1-17 彼方に捧ぐ哀歌 其之四
白金の流星が、降り注ぐ銀の霰の中を舞うように駆け抜ける。
行く手を阻むは錬金術の産物だ。鉤爪のごとき棘持つ荊、獅子を思わせる凶悪な獣の咢。その悉くを立ち止まることなく斬り捨てて、セリカはヨハネスの元に肉薄する。
途端、彼の足元から液体金属が間欠泉の如く吹き上がった。象られる形は四振りの巨大な剣。内二本が振るわれた太刀を上から挟むように受け止め、残る二本が背後から切り掛かる。
しかしこの程度で仕留められる程、セリカ・ヴィーラントという魔導士は温くない。力強い踏み込みと共に、斬り払う。霊撃を伴った一刀は、大剣を根こそぎ砕き散らした。
構えを戻す頃にはヨハネスは再び距離を取り、霊素を練り上げている。
都合何度目かの仕切り直し。
この程度はまだ小競り合いの範疇を出ない。両者共に切り札を使う時機を計っており、攻防は膠着の様相を呈していた。
不意に、セリカは空気が大きく騒めいたのを感じ取った。それはヨハネスも同様だったらしく、すぐさま魔術を行使する手を止めてその場を離れる。
次の瞬間、広間を隔てていた壁が弾け飛んだ。吹き荒れる熱風と、鉄砲水のごとき炎の激流が、散らばる液体金属の雫を残らず呑み込んでいく。
すると赤々と揺れる帳の中から、何かが飛び出してきた。
床に打ち捨てられたそれは、輪郭から辛うじて人間だと分かる。だがその様相は、悲惨の一言に尽きる。
まず火傷を負っていない箇所を見つける方が難しい。四肢に至っては半ばから炭化して、今にも崩れ落ちてしまいそう。それ以外にも切り刻まれ、抉られた痕跡が無数に残っており、元の姿などとても想起できない。
常識的に考えれば、紛うことなき死に体である。が、驚くべきことにそれは生きていた。
浅く上下する胸部は呼吸の証に他ならず、掠れた呻き声は誰あろうアンドリュー・デズモンドのものであった。
「会長!」
友人の変わり果てた姿に目を剥いて、ヨハネスが駆け寄る。
次の瞬間、それを待ち構えていたとばかりに、濛々と立ち昇る陽炎を灰色の影が突き破った。鋭い刃を携えて、獣の速度で疾駆する。
アンドリューを撒き餌とした奇襲であった。対応することが出来たのは、偏に魔導士としての経験ゆえだろう。ヨハネスは液体金属を操り、咄嗟に盾を形成した。
叩きつけられる鉄槌もかくやといった衝撃。突きこまれた短剣は易々と鉄塊を貫いていくも、僅か及ばずヨハネスの顔の手前で停止する。
その時、彼は見た。盾に走った亀裂の隙間から覗く、爛々と燃え滾る琥珀の瞳を。
「次はお前だ」
「……ッ」
吹き荒ぶ絶対零度の殺意と共に、短剣を霊素が伝う。ヨハネスがアンドリューを抱えて跳び退るのと、炎が炸裂するのはほぼ同時であった。
すかさず、セリカもそこに踏み込んだ。
一足でヨハネスに肉迫し、太刀を振るう。アンドリューを抱える彼に常の機動力は無い。白い法衣ごと両断せんと、袈裟切りが胴体に吸い込まれる。
しかしここでもヨハネスは、その熟達した技量を惜しげもなく披露した。
彼の法衣の下から、無数の腕が溢れ出した。複数の関節を携え、枝分かれしながら伸びる自動人形の腕が、波涛のごとくセリカに押し寄せる。
ヨハネス・エヴァーリンという魔導士は錬金術師であると同時に、人形師でもある。脳内で自動人形の図面を思い描くのは勿論のこと、予め触媒を用意していればそれを基にこうして即席で出力することさえ造作もない。
部品とは言え前兆さえ感じさせず、かつ視界を覆い尽くさんばかりの量の自動人形を生み出す腕は誇って然るべきだが、彼自身はこの程度では牽制にしかならぬと睨んでいた。
無論、そこらの魔導士であれば、これで押し潰すことができただろう。だが、今彼が相対しているのは、この魔都にあだなすものを屠り続けてきた処刑人。
現に、人形達の腕が端から削り取られていく。雷光を迸らせながら、セリカは尋常ならざる剣技で向かい来ることごとくを斬り伏せる。
ヨハネスからすればこのまま一刀両断にされ兼ねず、従って出し惜しみなど出来る筈もない。手元の触媒を全て使いきる勢いで、彼は錬成の速度を更に加速させる。
拮抗は数秒と経たずに終了した。
この物量を切り抜けるのは不可能と判断し、セリカが剣を停止させたのだ。彼女はそのままふわりと舞うように後方へと身を投じ、殺到する人形達の腕を指先一つ掠めさせることなく離脱に成功する。
結果としては仕留め損なった訳だが、手札を一つ切らせることができたのは収穫だった。
魔導士同士の闘いは、いかに相手の手の内を把握するかが要となる。
魔術とは人知及ばぬ神秘であるからこそ、無類の脅威を発揮する。しかし一度その謎が解き明かされれば、ただの現象へと成り下がってしまう。そうなれば後はチェスで王手をかけるように、理詰めで対策を重ねていけば良い。
ヨハネスの場合は予め様々な状況を想定し、手札を複数用意しておくタイプと見た。彼が法衣の下に隠し持つ数々の触媒がそれを裏付けている。この手の輩は自らが有利となる場を作り出す立ち回りに長ける反面、意表を突いてくる相手が天敵となる。
事実として、ヘイズが現れた直後のヨハネスの行動は、凡そらしからぬ焦燥に駆られたものであった。
セリカは内心でほくそ笑む。
負けないとも、何かやってくれるとも思っていたけれど。正直な感想を言わせて貰えば、ここまで期待を超えてくれるとは思っていなかった。
胸を弾ませながら振り返れば、未だ燃え盛る炎を背に、灰色の魔導士が影を落としていた。
「無事で何よりです、ヘイズ」
「……死んでいない事を無事と言うなら、まあそうだな」
相変わらず無愛想に鼻を鳴らすヘイズだったが、その姿は痛々しく変貌していた。
呼吸は荒く、顔色も蒼褪めている。どことなく庇うような立ち方をしている辺り、内臓や骨にもダメージを受けているのだろう。くすんだ灰色の髪も衣服も血で濡れていて、酷く消耗しているのは火を見るよりも明らかだ。
にも関わらず、得物を握る指先に至るまで、弱った印象は皆無だった。
寧ろその逆。普段とは打って変わり、眼光には苛烈なまでの戦意が漲っている。険呑極まりない雰囲気は、さながら墓の下から這い出てきた幽鬼のようで、不吉の一言に尽きた。
それを目の当たりにして、セリカは理解する。
きっと今この状態こそが、ヘイズ・グレイベルという男の本来の姿なのだろうと。
やはり自分の見立てに間違いはなかったと感じる反面、またもや悪癖が鎌首をもたげ始める。
これ以上彼を見ていたら、いよいよ堪えきれなくなりそうだった。
「――軽口が叩けるようでしたら、問題は無さそうですね」
だから努めて冷静な振りをしながら、セリカはすぐさま正面に向き直る。背後から憮然と抗議するような気配が伝わるが、きっと気のせいだろう。
さて。改めて視線を向けた先では、ヨハネスが瀕死のアンドリューの容体を診察していた。
眉を顰めているのは、傷が想像以上に深いから……ではなく、傷が一向に癒えない点にあるのだろう。
あくまでセリカの見立てだが、重度の火傷程度でアンドリューの修復力を凌駕するとは思えなかった。
従って、論点は明らかに異質な箇所へと集約される。即ち、アンドリューの体に走るひび割れのごとき傷痕である。
黒々とした瘴気を零しつつ、蜘蛛の巣のように張り巡らされたそれは、人間が決して負う筈がない類のものだ。なので何らかの魔術による現象であるのは明白で、同時に遅々と進まぬ治癒の原因に他ならなかった。
では、その正体とはいったい何なのか。
例えば、対象にある種の楔を打ち込むことで効力を発揮する魔術が存在する。いわゆる封印を施す術式でよく見かける種類だ。
その一つかと思いかけるも、しかしセリカの魔導士としての直感がそれを否定した。
あれは封印などといった生温い術ではない。もっと凶悪で、始末に負えない何かがアンドリューの身に宿る神秘を侵食しているように見える。
ヨハネスもまた同じ考えなのか、外から治癒を行おうとしようとはしているが、正体不明の魔術を前に手をこまねいていた。
そのためアンドリューの辿る結末は、このまま朽ち果てるだけに思われたが、
「ヨハ……ネ、ス……」
焦げ付いた声が零れたのは、そんな時だった。
気道どころか肺腑まで灼けているだろう。最早呻きともつかぬ音であったが、それでも老人は確かに友の名前を呼んでいた。
「け、んじゃの……賢者の石を……俺にッ」
ぎらついた双眸は、彼が依然諦めていないことを物語っていた。
そもそも言葉を発することが出来るだけでも尋常ではない。その身に宿した術式が機能不全を起こした今、想像を絶する苦痛が彼を苛んでいる筈だ。だというのに、未だ野望に燃える姿は敵ながら恐るべき執念と言うべきか。
魔導士でさえ驚嘆を禁じ得ぬ、規格外の精神力であった。
確かに『賢者の石』による術式の増幅があれば、快復に至るかもしれない。
アンドリューの懇願を受けたヨハネスは、逡巡するように目を伏せる。そして僅かな間を置いた後、彼は覚悟を決めたような表情で毅然と頷いた。
「ええ、もちろんです。我が友、アンドリュー……共に『永遠』を成就させましょう」
友の言葉に、アンドリューが引き攣るように歯を剥いた。
我らの夢はまだ終わらぬと。一度や二度の敗北程度で、折れるなどと思ってくれるなと。
どこまでも不敵に、闘争心を漲らせて彼は笑う。そこには数多の苦難を乗り越えてきた覇者としての自負があり、同時に志を同じくする友への信頼があった。
だからであろうか。
魔導士が抱える狂気を、最期まで理解することができなかったのは。
――ぞぶり、と。
粘着質で不快な音がした。
◇◇◇
「……な……に?」
アンドリューは愕然と、自らの胸元に視線を落とした。そこに受け入れがたい事象を認め、目を見開く。
己の胸をか細い腕が貫いている。
いや、それだけではない。脈動する心臓を、鷲掴みにされている!
みるみる内に赤い色に侵されていく白い袖は、自らが友と信じた男のものに他ならなかった。
「貴、様……!?」
ごぼりとアンドリューの口から血の塊が零れ落ちた。
そんな彼に向けてヨハネスは、彼の胸元を貫いたまま変わらず笑いかけた。悪意も邪念といった、負の感情の類など一切ない。ただ旧知の友人への深い親愛だけがその美しい貌を飾っている。
「貴方の思いは私が確かに受け継ぎます。必ず我らの大願を成就させると誓いましょう。ですからどうか、今はお休みください」
労わるような言葉と共に、引き抜かれる腕。その手に握られているものは、赤という色を凝縮したような拳大程の結晶だった。
それを切欠に、アンドリューの体が端から崩壊を始めた。正しく星霊が消え去る時と同じように、虚空へと解けていく。
「なるほど、人体を介した場合このように結晶化する訳ですか。やはり臨床実験は得られる成果が多い。最後の最後まで、貴方には力を貸して貰ってばかりだ」
「ヨハ、ネスゥ……ッ!」
怨念に満ちた視線を浮かべるアンドリュー。けれども急速に五体は力を失い、凶行に走ったヨハネスを糾弾することさえ叶わない。
「ああ、これまでの礼をしなければなりませんね。ふむ……そうですね。では貴方が求め続けていた答えを、教えて差し上げましょう」
いっそ場違いなくらい神妙な面持ちで、ヨハネスは続けた。
彼にとっては心からの誠意の表れであり、しかしアンドリューにとっては決定的な終止符となる、ある一つの真実を。
「奥様は、貴方に『人』であって欲しかったのですよ。世の理から逸脱した超人でもなく、比類なき大商人でもなく。ささやかな日常に幸福を感じて生きる、どこにでもいる一人の人間に」
それは正しく、アンドリューの逆鱗に他ならなかった。
欲する全てを手に入れてきた彼にとって、妻は唯一焦がれて尚手放さざるを得なかったもの。彼女との思い出は特別も特別で、聖域と呼んでも過言ではなかった。
そのことはヨハネスも承知している筈で、なのに今まさに軽々と踏み荒らそうとしている。
これを亡き妻に対する冒涜と言わず、何とする。
「知った風な……口を……利、くなァ……!」
アンドリューの瞳に憤激の光が宿った。今まで経験したことのない程に感情が一気に沸騰する。
だがそれだけだ。せめてこの無念を晴らさねば、死んでも死に切れぬと思っているのに、崩れゆく体は意思に反してこれっぽっちも言う事を聞いてくれない。
そして、老人の胸中を絶望が満たしていく中で、
「分かりますよ、貴方との付き合いも長いのですから」
しみじみと行き渡るような声が、福音のごとく降り注ぐ。
「貴方の抱える欲望が、いつの日か貴方自身を破滅させることを、奥様はずっと危惧していらっしゃったのでしょう。ですから貴方を『人』に繋ぎ止める役目を果たせなくなることを悔いていた。……ええ、とてもお優しい方だったのでしょう。お会いしてみたかったものですが、実に惜しい」
今度こそアンドリューは言葉を失った。だってヨハネスの語った内容は、これ以上ほどない位にらしかったから。
何故、その答えに至らなかったのだろう。かつて妻だったあの女は、商人の伴侶とは思えないくらいに、いつだって自分よりも他者に心を砕いてばかりの人だったのに。そんな所が愛おしく、尊いと思っていたのに。
「おお……おおぉぉぉ……」
アンドリューの表情が色を無くしていく。威厳も、険も、年月を経るごとに培ってきた彼を形作っていたあらゆる要素が失われていく。
そうして最後に残ったのは、疲れ果てた一人の老人の顔であった。
今わの際、彼は紛れもなく絶望の淵にいる。なのにどこか満たされたように感じるのは、錯覚であろうか。
「ケイト、私は……」
最後に、そんな許しを乞うような悲し気な余韻だけを残して。
マルクト屈指の大商人、アンドリュー・デズモンドはこの世界から消滅した。




