙の狭間から覗いている。

飛竜ワイバーン……"ドラゴン"だと?」

 忌々し気にその名を呟く。同時に、ヘイズはマルクトの置かれている状況の最悪さを正しく理解した。

 "竜"。それは数多存在する星霊の中でも、頂点に位置する種族である。

 一言"竜"と称しても、その在り方は多岐に渡る。空を翔けるもの、地を這うもの、水を征すもの……人類が蓄積した記録に彼らは無数の姿形を残している。

 ただ共通しているのは、低級の"竜"であったとしても、そこらの星霊の老王種に匹敵する力を持つということだ。

 例えば、現在都市の空を支配する飛竜ワイバーン。彼らは"竜"の括りから見れば最も力が弱い部類だろう。しかし彼らの群れに襲われた街が、一夜にして焦土に変わったという事例は歴史上幾度も報告されており、一体ずつでもその身にまとう霊素エーテルは並の魔導士なら裸足で逃げ出すほどの密度を備えている。

 何より"竜"の厄介な点は、高位の神秘であるがゆえに、現世へ与える歪みの度合いが甚大な点にある。つまり彼らを放置しているだけで、次々と霊脈の乱れが次々と誘発され、更なる星霊発生の呼び水となるのだ。

 "竜"あるところに滅びあり――。

 古の時代よりそんな格言が伝わる程に、人類にとって彼の星霊は災いの具現そのものなのだ。

「いやはや、全くしてやられた。まさか本命のプランを二つ同時に進行させていたとはねェ……。しかも片方は一年も前から動いていたときた」

「……どういうことです?」

「奴のやったことは単純だ。都市を巡る霊素の制御権を奪い、流れを誘導することで一つの魔術を成立させている。『吸血鬼』と呼ばれた自動人形に組み込んだ機能を更に拡大したものと捉えると分かり易いかな」

 ヨハネスが製造した自動人形は、自らの血管で一定のパターンを描くことにより、『賢者の石』を製造するための術式を編み上げていた。

 それを都市単位に置き換えればなるほど、エネルギーの方向性さえ定めてしまえば、同じようなことができるのだろう。

 最も、あくまで理論上の話である。

 例え自然の循環から切り取った一部であっても、都市に供給される霊素は莫大だ。その全ての制御を霊脈炉から奪い取るなど、優れた魔導士が数百人規模で集まったとしても実現できるか怪しい。

 だが、ヨハネスはそれを個人でやってのけた。

 つまり、彼は人数を補うだけの資源リソースを有しているに他ならず、その正体はすぐに思い当たった。

「なるほど、そのための『賢者の石』ということか」

 呟きに、ヨハネスは然りと頷いた。

「その通り。彼は都市の霊素に干渉し、術式を維持するためのいわば楔のようなものを随所に突き立てている。そこに『賢者の石』を利用しているのだろう。何せ伝説に謳われる至高の触媒だ、その位はできて当然だろうね」

「では、その楔とやらが一年も前から仕込まれていたと?」

 そう問いかけるヘイズの目付きは、咎めるというよりは不可解なものを見るようだった。

 ヴィクターの情報網は身を以て知っている。マルクトで起こる怪しげな動きを、彼が見逃しているとは思えない。

「ああ……楔はね、()()()()()紛れていたんだよ。つい先ほどまで、何食わぬ顔で、私達と同じように泣いて怒って、笑っていたのさ」

 自嘲気味なヴィクターの返答に、ヘイズは言葉を失った。

 つまり、こういうことか。

 一年前から自分達の日常に、ヨハネスが造り出した自動人形が紛れていたと。それも全くの違和感を抱かせぬほど、極めて自然に。

 馬鹿な、と咄嗟に断じそうになるのを抑え込む。

 ヨハネス・エヴァーリンは錬金術師であり、同時に卓越した人形師でもある。

 彼の作品の狂気じみた精巧さは、実際に相対した時に嫌という程目の当たりにした。それを踏まえると、ヴィクターの説を頭ごなしに否定することはできなかった。

「なら『賢者の石』は?あれは人間の血液から精製するものでしょう?……いや、違うな。霊素を手に入れるだけなら何でも良いのか」

 吸血鬼という記号に思考が引きずられ過ぎた。

『賢者の石』は超高純度、高密度の霊素の集合体だ。その性質を鑑みれば、別に精製の材料は人間の血液である必要もない。

「そうだね。恐らくは霊源石か、或いは霊素の含有量の多い物質を至極真っ当な手続きの下で購入していたんだろうさ。それを摂取することにより密やかに、誰に悟られることもなく『賢者の石』を生成し――今日、発芽させたという訳だ」

 参った参った、と飄々と肩を竦めるヴィクターだが、その目はこれっぽっちも笑っていなかった。

 どんな手を使ってでもマルクトを守る。

 その理念の下、彼は『アンブラ』という結社を立ち上げたはずだ。ならば今のこの惨状は目も当てられない結果に違いなく、内心で忸怩たる思いを抱えていることだろう。

 吸血鬼事件が始まったのは、ここ一ヶ月の話になる。それよりもずっと前から、ヨハネスは実験の準備を整えていたということか。それも友にして協力者でもあるアンドリューにさえ、全く悟らせないように。

 つまるところ、あの白い魔導士に誰も彼もが一杯食わされたのだ。

 ヘイズ達が研究所に踏み込もうがそうでなかろうが、ヨハネスは目的を達成するための状況を整えていたのである。

 あの男の、"永遠"に懸ける執念を侮っていた。

「くそったれ」

 自身を痛罵しながらヘイズは再び窓の外に目をやる。

 そこでは丁度、軍警局の隊員達が住民を避難させつつ、上空の飛竜と矛を交えていた。

 彼らが手にする得物は大口径の銃。装填されるは対星霊用の特殊弾頭。統率された動きで陣形を組み、照準を定め、号令のもと一斉に銃口が火を吹いた。

 放たれた弾丸が怪物の鱗を穿ち、翼膜を引き裂く。

 たまらず悲鳴を上げる飛竜であったが、仕留めるには至らない。赫怒かくどに滾る瞳で眼下の人間むし共を見添えると、咢から灼熱の息吹ブレスを迸らせた。

 軍警局の対応は素早かった。後衛に控えていた隊員達が術式を起動し、幾重もの結界を編み上げて熱波を受け止める。

 人と魔による一進一退の攻防である。しかし闘いの激しさに反し、街並はまだ原型を留めていた。

「ここも含めて、戦闘の規模の割には建物への被害が少ないですね」

「セリカ君から聞いたかもしれないが、この都市にはある種城塞としての機能が備わっていてね。有事の際は防護結界が建物を覆ってくれるという寸法だ。最も、強度はそこまで高くないし、霊脈炉からのエネルギー供給があってこそ成り立つものだがね」

 なるほど、とヘイズは頷く。つまり崩落したり、炎上したりしている建物の存在は、暗に霊脈炉の変調を意味している訳だ。

 となれば、余り時間は残されていまい。都市を覆う混乱は深まる一方で、飛竜達も徐々にその数を増やしている。より強大な星霊が現れるのも、そう遠くないだろう。ゆえにヘイズが選ぶべき行動は明白だった。

「世話になりました。借りはいつか返します」

 枕元に畳まれていたシャツを羽織りながら、扉の方に向かう。

 しかし、

「まあ待ちたまえよ」

 その進路を塞ぐように、ヴィクターが身を滑り込ませてきた。

「……何のつもりです?」

 ヘイズは冷え切った声で老人の真意を問う。

 彼には確かに恩義がある。しかし邪魔立てするなら話は別だった。排除することに些かの躊躇いも生じない。

 彼我の実力差は歴然である。このまま押し通らんとしても、ヴィクターではヘイズを止められない。それは立ち塞がる本人が誰よりも理解しているはずだ。

 にも拘らずヴィクターの態度は揺らがなかった。いつも通りに胡散臭く、寧ろそんなものはどこ吹く風と、お道化るように肩を竦めてさえ見せる。

「おお怖い怖い。なに、君に渡しておかなければならないものがあってね」

 ヴィクターが一通の封筒をヘイズの方に投げ渡してくる。受け取って中身を検めると、厚く重なった紙幣の束が納められていた。

「今回の仕事の報酬だよ。本来なら口座に振り込むところだが、こんな状況だからねェ。手渡しになのは勘弁してくれたまえ」

「……回りくどい言い回しは好きではありません。率直に言ったらどうです」

「ははは、それは失礼。では単刀直入に聞くとしよう」

 不意にヴィクターは手に持った杖をくるりと回すと、ヘイズの脇腹目掛けて突き出す。

 奇術師めいた洗練された仕草だったが、その速度は緩慢とさえ言えただろう。

 ならば戦闘に長けたヘイズが反応できぬ道理もない。自らに触れる直前で払いのけるか、間合いの一歩外に出るか、どうとでも対処できるはずだった。

 しかし奇妙なことに、彼は立ち尽くしたまま、ヴィクターの杖を受けるに任せていた。

 いや、正確には。

 対処しようとしても、体が言うことを聞いてくれなかったのだ。

「そんな体で、一体どこへ行こうと言うのだね」

「……ッ」

 ヘイズの呼吸が僅かに詰まった。

 突かれた箇所から総身に伝播する激痛を噛み殺す。こみ上げてきた苦悶を呑み下す。

 そうとも、こんなものは慣れっこだ。面に出すような真似はしない。

 現に傍目から見ても、ヘイズの表情には微細な揺らぎ一つ生じていなかった。

 しかしながら、そこは流石に結社の総帥というべきか。ヴィクターは逆にその変化の無さから、彼の性質を看破していた。

「ははあ、なるほど。君は相当に打たれ強いらしい。まあ、その体に刻まれた傷痕を見れば、どうしてそうなってしまったのかは、何となく想像はつくけどね。私は痛いのも怖いのも嫌いだから、そんな風になるまで耐え抜いてきた君には、素直に敬意を表するとも」

 でもね、と老人は穏やかに、諭すような口調で続ける。

「君は、人間なんだよ。痛いものは痛いし、苦しいものは苦しい。辛ければ涙だって流れる……そんな、どこにでもいる人間の一人だ」

 その言葉が、やけに胸に染み入った。

 ヘイズの身を本心から案じてくれていると伝わったこともある。しかし何よりも、そこにヴィクターの真実が籠められていたような気がしたのだ。

 だからこそ、ヘイズはそれを跳ね除けられず、立ち尽くしてしまう。

「はっきり言って今のマルクトは死地だ。私の杖すらロクに躱せないような君が出向いたところで、死体が一つ増えるだけさ。いやそれどころか、他の闘う者達の足を引っ張るかもね」

 ヴィクターの語る内容は紛れもない事実だった。

 今のヘイズは死に体から僅かに回復しただけだ。多少の我慢が効くにしても、肉体が負ったダメージが消えた訳ではなく、限界はすぐにだって訪れよう。

 そんな状態の人間が戦地に飛び込んで、果たして何ができるというのか。

 セリカ・ヴィーラントは強い。

 ヘイズなどが助力しなくとも、ヨハネスを斬り伏せる姿が容易に想像できる。寧ろ気を配る味方がいない方が、彼女だって闘い易いかもしれない。

 つまり、この場における最も賢明な選択とは、座して全てが終わるのを待つことに他ならなかった。

「幸いにしてこの建物は安全だ。こんな商売柄、敵も多いからね。あれこれと外敵から内側を護るための設備は整っている。君も決着がつくまでここにいれば良いだろう。ヨハネスの目的は我々は必ず潰してみせようじゃないか」

 だが、とヴィクターは言葉を区切った。眼鏡の奥で鋭く光る瞳が真っ直ぐにヘイズを刺し貫く。

「そんな我々の好意を踏みにじってでも、何も為せず犬死するかもしれないと分かっていたとしても。尚行くと言うのであれば、君には答える義務がある。――君は一体、何のために戦場へ向かうのだね?」

 問い掛けには、一切の虚飾を許さない真摯さがあった。

 いっそヴィクター・ガスコインという男らしくないと、ほんの数回しか顔を合わせたことのないヘイズでさえもそう思えてしまうほどに。

 また試されているのだろうか、と邪推しそうになるが、ヘイズは直ぐにその考えを振り払う。

 これは極めて単純な道理の話だ。

 自分は命を救われた側であり、救った側の行いに報いる必要がある。だから今は生き延びることを優先すべきで、死地に飛び込むなど以ての外。

 それでも我を通したいと願うのであれば、対価を支払わなければならない。差し伸べられた手を撥ね退けるに足る、相応の対価を。

 そう自然に思えたのは、ヴィクターのらしからぬ態度に感じ入るものがあったからだろうか。

「……俺は、正義の味方じゃありません」

 ぽつりと、呟くようにヘイズは言葉を紡いだ。

「アンタのように都市を守ろうとする気概もないし、赤の他人が理不尽に死のうが、正直知ったことではありません」

 我ながらなんというろくでなしなのか。

 次々と口から零れていく台詞に、思わず苦笑を浮かべてしまう。

 おまけにヘイズ・グレイベルは、魔導士としても半端者だ。

 生涯を捧げてでも叶えたい願いなどない。魔術なんてものも、所詮は便利な道具としか思っていない。

 何かを生み出すこともなく、誰かを癒すこともなく、壊すことしか能がない。

 きっと魔導士という肩書さえも、自身には過ぎたものなのだろう。

「ただ俺は、俺の為すべきと思ったことを為すと決めています。例えそれが独り善がりであったとしても、悪と咎められることになったとしても」

 雪のちらつく夜。

 暗闇の席巻する路地裏で、怪物に命を啜られる友の姿を覚えている。

 あの光景を観た瞬間に、ヘイズの腹は固まったのだ。自らの日常を土足で荒した輩を、完膚なきまでに叩きのめすと。

 有体に言えば単なる私怨、或いは反骨心。敵討ちなどと高潔な理由は持ち合わせておらず、胸の底で燃え続ける憤怒に突き動かされているだけ。

 だが、それを疚しいなどとは欠片も思っていなかった。

 ゆえにセリカに雇われていなくとも、"永遠"の成就が万人に望まれていたとしても。

 そうすると決めた(・・・・・・・・)以上、ヘイズ・グレイベルは同じように牙を剥いただろう。

「まあ、何というか……そういう、個人的な意地ってやつを通したいから、俺は行くんですよ」

 どこか照れくさそうに、されど迷いなくヘイズは言い切った。

 両手はとうの昔に血に塗れ、肩には多くの呪詛を背負っている。

 網膜には死相が焼き付いていて、鼓膜には断末魔が残って離れない。

 約束された結末はきっと安息などとは程遠く、誰に看取られるでもなく野垂れ死ぬのがお似合いだ。

 それでも。

 自分が美しいと信ずる生き方に、背を向ける真似はしたくないと思うから。

「それに、こう見えても一度引き受けた依頼は完遂する主義でしてね。だから報酬は、全てが終わった時に依頼主からたっぷりふんだくるとしますよ」

 手中の封筒をヴィクターに向かって投げ返し、冗談めかして不敵に口元を釣り上げて見せる。

 受け止めたヴィクターはぽかん、と呆けたように目を見開いていて。しかし次の瞬間、心底から可笑しそうに噴き出したのだ。

「そうかそうかなるほどな!とどのつまり、君はただ自分が満足・・したいだけか!ははは、確かにそれは仕方がない!いやはや、これは参ったぞ。私もたいがい身勝手な性質だと自負しているが、君も同じ穴の狢だったという訳か!」

「褒め言葉として受け取っておきましょう」

 いつも通り不機嫌そうな表情を取り戻したヘイズは、未だ笑い続けるヴィクターの横をすり抜ける。

 今度は、制止されることはなかった。

「ああ餞別代りといっては何だが、行くなら左手にある裏口からにしたまえ。ここは今、避難してきた市民を受け入れていてね。ロビーなんかは相当ごった返しているはずだ」

「ご助言どうも」

 振り返ることなく礼を告げ、ヘイズは戦場に向けて走り始めた。


 ◇◇◇


 やがて部屋から遠ざかる足音が途絶えた頃、ようやく落ち着いたヴィクターは、一人窓の外の光景を眺めながら呟いた。

「折角送り出したんだ。我々が状況を打開しやすくなるよう、精々盤面を引っ掻き回してくれたまえよ?」

 あの青年が戦場に向かおうとすることは、概ね予想できていた。

 とは言え前途ある若者を無駄死にさせたくなかったのは間違いなく本音であり、こちらの問い掛けに取り繕った答えを返そうものなら、あらゆる手段を講じてこの場に繋ぎ止めるつもりだった。

 だが、それも杞憂に終わったらしい。

 彼はきちんと、駒としての役割を最後まで果たしてくれるだろう。

 そんな風にしか考えられない自分に呆れてしまうけれど、今は自己嫌悪に浸っている暇はない。

 軍警局の迅速な対応により、状況は最悪の一歩手前で止まっている。

 であれば、『アンブラ』の果たすべき役割は明白だった。

 ヴィクターは静かに懐中時計の蓋を開ける。

 瞬間、宙に展開される視界を埋め尽くすほどの数の術式。

 結社の構成員達に繋がる通信は勿論、無数の演算を走らせているものもあれば、市街の様子を映し出したもの、星霊達の位置を可視化したものまである。

 術式に表示される情報は次々と切り替わっていくが、ヴィクターの眼はその全てを見逃さない。

 獲得した情報を基に、脳内で盤面を構築する。

 どこに誰を配置して、どう対処させるのか。さながら学者が数式でも解くように、状況を打破するための最善策を求めていく。

 ――ヴィクター・ガスコインは魔導士としては凡庸である。

 立場柄、相応の修羅場を経験してこそいるものの、決して戦闘に長けている訳ではない。彼の信頼する部下と矛を交えれば、瞬きする間に敗北する自信がある。

 かといって魔術の技量が高いかと言えば、それも否だ。得手もなく不得手もなく、最低限の素養はあれど、突出した才覚には終ぞ恵まれなかったと断言できる。

 では、彼がマルクトの裏社会において、秩序の番人たり続けたのは何ゆえか。

 その答えが、これより示される。

「では、我々も反撃を始めるとしよう。我らの庭を好き勝手荒してくれた無礼者に、目に物見せてやろうじゃないか」

 静謐に告げるヴィクターの顔には最早、胡散臭い老紳士の面影は残っていない。

 苛烈にして獰猛。冷酷にして狡猾。

 魔都の闇を震え上がらせる狩人たちの主が、その真価を存分に発揮し始める。


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