1-2 彼の日常 其之一
空は鉛色の雲に覆われていた。
暦は晩冬に差し掛かったと言うのに、寒さは未だ衰える気配を見せない。
吐息は瞬く間に白く曇り、凍える風に攫われていく。この天候では、いつ雪が散り始めても可笑しくないだろう。
周囲に視線を転じてみれば、そこは深い森の中。
魔導産業の発展に伴い文明の版図を広げてきた人類だが、このように未だ拓かれていない土地は数多く存在する。
原初のままの自然は息を呑む程に雄大で、それでいて神秘的でもあった。古来より森にまつわる摩訶不思議な伝承が生まれてきたのも頷ける。
「さて……それじゃ、お仕事と行きますかね」
億劫そうに呟いて、彼はぽつんと聳えた岩場から立ち上がった。
くすんだ灰髪の青年である。
顔立ちは端整と評して差し支えないが、どこか世を拗ねた眼差しのせいで不機嫌そうな趣を湛えていた。
他に特徴を挙げるとすれば、その瞳だろうか。煌々と暗中で灯る炎を思わせる、鮮やかな琥珀色が双眸に宿っている。
青年はその場で大きく伸びをすると、深く息を吸い込んだ。
肺に満ちる樹木の香りが心地良い。都会での生活で溜まった澱みが拭い去られていくようだった。
……尤もどれだけ爽快な気分を味わった所で、この後すぐに台無しにされてしまうのだが。
「分かり易くて助かるよ、本当」
休憩を終えた青年は、ぼやきつつ歩みを再開した。腐葉土を踏み締める足取りは、いかにも気怠げではあるが迷いはない。
琥珀の瞳が見据える先は遥か前方。
木々の暗幕の向こう側から、自身を注意深く観察する何かの気配を、彼ははっきりと知覚していた。
森を進むにつれて、辺りはより一層暗さを増していく。
それに伴い大気に混じり始めた、生々しい鉄錆と獣の臭い。先程まで聞こえていた虫や鳥の声も、途端に鳴りを潜めていく。
不意に一陣の風が吹き、木々を大きく騒めかせた。
恐れ知らずの人間を追い返そうとしているのか。はたまた荒ぶる森の怪物の怒りを恐れているのか。
どちらにせよ自分は既に魔性の住まう領域に踏み込んだのだと、否応なく実感させられた。
やがて、青年の足が止まる。
澄んだ小川の手前だった。木々の潮騒は静まり、清流のせせらぎだけが耳に届く。
すると青年の到来に呼応するかのごとく、対岸に広がる茂みが蠢いた。枝葉を踏みにじりながら現れ出でたその姿は、正しく獣人と呼んで相違ない。
猟犬が二足で立ち上がったようなしなやかな体躯に、艶やかな光沢を帯びる深い青色の体毛。両手足には刃物めいた爪が生え揃い、荒い息遣いを零す口からは鋭い牙と真っ赤な舌が覗いていた。
爛々と殺意に猛る眼光は、知性を解さぬ凶暴な獣そのものである。だが見た目に反して、野卑な印象は受けなかった。
寧ろその逆。神殿に祀られた彫像のような、厳かで侵しがたい気配さえ感じられる。
荒ぶる獣性と、清廉なる神性。
まるで矛盾した要素を破綻なく同居させた偉容は、この世ならざる怪物であることの証に他ならない。
彼らこそ、大いなる自然の流転から生まれ落ちた神秘の一欠けら。
即ち、星霊である。
そして、青年の前に現れた獣人の名は犬妖精。
星霊としては低級な部類だが、徒党を組まれるとその危険度は跳ね上がる。飢えた野犬さながらの獰猛さと、数の暴力に任せて他の生物を積極的に襲うのだ。
現に自分たちの縄張りに近づいてきた侵入者に対し、彼らは敵愾心を漲らせていた。
唸りながら、獲物の喉元に食らいつく機会を今か今かと窺っている。
しかし、相対する青年に恐れる気配は皆無であった。
何故なら彼は餌に非ず。分を弁えぬ獣共を、根絶やしにすべく訪れた狩人なのだから。
「ひい、ふう……全部で八か。まあまあ湧いたな」
覇気に欠けた調子で呟きながら、青年は腰に佩いた得物を抜いた。
鈍い銀色の輝きを放つ短剣である。その切っ先を、星霊達へと真っ直ぐに向ける。
それが合図となった。
犬妖精の群れが雄たけびと共に、青年へと襲い掛かる。
獣の脚力は落ち葉を巻き上げ、彼我の距離を一足で詰めた。その俊敏さは残像を捉えるのが精一杯で、気付いた時には体を八つ裂きにされているだろう。
ただし、それは青年が常人であった場合の話である。
襲い来る星霊を前に、彼は細く鋭く息を吐いた。
鼓動が加速する。心臓という炉心を起点に、血流に乗って莫大な力が全身を駆け巡る。
研ぎ澄まされた視覚が、迫り来る犬妖精の姿を確と捉えた。
頭上から振り下ろされた爪を、青年は難なく躱す。そしてすれ違い様、犬妖精の足元を掬う様に斬り上げた。
「ギ――!?」
犬妖精は自分の身に何が起きたのか理解できなかったのだろう。突如発生した痛みに苦しみながら、地面に落下していく。
その無防備な首筋に目掛け、青年は刃を奔らせた。
鮮血が宙に散る。短い断末魔を挙げて、一匹の星霊が絶命した。
それを皮切りに、青年は疾走を開始する。
間近に迫っていた個体を蹴り飛ばし、更に別の個体の喉に切っ先を突き立てる。
続く二閃、三閃。短剣が閃く度に犬妖精達は的確に致命傷を叩き込まれ、飛び散る血液が森を汚す。
その光景は最早戦闘などではなく、一方的な殺戮であった。
最後に残った個体は、数の優位を失ったことで完全に戦意を喪失していた。青年に背を向け、脱兎のごとく逃亡を図ろうとする。
もちろんそれを許す筈がない。
離れていく獣の背に向けて、青年は短剣を投じた。木々の合間をすり抜けて、刃が犬妖精の肩を刺し貫く。
そうして獲物が体勢を崩したところで青年は跳躍。肉薄と同時に突き立った刃に手を掛け、捻りを加えながら袈裟懸けに振り抜いた。
「……これで全部、か」
最後の一匹が息絶えたことを確認し、青年は肩の力を抜いた。
これで引き受けていた依頼は達成だ。短剣を濡らす血を振るい落とし、鞘に納める。
「しかし本当に犬妖精しかいないとはな。まあこっちとしては、楽で良かったが」
この依頼を受けた時、同業者が二人も食い殺されたと聞いていた。ゆえに犬妖精よりも高位の、別の星霊が潜んでいるのではないかと予想していたのだが……。
――そう疑念を抱いた矢先だった。
頭上に影が差す。背筋を走り抜けた悪寒に従い、青年は全力でその場を離脱する。
次の瞬間、何か巨大な質量が彼の立っていた位置に落下した。大きく舞い上がる土煙によって、視界が埋め尽くされる。
だがその向こう側で、巨大な輪郭が身動ぎしたのを青年は見逃さなかった。
直後、攻撃が来た。
真横から丸太のように長く太い腕が迫る。真面に受ければただでは済まないと、考えるまでも無く理解した。
避けられるか。殆ど身を投げ出すようにして青年は後方に跳ぶ。
正しく紙一重の差だった。青年の直ぐ目の前を巨腕が通過していく。
しかし生み出された強烈な風圧が衝撃となり、青年の体を大きく弾き飛ばした。
「く……!」
空中で何とか体勢を整えて、着地と同時に素早く短剣を構える。
かくして、腕の一薙ぎによって土の煙幕は取り払われた。露わになったその姿形は、紛うことなく犬妖精である。
しかし、身の丈が全く違う。先程相手取った個体が精々大人の男程度であったのに対し、今目の前にいるそれは少なくとも五メートルには達している。
頭頂部から伸びる異形の角は捻じれ、絡み合い、まるで王冠を模しているよう。これもまた、通常の個体では類を見ない特徴である。
何より、その身にまとう膨大な霊素はどうだ。見る者を圧倒するような猛々しい気配は、正しく獣人達を統べる王と称するに相応しい。
「老王種――」
強壮なる獣を前に、青年は苦々しい顔で呟いた。
森羅万象、その根源を成す霊素。それは霊脈という巨大な流れを形成し、現世の調和を保っている。
しかし何らかの要因によって、その流れに乱調をきたす場合がある。
零れ落ちた霊素はやがて一つに蟠り、仮初の肉体を得て自我を宿す。このような過程を経て発生するのが星霊という存在だ。
歪みより生じたという性質上、彼らはただ徘徊するだけでも霊脈に異常を誘発してしまう。ゆえに人類は星霊を観測次第、早急に討伐することによって、更なる災害の発生を未然に防いできた。
では仮に人類の手を逃れ、現世で長い年月を過ごしながら莫大な霊素を内包した個体はどうなるのか。
その答えこそが、今青年の前で狂奔する老王種である。通常の個体から大きく進化を遂げた、神話に謳われるような正真正銘の怪物。
「ォォォォオオオオオオオオオン!」
森全体を震わす咆哮は、頂点たる己の存在を誇示するかのごとく。青年を見下ろす瞳は縄張りを荒らされ、僕を殺されたことへの凄まじい憤怒に燃えていた。
牙を剥き、犬妖精の王が猛然と突進を開始する。
攻撃方法は至って単純。前進しながら、その巨大な腕と爪を力任せに振るうのみ。
しかし、それだけで充分だった。周囲の木々は悉くなぎ倒され、大地は抉り抜かれていく。
だからと言って、怖気づく青年ではない。散弾のごとく吹っ飛んでくる岩や土の礫を短剣で弾き飛ばし、剛腕を巧みな体捌きで避けて見せる。
そのまま老王種の懐へ滑り込むと、得物を握る手に力を籠めた。
短剣が描く軌跡が、老王種の横っ腹をなぞる。
「ちっ……!」
手応えあり、されど浅い。掌に伝わってくる異様な感触に、青年は舌打ちした。
霊素を流し込むことで、物体の構造そのものが強化された短剣は、鋼鉄程度ならば容易く両断する。
にも拘らず、斬撃は薄皮一枚を傷つけるに留まっていた。
まるで樹齢を幾年も重ねた大木を斬り付けたような感触である。なるほど、老王種に相応しく、膂力だけでなく頑強さも通常個体とは段違いらしい。
ならば、と青年は短剣を構え直した。
もっときちんとした装備を用意すれば良かったと舌打ちしたくなるが、後悔先に立たず。今ある手札でこの局面を乗り切らなければ。
ちなみに逃走するという選択肢はない。相手の様子を見るに、それこそ犬じみたしつこさで自分を追いかけてくるだろう。これを街まで連れて帰ってしまったら惨事は免れまい。
よって、ここで確実に仕留める。
武器が通用しないのであれば、別の方法を考えるまで。知恵を振り絞ることで人類は数多の困難に打ち勝ってきたのだから。
しかしその時、老王種の攻撃が唐突に止む。無防備とも言える体勢のまま、大きく息を吸い込む動作を見せる。
まずい。老王種の狙いを察知して、青年は回避の動作をとる。
寸前、爆発するような大音響が耳をつんざいた。
「っ!?」
咆哮を真正面から浴びせられた青年は、驚愕に目を見開く。
指先に至るまで、手足が全く動かない。さながら見えない鎖によって、体をがんじがらめに固定された感覚。
言霊だ。発せられた音の波涛に籠った神秘の正体に、青年は即座に辿り着く。
ゆえに行動は迅速だった。体内に循環する霊素を活性化させ、己が身を縛る呪詛を打ち破る。
解呪までの時間は、一秒にも満たない。しかしその一秒こそが、致命的な隙となった。
見上げた先、獣人の王が組んだ両手を高々と掲げていた。
決して生かして帰さない。そんな渾身の殺意を乗せた鉄槌が、青年目掛けて振り下ろされる。
(どうする……)
目前に迫る死を前に、青年は思考を巡らせた。
回避はできない。硬直が完全に解け切っていないためだ。寧ろこの状況から下手に動くと、体勢が崩れて余計に隙を生むことになる。
止むを得まい。青年は覚悟を決めた。
言霊の呪縛から解放されるや否や、青年は両腕を頭上で交差させる。同時に体内で循環する霊素を全て、肉体の強度の向上に回す。
思い描くのは一本の柱だ。決して折れない、堅牢な存在に自らを置き換える。
青年の行動は傍目から見ると正気とは思えないだろう。星霊、それも老王種の暴威に正面から身を晒すなど、むざむざ死を選ぶようなものだ。
しかしそうと分かっていながらも、青年は躊躇せずに実行に移した。何故ならそれが、この王様気取りの怪物に一泡吹かせる最善手であると確信したため。
そして、鉄槌が激突する。
「ぐ、ぅ……ッ」
両腕から全身を走り抜ける、骨身の全てを磨り潰さんとする程の衝撃。大きく陥没する足元が、威力の凄絶さを物語っていた。
屈しそうになる膝を気合で踏ん張る。喉の奥からこみ上げてきた血の味を無理やり呑み下す。
そうして、上から圧し掛かる力と完全に拮抗した瞬間だった。青年は防御に回していた霊素を反撃のための膂力へと変じる。
「犬っころが……舐める、なァッ!」
裂帛の呼気と共に、支えていた巨腕を弾き返す。まさか自分より遥かに矮小な存在に、腕力で負けるなど夢にも思っていなかったのだろう。
驚愕に目を剥く獣人の王は、いとも容易くよろめいた。近付かれるのはまずいと悟ったのか、爪を無茶苦茶に振り回して牽制してくる。
しかし破れかぶれの攻撃など、取るに足らなかった。青年は難なく老王種の背後に回り込むと、短剣を深々と突き立てる。
無論この程度は彼の獣人の王にとって何ら痛痒にも値しない。
猛るその身は他ならぬ古き星霊、一種族の長。多くの闘いを潜り抜け、この現世を生き抜いてきた怪物中の怪物なのだから。
よって青年も針の一刺しで仕留められるとは、欠片も思っていなかった。
本命はここから。青年は今こそ、必殺の一撃を解き放つ。
「――術式起動」
厳かに紡がれたのは、魔法の呪文。それは現世の法則を歪め、世界を己の望むままに塗り替える神秘の業。
魔術が、発動する。
霊素が青年の掌から短剣に伝わり、刃から炎を炸裂させた。
「ガァァァァァッ!!」
莫大な熱量が老王種の体内を迸る。肉を、血を、骨を、その巨躯を構成するあらゆる物を焼き尽くす。
例え体表が如何に頑強であろうとも、内部を蹂躙されては一溜りもない。
喉を焦がされながら絶叫する獣人の王。それでも尚、青年を引き剥がさんと爪を直下させられたのは、執念の成せる業であろうか。
だがもう手遅れだ。
青年は手を緩めることなく、剣を媒介に炎を流し込み続ける。必ず殺すと決めているのは、お前だけではないと言わんばかりに。
「ぎゃあぎゃあ喚くな、さっさと死ね……!」
青年は更に深く、短剣を押し込んだ。途端、勢いを増した灼熱が老王種の全身を包み込む。
経過した時間は、数秒足らずだった。老王種の四肢から力が抜け、泣くような掠れた悲鳴と共に前のめりに倒れ込む。そして、そのまま動かなくなった。
森に静寂が戻る。
後に残ったものは、焼けた血肉の匂いと、散り散りになって消えゆく燃え滓のみ。
見るも無残に荒れ果てた光景の中で、青年は気が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。
「くそ……簡単な仕事かと思った矢先にこのザマか」
不機嫌そうに吐き捨てる。
犬妖精以外の星霊ならまだしも、まさか老王種を相手取る羽目になるとは。素晴らしきかな我が人生、いつだって波乱に満ちている。全く以て糞くらえだ。
「あー、痛い……」
両腕に残る痛みに、青年は顔を顰めた。おまけに内臓にも違和感がある。
必要だったからとは言え、老王種の攻撃を受け止めたのは流石に失敗だった。もう二度とやらないと心に誓う。
短剣を鞘に納めながら、青年は立ち上がった。
足元を見やると、犬妖精達の死骸が光の粒子となって端から解け始めていた。青年がまとう外套に付着した返り血すら、同じように宙に消えていく。
これが星霊の死だ。
血液の一滴に至るまで、肉体の全てが霊素で構成されている彼らは生物というよりは自然災害に近い。
よって活動が停止すれば、嵐がそよ風へと解けてしまうようにその存在は自然へと還元される。
数分と経たずして、犬妖精達の死体は全て消滅した。
代わりに、彼らが倒れていた場所に幻想的な煌めきを宿す鉱石が落ちている。
霊源石という、霊素が結晶化した鉱石である。今日の人類文明を支える重要な資源だ。大抵は霊脈近くの鉱山から採掘されるのだが、星霊はそれを体内に蓄積しおり、超常の力を振るう源としている。
青年は鉱石を拾い上げ、持参した革袋に片っ端から放り込んでいく。
一際大きい結晶は、老王種が遺したものだ。やはり長年に渡って霊素を貯め込み続けただけあって、量も質も良好である。
予想外の事態に見舞われた仕事であったが、結果的に思わぬ儲けが得られそうだった。
星霊達が引き起こす災厄は凄まじいが、時にこうして一攫千金の価値をもたらしてくれるのだから侮れない。
全ての霊源石を回収し終えた所で、青年は革袋を肩に背負った。
そして来た時と変わらぬ気怠そうな足取りで、森を去っていく。
今日も今日とて魔導士稼業。
時に人に仇なす星霊共を狩り、時に迷子の飼い猫を探し、時に同業者達と殺し合う。
それが彼の、ヘイズ・グレイベルの日常であった。